言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

時事評論石川 2023年11月20日(第835)号

2023年11月29日 09時56分08秒 | 評論・評伝
今号の紹介です。
 
 性的マイノリティへの理解増進法を巡る自民党の迷走ぶりを的確に批判した一面の島田洋一氏の論考に賛同する。性は身体に基づく、これが倫理である。自身の性と身体とに違和感を表明することも倫理的行為である。そして、その苦悩を他者が理解しようとすることもまた倫理である。
 しかし、性同一性障碍者が性別変更を求めた際には「生殖腺」の切除を求めたことは違憲であるとした最高裁の判決は不当である。性自認を当該個人の「心理」だけを根拠としては、過去と現在と未来との当該個人の心理さへ不安定であるのに、ましてや他者には想像できない個人の内部に対して当該者の性別の判断など到底不可能だ。
 困りましたね。四年前までは合憲とされてゐた判断が、たつた四年で違憲になるとは。

 ご関心がありましたら御購讀ください。  1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)
            ●   
性別変更条件緩和 タマゲタ最高裁判決
   福井県立大学名誉教授 島田洋一
            ●
コラム 北潮(何すべく生き来しわれか薪割る)
            ●
ガザ戦闘の宗教、思想的状況   ハマスのイスラエル侵攻
   ノンフィクション作家 小滝 透
            ●
教育隨想  慰安婦像撤去なしに、日韓関係の改善はない(勝)
             ●
「日本」を愛し、「日本」に依拠する
  一「反〇〇」式言論からの脱却ー
   元論壇チャンネル「ことのは」副編集長  今西宏之
            ●
コラム 眼光
   自縄自縛の岸田政権(慶)
        
            ●
コラム
  拉致問題の背景には戦後日本の弱点がある(紫)
  故人礼賛余りの勇み足を憂う(石壁)
  最近の左派に思うこと(長谷)
  あらまほしき保守(梓弓)
           
  ● 問ひ合せ     電   話 076-264-1119    ファックス   076-231-7009
   北国銀行金沢市役所普235247
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河合隼雄・茂木健一郎『こころと脳の対話』を読む

2023年11月19日 12時23分04秒 | 評論・評伝
 
 臨床心理学者と脳科学者との対談のやうであるが、実際には後者による前者へのインタビューといふ形式である。
 脳についての実践家と科学者と言つてもいいだらうか。ただ、注意が必要なのは、共に分からないことを巡つてのアプローチの仕方が異なつてゐるといふだけで、実践と科学とが相容れないものであるといふわけではないといふことだ。むしろ「分からない」といふことを大切にしてゐるといふ点で2人は共通してゐる。

 河合の言葉を拾ふ。
「全体をアプリシェイト(味わう)することが大事であって、インタープリット(解釈)する必要はない」
「ここで大事なのは、『ここまで行った』『あそこまで行った』というのは科学的、論理的にうまいこといったんやない。それは、先生とその子との関係性で行われていた、ということなんです。」
「話の内容と、こっちの疲れの度合いの乖離がひどい場合は、相手の症状は深い」
「それが、僕がいまいっている、僕がやりたがってることなんですよ。その人を本当に動かしている根本の『魂』ーーこれと僕は勝負している。」

 対象を分析しない。関係性を尊重する。河合隼雄が大切にしてきたことはこの2つではないか。もつと言えば、関係性の尊重のみであらう。ただそれはかなり難しいことだ。分析して、説明して、それで解決したと思つてしまひやすい。外科医の治療モデルで心を扱つてはいけないといふことである。

 ところで、私はいま何度目かの『こころ』(漱石)の授業をやつてゐる。先日、ある生徒から「なんで『こころ』つていふタイトルなんですか」といふ質問を受けた。そんなもん分かるか、といふのが正直なところだけれども、登場人物、先生とKとお嬢さんと、彼らの織りなす出来事を聞いてゐる(実際には読んでゐる)青年とを動かしてゐるのは、関係性である。それぞれが自分の意志で行動してゐるやうに書かれてゐるが、読む私たちは彼らの関係性に注目していく。それらを表象する言葉としては「こころ」なんではないか、私はさう思つてゐる。

 河合隼雄は、漱石の『こころ』について書いてゐるのだらうか。どなたかご存じであればお聞かせ願ひたい。
コメント (4)
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ポケットに一年前のマスクあり

2023年11月15日 08時56分31秒 | 評論・評伝
 急に寒くなつた。
 
 ついこの間まで、夏用のスーツを着てゐたが、先日冬のジャケットを出して着、ポケットに手を突つ込むと何やら入つてゐた。慌てて取り出すとそれは一年前に使つたままのマスクであつた。それを見ると一気に一年前が思ひ出された。
 
 まだまだ感染症の2類対策に追はれてゐた昨年の冬。暖房をかけながら窓を開け、休み時間ごとに窓を開け放ち、「寒い」「寒い」と叫ぶ生徒らを見て見ぬふりをして教卓に戻ると、既に窓は誰かの手によつて閉められてゐた。やれやれとの思ひが込み上げて「それでも窓は開けないと」と独り言ちて授業を始めた。そんな時間を、くしやくしやになつたマスクの残骸が記録してゐるやうだつた。
 彼らはもう卒業してゐない。どうしてゐるだらうか。

 ポケットに隠れ潜めしマスクかな
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橘玲『世界はなぜ地獄になるのか』

