5日間の春休みを満喫した。
私にとつていい時間を過ごしたと感じるのには、本との出会ひが欠かせない。頁を繰る速度を惜しみ、故意にそれを中断できるやうな本との出会ひがあるときは、私にとつては最高の休みを過ごしてゐるといふときである。
もちろん、それは滅多にあるわけはなく、大概はその本を探すだけに休みの日を消費してしまふ。この春休み、幸せな時間を証拠立ててゐたのは、宮本輝の『約束の冬』である。あらすぢを書く必要を感じないので、ご関心があればネットで探つてほしい。
何に引かれたのかは分からないが、登場人物たちのなかに不快になるやうな存在がゐないといふことがきつとこの物語の魅力であらうと思つてゐたが、この小説には珍しく「あとがき」があつて、そこに作者自身の作品への思ひが記されてゐた。小説にとつてこの「あとがき」は不要なものであるだらうが、読者にとつては不要ではない。
かう書かれてゐる。
「『約束の冬』を書き始める少し前くらいから、私は日本という国の民度がひどく低下していると感じるいくつかの具体的な事例に遭遇することがあった。民度の低下とは、言い換えれば『おとなの幼稚化』ということになるかもしれない。(中略)そこで私は『約束の冬』に、このような人が自分の近くにいてくれればと思える人物だけをばらまいて、あとは彼たち彼女たちが勝手に何らかのドラマを織り成していくであろうという目論見で筆を進めた。」
なるほどさう言ふことかと知らされて、正直に言へば少し醒めてしまふところもあつた。確かに主人公たる上原桂二郎は屹立した存在感を醸してゐる。世間を見下す堅物といふわけでもなく、経営者然とした不遜な感じはない。社員とは一線を画しながら、その成長を見守る中堅企業の社長である。葉巻についての蘊蓄は相当なものであるし、日本社会の上層を覗きながら生きてゐる人の息遣ひが、本当に魅力的に書かれてゐる。小説のところどころに文学やら自然科学やら、あるいは食文化などの教養的ゴシップもさりげなく織り交ぜられてゐて、現代日本の高級な風俗のスケッチは魅力ある。しかしながら、これが宮本輝の描く「おとな」なのかと思ふと、そのあまりにも形象化してしまつた姿に戸惑ひもある。言つてよければ、それは「これが民度の高さ」を示す実像なのか、あるいは「これが成熟したおとな」の実像なのかといふ疑問をかへつて読者に与へてしまひかねない。その意味ではこの「あとがき」は不要だつたかもしれない。この「あとがき」なしに十分に心地よい小説だつたからである。
この小説は産経新聞に連載されてゐたものだと言ふ。そのことも、作者にとつては、この「あとがき」を書かせる誘因になつたのかもしれない。「おとなの幼稚化」を憂いてゐる新聞だからである。
「あとがき」のあとに解説があつた。その筆者が桶谷秀昭であつた。なんといふ組み合はせであらうか。桶谷氏の評論はもうだいぶん読んだはずだが、氏が宮本輝の読者であるとは知らなかつた。この解説があるといふことも、この小説が第一級のものであるといふことを確信させるし、私の読後感を勇気づけてくれたのである。
この春休みは、この本との出会ひと共に、友人たちとの語らひも楽しめた。人を語り、事を語り、思ひを語り、未来を語る。さういふ語らひが大事に思へた春休みであつた。帰りに大阪の家の近所の桜並木を歩いた。花曇りの1日で、花もまだ七分咲きと言つたところだつたが、一年ぶりのこの季節の味はひを楽しめた。長かつた冬がやうやく終はつたといふ気がした。