言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『サル化する世界』を読む

2020年05月28日 20時30分32秒 | 本と雑誌

 

 

 内田樹を久しぶりに読んだ。これがじつに面白かつた。仕事が終はつて夕食を摂ると、だいたい眠気に襲はれてうとうとしてしまふ。特にこの季節の変はり目は甚だしい。もちろん、明日までにかたづけないといけない仕事があればそんなことも言つてゐられないので、眠気眼をこすりながら机に向かふが、この本は眠気にも互角で戦へる面白さであつた。

 その面白さは、さうさうと頷きながら我が意を得たりといふ納得感から得られるものだけではない。いや違ひますよ、内田先生、といふこちらの思考を刺戟してくれるものが多いからでもある。一つずつ例を挙げようか。

我が意を得たり系。

(239頁) 教育というのは苦しむ仕事なのです。人類が始まったときから存在する太古的な仕事、市場経済や国民国家ができるよりはるか前から存在した職能ですから、市場経済や国民国家となじみがよくないのは当たり前なのです。でもわれわれはすでに市場経済の世界に暮らしており、国民国家の枠内で学校教育をする以外に手立てを持たない。だから、葛藤するのは当たり前なんです。学校教育がらくらくとできて笑いが止まらないというようなことは、現代社会では絶対にあり得ないのです。それは学校教育のやり方が間違っているからではなく、学校教育は市場経済とも国民国家とも食い合わせが悪いからです。それについては諦めるしかない。むしろ自分たちのほうがずっと前から、数万年前からこの商売をやっているのだからと言って、むちゃな要請は押し返す。NOと言うべきことについてはNOと言う。とにかく子どもたちを守り、彼らの成熟を支援する。彼らが生き延びることができるように生きる知恵と力を高める。

 ずゐぶん調子のよいことを言つてゐる気もするし、教師に都合のよい甘言のやうにも思へるが、「これを学んだら何に役立つんですか」と訊いてくる「子どもたちを守り、彼らの成熟を支援する」ために、徹底的に「さういふ愚問を発するな」と言ひ続けるのが教師ではある。だから、「葛藤するのは当たり前なんです」と言はれるとホッとする。

次に思考の刺激系。

(212頁) 「日本の学校教育をよくする方法がありますか」とよく聞かれます。(中略)僕の答えはいつも同じです。「成績をつけないこと」です。でも、それを言うと、教員たちはみんな困った顔をするか、あるいは失笑します。「それができたら苦労はないですよ」とおっしゃる。でも、本当にそれほど「それができたら苦労はない」ことなんでしょうか。

 これまたずゐぶん調子のよいことをおつしやる。しかも、自分の武道師範としての経験を引いて説明するからさらに内田先生の主張には疑問が沸いてくる。「成績をつけるといふことが目的になつてゐるのではないか」といふ批判であれば私も納得する。なぜなら学力と成績とが同内容であるといふことに根拠などないからである。しかし、成績をつけることは教育の大目的のための一つの手段にすぎないと割り切れば、目くじらを立てるほどのことではないのではないか。あるいは「学歴社会や学校歴社会が問題だ」と言ふのなら分かる。なぜなら何を学んだのかが大事だからである。しかし、「日本の学校教育をよくする方法」が「成績をつけないこと」になるといふ理路はまつたく分かりません。私が内田先生の隣でこの話を聞いたら間違ひなく失笑する。なぜか。「先生、それ理屈が合つてゐませんよ」と思ふからである。しかし、たぶん内田先生は「こいつも、それができたら苦労はない」と考へる奴だなと思ふのでせうね。だから私はちよつと意地が悪いから、「先生、『それができたら苦労はない』と思つて私が苦笑したとお思ひでせうが、それは違ひますよ」と申し上げる。お話しする機会などないでせうが。

 本書のタイトル『サル化する世界』はいささか説明が必要だらう。しかし、それは本書の冒頭で早々に説明されるから、ここでは説明しない。頭の体操としてはとてもいい本である。お勧めしたい。

 

 

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時事評論石川 2020年5月号

2020年05月24日 08時54分01秒 | 告知

 武漢肺炎禍は続いてゐる。そしてしだいに論調は、アフターコロナの展望について触れるやうになつてきた。人間関係や物流や、教育の在り方も変はる、変はると連呼されるが、果たして本当に変はるだらうか。

