言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

宮本輝『約束の冬』を読む

2022年03月29日 20時42分14秒 | 本と雑誌

 

 

 5日間の春休みを満喫した。

 私にとつていい時間を過ごしたと感じるのには、本との出会ひが欠かせない。頁を繰る速度を惜しみ、故意にそれを中断できるやうな本との出会ひがあるときは、私にとつては最高の休みを過ごしてゐるといふときである。

 もちろん、それは滅多にあるわけはなく、大概はその本を探すだけに休みの日を消費してしまふ。この春休み、幸せな時間を証拠立ててゐたのは、宮本輝の『約束の冬』である。あらすぢを書く必要を感じないので、ご関心があればネットで探つてほしい。

 何に引かれたのかは分からないが、登場人物たちのなかに不快になるやうな存在がゐないといふことがきつとこの物語の魅力であらうと思つてゐたが、この小説には珍しく「あとがき」があつて、そこに作者自身の作品への思ひが記されてゐた。小説にとつてこの「あとがき」は不要なものであるだらうが、読者にとつては不要ではない。

 かう書かれてゐる。

「『約束の冬』を書き始める少し前くらいから、私は日本という国の民度がひどく低下していると感じるいくつかの具体的な事例に遭遇することがあった。民度の低下とは、言い換えれば『おとなの幼稚化』ということになるかもしれない。(中略)そこで私は『約束の冬』に、このような人が自分の近くにいてくれればと思える人物だけをばらまいて、あとは彼たち彼女たちが勝手に何らかのドラマを織り成していくであろうという目論見で筆を進めた。」

 なるほどさう言ふことかと知らされて、正直に言へば少し醒めてしまふところもあつた。確かに主人公たる上原桂二郎は屹立した存在感を醸してゐる。世間を見下す堅物といふわけでもなく、経営者然とした不遜な感じはない。社員とは一線を画しながら、その成長を見守る中堅企業の社長である。葉巻についての蘊蓄は相当なものであるし、日本社会の上層を覗きながら生きてゐる人の息遣ひが、本当に魅力的に書かれてゐる。小説のところどころに文学やら自然科学やら、あるいは食文化などの教養的ゴシップもさりげなく織り交ぜられてゐて、現代日本の高級な風俗のスケッチは魅力ある。しかしながら、これが宮本輝の描く「おとな」なのかと思ふと、そのあまりにも形象化してしまつた姿に戸惑ひもある。言つてよければ、それは「これが民度の高さ」を示す実像なのか、あるいは「これが成熟したおとな」の実像なのかといふ疑問をかへつて読者に与へてしまひかねない。その意味ではこの「あとがき」は不要だつたかもしれない。この「あとがき」なしに十分に心地よい小説だつたからである。

 この小説は産経新聞に連載されてゐたものだと言ふ。そのことも、作者にとつては、この「あとがき」を書かせる誘因になつたのかもしれない。「おとなの幼稚化」を憂いてゐる新聞だからである。

 「あとがき」のあとに解説があつた。その筆者が桶谷秀昭であつた。なんといふ組み合はせであらうか。桶谷氏の評論はもうだいぶん読んだはずだが、氏が宮本輝の読者であるとは知らなかつた。この解説があるといふことも、この小説が第一級のものであるといふことを確信させるし、私の読後感を勇気づけてくれたのである。

 

 この春休みは、この本との出会ひと共に、友人たちとの語らひも楽しめた。人を語り、事を語り、思ひを語り、未来を語る。さういふ語らひが大事に思へた春休みであつた。帰りに大阪の家の近所の桜並木を歩いた。花曇りの1日で、花もまだ七分咲きと言つたところだつたが、一年ぶりのこの季節の味はひを楽しめた。長かつた冬がやうやく終はつたといふ気がした。

 

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時事評論石川 2022年3月号(第815号)

2022年03月23日 21時37分37秒 | 告知

今号の紹介です。

 1面の「北潮」のキリスト教理解は、少々図式的過ぎる。キリスト教は一元論だから、現代の多元論的社会とは相いれないとは、適切ではない。そして、一元論ではない仏教や神道の方が現代社会に適合的といふのは買ひかぶりであらう。

