言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

鷲田清一が選んだ福田恆存の言葉2

2022年01月26日 20時32分35秒 | 評論・評伝

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鷲田清一が選んだ福田恆存の言葉

2022年01月24日 20時40分10秒 | 評論・評伝

 本日、朝日新聞に福田恆存の言葉が載つてゐたらしい。私は朝日を読まないが、友人が教へてくれた。

 

  考へたい言葉だつた。

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福田恆存の昭和43年元旦

2022年01月23日 09時39分33秒 | 評論・評伝

 なぜ43年かといふと、そこには個人的な意味しかない。

 今朝、新聞を読んでゐていろいろと思考を巡らせてゐると、福田先生は私と同じ年に何を書かれてゐたかと思ひ立つて年表を繰つてゐると、それが昭和43年で、元旦の毎日新聞に「知識人とは何か」を書いてゐた。

 縮刷版でその日の新聞を見たことがあるが、一面全面にこの文章が載せられてゐるのである。当時の新聞の何と高尚なこと。それをどれぐらゐの人が読んだのかは分からないが、特別なことではなかつたのではないかと想像される。今さういふことをしようといふ新聞社の編集局員がゐるのかどうか分からないが、あるいは書かせたい人がゐるかどうかも分からない。そして何より、それを読みたいといふ読者がゐるかどうかも心もとない。言つてしまへば、新聞を読むといふ習慣すら、どうやら令和の時代には消失してしまつたのではないかと思ふ。

 私の職場は一応知的な空間ではあるが、新聞の話題など出てきたためしがない。ネットで読んだ断片情報によつて引き寄せられた瞬間的な関心事ばかりである。

 「知識人とは何か」は、かういふ文章で始まつてゐる。

「今日、最も大切な事は、自分達が使つてゐる言葉の徹底的な吟味であります。殊にその言葉が解り切つたものとして平生何心無く使はれてゐる場合、それを自分がどういふ意味で使つてゐるかを改めて意識してみる必要がありませう。」

 といふことで、取り挙げられるのが。民主主義や平和といふのであれば、福田らしいなと思ふが、意外にも言及される第一は、権力・支配といふ言葉であつた。

「原語では秩序維持の責任能力の意味に過ぎなかつたものが、マルクス主義の影響により、いつの間にか『悪しきもの』『暴力』『打倒すべきもの』といふ意識の下に使はれる様になり、権力者、支配者の側でもこの言葉の使用を慎んでゐる様です。」

 なるほど、私たちは権力といふ言葉に「悪しきもの」といふ意味をべつとりと塗り付けてゐる。だれかが責任を取るために、他者に強制力を働かせる。その時の能力のことである。だとすれば、それは悲哀を持つた言葉である。孔子の「民はこれを拠らしむべくして知らしむべからず」とは、まさに権力者の悲哀である。

 次に福田が論じたのが「知識」である。

「元来、知識とは事理を洞察する能力、或は『名僧知識』の場合の様にさういふ能力を持つた人物の意味であつて、決して知識内容そのものを意味する言葉ではありません」と書いてゐる。

 したがつて、知識人といふのは職業ではなく、機能に名付けられたものであるのに、体制、反体制に関はらず、自分の職能の立場から発言すべき存在である。ところが現在は、「自分の職能を差し措いて、世界平和や遠い未来の世界連邦に忠誠を誓つて」ゐる。「自分の利己心を直視し認識出来ず、大義名分や大目標の蔭に小出しにして自己欺瞞を計らうとする偽善、乃至は小心」と批判する。そんなことをするぐらゐなら、「もつと裸のままの利己心を押し出したらどうでせう」と福田は言ふ。それの方がかへつて道徳は頽廃しないとも言ふ。福田の批判の矛先は、いつも自己欺瞞である。人間が利己心を持つことは自然である。しかし、その利己心を大義名分で隠していかにも利己心を押し殺してゐる風にして利己心を用ゐる。その結果「大義名分そのものが利己心に成り下がつてしま」ふことになる。この欺瞞が許せないのである。知識人がすべきは職能に徹し、利己心を押し殺すことである。だから、大義名分などいらない。

