言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

半徑一メートルしか光輝を傳へられない――これが日本人か

2009年12月31日 13時54分12秒 | 日記・エッセイ・コラム

 例の『人間の器量』のなかで、福田和也氏は元總理の田中角榮を評して次のやうに書いてゐる。それは田中に對する評言といふよりは、田中をあのやうに失脚させてしまふ日本人の心性への評言でもあると思ふ。

「彼が、その意を満たすことなく失脚し、刑事被告人という不名誉な名のもとに死なねばならなかったのはなぜなのか、という事は、よく考えてみる必要があるのではないでしょうか。半径一メートルより外に、その光輝を伝えることができなかったのはなぜなのか。」

 福田恆存はかう書いてゐた。

 極端にいうと、日本人は空間の一点に結びつく梯子をもっていないどころか、大地から両手を離して立ちあがることさえおぼつかない。四足獣なみに四本の足で歩いているとさえいえます。なるほど物質文明はすぐ輸入できるし、ジェット機を乗りまわし、ロケットを設計して、この大地から絶縁することは容易でしょう。しかし私たちの人間関係はどうか。飛行機のようにかんたんにはまいりません。人間関係に関するかぎり、私たちは依然として大地を這いずりまわっております。友情も恋愛も母性愛も、すべての人間的交流が大地に密着したままでおこなわれているし、また、そうあらねば気がすまないのです

 二人の人間がそれぞれ独立した個体として、大地のうえに立ちあがり、向いあった両者間に一定の距離をおいて、相手におたがいの領域を犯すことなくつきあうのではなく、両者の壁をとりのぞき、液体のように溶融して窪地によどんでいるような友情を欲するのであります。恋愛の初期におけるように、相手との間に距離を見いだすと、不安と焦燥を感じて、これを埋めようとする。ひとびとは、この衝動ないしは操作を「理解」と呼んで、近代的かつ知的な意匠をほどこしますが、結局のところ、個人相互間の距離というものにたいする恐怖感にほかなりません。平たくいえば、日本人は「さびしがりや」だということになりましょう>

 ひとびとは自分がひとりの人間として孤立することを恐れているのです。この自衛本能をキリスト教倫理における「愛」と混同してすますわけにはいきますまい。ここで問題になるのは、つぎの問題です。相手を突き放し、自分と他人との間にあくまで距離を置こうとする西欧の冷酷な個人主義が、なぜ「愛」の思想と道を通じているのか、その反対に、距離と孤立とを恐れ、自他の未分状態のままにとどまろうとする穏和な仲間うちの道徳感が、なぜ自衛本能にしか道を通じていないのか。  さっきの点と平面との幾何学はこういうことを教えてくれます。上空の点を欠いた平面だけの世界では、あたかも、森に入って森を見ざるごとく、遠見がききません。私たちにとって、他人というのは、すぐそばにいる隣人ということにすぎない。他人とつながるといえば、その隣人とつながるということしか意味しません。隣人との縁が切れれば、その向うにいる多数者である赤の他人とは、どうにもつながりようがないのです。そうなれば、個人はそれぞれ孤立します。さびしくてたまらない。それに反して、もし上空の一点とのつながりを得さえすれば、各個人は、それぞれの隣人を跳び越えて、遠く広く、他の多くの人間とつながることができるのです。もちろん、その一点が万人共有のもので、ひとりひとりがその点に結びつけられているという前提のもとにおいてであります。そうすれば、めいめいの個人の間に直接の線が引けなくても、上空の一点を経て、どこにでもつながる可能性が出てきます。個人は平面上では孤立しても、間接には孤立していないということになります。個人主義が発生しうるわけであり、また個人主義にたえうるわけでもあります。

 田中角栄は日本の文化の徒花だつたといふことなのでせう。彼を利用するだけ利用して、隣人は、すべて被害者といふことになつて彼を始末した。上空の一点を見出さぬままに、密着した人間関係が田中の武器でもあつたし、自分の首を絞める道具にもなつてしまつた。

 福田和也氏は、人間の器量とは人の水平に広がるものだと「あとがき」で書いてゐる。「ああ、これではだめだ」と思つた。人生の豐かさが平面の論理から導かれるものだとすれば、「現代の批判」はできない。『現代の批判』を書いたキルケゴールは、現代の本質を「水平化」に見たが、現代批評を志す福田和也氏の筆は、未だ「批判」たりえず。

 今年一年の御愛讀ありがたうございました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時代を創る人

2009年12月27日 10時30分58秒 | 日記・エッセイ・コラム

 福田和也氏の新著『人間の器量』を讀んでゐる。相變らず一文で改行のきはめて讀み易い本であるが、歸宅する電車のなかで讀むには丁度良い。疲れきつた頭では、難しい本は時に睡眠藥しかならないからである。

