言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

西部邁氏「正論」の愚昧

2006年01月27日 21時48分24秒 | 日記・エッセイ・コラム

 本日、西部氏が産經新聞の正論欄に「血統より家系を優先すべき天皇制」を書いてゐた。まつたく笑止であつた。疑問を抱いた友人に讀んでくれないかと頼まれて讀んでみたが、まつたく時間の無駄であつた。これほど愚かな論は、最近とみに思考が硬直化しだした西部氏の文章にあつても際立つてひどいものだと一讀して感じた。

 結論を言へば、守るべきは血統である。それが傳統である。それだけである。「天皇の血統」は慣習で、「皇室の家系」が傳統であるとは、どういふことなのかまつたく分からなかつた。言葉遊びにも程がある。氏が何を守らうとしてゐるのか、それは結局奇を衒つて、原稿料をもらつて自己の生活を維持することにあるとまで皮肉を言ひたくなる。それほどひどいのだ。形式(家系)を守れば、内容(天皇制)が保持されるといふのは、いかにも社會科學徒が言ひさうな分かりやすい圖式であるが、ここまでくれば、不敬であらう。

 西部氏も言ふやうに、天皇とは祭祀である。その祭祀として男系男子のみが撰ばれてきたといふことの意味は、男性の天皇しか關はれない儀式があるといふことである。子を宿す子宮に入るのは男性であるやうに、五穀豐穰を司る神の宮に仕へるのは男性でなければならない。さうであれば、女性天皇によつてまつりごとが中斷されることの深刻さに思ひ致さなければなるまい。

  私たちは、傳統を畏れなければならない。西部氏が男系男子に固執する論にたいして、「生物學的に論じることはできない」と非難してゐたが、かういふ祭祀の性格は、生物學的なものでも、西部氏が自稱する「文化論的解釋」でもない。日本國の歴史と祭祀長である天皇陛下への畏敬なのである。そして、それだけがこの際重要なことなのである。

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言葉の救はれ――宿命の國語51

2006年01月24日 20時07分23秒 | 福田恆存

山崎氏は、『柔らかい個人主義の誕生』に「消費社会の美学」と副題をつけた。つまり、「消費」といふ行動の構造を分析し、買ふといふ「目的」以上に買ふといふ「過程」を樂しむものであるといふことに注目して、買ひ方のありやうをめぐつて、そこに一種の「儀禮」が生まれてゐることを見つけた。

「現代の購買行動は、かつての貪慾な自己拡張の営みとは異なり、むしろ、商品との対話を通じた一種の自己探求の行動に変ったといへるだらう。」

「生産する自我が、ひとつの技術を身につけることで自分を統一するやうに、消費する自我は、行動にスタイルを持つことで自分を統一し、それを持ちつづけることで自我の同一性を守るのである。」

それはかういふことでもある。一人で食事をするときには、食べるといふ目的に徹して滿足を急いでしまふが、友人や知人などと食事をするときには、食べるといふ目的を遠ざけ滿足を引き延ばし、ゆつくりと時間をかけて食事の過程を楽しんでゐる。それを山崎氏は「作法の落着き」と言ひ、「儀禮」の表出と見る。

そしてかうしたことをヒントに、『文化開国への挑戦』では消費社會の生き方の基準に「ディシプリン」を示したのである。

 これはこれで、興味深い考察である。演劇の構造分析と相俟つて、きはめて刺戟的な論ではある。しかし、その「ディシプリン」が、近代以前の「規律」や「しつけ」とどう違ふのだらうか。私にはさつぱり分からない。

もちろん消費の美學といふ文脈で道徳は語られてはこなかつた。購買行動ひとつをとつてみても、扱ふ商品の數も種類も近代以前とは比較にならないほど現代は多い。そして、店のありやうも店員の應對の仕方も近代以前と現代とは異なつてゐる。しかし、そこでの買ひ方も賣り方も、それ以前の「作法」を逸脱したものであるはずはない。そこでの作法は全く新しく生まれるものではなく、傳統的な作法を蘇らせたものであるに違ひない。