 かつて3・11の後、計画停電が行はれたとき、街の照明は暗くなつた。テレビの放映時間も短くなり、節電社会が到来するかのやうに言はれた。自然エネルギーが主流になると息巻く「経済評論家」もゐた。しかし、どうか。ポスト東日本大震災の後の社会は、一層のエネルギー消費社会であり、過剰なまでの東京一極集中が続いてゐる。首都は直下型地震に襲はれるとほぼ確定的に「予言」されてゐるのに、首都はどんどん大きくなつてゐる。ポストコロナだらうが、ウィズコロナだらうが、変はるとは思はない。

 

 さて、シェイクスピアの『アセンズのタイモン』は私は未読である。恥ずかしいが留守先生のコラムで初めて知つた。人物造型が両極端であるために、つまりはその中間がないがゆゑに硬直化したものになりがちなので、人気も作品としての質もあまり評価が高くないやうだが、とても興味深い物語に思へた。その理由は、留守先生らしくメルヴィルを引いて「恐ろしいばかりの眞實」をこの作品の中に見出してゐるからでもある。福田恆存訳で読みたいが、それはない。小田島雄志訳か松岡和子訳か、それしか見当たらない。

 
 どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。  1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)
                     ●    
準戦時宰相論――求められる指導者像

  ゲリラ的感染症への対策

         史家  山本昌弘

            ●
武漢ウィルス肺炎対応――ここは政治力の見せ所だ
  安倍総理最後の御奉公
         政治評論家 伊藤達美
            ●
教育隨想  かくも能天気な日本人 武漢ウィルス禍の教訓(勝)

             ●

台湾 蔡英文政権の決断と実行力――「武漢肺炎」封じ込めに成功 何故か

         平成国際大学教授 浅野和生

            ●

「この世が舞台」
 『アセンズのタイモン』 シェイクスピア
        早稲田大学元教授 留守晴夫
 
            ●
コラム
  幻の天皇訪韓と慰安婦問題(紫)

  ”失われた世代″再び?(石壁)

  九月入学を議論する前に(星)

  是々非々を貫かぬ言論人(白刃)
           

  ● 問ひ合せ 電話076-264-1119  ファックス 076-231-7009

   北国銀行金沢市役所普235247

   発行所 北潮社

 

 

 

 

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More Is Different 『コロナ時代の僕ら』を読む。

2020年05月10日 10時43分56秒 | 本と雑誌

 

 

 More Is Different とは、筆者が現在の状況を簡潔な標語でとらへる言葉を探してゐて見つけた言葉だ。1972年の『サイエンス』誌に載つてゐた言葉だと言ふ。訳者は「多は異(い)なり」と訳してゐる。著者の意図は「ひとりひとりの行動の積み重ねが全体に与えうる効果は、ばらばらな効果の単なる合計とは別物だ」といふものだ。素粒子物理学を専攻した小説家である著者は、このことを「線形と非線形」の比喩でも説明してゐるが、それではやや読者の理解を得にくいだらうと予想してこの言葉を選んだのだらう。

 読売新聞の先週の記事で、本書の存在を知り、さっそく取り寄せて読んでみた。1時間ほどで読める。イタリアの作家である著者が、現実の変化の中で生き、「僕らの時代」として描いたエッセイだ。

 日本人でもかういふエッセイを書ける人はゐると思ふが、それを依頼する出版社がないのが残念だ。例へば、村上春樹ならこの状況をどう見るかとか、中村文則や諏訪哲史にエッセイ点描を書いてもらふとか、それがあれば読んでみたいと思ふ。

 イタリアには少なくとも、書かせたいと思ふ編集者と書きたいといふ作家とがゐたといふことである。

 日本語版にだけある「あとがき」=「コロナウイルスが過ぎたあとも、僕が忘れたくないこと」。これが心に残る。「僕は忘れたくない」といふ言葉が繰り返され、ひとつづつ記されていくが、ひとつだけ引いてみる。

