生徒が卒業し、国公立大学の後期試験の合格発表があと二三日で終はる。これでやうやく忙しかつた一年も終はる。宿題はいくつか残つたので、それはおいおい果たして行くことにして、再び「感想」を書いていくことにしようと思ふ。
再開の手始めに、卒業文集に書いた一文を載せる。
金太郎飴のやうなものだが、今の生徒たちには初めて明確に示したものだ。いつもながら何の反応もないけれども、それはそれでいい。「積読(つんどく)」同様に、「載文(さいぶん・造語です)」しておけばいつか読むこともあらう。
私の読者なら(そんなものゐるか!)、言ひたいことは自明でありますが……
一 はじめ
卒業文集に何を書かうかと思案しましたが、やはり国語の教師としてのお勤めをきちんと最後まで果たさうと思ひ、「表記法」について書くことにしました。
二 なか
君たちは、表記(仮名遣ひ)なんてどうでもいいと思ふかもしれないけれども、じつは大事なことなのです。私たちは国語の中に住んでゐるのですから、その住処をいい加減にするといふことは、自分や他人をいい加減にするといふことになります。言葉は通じればいいと言つてお気楽に過ごしてゐるうちに、しだいに通じなくなつていきます。さうなつてからではもう遅い。大事にすべきことは何がなくても大事にしなくてはなりません。
自分のことを挙げるのは恥づかしいですが、私は自分の名前を「まえだ」ではなく、「まへた」と書きます。それはなぜなのか。単に趣味の問題と思はないでいただきたい。「ま」は「目」のことで、「まつげ」の「ま」と同じ(「まつげ」は「目の毛」といふ意味)です。「行方」は「ゆくへ」と書くやうに「へ」は、方向を表す言葉です。あるいは今でも「東京へ行く」と書くのですから「へ」は方向を表すのだといふ意識は残つてゐます。つまり「まへ」とは、目の向いてゐる方向といふ意味です。その意識があればこそ「まへ」を「まえ」や「めー」にしてはいけないと言へるわけです。「おめーさんにはわかるめーが」。
三 おはり
このやうに、表記には基準があります。それはどの国の言葉でも同じです。「発音に合はせて文字を書いてゐる」のではなく、意味に沿ふやうに表記が生まれたからです。詳細は省きますが、「本」は、「ほん」と読みますが、「本の」「本も」「本が」ではそれぞれ「ほん」の「ん」の音が違つてゐることをみれば明らかです。そして英語でもislandの発音はάɪləndですが、表記にはsが付きます。綴りは発音記号ではないからです。
言葉は過去とつながり、文化を作り出し、現在に生きる人々の癖や趣向によつて分断される力に対抗し、一つの形を維持しながら未来の世界に伝へられていきます。千年前の『源氏物語』や更にその前の『万葉集』が私たちの古典であると言へるのは、それが現代の言葉と同じ日本語だからです。言葉はいつでも過去からやつてくる。根から水分や養分が枝葉に伝はるやうに、国語の淵源につながり、そこから養分を得るからこそ私たちは生きてゐられます。一度は考へてみてほしいことです。