言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「学び」と権利――主権者教育といふ不可解

2016年05月31日 14時30分37秒 | 日記

 政府与党は、来る参議院議員選挙の公示日を6月22日、投票日を7月10日の日程で行ふことを決めたといふ。

 これまでと大きく違ふのは、18歳以上の未成年者が投票するといふ点である。選挙権を引き下げるといふことが「これまでと大きく違ふ」ことなのではなく、これまでの歴史において選挙権の拡大は言はば「獲得してきた」ものであつたのに、歴史上初めて「与へられる」ものになつたといふことである。この質的変化に、どれだけの人が気づいてゐるだらうか。

 しかも、学校に在籍する生徒が投票に行くとなれば、当然ながら「学び」の成果として生徒の行動が問はれることとなつて、「主権者教育」などといふ語義矛盾の教育が行はれることになるのだ。

 その意味を端的に言へば、かういふことである。主権とは「主な権利」といふことであるが、主権者とは何かをあまりにも現実的な題材として学びの対象にしてしまふことになれば、それは「義務」となる。検定試験直前の講習のやうなものである。

 18歳になつたのだから、各政党の政策を学び国政に積極的に参加しなさい、そのためにはまづ次の選挙に行くことだとなれば、権利が義務になつたといふことである。その結果どうなるか。ここからは推測であるが、国政への意識はいよいよ低下し、投票率は下がつていくことになるだらう。もの珍しさに浮かれる18歳の投票率は上がつても、20歳で「卒業」となりはしないか。

 学びの主体といふことを前回から考へてゐるが、主体たりえない生徒を「主権者」として見立てるといふことは、学校の問題を社会全体の問題へと拡大してゐるといふことになる。学校には敷地や教室といふ「閉じられた空間」がある。そこにおいて出席や時間割、あるいは服装や持ち物についての「縛り」をかけられる。それらが強制的に生徒を囲むことによつて学びの主体が形成されていく。それが学校モデルである。しかし、主権者として生徒を見立てて(本人の能力・資質に関係なく)、国家が外に連れ出していくことになれば、いよいよ「学び」の主体は形成されにくくなる。それは、言つてみれば政府の都合のよい擬似主権者をこれまでの制度とは関係なく作り出していくといふことになる。つまりは、国家による学校制度の否定である。

 似非の学び、似非の主権者、かういふ存在が作り出されていくのであれば、学校はどうあるべきか。内圧を高くして学びを圧縮して進めていくか(たぶんそれは無理であらうが)、あるいは逆に思ひ切り開いて学びは各個人に任せるかであらう。その結果、各人のインセンティブに基づいて、非常に格差の大きい国民国家が生まれていくことになるだらう。そこまでの見通しがあつて、現政権は政策を立案してゐるのかどうか非常に不安である。

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「学ぶ」といふこと。

2016年05月30日 14時08分36秒 | 受験・学校

 児童や生徒は「学ぶ」主体ではない。ところが「学びの主体」として児童生徒を位置づけてゐるのが、今行はれてゐる教育改革である。

 私も、時々生徒に対して「学びの発動」をいかに起こすかといふ問題提起をすることがある。しかし、その「学びの発動」といふ言葉を使ふとき、やはり意識のうちで生徒を「学びの主体」としてしまつてゐる。しかし、学校といふところは、主体たり得ない児童生徒をいかにして主体にするかといふことが問はれる場所であり、初めから「学びの主体」として児童生徒をとらへ、「学びの発動」を探究するのは間違ひである。

 これを言葉遊びととらへられると困るが、ほとんどの人は、学びの主体を形成しつつ、学びを発動するといふことの意味を理解できないのではないだらうか。

 少なくとも、私はかういふ話を同僚としたことがない。日常で行はれる会話は、

「どうやつたら生徒がこの問題をできるやうになりますかね。」

「演習量を増やせばいいんではないか。」

「いくら考へても分からないといふ場合には、答へを見て覚えてしまへばいいのでせうか。」

「うん。覚えるといふのは解答をではなく、やり方をだよね。」

「はい。さうです。やり方をです。ですが、それで学力はついたといふことになるのでせうか。」

 

 果たして、これで学びは発動したと言へるのだらうか。結構、難しい問題だ。

 しかし、重要なのは、「覚える」といふことによつて学ぶことがあるといふことだ。「学ぶ」といふよりも「真似る」と言つた方が正確だらう。さらに言へば、作業をするといふことである。