「僕は忘れたくない。今回の緊急事態があっという間に、自分たちが、望みも、抱えている問題もそれぞれ異なる個人の混成集団であることを僕らに忘れさせたことを。」

 この文を読んですぐに思ひたつたのが、学校閉鎖に伴ふ遠隔授業の実態である。さういふ技術に関心があり、技術的にも長けてゐる人が、それを受信する側のことを一切考へず、どんどんどんどん垂れ流す。そしてそれを静観してゐる人々に「遅い、何をやつてゐるんだ。ユーザビリティー(使用性)を考へろ」とのたまはる。ユーザビリーといふのは、受信環境がない人に垂れ流すときに使ふべき言葉ではないかと思ふが、その人によれば、サーバーが不良でつながりにくい状況のことを指してゐるらしい。笑止だつた。垂れ流しをする者がゐるから、サーバーに負担がかかりすぎて止まつてしまつてゐるといふ現実を見ずに、自分の正当性だけを主張する。「More Is Different」である。

 指揮の統一や、インフラの瞬時整備は喫緊の課題であらう。それを怠つてきたこれまでの在り方は反省されるべきである。しかし、さうした「望みも、抱えている問題もそれぞれ異なる個人の混成集団であること」を望んできたのも、間違ひなく私たちの社会である。いや私たち一人ひとりである。そのことをきれいさつぱり忘れて、「解決法はこれしかない」と確信的に=革新的に語る人を、扇動家(アジテーター)=僭主(タイラント)=狂信者(トゥルービリーバー)と言ふのである。さういふ人は、日ごろから全体主義への憧れがあるのではないかと思ふ。この際、さういふ人のあぶり出しが出来てよいのかもしれない。

 危機にあつて、その人の本性が出る。その人の器が試される。コロナ時代はこれから続くのだらうが、そこで養はれる人間性は平時のものとは異なる豊かさを持つてゐるやうに思はれる。

 

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『13歳からのアート思考』を読む

2020年05月07日 13時35分29秒 | 本と雑誌

 

 

 まつたく偶然のことなのだが、教へ子の父親が勤めてゐるある大手企業がこれから10年後のことを考へてSTEAM教育の教材づくりをすることになつたやうで、ついてはご意見をもらへないかといふことになり、一度お会ひすることになつた。ところが、そもそも「STEM教育」といふのは私の理解によれば「理系のリベラルアート」といふことだから、私からは何もいい話はできないのではと思ひ直して、お断りしようと考へた。とは言へ学校で受けることだから一応上司に訊いて見ると、理科の教員だけに彼はそれは面白いんぢやないかといふ反応でお越し頂くことになつた。

 STEMにAがついてゐるが、Aとは何か。それはARTだと言ふ。それなら面白い。私は中学時代は美術部。うまいかどうかは分からないが、絵に関心はある。油絵を高校時代には描いてゐた。今は何もしてゐませんが。

 デザイン思考といふこともよく聞く。機能主義的に設計するのではなく、全体の布置を考へてデザインするといふことが大事だとも説かれる。それで本書を読んでみようと思つた。

 著者は東京学芸大学付属中等教育学校の美術の先生で、授業の実況中継のやうで、とても読みやすい。メッセージがとても明快で、何度も繰り返されるから、読書の速度はどんどん上がつていく。初めての著書でこんなに文章がうまくて、図解もていねいで分かりやすいといふのは素晴らしい。授業の語り口はこのままではないかもしれないが、生徒もきつと引き込まれていくのだらう。

 私の受け取つたメッセージは、自分だけのものの見方で答へを見つけようとし、そしてさらに新たな問ひを生み出せ、といふものだ。

 それが「アート思考」だと著者は言つてゐるやうに受け取つた。

 これだけを読むと、なんだか陳腐だねと思はれるかもしれないが、さてどうだらうか。結構考へさせられますよ。

 そのことを歴史を辿りながら考へていく、6回分の授業。私にはそれがとても明瞭な美術史のやうに思へて、そちらの方もとても収穫が大きかつた。もちろん、私が持つてゐる美術史理解とは異なるところもあるが、そんなことは「アート思考」にとつては当たり前のことで、むしろ刺激にすべき事柄である。本書からは勇気をもらへた。

 私の中学時代の美術部の顧問は画家だつたが、その職人的な雰囲気は嫌ひではなく、私自身も藝術家の職人性を尊重するタイプだが、かういふ軽やかな「アート思考」こそ芸術家の資質であるといふ著者の考へも魅力的である。

 2時間ほどで読み終はる。ちゃんとした読み方をすれば、もつと時間がかかる。なぜならば「演習」の時間があるからで、私はそれは飛ばして答へをすぐに見てしまひました。

 