   人間の器量 (新潮新書)

人間の器量 (新潮新書)
価格:¥ 714(税込)
発売日:2009-11

 本の紹介をすることが目的ではないので、本の印象とそこから聯想したことを書いてみる。

 取り上げられてゐる、器量を持つた人=言はゆる「人物」は、概して江戸時代の嚴しい教育制度の中から生れてゐる。それは、型にはめることがじつは個性を開花させることになるといふ逆説を描いてゐるのであるが、そのこと自體はすでにいろいろな人が感じてゐることなので措くとして、今囘改めて考へたのは、古い時代の教育こそが實は新しい時代を創る主體者を生み出したといふ事實である。江戸期の藩校(時に私塾)が明治政府の要人を輩出した、この一事が教へてくれるのは、變化の激しい時代だから、それに對應する學問を身に附け、最尖端の研究を、といふのではなく(それが私たちの今日の「常識」であるが)、じつは本當の常識は言ひ古された「温故知新」なのである。何を今更と言はれればそれまでであるが、私自身の今年一年を振り返つて、少少前を見過ぎてゐたといふのが率直な反省だからである。

 今あるものの前に自己を空しくし、學ぶといふ姿勢を身に附けることこそが、時代を越えた「人物」になる條件なのであつた。

「才人はゐるが、人物がゐない。良心的で、眞面目で人間愛に滿ちてゐる。けれども、到底人物とはいへない」――これが福田和也氏の嘆きである。そして私も全くその通りだと思ふ。こんな大事なことを、かういふ御手輕な本で書けてしまふ福田和也といふ人物は、御氣樂なのか人物なのか私には分からないが、言はれたことは胸に迫る。福田恆存は晩年のインタビューで「自分自身を省みれば、日本はダメだとわかるはずですよ」と語つた。その通りである。

 ダメな一年が終り、一つ歳をとつてしまつた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の國語教育

2009年12月20日 10時33分27秒 | 日記・エッセイ・コラム

 年が明ければすぐにセンター試験が始まり、この六年間の生徒らとの言葉の劇が終幕を迎へる。つい昨日までランドセルを背負つてゐたのにいつしかひげを生やし、いつの間にやらこちらよりも背が高くなつてゐる彼らとの六年間をざつくりと回想すれば、言葉の格闘といふ比喩がふさはしい。思ひを直接的に表現し、暑ければ暑いと叫び、友達を追ひかけようと思へば廊下やグラウンドを一目散に駆けてゐた。それが夏を何度か経験していくうちに、太宰を読み、安吾を読み、漱石を読みしていくうちに、人知れず相手のことを慮るやうになつていつたのは、彼らが言葉を獲得していく過程でもあつたやうに思へる。

 読書の力がそれをもたらしたのであらう。自分の気持ちの曖昧さをさうした言葉で整理し制御し、少し離れて自分を見られるやうになつたのも、言葉の力であつただらう。教師としてはそれを誘つただけだと言へば少少格好がよすぎるか。正直に言へば格闘したのである。小林秀雄の『本居宣長』からかつて学んだ「意は似せやすく、形は似せにくい」といふ言葉を鏡にして、言葉の形を身につけるやうに指導してきた。もちろんそれは、「てにをは」だとか主語と述語の整合性だとかといふ言葉の使ひ方にとどまるのではなく、むしろそれ(人間が主体で言葉が対象である)とは逆に言葉に学べ(言葉が主体で人間が対象)といふことを言ひ続けたものである。言葉は私が生まれる前からあつたものであるといふ当たり前のことを知る、これが大切なことだと考へたからである。漱石の文章が読みにくくて、春樹の文章が読みやすいのは、それ自体が口語確立の格闘の歴史の成果なのだといふことに思ひを寄せられる生徒らであつて欲しいと願つてきた。

 もちろん、伝統の継承者である生徒らは次代の開拓者でもあるので、学ぶことが新たな創造につながるやうな実践の場も設けてきた。これは以前の学校で取り組んだことであるが、中学三年生の卒業にあたつて、卒業論文を書く機会を与へた。一年をかけての労作で、私自身が大学時代に経験した卒論の形式を参考にした。一学期に各自テーマを決めさせ、夏休みまでに必要文献を三冊以上読ませ、夏休みにレジュメを作り上げ、二学期に発表させる。生徒らからの質問を受け、さらにテーマを深めて冬休みに十五枚の論文に仕上げる。休み明けには優秀な作品を選定し、全体の場で読ませることにした。特に注意したのは、引用と意見とは明確に分けることであつた。先行者の意見を自分の意見としてしまふことは厳に慎むべきことであること、これが伝統の継承者としても次代の開拓者としても最優先すべき眼目であることを伝へた。