 先日眼科に行つた時に、医者にかう言はれた。「利き目はどちらですか」と。

 一瞬、どちらか分からなかつた。だいたい「利き目」といふ言葉がぴんとこなかつた。「利き腕」といふのは右利き、左利きといふ言葉があるやうに、生活に密着してゐるが、利き目といふのは分からず、「右目でせうか」と答へた。すると、医者は、中央に小さな穴のあいた紙片を渡して、「この穴から向かうをのぞいてください」と言つた。いぶかしがりながらものぞいて見た。もちろん、片目でしかのぞけない。

 その通り。まさにその穴からのぞいた目こそ「利き目」である。

 この体験から、学ぶとはかういふことかと思つた。自分の意識で自分の利き目を判断できるやうにすることを学ぶことだと思つてゐたが、さうではなくて、紙片の穴からのぞくといふことを体験することで自分の利き目が分かるといふのが学ぶといふことか。

 となれば、学校や教師は、いかにその体験を充実させるかといふことである。もちろん、これは最近流行のアクティブラーニングといふこととは似て非なるもので、むしろ真逆の受動的な遊動なのである。「驚き」や「躍動」を伴ふ知的な作業である。

 

 

 

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流れを止める人

2016年05月29日 14時27分52秒 | 日記

 教育改革といふことが言はれ、毎週のやうにシンポジウムやらセミナーやらが開かれてゐる。いつたい現状の何が問題で、どういふ必要があつて改革が求められてゐるといふのか。

 曰く、多様化した社会に対応した人材の創出である。

 曰く、グローバル化した社会に貢献できる人材の育成である。

 曰く、情報化した社会に適応した能力を身につけた人材の輩出である。

 いづれも「材」としての人間である。それを人財と言はうが変はりはしない。できあがつた社会の仕組みのなかで、役割を担へる「材料としての人間」をつくるのが「学校」であると言ふことだ。じつは、教育改革の何が問題かと言へば、かうした「教育目標」のあまりに貧弱で低級なものであることにある。

 これで活力ある人間が生まれるだらうか。「私はある程度の能力がありますから、どうぞお使ひください」といふレベルの人間を生み出して社会は活性化するだらうか。学びの主体でない児童生徒に、教科教育を徹底させることの意味は、「社会に即役立つ、ある程度の能力を身につけさせる」ことにはなかつた。役に立つか立たないかといふ次元とは別の次元で、「退屈に打ち勝つ忍耐力を身につける」「可塑性をもつた自分を造り出す経験をする」といふことに集約される。

 したがつて、「嫌でも覚えろ」「考へる前に真似ろ」といふことがそこでの作法であつた。社会に役立つかどうか分からないといふことは、社会がどう変化しても通用する力を身につけることになるといふことである。さうして、そこで身につけた基礎力が、やがて大人になつて学びの主体となつたかつての児童生徒たちが、人財となるべく自らを研鑽していくのである。

 しかし、グローバル化や情報化によつて多様化した社会に対応していくためには、かうしたことが必要ですよといふ技術教育が主流になれば、やがて社会が変はれば、その「技術」は陳腐化し、若い世代との技術格差の温床にすらなりかねない。

 学校といふところは、言はば道路を脳に作り出すところであつて、その道路に何を通すかまでは踏み込んではならない。昨今の教育改革でしきりに言はれるのは、その道路に何を流通させるかといふことではないか。貧弱な道路しかないのに、何を運べるといふのであらうか。さういふ転倒した議論に飛びつきやすいのが、学校教育で成功してきてゐない人であると言ふのも皮肉なことである。

 私が教師であり続ける意志を持続できるとすれば、それはさういふ流行に逆らう人を育てたいといふ思ひがあるかぎりである。

 ある人について誰かが噂を立てる。何も知らない人はそれを聞いて事実であるやうに思ふ。さうして複数の人からその噂を聞くやうになれば、それはいつしか真実になる。その時に、「私はそれを直接確かめてゐないから、信じることはできない」と言へる人、さういふ人になつて欲しい。

 知識教育は、確かに「考へる前に真似ろ」が作法である。しかし、「真似る」に値するものは長年の学問の叡智が造り出したものである。さういふ本物を「真似る」ことによつて、本物でないものは「真似てはならない」といふ作法も身につくはずなのである。