 キリスト教は一元論であらうか。アダムとエバを造り、エデンの園には命の木と善悪知るの木を造り、ノアの箱舟にはすべての動物のつがひを入れたといふのは、二元的な世界観の表象である。そして、何より人間がゐて初めて神がゐるのである。人間は神の創造物であるとは言へ、その人間がゐなければ神も存在したことにはならない。その世界観が一元的であるはずはない。世界の正しい認識が大事であつて、一元論かどうかは本質ではない。そこには仏教も神道もキリスト教もない。正しく見てゐるかどうかであらう。さうであれば、キリスト教は一元論だから、現代社会に不適合といふのは、誤解である。

 今号は、ウクライナ情勢についての記事が多い。私は、現在のウクライナ情勢は世界が全体主義の誘惑に負けようとしてゐるやうに見える。それは米ソの冷戦時代のやうな明確なイデオロギーの誘惑ではなく、現状への不満の解決を一気に解決してくれることへの期待が広がつてゐるといふことである。現代人の心理に広がつてゐるのは、綺麗に色分けできるやうな対立と緊張で世界が引き裂かれてゐるといふことではなく(現状では反露で集結していくやうに見えてゐるが)、それぞれが期待してゐるものが違ひ、もしかしたらイデオロギーや思考がまつたく違ふ人が隣にゐるといふ不安である。大悪が現れた時に、小悪は隠れてゐるが、実はこの後が本当の闘ひである。

  どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。  1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)
            ●   

プーチン ウクライナ侵攻、何故

  ノンフィクション作家 小滝 透

            ●

コラム 北潮(社会学者C・テイラーの問題点)

            ●

怒ろう! ニッポン人 お役所言葉は、まさに拉致問題の象徴だ

   特定失踪者問題調査会代表・拓殖大学教授 荒木和博

            ●

教育隨想  ロシアのウクライナ侵略の教訓ーウクライナは「明日の我が身」だ(勝)

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「シナ侵略主義」を直視せよ

   元東大教授 酒井信彦

            ●

コラム 眼光
 情報災害(慶)
        
 
            ●
コラム
  ウクライナ侵攻の衝撃(紫)

  スカートの裾を踏み続ける輩たち(石壁)

  最新「教育のカリスマ」の嘘(星)

  弱者天国から弱者地獄へ(梓弓)
           

  ● 問ひ合せ     電   話 076-264-1119    ファックス   076-231-7009

   北国銀行金沢市役所普235247

   発行所 北潮社

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私たちに欠けてゐるもの、なのにそれに気づかないこと。

2022年03月20日 11時00分30秒 | 評論・評伝

 

 

 現在のウクライナの情勢を見てゐて、決定的に私たち日本人に欠けてゐるものを感じる。

 そして、その欠けてゐるといふことに気づいてもゐないやうに思はれる。

 そんなことを漠然と感じてゐたら、つい先日カール・レーヴィット(カルル・レーヴィット)の『ヨーロッパのニヒリズム』を手にすることがあり、それを読んで考へることがあつた。もう何度も読み返してゐる本だが、こんな文章があるのに気が付いた。

「ギリシャ人だけが、最初に生まれたヨーロッパ人として、ブルクハルトの言をかりるならば[四方八方を自由にながめまわすことのできる]「パノラマ式」の眼、世界と自己自身を観る客観的な即物的な眼差、比較し区別することができ、自己を他において認識する眼差を有していた。ギリシャ人の探検家や学者がはじめて、見知らぬものといわず自分自身といわず、ありとあらゆるものに関心を有していて、他物の特性に対するその鋭く明るい認識を、自分自身に対する認識とともどもに関心を有していて、他物の特性に対するその鋭く明るい認識を、自分自身に対する認識とともどもに行なっていた。」

 そして、この直後に「この自由な体得という特性が、私には、日本ではたいていの場合、欠けているように思われる」と記されてゐた。

 まさにその通りであらう。思想と実生活の不一致といふことはこれまでも文学者によつて論じられることがあつた。もちろん、それらを別々のものとして捉へることは間違ひではない。思想通りに生きるべきといふ知行合一がその思想も実生活も極めて貧弱なものにしてしまふ危険性を持つのであれば、思想と実生活とは二元論的に並置してそのバランスを取らうとするなかで一人の人間として生きることは生の成熟であるとは思ふ。しかし、その成熟が言行不一致とどれぐらゐ違ふものであるのかを自覚してゐるかどうか、その差は決定的である。二元論と言行不一致とは似て非なるものであるといふ認識の欠如が私たち日本人の幼稚を招いてゐるのである。それは自由とは真逆の「わがまま」でしかないといふことである。