「読む」ことと「書く」こととは、国語の教育においては、基本的なことであるが、それをおろそかにはすまいといふのが私の指針であり、今後も続けるべき課題である。「聞く」ことと「話す」こととの重要性は決して軽んずべきものではないが、私達の国語が音声的性格よりも書字の性格を強くもつ言語である以上、青少年期の国語教育はしばらくは「読む」「書く」を重視しなければなるまい。比喩で言へば、書くやうに話し、読むやうに聞く、である。さうなればもつと私達の言葉遣ひは落ち着いたものになると考へてゐる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小沢一郎氏に問ふ――それなら赤信号は「止まれ」と法律に書いてありますか

2009年12月14日 21時53分04秒 | 日記・エッセイ・コラム

 今日、チャイナから習某が訪日した。それ自体は外交の一コマであるから何の感想もない(ウォッチャーによれば、政敵との差をつけるために日本外交に先に手をつけたかつたといふことらしい)。

 しかし、この際の首相や幹事長の対応がいただけない。かういふ政治的な事柄についてはあまりこの欄では書かないやうにしてきたが、今回だけは許しがたい。

 小沢幹事長はかう言つてゐた。「(正式申請の期限の)30日ルールって誰が作ったのか。法律で決まっているわけでもない。」

 法律で決まつてゐないことは何をやつても良いといふ理屈なら、社会が成り立たない。そんなことは分かつてゐての開き直りである。法律を守つてもゐない人が、法律論を振りかざすとは笑止である。それなら借問するが、赤信号が止まれを意味するとは法律のどこに書かれてゐるのだらうか。書いてはゐない。書かれてゐなくたつて、慣習的にさうなつてゐる。それで社会は成り立つてゐるのである。

 さういふ詭弁を弄してゐるうちに、権力は腐敗し、国運を失つていくのである。聞けば、陛下は体調が思はしくないと言ふ。小沢氏や鳩山氏は國の一大事を見失つてゐる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二人のユキオ――政治と文學

2009年12月10日 16時16分57秒 | 日記・エッセイ・コラム

  昭和45年11月25日に東京の市ヶ谷で三島由紀夫は自害した。「檄」と書かれたその最後の主張はものの見事に自衞隊員の野次に掻き消され、悲しい死を選擇せざるを得なかつたが、その死は戰後社會を今も突き刺してゐる。昭和元年生まれの三島は、當時45歳である。私は六歳の時のことであるから、まつたく何の記憶もない。そして、今その年齡になつた。今にして三島の思想の何かが分かつたわけではないし、これまでも三島のよき讀者でもなかつたが、今はつきりしたことは、さういふ人物を生み出した日本とは今はまるつきり變はつてしまつたといふことである。

   成熟とは賢くなることであらう。だから、知惠者は三島の死の狂氣をバカにする、策略家は三島の愚策を揶揄する、大作家は三島の文學の未熟を批難する。なるほど、あれから40年、生命の價値を禮讚する言論が私たちのものになつた。戰爭は二度としない社會になつた。智慧を身に附け、政策に通じ、輕やかに文體を操る「勉強家」がそこかしこにゐるやうになつた。三島の憂國は杞憂であつた――さう言ふこともできるやうな時代になつた。

   しかし、それは違ふ。一言で言つてそれは他者への無關心のなせるワザなのである。幼兒化した日本人と言つても良いだらう。友愛などといふ個人の趣味を政治の理念として恥かしげもなく掲げられるもうひとりのユキオ氏はその典型である。友達にやさしくすることは友情を育むことには役立つても、溺れた友人を救ふ覺悟に裏打されたものではない。なぜなら「生命を捨ててでも友を愛す」といふ意志など友愛の精神にはないからである。政治の理念は、自己よりも大事なものがあるといふ觀念からしか生れない。自由といふことが理念であるためには、自由を否定するもののためには鬪ふといふ意志を含んでゐなければならない。友愛のために生命を捧げるといふやうな意志のない氣分の單なる表明は決して政治の理念にはなり得ない。

   だが、鳩山總理の言は讚へられ、三島の言は忘れられる。戰後とはまさにさういふ時代なのである。何も日本人全體が三島の言葉を思ひ出す必要はない。しかし、鳩山總理の言葉の不毛さについてはもう少し敏感であつてほしい。三島の言葉はその時に役立つであらう。

   いや待てよ。政治家の言葉で鳩山氏以上のものはこれまでに果してあつただらうか。私たちの國の政治家とは所詮その程度か。となれば、やはり國民もその程度といふことか。つまりは、私もその程度。さうかもしれない。いやさうだらう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする