山崎氏は、『柔らかい個人主義の誕生』に「消費社会の美学」と副題をつけた。つまり、「消費」といふ行動の構造を分析し、買ふといふ「目的」以上に買ふといふ「過程」を樂しむものであるといふことに注目して、買ひ方のありやうをめぐつて、そこに一種の「儀禮」が生まれてゐることを見つけた。
「現代の購買行動は、かつての貪慾な自己拡張の営みとは異なり、むしろ、商品との対話を通じた一種の自己探求の行動に変ったといへるだらう。」
「生産する自我が、ひとつの技術を身につけることで自分を統一するやうに、消費する自我は、行動にスタイルを持つことで自分を統一し、それを持ちつづけることで自我の同一性を守るのである。」
それはかういふことでもある。一人で食事をするときには、食べるといふ目的に徹して滿足を急いでしまふが、友人や知人などと食事をするときには、食べるといふ目的を遠ざけ滿足を引き延ばし、ゆつくりと時間をかけて食事の過程を楽しんでゐる。それを山崎氏は「作法の落着き」と言ひ、「儀禮」の表出と見る。
そしてかうしたことをヒントに、『文化開国への挑戦』では消費社會の生き方の基準に「ディシプリン」を示したのである。
これはこれで、興味深い考察である。演劇の構造分析と相俟つて、きはめて刺戟的な論ではある。しかし、その「ディシプリン」が、近代以前の「規律」や「しつけ」とどう違ふのだらうか。私にはさつぱり分からない。
もちろん消費の美學といふ文脈で道徳は語られてはこなかつた。購買行動ひとつをとつてみても、扱ふ商品の數も種類も近代以前とは比較にならないほど現代は多い。そして、店のありやうも店員の應對の仕方も近代以前と現代とは異なつてゐる。しかし、そこでの買ひ方も賣り方も、それ以前の「作法」を逸脱したものであるはずはない。そこでの作法は全く新しく生まれるものではなく、傳統的な作法を蘇らせたものであるに違ひない。
福田恆存は、石川達三との論爭で「道徳は變はらない」と指摘したが、全くそのとほりである。道徳が變はるとしたら、それは「たとへば右折禁止といふやうな『交通規則』と何等の變りもなく、複雜化した社會生活、家庭生活の混亂に處し、それを整理するための、言はば『眞理規則』に過ぎない」。
道徳とは變らないものであるのだ。なぜなら、「もともと道徳といふのは、平均人には實行困難な反自然のものであり、その足もとを見てかかげられたものである」からだ。實行可能であれば、自己を犧牲するといふこともなく、利己心に惱むといふこともない。自己犧牲を求められ、利己心に氣づかされるところに、道徳がある。そして、これは時代を越えた眞實であるから、道徳は變らないのである。
言ふまでもなく、獨特の根本はこの自己犧牲といふ觀念を措いて他に無い。自己犧牲も觀念なら、利己心も觀念であり、そして道徳もまた觀念である。言換れば、すべては言葉に過ぎぬ。あるいは夢だと言つてもよい。人間の心に自己犧牲といふ夢が宿つた時、その夢の中に利己心といふものの形が見えて來たのである。兩者は陽畫と陰畫との關係にあつて、一方が無ければ他方は無い。のみならず、自己犧牲といふ果てし無い夢を見始めると、自己犧牲そのもののうちにさへ利己心を見ずにはゐられなくなるものなのだ。
「道徳は變らない」
道徳が觀念として普遍的であるからこそ、絶對なのである。それは消費社會が生み出すものでも、道學者が生み出すものでもない。社會や個人が作り出すものが、絶對的なものにはなりえない。人間が普遍的に、本性として求めてゐるものなのである。
福田は逆説的に、利己心が自己犧牲といふ道徳を生むと言つてゐるが、まさに玄妙な主張である。この二つはともに、人間一般が普遍的にもつ性質なのである。
したがつて、傳統的な商ひの精神の蘇生が、消費社會において求められてゐることは事實だとしても、それが「ディシプリン」とカタカナ書きされる必要は認められない。
現實的に見ても、「ディシプリン」の必要性を感じる人は、倫理や道徳の必要性を感じる人であり、その倫理や道徳は、過去の知惠のなかから生まれたものであることは自明である。さうであれば、消費社會の美學として「ディシプイリン」を考へる特別な必要性はないといふことになる。私たちの國の文化傳統を保守せよ、といふのがいやなのなら、人々との接し方の精神を蘇生せよとする思想が今求められるてゐるといふことになる。
しかし、無節操な個人主義者は、解體をこそ信條とする。自我の擴張だけが彼らの指針であるあつてみれば、「ディシプリン」などとカタカナで書いても、彼らは見向きもしないと考へるのが正しい判斷である。「柔らかさ」を健全に育てるのには、やはりその一方で個人のなかに核となるものを育てる必要がある。そして、その核は、間違ひなく過去とのつながりに求めらるべきなのである。