政府与党は、来る参議院議員選挙の公示日を6月22日、投票日を7月10日の日程で行ふことを決めたといふ。
これまでと大きく違ふのは、18歳以上の未成年者が投票するといふ点である。選挙権を引き下げるといふことが「これまでと大きく違ふ」ことなのではなく、これまでの歴史において選挙権の拡大は言はば「獲得してきた」ものであつたのに、歴史上初めて「与へられる」ものになつたといふことである。この質的変化に、どれだけの人が気づいてゐるだらうか。
しかも、学校に在籍する生徒が投票に行くとなれば、当然ながら「学び」の成果として生徒の行動が問はれることとなつて、「主権者教育」などといふ語義矛盾の教育が行はれることになるのだ。
その意味を端的に言へば、かういふことである。主権とは「主な権利」といふことであるが、主権者とは何かをあまりにも現実的な題材として学びの対象にしてしまふことになれば、それは「義務」となる。検定試験直前の講習のやうなものである。
18歳になつたのだから、各政党の政策を学び国政に積極的に参加しなさい、そのためにはまづ次の選挙に行くことだとなれば、権利が義務になつたといふことである。その結果どうなるか。ここからは推測であるが、国政への意識はいよいよ低下し、投票率は下がつていくことになるだらう。もの珍しさに浮かれる18歳の投票率は上がつても、20歳で「卒業」となりはしないか。
学びの主体といふことを前回から考へてゐるが、主体たりえない生徒を「主権者」として見立てるといふことは、学校の問題を社会全体の問題へと拡大してゐるといふことになる。学校には敷地や教室といふ「閉じられた空間」がある。そこにおいて出席や時間割、あるいは服装や持ち物についての「縛り」をかけられる。それらが強制的に生徒を囲むことによつて学びの主体が形成されていく。それが学校モデルである。しかし、主権者として生徒を見立てて(本人の能力・資質に関係なく)、国家が外に連れ出していくことになれば、いよいよ「学び」の主体は形成されにくくなる。それは、言つてみれば政府の都合のよい擬似主権者をこれまでの制度とは関係なく作り出していくといふことになる。つまりは、国家による学校制度の否定である。
似非の学び、似非の主権者、かういふ存在が作り出されていくのであれば、学校はどうあるべきか。内圧を高くして学びを圧縮して進めていくか(たぶんそれは無理であらうが)、あるいは逆に思ひ切り開いて学びは各個人に任せるかであらう。その結果、各人のインセンティブに基づいて、非常に格差の大きい国民国家が生まれていくことになるだらう。そこまでの見通しがあつて、現政権は政策を立案してゐるのかどうか非常に不安である。