 ここで冒頭の言葉を再び引用すれば、「今日、最も大切な事は、自分達が使つてゐる言葉の徹底的な吟味」である。そして「知識とは事理を洞察する能力」のことである。近代とは、秩序崩壊のことである。民主主義によつて万人平等となれば、それは万人による闘争をもたらす。まさに秩序崩壊である。「知識人といふ以上、私は飽くまで秩序の維持者として振舞ふのがその真の役割と考へ」ると福田は言ふ。「といつて、それは何も旧秩序の護教者たれといふ意味では」ない。そもそも旧秩序などといふものすらない。

 相対的な価値を超える価値、それを模索する道を自己の職能を通じて努めて行く事にこそ知識人の役割である、とこの文章の最後に書いてゐる。かうした自己抑制の利いた言論は、果たしてその後生まれただらうか。少なくとも、今日テレビに出てくるコメンテーターは、まつたくその役割を果たしてゐない。政治的発言に終始し、自説の勢力拡大と政府への批判を以てジャーナリズムや評論家であると考へてゐる人が多い。もちろん、「相対的な価値を超える価値の模索」など、本当に知的な営みのみでできるのかどうかは分からない。しかし、少なくとも福田恆存は生涯をかけて、この相対的な価値の問題点を自分の職能を通じて言ひ続けてきたことは事実である。「年表」が示す思想はどんな解説書よりも真実である。57歳でこれを書いてから、26年間その仕事をし続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「朝の読書」への言ひがかり 工藤勇一氏の発言

2022年01月16日 16時13分00秒 | 評論・評伝

 横浜の私立学校の校長をしてゐる工藤勇一氏がツィッターで、次のやうに書いてゐた。

「読解力を伸ばすためには本を読めと言う。じゃあ、そもそも本を読むことが困難なディスレクシアの人たちは読解力が伸ばせないのか?そんなことはない!スピルバーグだってトムクルーズだって人並み外れた読解力をもっている。 学校は朝読書で苦しめられている子どもたちがいることを忘れちゃいけない。」

「読解力を伸ばす」ことと「ディスレクシア」への配慮を同じ土壌で論じてゐる。いちいち目くじらを立てる必要はないのかもしれないが、かういふ混同は教育論ではまま起きることがあるので、少し論じておかうと思ふ。

「読解力を伸ばす」のは、学校教育としての全体目標である。その方法に朝の読書が適切かどうかを論じることは可能であるし、当然すべき事柄である。しかし、その議論のなかで朝読書を批判する理由に「ディスレクシア(知的能力および一般的な理解能力などに特に異常がないにもかかわらず、文字の読み書きに著しい困難を抱える障害であり、学習障害の要因となることがある)」の話題を出すのは不適切である。こちらは個別の問題である。もしさういふ生徒がゐるのであれば、オーディオブックを配置すればよいだけの話である。

 しかし、世の中にはかういふ混同を喜んで受け入れる人々が多い。そして、その混同を主張してゐる方の信者さんたちが進んで受け入れる。それがたいさう気持ちが悪い。件の件で言へば、工藤氏の発言に対して「工藤先生の仰ることに全面的に賛成です」との言が多数寄せられるから、もう見てゐられない。学校教育を担ふ教員といふ種族のあまりの無知にほとほと嫌になつてしまふ。

 これぐらゐの理屈がどうして分からないのだらうか。教師の質は相当に悪いのだらう。文科省もダメなら現場もダメ。あとは、両者が世上のマイノリティであることを祈る。常識的に、読書の価値を信じ、読書の勧めを行ふ人が、メジャーであることを信じる。

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今日から共通テスト

2022年01月15日 13時02分01秒 | 評論・評伝

 昨日の雪に不安があつたが、今日は快晴。受験生を送り出して1日目が始まつた。

 昨日まで入試つて緊張するんですか、なんて言つてゐた生徒が、今朝は聞いてもゐないのに「先生、緊張してます」などと言つてくるから、受験は一大事。それで人生は決まらないのに、決まるかのやうに思ひ込んでゐる。実はその緊張感自体が自分の心を鍛えてくれる。再帰的である。

 歩くといふ動作も道が無ければ成り立たない。水の上は歩けないし、空も歩けない。人生の一大緊張感も受験が無いと成り立たない。

 近代の大仕掛けの再帰性を存分に味はつてこい! 我が愛しの生徒たちよ。

 

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