昨日は、終戰記念日。曇りがちの一日だつた。午前中に二時間。午後に二時間半、新聞の切拔きの整理に追はれた。すぐに片附くと思つてゐたが、豫想以上に手間取り、四時間半かかつて五分の四が終了。あと一袋分が殘つてしまつた。
十二時のサイレンが鳴ると思つてゐたら、不思議なことに八月十五日の終戰特輯の記事の束が出て來た。こんなこともあるのだな、と思ひながら默祷。六十六年目の夏に祈りを捧げた。
二〇〇二年八月一六日の「正論」に書かれた阿久悠の文章「きはめて個人的な八月十五日觀」を讀んだ。終戰時、阿久は八歳。その當時を振り返つて、かういふしを作つたことがあるといふ。
戰爭といふ洪水のあと
水たまりが殘つた
水たまりのぼうふらは
泥水の息苦しさよりも
見上げる彼方の
青い青い空を思つた
戰爭といふ夜のあと
子どもの朝が訪れた
「そんなぼうふらに似た八歳の子どもは、今年六十五歳になつた。そして、意識の誕生日としての八月十五日を迎へた。ぼくがこの日を機に考へることは、五十七年の間で積上げて來た歴史觀や倫理ではなく、大膽に率直に八歳の時點に戻り、いくらか迂闊に輕率に始まつてしまつたスタート點の、あらためての檢證を始めることだと思つてゐる。」
そんな阿久はもうゐない。生きてゐれば、七十四歳である。自身を戰後の第一走者と名附け、その當時の若者を第五走者と書いてゐる。その傳でいけば、今の若者は第六走者であらうか。いよいよスタート點がどこにあつたのかが分からずにゐる。もはや歩いてゐるのか、止まつてゐるのか、スタートとは何のことかも分からなくなつてゐる。今日見てきた「コクリコ坂から」はたいへんいい映畫であつたが、自分の出自を知り、古い建物を遺すといふことに登場人物達が幸福を見出して終はつてしまふものであつた。もはや「坂の上の雲」を見るでもなく、坂の上から景色を眺めてゐることしかできないといふ手詰り感をじつによく示してくれてゐた。この映畫の評判の惡さや、映畫館で子どもが眠たさうに觀てゐる姿を見ても、彼等には「スタート點」といふ發想がないことゆゑであると考へると、あつさり納得される。もはや現代の私たちには走つてゐる感覺も歩いてもゐる感覺もないのである、ましてや「第六走者」などといふやうに、バトンを受けとつた感覺はないのだらう(それにしても「コクリコ坂から」の主題歌が「上を向いて歩かう」とは何といふ皮肉か。バトンは受けとれないし、そもそも上を向いたら歩けない! どこへ向かへばいいのか)。現状に滿足しきつてゐるのである。この映畫が面白いと思へる人は、何かこの社會のなかに大事なものがあつて、變へてはいけないものがあるといふことを感じてゐる人であらう。
話を元に戻す。
片付をしてゐると、漱石の『道草』について書かれた切拔きを見つけた。
二〇〇四年六月十二日の記事である。有名な一節「世の中に片附くなんてものは殆どありあしない。一遍起こつた事は何時までも續くのさ」と題された朝日新聞編輯部の浜田奈美さんといふ方の文章である。『道草』は、漱石唯一の自傳小説だから、主人公は漱石だと思つていい。この小説の執筆にも、漱石は相等苦しんだやうで、その時の書き損じた原稿が東北大學の漱石文庫に二百枚近く保存されてゐるといふ。その寫眞が新聞には掲載されてゐるが、それを見ると、インクの飛び散つたあとが血しぶきのやうに見える。「人生は本當に片附くものではないのだらうか」と思つた浜田さんは、『道草』を愛讀する、當時の文化廳長官だつた河合隼雄氏を訪ねて行つた(この人すごいですね。當代隨一の心理學者にカウンセリングを受けに行くのですから。肩書で仕事をしてゐますね)。するとかう答へられたといふ。「そりあ、片附きつこない。ひと山越えてもその先がある。ぼくはよく相談者にさう言ひますよ」。
漱石にも、河合隼雄にも、走者といふ意識はある。しかし、この若い新聞記者にはないのであらう。この浜田さんに、この記事を書かれてから七年が經つて、今讀まれてどう思はれるかといふことと「コクリコ坂から」を觀てゐらしたらその感想とを訊いてみたい。