福田恆存は、石川達三との論爭で「道徳は變はらない」と指摘したが、全くそのとほりである。道徳が變はるとしたら、それは「たとへば右折禁止といふやうな『交通規則』と何等の變りもなく、複雜化した社會生活、家庭生活の混亂に處し、それを整理するための、言はば『眞理規則』に過ぎない」。

道徳とは變らないものであるのだ。なぜなら、「もともと道徳といふのは、平均人には實行困難な反自然のものであり、その足もとを見てかかげられたものである」からだ。實行可能であれば、自己を犧牲するといふこともなく、利己心に惱むといふこともない。自己犧牲を求められ、利己心に氣づかされるところに、道徳がある。そして、これは時代を越えた眞實であるから、道徳は變らないのである。

言ふまでもなく、獨特の根本はこの自己犧牲といふ觀念を措いて他に無い。自己犧牲も觀念なら、利己心も觀念であり、そして道徳もまた觀念である。言換れば、すべては言葉に過ぎぬ。あるいは夢だと言つてもよい。人間の心に自己犧牲といふ夢が宿つた時、その夢の中に利己心といふものの形が見えて來たのである。兩者は陽畫と陰畫との關係にあつて、一方が無ければ他方は無い。のみならず、自己犧牲といふ果てし無い夢を見始めると、自己犧牲そのもののうちにさへ利己心を見ずにはゐられなくなるものなのだ。

「道徳は變らない」

道徳が觀念として普遍的であるからこそ、絶對なのである。それは消費社會が生み出すものでも、道學者が生み出すものでもない。社會や個人が作り出すものが、絶對的なものにはなりえない。人間が普遍的に、本性として求めてゐるものなのである。

福田は逆説的に、利己心が自己犧牲といふ道徳を生むと言つてゐるが、まさに玄妙な主張である。この二つはともに、人間一般が普遍的にもつ性質なのである。

したがつて、傳統的な商ひの精神の蘇生が、消費社會において求められてゐることは事實だとしても、それが「ディシプリン」とカタカナ書きされる必要は認められない。

現實的に見ても、「ディシプリン」の必要性を感じる人は、倫理や道徳の必要性を感じる人であり、その倫理や道徳は、過去の知惠のなかから生まれたものであることは自明である。さうであれば、消費社會の美學として「ディシプイリン」を考へる特別な必要性はないといふことになる。私たちの國の文化傳統を保守せよ、といふのがいやなのなら、人々との接し方の精神を蘇生せよとする思想が今求められるてゐるといふことになる。

しかし、無節操な個人主義者は、解體をこそ信條とする。自我の擴張だけが彼らの指針であるあつてみれば、「ディシプリン」などとカタカナで書いても、彼らは見向きもしないと考へるのが正しい判斷である。「柔らかさ」を健全に育てるのには、やはりその一方で個人のなかに核となるものを育てる必要がある。そして、その核は、間違ひなく過去とのつながりに求めらるべきなのである。

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言葉の救はれ――宿命の國語50

2006年01月22日 14時00分47秒 | 福田恆存

  その意味で、どう考へてみても山崎氏の歴史像は、恣意的である。確かに個人主義の滲透によつて「國家の從來の役割(これを「面白さ」と山崎氏は言ふ)」は小さくなつた。しかし、それは一方で國家の新たな役割が必要になつたといふことなのである。

確かに山崎氏が言ふやうに、國家は「大きな目的をめざして動く戦闘集団ではなくなり、無数の小さな課題をかかへて、その間の微調整をはかる日常的な技術集団に変ってしまった」とも言へるが、その方向にだけ國家のありやうが變化したといふわけではない。昨今の金融不安にたいして、財政出動をしたり、銀行に公的資金を投入したり、あるいは税制の見直しを圖つて消費税を導入したりといふことは、いづれも「微調整」ではあるまい。それどころか國家が、少子高齡化の日本社會が今後どうすべきかといふ、「大きな目的をめざして動く戰鬪集團」であることを示してゐる。