2023年11月12日 21時18分42秒 | 評論・評伝
 
 なんと不愉快な書名であるか。
 それなのにそれを読んだ私がゐる。この著者の本は何冊か読んだが、読者を絶望的な気分にさせる力がある。それなのに読ませる。
 それが筆力なのであらう。頭がよく、論点が綺麗に整理されてゐて、術語を駆使して問題の根本を抉り出してゐる(やうだ)。しかし、謙遜ではなしに頭の悪い私には途中でなんのことやらさつぱり分からなくなる。だから10月8日に購入しその日に読み始めたはずだが、1ヶ月以上かかつてしまつた。
 話題が次々に変はつていく書き方も好きではない。しかし、最後まで読んでみた。何も解決法は書かれてゐない。しかし、納得できたことがあつた。それは特に中途半端に金持ちで教養があると自分で思つてゐる連中がひどくこの世界を呪つてゐて、自分より幸福さうに見える人人を見つけては彼らを攻撃しようとしてゐるといふ見立てである。それらは社会の一部に違ひないのだけれども、SNSの機能によつて前景化してゐるから、社会の全体がさうであるに違ひないといふ信憑を生み出してゐるといふ現代世界人の心象風景である。
 今日の統一教会問題もきつといつかは「憑依されてゐた世論」として記録されることだらう。宮根やら紀藤やらエイトやらにどうしたら信を置けるのか私にはさつぱり分からない。金儲けの種として取り上げてゐるだけだからである。他人の地獄を「かはいさうに」と言つて同情できる人物とは、きつと自分は天国にゐると安心しきつてゐる連中である。
 自分より不幸な連中には同情し、自分より幸福な連中には攻撃的になる。まさに地獄だらう。
 橘は、かういふ地獄社会でどうすれば良いのかといふ問ひにたいして、「天国はすでにここにある」といふイエスの言葉を、さうとは示さずに記してゐるが、それは見当違ひであらう。イエスはかうも言つてゐる。「私は平和をもたらしに来たと思ふな。剣を投じるために来たのだ」と。
 かういふ地獄社会を作り出すキャンセルカルチャーの輩にはつきりと剣を投じるのが言論人の使命であらう。そんな言論人がゐないのが地獄なのである。
 ここは地獄だよつと叙述することも言論人の役割であるが、それだけではどうもね。だから、絶望的な気分になるのである。

 さういふお前はどうなんだと言はれれば、舌を出して逃げるだけ。耳にはトカトントンと聞こえてゐるだけ。ゼウスの声に耳を傾けてゐるだけ。
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白石一文『道』を読む

2023年11月08日 10時58分04秒 | 評論・評伝
 
 いい小説に出会ふ時間は幸福だ。さういふ小説に出会ふ確率を求めるとどうしても贔屓の作家が出来てしまふ。
 それは服にしても、食事にしても、同じことが言へて、「失敗したくない」といふ思ふが強くなるといふのが、畢竟するに「老い」といふことなのだらう。
 偶然を頼りにひたすら読み散らかすといふ読書生活をした時期もわづかにあるが、私は同じ作家を読む。それも気に入れば何度も同じ作品を読む。といふの
がどうやら私の読書生活の傾向らしい。
 それで、白石一文の文庫になつたばかりの小説を読んだ。デビュー作『一瞬の光』を読んでから、贔屓の作家になつてゐる。
 文庫にして700頁もある。しかし、読み終へるのが残念でたまらなかつた。
 あらすぢは、ニコラ・ド・スタールの「道」といふ絵(文庫の表紙にはその絵があしらはれてゐる)によつて過去に行けることをある出来事に知つた主人公が、自分の人生においてやり直しを幾度か繰り返すことが主筋。ご都合主義による物語の平板化を防いだのが、作者白石の腕の見せどころ。白石には、この世とは別の世界があるとの確信、それは宗教的なセンスといつてもよいだらうが、さういふものがあつて、作品にそれが滲み出てゐる。魂の永遠性を表現するには、死を相対化する必要がある。それを現代日本人に伝へるのは、タイムトラベルの趣向が相応しいと考へたのだらうか。
 「前の世界」と「今の世界」とは少々違ひがあつて、それを「ズレ」と記してゐるが、その「ズレ」があるといふことは、そこを生きる同一人物にも「ズレ」があるわけで、それこそが永遠性を示し得る証であるとはすぐに納得できるわけではないが、この世界の多重性については違和感はない。
 一日を生きてゐる私には私の意識が貫いてゐると「確信」し、一般にそれを「アイデンティティ」と称するのが、近代の発想であるが、それを本当にさうかといふ疑問を持ち始めたのが現代である。
 昔の人は、人格の統一性などといふことを夢想にもせず、憑依だとか化け物だとかといふ言葉で「多重性」を表現した。その上で、仕来りを重んじ、しばりつける制度を整へやうと努力したのであつた。
 しかし、今や何もかも人格や個性に行動の基点を求め、「私」とは「私」であるとの信憑にとらはれてゐるが、それは疑つてみてはどうだらうか。
 ニコラ・ド・スタールの「道」は三本の道が描かれてゐるが、現代人は、真ん中だけが道で、両脇は道ではないと思つてゐる。つまり、道は一本だと信じ込んでゐるのである。白石は、それを三本の道ととらへた。そこが慧眼である。
 そして、この小説は左側の黒い道を選んだ男の物語である。私にはそれだけで、十分に魅力的な小説であつた。
 
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