 私の授業が果たしてさういふ作法に則つてゐるかどうかは心許ないが、中年男の胸に秘めた思ひだと笑つて読み飛ばしてもらへれば幸ひである。

 

 

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伊勢神宮で起きた奇蹟

2016年05月27日 08時00分11秒 | 日記

 昨日、八年ぶりに日本でサミットが開催された。名古屋ローカルの放送局は、ここぞとばかりに取り上げてたぶん東京以上に熱心に報道してゐる。滑稽な印象さへある。それほどに地元では一大事なのである。

 しかし、この反応には地元での開催だからといふだけでない重要な意味も読み取ることは可能なのではないかと思はれた。

 日本でのサミットの会場は、東京、沖縄、北海道と場所を移してきたが、今回大阪でも、名古屋でも、横浜でもなく、伊勢を選んだといふことの意味である。伊勢神宮に各国首脳が参拝するところから始まるといふ慶事は、今生きてゐる私たちには捉へきれてゐない内容があるやうな気がする。

 思へば、52年前、大東亜戦争に負け東京裁判で世界から犯罪国家と印された私たちの国に、当時の「世界」から人々が集まり、選手団が国立競技場を周回する前で、昭和天皇が開会宣言を述べた。世界への再参加を象徴する場面であつた。

 そして、今度は伊勢神宮に先進諸国の首脳が集まるのである。形を変えて「大東亜共栄圏の夢」が実現してゐると言へる。広がる経済の苦境を前にして、かつては戦争といふ手段で克服を試みたが、今度はその困難を共に乗り越えることを約束し合ふ。大和魂の拳を強く掲げるのではなく、柔らかい笑顔で挨拶を交はすことによつて実現してゐる。この奇蹟を素直に喜びたい。

 人々は、広島へのオバマ大統領訪問が奇蹟と言つてゐるが、そんなこととは比べものにならないくらゐ伊勢神宮の首脳訪問は大奇蹟なのである。

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反・舛添知事批判

2016年05月26日 10時52分04秒 | 日記

 なんだかすごいことになつてゐる。舛添知事批判の大合唱である。これで、辞任しなければ舛添さんといふ人物は大したものだ。むしろ、知事にしておかないともつたいない。でも、たぶんお辞めになるのだらうな。都民でもない私は、そのことを真剣に考へようといふ気持ちにはなれないが、道徳好きの日本人気質には嫌気が差してゐる。

 先日、産経新聞の「正論」で関西大学東京センター長の竹内洋氏が、「私利私欲に走るのは『姦吏』―舛添氏は指導者として身を正せhttp://www.sankei.com/column/news/160519/clm1605190007-n1.html」といふ文章を書かれてゐた。

 今回の舛添知事批判は、「大衆社会の劣情狙い」ではなく、日本の大衆の原像に理想的指導者像が持続してゐる証であるといふのがその主旨である。それ自体、何の異論はないのであるが、その理想的指導者像が少々「道徳」に傾いてゐるといふのが私の不満なのである。

 有り体に言へば、政治家に必要な第一の資質は、「政治力」である。「いい人」かどうかは二の次である。いい人必ずしもいい政治家ならず。そして、もう少し言へば、「修己」を求められるべきは、政治家だけでなく広く国民一人ひとりである。したがつて、「修己」を政治家に求めてゐるといふ私たちの道徳状況は、じつは国民の道徳意識も舛添レベルであるとといふことに過ぎない。もちろん、高潔でない人は、他者を道徳的に責めてはいけないといふことではない。さうではなくて、自分が高潔でないといふ意識が欠如した他者批判は何も生み出さないといふことである。

 今回の一件で、たとへ舛添氏が知事を辞めて、それでこの種の問題は今後なくなるわけではない。それほどに私たちは非道徳的なのである。さうであれば、かういふ不祥事が今後起きないやうにするための施策の立案と、都知事にやつてほしい具体的な政策を提案した方がいいのではないか。道徳の話は、道徳の次元で話せばいい。舛添氏の「姦吏」具合は、最初から分かつてゐるはずだ。主張はコロコロ変はるし、誠実さがない。だから、、擁護するつもりもさらさらない。しかし、行政担当者として能力があるかないかを論じて欲しいのだ。首都の長としての資質は、私たち国民全体に関はつてゐる。さういふ政治評論が読みたいのである。

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