あるいは松原正氏ではないが、未來永劫において「戰爭は無くならない」のであつてみれば、文字どほり國家が「戰鬪集團でなくなる」ことなど金輪際ない。戰爭の中身は變はるであらう。武器の發達と戰鬪技術の向上とによつて、當然ながら戰爭のありやうは變化する。しかしながら、戰爭はやはり無くなるまい。人間の徳と力とは、同じものの兩面であつて、力なき徳は徳ではなくなるからである。人が徳や正義を求めるかぎり、戰爭は無くならないのである。力を無くして徳だけを記した日本國憲法がいかに慘めなものであり、平和の建設に何ももたらしてゐないことを考へれば、力の必要性は理解し得よう。

具體的に言へば、かうである。極東地區に限定してみても、今も共産主義の霸權國が儼然として存在してをり、自衞隊とアメリカの軍事力とによつて平和は維持されてゐる。さうであれば、山崎氏の國家觀は、現状認識と未來把握との二つにおいて間違つてゐると言はざるを得ない。そして、その誤解は過去についての認識に誤りがあるためであらうことが豫想される。が、今はこれ以上は立入らないことにする。

また、個人の在り方についても誤謬がある。

山崎氏は、個人主義が今後「柔らかい」方向にいくと言ふが、「柔らかい個人主義」が無節操を免れるためにどうするかを考へてゐない。「ディシプリン(discipline)」の必要性を訴へるが、それは大衆への過大評價である。

「ディシプリン」とは訓練や鍛錬、あるいは規律やしつけといふ意味である。山崎氏によれば「たゆみない訓練と陶冶による、一種の身体的な知惠」(『文化開国への挑戦』)といふことである。普通名詞であるこの言葉を、山崎氏は、目的を達成すること以上に達成する過程自體を重視する生き方のなかに示される「新しい概念」として造形してしてみせるが、それは「規律」や「しつけ」とどう違ふのだらうか。疑問だけが募るのである。

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言葉の救はれ――宿命の國語49

2006年01月19日 22時24分48秒 | 福田恆存

確かに國家といふものは、近代になつて、そしてヨーロッパで生まれたものである。したがつて、時代の變化に應じてそのありやうも變化すると考へることもできる。山崎氏の論點もそこにあるやうだ。

しかし、國家の成立をより仔細にみれば、そんな單純な理屈で捉へては事を正確には見ることができない。

ベネディクト・アンダーソンによれば、それは基督教が力を失ひ、絶對王制が崩れ、宇宙論と歴史とは區別不能であり世界と人の起源は本質的に同一であるとの時間觀念が失はれたことにより、近代國家が必要になつたといふ。つまり、國家の必然性は、その前提が變はらないかぎり、失はれることはないと言つて良いだらう。そして、その前提は今も同じである。

いはば、「神話」を失つた近代人が、それだけでは生きられず、新たな「神話」として作り出されたのが「國家」といふ神話なのである。時差もあるほどの、あるいは飛行機でなければ行くことのできない地域が同一の國家として意識され、同じ言葉を話し同じ文字で書くことを當然のやうに思ふのも、國家の持つ「神話性」にほかならない。

ちなみに言へば、その神話性を維持していくためにも、より系統だつた國語のありやうを求めていくといふのが當然の行動である。「假名遣ひ」とは、國家の問題であり、さらにはそれを支へる文化の問題なのである。

かうした認識は、「豐か」になつたぐらゐのことや「個人主義」の流行ぐらゐのことで變はるものではない。

例を擧げてみよう。

今でも、オリムピックやワールドカップで日の丸(國家の象徴)を意識することは簡單であるし、逆に「無数の小さな課題をかかへて、その間の微調整をはかる日常的な技術集団」として今後の國家を限定しようと山崎氏はするが、「実務の世界」としては大まか過ぎるといふのが私たちの日常での實感ではなからうか。地方分權が政治的近未來の課題としてあるなかで、むしろ國家はもう一度、その役割を求められてゐるといふのが正確な認識である。