 ところで冒頭の件であるが、いまのところ進展はない。このコロナ騒動も影響あるが、学校に迷惑がかからないレベルのものになるまでもう一度考へを練りたいといふことのやうだつた。それもアート思考ですね。

 

 

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『銀色の月 小川国夫との日々』を読む

2020年05月03日 10時48分49秒 | 本と雑誌

 

 

 実際にお会ひした作家の最初の人は、小川国夫である。大学時代に友人と新聞を作つてゐたから、取材と称して作家にお会ひすることができた。

 大学4年生だつたと思ふ(その新聞どこかにしまつてあるはずだが、今はどこにあるのか分からない)。座談会を企画して、私が通つてゐた大学の先生と、市内の別の私立大学の先生、そして小川さんとで座談会をしていただいた。今ではこんな行動力もないが、大学時代にはいろいろな人に会ひに行かうといふ思ひがあつた。向上心なのだらうか。手紙を書き、電話をして返事を伺ひ、了承してもらへれば日程を決め、会ひに出かけた。あるいは市内に講演に来られた人でこれはと思ふ人には無理やり押しかけインタヴユーなどといふこともした。田原総一朗氏には講演の後に帰るエレベーターを待つてゐるところを捕まへて一階に降りるまでの時間といふ実に短い時間であつたが、話をうかがつたこともあつた。何を尋ねたのか忘れたが「そんなこと分かるか!」と怒られた記憶だけが残つてゐる。

 さて、小川さんは私の後輩I君が氏の三男の家庭教師をしてゐた御縁でお招きできたのであつた。その頃だつたと思ふが、『逸民』で川端康成文学賞を受けてゐて、ちよつと話題になつてゐた。それで是非ともお呼びしたいと思ひ立ち訪ねることにした。そこで事前打ち合はせに伺つたのだが、夕方の短い時間であつたが話を聞いてくださつた。物静かでやさしい印象があるが、失礼ながら私の記憶には頭の大きい人だなといふことの方が残つてゐる。体も大きいのかも知れない。

 座談会の日程と共に会の趣旨をお伝へした。私は小川さんの小説をそれまで読んだことがなかつたから、慌てて読んだ受賞作の感想など述べてもたかが知れてゐる。「読みました」ぐらゐは言つたと思ふが、その薄つぺらさゆゑに話題は文学の話にはならず事務的なもので終はつたと思ふ。後輩はすぐに家庭教師としての仕事に向かひ、私もその後帰つたと思ふ。その時三男の方もご挨拶に来られたが、その人は今作家となつてゐる。

 奥様の方がよく話したやうな気がする。言葉が多い方で、小川さんのあの重厚な文体とは違ふ。作家の妻は作家とは全く違ふ方がいいのかもしれない。ずばずばと話される感じで、大学生の私にはむしろ奥様の方に怖さを感じた。

 

 

 なぜ今頃小川さんのことを思ひ出したのか分からない。しかし、そのつながりで「確か奥様もエッセイ集を書かれてゐたな」と思ひ、今回この『銀色の月』を読んでみた。とてもいい本だつた。

 「旅する原稿」静岡県藤枝市にお住まひの小川さんの原稿は、ファックスもネットもない時代には、たいへんな苦労をして出版社まで届けられてゐた。そのいきさつを書いてゐる。深夜に原稿を受け取り、編集者が東海道線の車中でそれを読みながら夜が明け、涙を流してゐると車掌に「どうしましたか?」と訊かれるといふシーンは、もう今では絶対に見られない光景である。

「呼吸する産着」これについては詳しくは書くまい。小川さんとその母、そしてその二人を看護した妻である筆者が書いたスケッチである。

 ご自宅の近くの蓮池は私も伺つた日に散歩した。その後一度だけ訪ねたやうな気もする。今改めてその場面やかすかな記憶にある小川家の家の雰囲気が思ひ出される。三十年以上も前であるが不思議に蘇つて来た。

 とてもいい時間だつた。

 さう言へば、件の座談会で小川さんは、私が「岡潔が最近の若者は動物の顔をしてゐる(人間性を失つてゐるといふ意味)と言つてゐる」と言ふと、「動物は、ではそんなに乱れてゐるのか」とすかさず言はれた。作家といふのは鋭いなと思つた。ぴしゃりといふ感じではあつたが、強い否定調ではなく、諭すやうに私に言はれたのだつた。

 

 

 

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