言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

もうひとりのシェイクスピア

2013年07月29日 15時00分21秒 | 日記・エッセイ・コラム

もうひとりのシェイクスピア [Blu-ray]
もうひとりのシェイクスピア [Blu-ray]
価格:¥ 4,935(税込)
発売日:2013-06-04
 いい映画を見た。話は隨分と複雜で、筋をすべて理解したなんてとてもではないが言へないが、樂しめた。

   もちろん樂しめたと言つても、娯樂映畫ではない。エリザベス朝の人物が次から次と出て來て、それぞれの若い頃と現在とが違ふ役者によつて演じられるし、その人物同士が權力鬪爭の中で飜弄されていく展開は、頭を使ふ。ほとんど豫備知識のない者には、物語を追はうといふ氣持を削がれさうになる。だが、そんなことはお構ひなしで、臺詞と映像との魅力にひかれていけば、十分に堪能出來た。

   400年前のイギリスで、シェイクスピアはどうしてあれほどの、人情の機微や王室の複雜な人間模樣を描けたのか、古來、その不思議にいろいろな説が唱へられた。その一つの説である、シェイクスピア別人説が、この映畫の骨子である。「もうひとりの」とあるのは、同姓同名の人がもう一人ゐたといふことではなく、實作者が別の人にシェイクスピアを名乘らせたといふ説である。

  129分、長いとは感じない。日本語の吹き替へもないから、英語のできない私は日本語の字幕を追つていくばかりだが、まつたく疲れることはなかつた。映畫館で觀たかつたが、興業的にあたるはずもなく、數少ない上映館ときはめて短い上映期間であつたので、DVDで觀た。ブルーレイの映像を御薦めする。

  豫習するなら、福田逸譯『エリザベスとエセックス』を。

エリザベスとエセックス―王冠と恋 (中公文庫)

エリザベスとエセックス エリザベスとエセックス
価格:(税込)
発売日:2012-10-05

  もう一言

  あれらの戲曲をどうして書かうとしたのか。あるいは、人の心を掴む言葉といふものはどういふ時に生み出されるものなのであらうか。さういふことを考へさせてくれた。觀てゐる側の心にさう問掛け、それについて思ひを巡らせてくれる至福の時間を與へてくれたこの映畫は、じつによい映畫だつた。

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時事評論石川 7月号

2013年07月19日 21時49分19秒 | 日記・エッセイ・コラム

○時事評論の最新號の目次を以下に記します。どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)

                 ●

   7月號が発刊された。

  今年の夏は、暑い。寒さがいつまでも残つてゐたから、夏は夏らしくなるだらうと素人考へで予想してゐたが、その通りになつた。

 ニュースで見かける政治家の顔が真つ黒になつて、夏が一層暑苦しくなつてゐる。いやはやほんたうにお疲れ様である。国の政治を司つてくださる方々が、あれほどに頭を下げなければならないといふのは、なんだか頷けない。淡々と政治の理念と政策を語るのではだめなのだらうか。政治家をいたづらに奉るのもどうかと思ふが、あまりに軽率に論じ、揶揄するのもどうかと思ふ。国民が立派でない以上、政治家が立派になれるはずがない。そんなこと自分のうちを覗けば明確ではないか。自分を磨かうとしない国民に、愚か者!と一喝するやうな政治家が出てきてほしい。なんだか言葉だけ丁寧で、へりくだるだけの姿勢には、私は誠実さを感じない。国民が主権者だといふのなら、その主権者こそ最も堕落腐敗しやすいのではないか。さういふ当たり前のことを自覚しないで、主権者だと威張り腐つてゐる国民からは、一級の政治家は出ないでせうね。だから、私は安倍さんを信じない。気の毒だとさへ思ふ。それでも国民を叱りつける気概が出てくれば、本気で応援します。その試金石となることは、間もなく訪れる。もちろん、選挙ではありませんよ。

 一面は、橋下発言についてである。歴史用語の英訳には、かなりの意図的なズラシがあるといふことだ。慰安婦といふ言葉も誤魔化しであるが、その英訳はひどい。ただ、当時において彼女たちは何と呼ばれてゐたのか、ほんたうのところを知りたい。女郎、娼妓、遊女、あるいは本当に慰安婦なのだらうか。英訳の問題と共に、どう呼んでゐたのかは歴史家は示すべきであらう。

 3面「この世が舞台」は、幸田露伴の『ひげ男』である。「眞實の大丈夫たらんと冀(こひねが)ふ」武士の生き方を記したこの作品に、心が引き締められる。露伴は遠いが、讀むことを諦めてはなるまい。

              ☆        ☆    ☆

日本だけが断罪される道を開く

 

「橋下慰安婦発言」が残したもの――史実と合致している、していないの問題ではない

      ジャーナリスト  伊藤 要

● 

参院選 憲法改正への序章

         拓殖大学客員教授  潮 匡人

教育隨想       

      安倍首相よ、獅子身中の虫を一掃せよ! (勝)

この世が舞臺

     「ひげ男」幸田露伴                              

                     圭書房主宰   留守晴夫

コラム

        野党・労組に求められるSEIモデル  (菊)

        一貫性の重み (石壁)

        悪事千里を走る(星)

        政府は秩序を生まない(騎士)   