教育の状況を見れば、そのことは瞭然とする。國家的規模での「實務」は現場と齟齬を來してゐる。

今の青少年に「ゆとり」を與へるのが適當かどうか、それを文部科學省が決めるのでは適切さを缺いてゐる。中央の官廳が決めるべきは「實務の世界」なのではなく、權利や義務と言つた大まかでより基礎的な事柄についての見解を表明することなのである。そこでは當然ながら、私たちの國はどういふ文化のなかで營まれてきたかといふ歴史的な視點が必要になる。そしてそれは、今後どういふ國にしたいのかを前提にしなければならない。

未來像によつて現實や歴史を變へるのではなく、歴史や現實から未來像を考へなければならない。そのことは近代をさきがけた國々においては自明のことであるにもかかはらず、いままでなほざりにされてきた。國語問題について考へる前提も、そこにある。

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言葉の救はれ――宿命の國語48

2006年01月17日 22時51分55秒 | 福田恆存

「批評家にとつて現状を悲觀するのは簡單だ」と自戒し、現状を樂觀視し肯定しようと努力してきたとよく山崎氏は言ふ。が、事は批評家個人の構への問題ではなく、國家や社會の問題である。姿勢ではなく現状認識の問題である。安易な生き方をしないといふ意味では好感を持てるし、嚴しい自戒の保持は似非批評家が多いなかでは得難い魅力であるには違ひない。

しかしながら、現状を悲觀し否定することが必要なら、否定することはもつと大事なことである。福田恆存の處女作は『作家の態度』である。したがつて、作家の要件として第一にその態度を論じたことは特筆すべきことである。私小説作家のやうに、自己の免罪符を得んがためのやうな(「自己主張と自己表白とによつて人間完成を意圖する文學概念」『作家の態度』)作品や、自己の主張に凝り固まつたり状況にすり寄り言説をいい加減に變へる、眞の意味での自由を失つたやうな人々を嚴しく批評した。

私は小利口な要領のいゝ人間は嫌ひである。私は何ゝ派だの何ゝ主義者だのであつたことは一度もない。私は何を書いても、たゞ人間について、常識的に論じてゐるだけである。小説でも評論でも、人間が人間について人間らしく論じてゐるのでなければ、保守的現實主義者と革新的理想主義者の別は無い、私としてはそれを「斬ら」ざるを得なかつたまでのことである。

『問ひ質したき事ども』後書

 

「態度」、このことを單純に一貫性といふことだけで捉へると、福田恆存の言説を誤解する恐れがある。國語問題にしてもしかりである。福田は歴史的假名遣ひ主義者ではない。そのことをこのあたりで確認しておきたい。

さて、山崎正和氏の言説についてである。

山崎氏は現状を悲觀するのが簡單だと言ふが、それは嘘だらう。悲觀するには力がゐる。絶えず悲觀するには理想がなければならない。その理想を維持し續けるには信じる心が用意されてゐなければならない。一囘や二囘、ニヒルに現状を悲觀するのは確かに簡單だ。世の悲觀論者がしてゐることである。さうした方が、どうやら知的に見えるといふしたたかな計算があるとも言へる。

しかし、悲觀する言説は人氣がない。テレビや新聞でもそればかりでは使つて貰へない。それでも言ひ續けるには、以前とは違ふ正確な現状把握が必要である。人を説得できる分析と目指すべき理想がなければならない。その點では樂觀は樂である。現實が理想なのであるから。したがつて現状認識に、いくらでも誤魔化しがきく。先に引用した山崎氏の「七〇年代にはいると国家が国民にとつて面白い存在ではなくなり、日々の生活に刺戟をあたへ、個人の人生を励ましてくれる劇的な存在ではなくなった。それはもはや、大きな目的をめざして動く戦闘集団ではなくなり、無数の小さな課題をかかへて、その間の微調整をはかる日常的な技術集団に変ってしまった」などといふ文章などは、その典型である。

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