 レーヴィットの有名な比喩、日本人は二階建ての家に住んでゐる。一階では日本的に考へたり感じたりするのに、二階に上がればプラトンからハイデガーまでヨーロッパの学問が「紐に通した」やうに並べてある。この一階と二階を自由に移動することを「自由」と思つてゐるが、じつはさうではなく、それは単に言行不一致なのであつて、思想が思想として生きてゐない、つまりは「わがまま」でしかないといふことである。真の自由といふものは、思想と実生活との葛藤の中で引き裂かれまいとして生きるところに滲み出て来るものである。

 比喩で言へば、飛行機の玩具で遊んでゐる子供の自由さが私たちの自由であり、飛行機を飛ばすにはどういふ原理でどういふ材質でどういふ形状でどういふ操縦法でどういふ空間がどれぐらいの距離で必要なのかを考へるところに生まれるのが真実の自由である。飛行機の飛ぶ原理など分からずに手で持つて「ビュー」などと擬音語を使つて楽しめばいい。飛行機といふものは「乗る」ものであり、その原理は誰かが発見してくれるだらうと思つてゐるのである。子供ならばそれでいい。しかし、いつまで経つても「子供の自由」しか知らない大人は、やはり幼稚である。近代150年にして「ビュー」と言ひながら手で玩具を振り回して遊んでゐるのが私たちの自画像ではないか。

                      ★

 先日、かういふ話を聴いた。物事の認識は対義語を考へることで広がる。例へば、具体と抽象、普遍と特殊、絶対と相対。ところが、創造に対しては、私たちは「破壊」と答へてしまふ。なぜか。「創造」といふ言葉の和語は「つくる」であるが、その意味は「制作する」「耕す」「料理する」「振る舞ふ」「装ふ」「行ふ」である。「つく」が語源であるので、それは何かの方向を持つた動作を意味する言葉であることが分かる。漢字を使えば、突く、付く、着く、就く、憑く、衝く、点くなどである。したがつて、その対義語は、その方向とは逆の動作といふことになる。引く、去る、戻る、辞める、離れる、消えるなどであらうか。この感覚で言へば、創造の対義語も「破壊」となるのが当然だらう。

 しかし、「創造」の対義語は「模倣」である。同じく「つくる」動作であるが、「生み出す」動作と「真似る」動作の違ひがその本質である。少なくとも西洋的な哲学の思考においては、創造と模倣が対概念になつてゐる。なぜか。それは勘のいい方はお気づきだらうが、造物主の行為が「創造」なのであり、被造物の行為は「模倣」だといふ世界観が「西洋哲学」の深層にあるからである。私たちは、その二階の認識方法が身に染みてゐないから、日常的な生活感情で二階をとらへてしまふ。しかもそれを「自由」とはき違へてゐるのである。crateを「創造」と翻訳すれば、crateの意味が分かつたと思つてしまふ。しかし、じつは「つくる」の理解のままであるのにである。これは自由ではなくて、わがままなのである。二階に並んでゐる本は日本語では書かれてゐないのに、日本語で翻訳すれば分かつたやうな気になつてしまふ。

 一階(日本)と二階(西洋)の不一致に気づかず、二階を理解したと思つてゐる。このことを改めて感じてゐる。

 ウクライナの情勢のどこにそれを感じたのか。それはまた次の機会に記さうと思ふ。

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『学校の「当たり前」をやめてはいけない!』を読む

2022年03月19日 08時33分19秒 | 評論・評伝

 

 

 教育実践家(元教師)で教育評論家でもある諏訪哲二氏の近著である。書名から分かるやうに、工藤勇一氏の著書『学校の「当たり前」をやめた。』を批判した書である。

 私は、工藤の当該書は読んでゐないが、『麹町中学校の型破り校長 非常識な教え』といふ本は読んだ。そこから類推すると、当該書の中身は学校の当たり前として言はれてゐる「宿題」「中間・期末テスト」「頭髪・服装の校則」「固定担任制」、これらを止めたといふ内容であるだらう。そして、それぞれ理由が書かれてゐるのであらう。

