例の『人間の器量』のなかで、福田和也氏は元總理の田中角榮を評して次のやうに書いてゐる。それは田中に對する評言といふよりは、田中をあのやうに失脚させてしまふ日本人の心性への評言でもあると思ふ。
「彼が、その意を満たすことなく失脚し、刑事被告人という不名誉な名のもとに死なねばならなかったのはなぜなのか、という事は、よく考えてみる必要があるのではないでしょうか。半径一メートルより外に、その光輝を伝えることができなかったのはなぜなのか。」
福田恆存はかう書いてゐた。
極端にいうと、日本人は空間の一点に結びつく梯子をもっていないどころか、大地から両手を離して立ちあがることさえおぼつかない。四足獣なみに四本の足で歩いているとさえいえます。なるほど物質文明はすぐ輸入できるし、ジェット機を乗りまわし、ロケットを設計して、この大地から絶縁することは容易でしょう。しかし私たちの人間関係はどうか。飛行機のようにかんたんにはまいりません。人間関係に関するかぎり、私たちは依然として大地を這いずりまわっております。友情も恋愛も母性愛も、すべての人間的交流が大地に密着したままでおこなわれているし、また、そうあらねば気がすまないのです
二人の人間がそれぞれ独立した個体として、大地のうえに立ちあがり、向いあった両者間に一定の距離をおいて、相手におたがいの領域を犯すことなくつきあうのではなく、両者の壁をとりのぞき、液体のように溶融して窪地によどんでいるような友情を欲するのであります。恋愛の初期におけるように、相手との間に距離を見いだすと、不安と焦燥を感じて、これを埋めようとする。ひとびとは、この衝動ないしは操作を「理解」と呼んで、近代的かつ知的な意匠をほどこしますが、結局のところ、個人相互間の距離というものにたいする恐怖感にほかなりません。平たくいえば、日本人は「さびしがりや」だということになりましょう>
ひとびとは自分がひとりの人間として孤立することを恐れているのです。この自衛本能をキリスト教倫理における「愛」と混同してすますわけにはいきますまい。ここで問題になるのは、つぎの問題です。相手を突き放し、自分と他人との間にあくまで距離を置こうとする西欧の冷酷な個人主義が、なぜ「愛」の思想と道を通じているのか、その反対に、距離と孤立とを恐れ、自他の未分状態のままにとどまろうとする穏和な仲間うちの道徳感が、なぜ自衛本能にしか道を通じていないのか。 さっきの点と平面との幾何学はこういうことを教えてくれます。上空の点を欠いた平面だけの世界では、あたかも、森に入って森を見ざるごとく、遠見がききません。私たちにとって、他人というのは、すぐそばにいる隣人ということにすぎない。他人とつながるといえば、その隣人とつながるということしか意味しません。隣人との縁が切れれば、その向うにいる多数者である赤の他人とは、どうにもつながりようがないのです。そうなれば、個人はそれぞれ孤立します。さびしくてたまらない。それに反して、もし上空の一点とのつながりを得さえすれば、各個人は、それぞれの隣人を跳び越えて、遠く広く、他の多くの人間とつながることができるのです。もちろん、その一点が万人共有のもので、ひとりひとりがその点に結びつけられているという前提のもとにおいてであります。そうすれば、めいめいの個人の間に直接の線が引けなくても、上空の一点を経て、どこにでもつながる可能性が出てきます。個人は平面上では孤立しても、間接には孤立していないということになります。個人主義が発生しうるわけであり、また個人主義にたえうるわけでもあります。
田中角栄は日本の文化の徒花だつたといふことなのでせう。彼を利用するだけ利用して、隣人は、すべて被害者といふことになつて彼を始末した。上空の一点を見出さぬままに、密着した人間関係が田中の武器でもあつたし、自分の首を絞める道具にもなつてしまつた。
福田和也氏は、人間の器量とは人の水平に広がるものだと「あとがき」で書いてゐる。「ああ、これではだめだ」と思つた。人生の豐かさが平面の論理から導かれるものだとすれば、「現代の批判」はできない。『現代の批判』を書いたキルケゴールは、現代の本質を「水平化」に見たが、現代批評を志す福田和也氏の筆は、未だ「批判」たりえず。
今年一年の御愛讀ありがたうございました。