11月16日から上演。東京のみの公演。じつに残念である。
古文を讀む時に、現代の音に近い形で讀むといふことをする。例へば、「今は昔、竹取の翁といふものありけり。」とあれば、「いまはむかし、たけとりのおきなというものありけり。」とする。どうして「いふものありけり」と讀んではいけないのか、じつを言ふと分からない。もちろん、「じつを言ふと分からない」と書いてはゐても「じつを言うと分からない」と発音せよとされてゐる。しかし、古文の場合にはその文字の通りに発音してもいいではないか。私はサウオモウ。それでゐて「月日は百代の過客にして」は「つきひはひゃくたいのかかくにして」と当時の発音で讀めといふのも矛盾してゐる。「ツキヒハヒャクダイノカキャクニシテ」でいけないのは、字音語は當時の讀みを基準とするといふことなのかもしれないが、一つの文章のなかで、字音と假名とで讀み方を變へるといふのも何だかへんだ。現代の學校教育における古文の扱ひの疑問の第一は、まづここにある。
次に疑問なのが、少少煩雜でなるが、歴史的假名遣ひの「あう」または「あふ」は、「おう」と讀むと教へてゐることについてである。
例へば、「仕うまつるべき人人、皆難波まで御送りしけり。」とあれば、「つこうまつるべきひとびと、云云」と讀む。「tukau」は「tukou」と讀むべきだといふからだ。
例へば、の2。「行かふ年もまた旅人なり。」とあれば、「ゆきこうとしもまたたびびとなり。」と讀む。「yukikafu」は「yukikou」と讀むべきだといふのだ。
ところが「答ふ」は「ことう」と讀むことはあまりない。「こたう」に近い。なぜなのか。分からない。
案外、理由は簡單なのかもしれないが、今の時點でそれが分からない。どなたか御教示いただければ幸ひである。
古文は、音讀が大事である。しかし、その讀み方については結構惱みが多い。
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「反時代的考察」などといふ大仰な見出しで、現代社會論を書かせてもらつた。ここ二三年、ずつと私は「待つしかない」といふ思ひで現状を眺めてゐる。「眺めてゐる」と書けば、ずゐぶんと無責任な言ひかたになるが、さうするしかないといふ思ひである。前首相にたいしてもその行動には我慢がならないといふ感情は私も共有してゐるが、民主黨に一票投じた責任をいやでも痛感すべきと考へることのはうが、民主主義といふものの愚かさの學習につながると考へて、我慢してゐた。じつに愚かなことであつた。
そして、このやうにして大東亞戰爭といふものも起きたのだらうと考へるやうになつた。意志の力で惡事が起きないのが私たちの社會である。良かれと思つて策を講じると、大惡を招く。それを歴史の力と表してもよいだらうが、それが私たちの國柄である。
かうした時代状況のなかで、保守主義者は何を語るべきか。それを書いたのが本稿である。
私はこの夏、エリオットの詩を愛讀してゐた。英語が出來ないのでもつぱら日本語譯であるが、以前にもこの欄で觸れた「うつろな人間」は原詩も讀んでみた。そんな最中に、どぜうの詩に人生を託す我國の總理大臣の誕生を聞き、その貧困さが身に沁みた。
エリオットの精神こそが社會や歴史を動かす「支點」になるだらうと考へた。
それから、連載二囘目の留守先生の「この世が舞臺」が面白い。「いちご寒」とは、日本にはない言葉であるが、「花冷え」などと同じ言葉であらう。このR・P・ウォーレンの小説を紹介しながら、「經驗の世界」と眞に對峙しない私たち日本人、といふ指摘はいつもながら刺戟的であつた。さうなのである。
歴史は誰が作るのか――反時代的考察
文藝評論家 前田嘉則
元兇は「小選擧區比例代表竝立制」
―政界再編可能な「中選擧區制」に改善せよ〈上〉―
政治評論家 伊藤達美
教育隨想
育鵬社教科書の大躍進と、その波及效果 (勝)
サイバー攻撃と安全保障
―「專守防衞」政策では對應できぬ攻撃手法―
大阪國際大學准教授 安保克也
この世が舞臺
「いちご寒」
圭書房主宰 留守晴夫
コラム
金メッキ人事 (菊)
讀間違ひの意味 (柴田裕三)
「セールスマン」の妻の死(星)
教科書採擇の季節(蝶)
問ひ合せ
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国語問題論争史 価格:¥ 5,040(税込) 発売日:2005-01 |
10代の若者では74%が「來れる」派だと言ふ。なるほど、それで「勝負が見えてきた」といふのである。なんとも愚かなことだ。「來られる」といふ人にとつては、「來れる」は間違ひだと認識されるのであるから、いつまで經つても勝負はつかない。だいたい、言葉における勝負とは何を言ひたいのであらうか。「來れる」派と「來られる」派との對決とは、政治でも經濟でも、今日の原發にたいする見解でも何でも勝負事にしてみたい、自稱「平和主義」社の朝日新聞らしい物言ひである。
いつまで經つても、「來られる」を使ふ人は、使ふ。それが言葉の自然である。
部屋を掃除するのが好きな人の割合を10代の若者に調べてみればいい。9割の者が「嫌ひ」と答へるだらう。それで、勝負はついた。「部屋をきれいにする時代は終はつた」と報道するのが滑稽であるやうに、この度の報道も實に滑稽である。言葉は、使ふ主體がどう思ふかで、それは國語の在り方と別の話である。
八年ぶりの長編小説だと言ふ。面白かつた。財界人のトップにたいする雜誌記者のインタビュー形式の音樂談義。ふとしたことで知りあつた弦樂四重奏團が、あれよあれよといふ間に有名になる。この四人といふ人數は、人間關係を複雜にするやうで(もちろん、藝術家は一人でも氣難しいのでせうが)、その人間模樣を財界人が語るといふもの。
「持ち重り」といふ言葉は、私には馴染まないし、意味のよく分からない言葉であるが、何か丸谷氏には意圖があるのかもしれない。ジョイスの飜譯者であるといふ知識が、裏讀みを求めてしまふ。
この言葉が出てくる場面は切ない。人間關係がもつれてゐる四人が一つの薔薇の花束を持つ。その厄介さを「持ち重り」と表現してゐるのだ。
八十六歳の作家が書いた新作である。正直たいへんな勞作であると思ふ。筆力が落ちたとか今までにない柄の小さな小説だとかとの批判はあるかもしれないが、これだけの小説を書くための集中力の高さに感動する。ただ、單行本にする前に雜誌で發表したのはなぜだらう。そのことだけが疑問である。
それにしても、今囘の『新潮』は面白かつた。買つて損は全くない。
追記 「薔薇」の「薇」といふ字が、一般の字とは違つてゐて、一畫少ないのだが、それも何かの仕掛けだらうか。