 私が読んだ工藤著には、学校とは「人のせいにしない、主体的に課題解決に挑むことができる子。違いを尊重し、地道な対話を通して、合意形成をはかることができる子」を生み出す場所である、といふことが書かれてゐた。

 大人でもできさうもない、これらの目標を、果たして学校が出来るのであらうか。諏訪の主張はそこにある。端的に言へば、「主体的に課題解決に挑む」や「合意形成をはかることができる」前に、主体同士の「合意」はそもそも「主体」自体の形成が問題となる。もちろん、主体が形成されてからでないと「合意」はできないといふことを言つてゐるのではない。主体が育ちながら合意も形成されていくだらうし、合意形成を導きながら各自が主体になつていくのである。しかし、工藤は、主体や合意が学校以前に出来上がつてゐるといふことを前提にしてはゐまいか、といふ疑問を諏訪が突き付けてゐるのである。

 工藤には工藤の主張があるだらうし、できれば互ひに論争をしてもらひたいものだが、私は諏訪に軍配を上げる。なぜなら、子供には自己言及性といふものが働くのであつて、例へば、中間・期末テストを止めて、単元テストを年10回やることにしたといふ制度に乗るか乗らないかは子供自身の選択領域であるからだ。固定担任制を止めても、宿題を止めても、頭髪服装の校則を廃止しても同じことで、それがどう主体を育てることになるのかは分からない。

 工藤は、目的と手段を逆にしてはならないと言ふ。学力で言へば、中間・期末テストは手段であつて、学力がつくのであれば廃止してもよいといふ考へだ。それはその通りである。では、その理屈で言へば、単元テストにするかしないかも手段の問題であつて、どうしてその方が正しくて従来の「当たり前」が間違つてゐるのかといふことの判断には、「目的と手段を逆にしてはならない」といふ概念は役立たない。

 つまりは、工藤は工藤のやり方をしたかつた。そしてそれが目新しいので脚光を浴びたといふことである。

 教育は成果である。だから、さういふ「脚光を浴びる」ことで、生徒や保護者からの信頼を集め成果を上げるといふことがこの問題の本質であらう。

 となれば、学校は「当たり前」をやり続けるか、その「当たり前」を批判する或るカリスマの「当たり前」を実行するか、の二つに一つであらう。

 もうすでに麹町中学校には工藤はゐない。これから数年後に、その学校が工藤の当たり前を継続してゐるのか、従前の当たり前に戻つてゐるのか、それを見れば、結論は明確になる。

 

 

 

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白石一文『ほかならぬ人へ』を読む。

2022年03月10日 14時46分02秒 | 本と雑誌

 

 

 最近読む小説は白石一文一択である。『一瞬の光』の印象がそれほど深く、余韻が残つてゐるからだ。

 本作は、直木賞受賞作である。二つの小説で成り立つてゐる。

 一つは青年の話。大事な女性との出会ひと別れが書かれてゐる。ここで終はるのかといふ終はり方が残念だつた。もつと先があるだらう。

 もう一つは、若き女性の話。結婚が決まつてゐるにも関はらず、別の男にひかれ関係を持ち続ける。そして、その男は結婚式の前日に姿を消していく。もつと早く別れればよいのにと思ふ。

「愛の本質に挑む純粋な恋愛小説」と帯に書かれてゐるが、ふざけるなといふ感想しか抱かない。これは愛の本質でも純粋な恋愛小説でもない。もしこの評言を作者自身が使つたのだとしたら、それはひどいとしか言ひやうがない。

 ここにあるのは度し難い人間の欲であり、その欲が不安による防衛反応であるといふことだらう。人の心の欠落を埋めるのが人とのつながりでしかない。しかし、そのつながりも所詮死や別れによつて切断されるものでしかない。その自然を描いたものである。

 かういふ不安を生きていくのが私たち現代日本人である、それを執拗に描くのが白石一文といふ作家である。いまの私はさう考へてゐる。

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