前囘御紹介した文章(全集第三卷「覺書」)を、福田恆存が記したのは、昭和六十二年の春頃だらうか。だとすれば、七十六歳である。その年の一月には「東海大學大磯病院に一週間入院」と年譜にある。さう思つて讀むと、國語について思ひをめぐらす福田の感慨が滲み出て來るのを感じる。國語がいろいろな時代のいろいろな人々によつて使はれながら亂れてしまひがちになるが、そのたびに「言葉の法」がそれらを防ぎ、國語の傳統を守つてきた。國語の傳統とは、「言葉は生き物である」などといふ俗耳に入りやすい言葉で表現されるやうな勝手氣ままな人々の生活の果てに出來上がるものではなく、心ある人々の努力と意識と、そして何よりも言葉の法の力とが築き上げたものなのである、そのことを福田恆存は改めて感じ取つてゐるやうに思はれる。
「僕がいかに粗忽といへども、學問の衰頽と漢字の制限とをそのまま同一視しようとするものではない。(中略)また山本有三氏の思ひつきにしたがつて、かなばかりを珍重するにはおよばない。かなが假名でないごとく漢字かならずしも支那の文字ではない。それほど『漢』の一字にこだはらずにゐられぬとならば、――僕はさういふ形式主義者をこころからあはれむものであるが――『肝』とでも『勘』とでもあらためたらよいのである。(中略)文章の世界においてはことばは單なる傳達の具ではないことをくりかへし強調したい。/「水を呉れ」と「水をくれ」と「みづをくれ」ではちがふのである。「山嶺」と書くべきときもあり、『やまのいただき』と書きたいときもある」
「漢字恐怖症を排す」と題された論文の一節である。昭和十七年の「新文學」八月號に書かれた本文は、全集にして七頁ほど(二段組であるが)のものである。福田の初期の文章は、氏自身も囘想するやうに、どうにも論理が複雜言ふ必要をあまり感じない展開が記されてゐてかへつて主張がぼやけてしまふきらひがある。いろいろと言ひたいことがあつて、それらをすべて書くには紙幅が足りず、かと言つて書きたい事柄を減らすこともできず、あちこちと寄り道しながら、目的を目指すといつた感じである。
いま引用した文章の「中略」のところは、私には「味はひ」があるが、それを省いたのは以上のやうな理由である。もちろん急いで附言するが、私の讀解力を棚にあげたうへでの話である。
ところで、「かなが假名でない」と福田が書いてゐることについては捕捉しておかう。福田が歴史的假名遣ひとは書かず歴史的かなづかひと書くことについてである。
「かな」は私たちの固有の言語であつて、決してそれは假の文字といふやうな意味でも漢字に藉りた文字といふ意味でもないといふことである。「かな」と言はれてゐるものがあつて、それを「かな」と呼んでゐるにすぎない。それは支那の字といふ意味を假に「漢字」と呼んでゐるのと同じことである。たとへて言へば、きれいに咲いてゐる植物の生殖器を「はな」と言ふのであるから「花」と書いても「葉菜」と書いても實體に變化がない、したがつて文字は適當で良いといふふうにはなりますまい、それが福田恆存の主張である。
所詮、文字は假りのものであるのだから、だからこそその意味と用法とに十分な配慮と工夫とが必要だと言つてゐるのである。