   ●      

  問ひ合せ

電話076-264-1119     ファックス  076-231-7009

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『真夏の方程式』と『蜩ノ記』

2013年07月08日 22時05分36秒 | 日記・エッセイ・コラム

 二つのタイトルには何の関係もない。ただ、一昨日、映画を見、今日、本を読了したといふことである。

真夏の方程式 (文春文庫) 真夏の方程式 (文春文庫)
価格:¥ 720(税込)
発売日:2013-05-10

 ガリレオの映画は、別にガリレオでなくてもよい映画であつた。物理学者がたまたま出かけた場所で起きた殺人事件なのである。警察が捜査すればいい。刑事物としての出来はよく分からないが、ガリレオが出てこなければ、ヒットすることはなかつただらう。そして何より、罪を抱へて人間が生きるといふことは、何も犯罪を隠して生きるといふことではあるまい。罪の観念の貧困さだけが印象に残る。人間の罪といふものは、もつと日常の些事の中に潜んでゐるものである。

蜩ノ記 蜩ノ記
価格:¥ 1,680(税込)
発売日:2011-10-26

 『蜩ノ記』(ヒグラシノキ)は、歴史小説が苦手の私にも辛うじて読めた。文章がきれいである。武士の生き方の清清しさは極めて鮮明に伝はつてくるが、説明的でも説教調でもない。主人公の言葉、所作、生活の描き方から感じられた。葉室麟といふ人の書き方は新鮮であつた(次に引用した部分は、上記の例ではありません。念のため)。

「ひとは心の果たされるところに向かって生きているのだ、と思うようになった。心の向かうところが志であり、それが果たされるのであれば、命を絶たれることも恐ろしくはない。」(289頁)

  生きて志を果たすしぶとさが、もし私たちの武士の歴史にあれば、私たちの歴史も変はつてゐたであらう。さうなれば、日本人ではないとも言はれさうだが、死を恐れない高潔な心と、何としてでも志を実現するといふ執念とを合はせ持つ生き方を記した小説を讀みたい。

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田舎者

2013年07月01日 22時07分52秒 | 日記・エッセイ・コラム

 先日、家内の実家に帰ることがあつた。携帯電話の充電器が欲しいと言ふので、全国チェーンの電気店に電話をして、これこれの充電器はあるかと問ひ合はせ、ありますとのことだつたので、翌日出かけた。

 開店が十時半といふことを調べずに行つたので、十時過ぎに着いたがしばらく待つた。時計を見ながら店員さんがガラスの自動ドアの向かうで立つてゐる。きちつとしてゐるなと思ひながらも、そんな杓子定規にしないでもといふ勝手な消費者マインドがムクムクと湧いてきた。お店にはお店の事情があるのだらう、開店前に入店させたお客がすぐに商品を購入し、開店時間前にレジを通すことになると、もしかしたら大変なことになるのかもしれない。それはお気の毒なことだし、そもそも開店時間を調べずに来たこちらの不手際であるのだから、ここは黙つて従ふしかなかつた。

  ところがだ。携帯電話の充電器はありますかと売り場の人に訊くと、それはありませんと即答。昨日聞いたことを話すと無言で私を当該商品のある所まで連れて行き、これとこれをご購入いただくと、純正の充電器と同じものになりますとのことだつた。私に手渡された選択は、買ふか買はないかである。何か不快な気分であつたが、買ふしかない。わざわざレンタカーを借りてやつて来たお店である。帰るわけには行かない。少し荒い溜息をついてレジに持つて行つた。

  妙に元気のいいお姉さんであつた。他にお客はゐなかつたから、すぐにレジを通してもらふと、いくらいくらですとのこと。代金を払ひ、おつりをもらふ時に、「どちらかに保証書が出てきました」の一言。これには腹が立つた。「どちらかにとはどういふことですか」。「二つしか商品がないのだから、それぐらゐチェックして、こちらの商品には保証書が付きますと言つたらどうか」。

  驚いた顔をしたので、さらに仰天した。何を言つてゐるのかといふ顔をされたからである。もうやめた。彼女は、かういふ接客をずつとして来たのであらう。そして、ここではそれで十分通用するのであらう。

 私もかつてここで六年間過ごしたことがあるから、なるほどかうだつたなと思ひ出した。「どうでもいい。」「適当にやればいい。」といふのが、その土地の言葉であつた。結局、その風土に馴染めずに、その地を離れたが、久しぶりにその感覚を思ひ出した。

 田舎なのである。それは悪口ではない。私自身は好きではないが、さういふざつくりとした雰囲気が、心を緩ませ、精神の安定に役立つ時もあるだらう。かつて、福田恆存が竹内好に「田舎者」と言つたことがあつたが(「現代的状況と知識人の責任」)、やはり当地は田舎であるといふことだ。それは商品などあればいい、保証書などついてゐればいい、といふことなのである。客がどう思ひ、自分が接客をどう演技するかなどといふことは、最初から視野にない。さういふことである。最初に自動ドアの前に立つてゐた青年店員は、全国一律のルールで行動してゐたのであらうが、それもまたルールを客に見せつけたといふ意味で、ルールと自我との距離を失つた田舎者の行動といふこともできよう。

 福田恆存は、竹内好に比して自分を「都会人」と言つたが、それは理想と現実との間合ひをうまく取らうとしたといふ意味であらう。

コメント (2)
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