言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

私に出来ることは小さなこと。

2014年06月30日 21時06分49秒 | 日記・エッセイ・コラム

 教育といふ仕事をしてゐると、毎日いろいろな「たいへんな」ことに直面する。相手が生きてゐて、こちらも少々生命力には欠けるところがあるもの、一応生きてゐるのだから当たり前である。しかも、こちらのペースとは関係なくいろいろな「たいへんな」ことはある。何も相手は生徒だけではない。家族も同僚も、仕事上の取引先も生きてゐるのだから、時々は「たいへんな」ことがある。それを処理して、改善して、ほころびを繕つてゐると「ああ今日も一日終はつた」と思ふことが多い。しかし、それだけでは充実してゐることにはならないだらう。こんな毎日でいいのかと考へるところから、何かをしなければと思ひ立つことになり、まづは讀書をし、時には芝居を観、一年に一度くらゐは師を訪ね、日常とは違ふ話を友人と語り、かうして文章を書き、少しでも精神の高みを目指さうと歩き出す。

 それでも、やはり私が出来ることはほんのささいなことなのだらうと思はざるを得ない。世界のいろいろな「たいへんな」ことには何の関係もないところで、ささやかな抵抗のやうに努力する。さういふことなのだらうとだんだん思ふやうになつてきた。いや以前もあまり変はつてゐないかもしれない。

 それでまた孔子などを引き合ひに出して言ふと、噴き出されてしまふだらうが、「述べて作らず。信じて古へを好む」といふ言葉を思ひ出した。最近は、ここに福田恆存の言葉を書かないが、今もときどき福田先生の本を開いては頭を整理してもらつてゐる。私の福田恆存評には、敬意は感じるが新しい解釈がないと批判されたことが何度かある。それに対しては「私に出来ることは祖述です」としか答へようがない。年若い研究者が最近福田恆存についての本を出してゐるが、それは私に出来ることではない。信じて福田恆存を好む、ばかりである。

 今の生徒らには福田恆存についても語らない。未だ語る言葉が見つからないからである。それはそれでいいのではないかとも感じる。無理やり聞きたくもない話をしても貴重な時間がもつたいない。いつか話す機会があればいいだらう、ぐらゐには希望を残しておかう。さういふ意味では以前の教へ子たちと、福田やら誰それやらの文章を引き合ひにして、談義をすることの楽しみは得難い。この夏休みには、さういふこともあるか知れぬが、所詮私に出来ることは小さなことなのだらか、希望ばかりを大きくしても仕方はない。「信じて古へを好む」さう思へる古へを持てた幸ひに感謝する次第である。

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時事評論 六月號

2014年06月24日 21時35分07秒 | 告知

○時事評論の最新號の目次を以下に記します。どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)

                 ●

 

   6月號が発刊された。これまで触れたことがないが、本紙には一面左下に「北潮」といふコラムがある。今回は、元東大総長の南原繁について書いてゐる。きつかけは平川祐弘氏の『日本人に生まれて、まあよかった』といふ新潮新書の新刊を讀んだことによるのだが、そのなかで、南原の師事した内村鑑三について触れたところで、内村の思想を「絶対的平和主義」と言ひ、それゆゑに南原の思想には「オカルト的要素」があると書いてゐるが、それはどうだらうか。確かに、内村はキリストの再臨を信じて、晩年赤城山にこもつて、イエスが雲に乗つて再臨すると思つてゐたから、飛び跳ねる練習をしたとかいふ逸話もあるぐらゐ「オカルト的要素」はあるだらうが、内村の根本思想は決してオカルト的なものではなく、正統なキリスト教であるどころが、正統な人間論である。絶対といふ言葉を正確に使ひ、人間と神との関係をこれ以上ないほどの真摯な態度で追及した思想家である。最終的には「キリスト教は宗教にあらず」といふところにまで言及できた探究者内村は、日本近代が生み出した最善の最高の思想家である。それを南原を貶めるために、内村を引き合ひに出して、一緒にオカルト的と称するのは、はつきり言つて間違ひである。南原が絶対平和主義者でないのは、彼が単純な平和主義者であることを見れば分かる。平和のためには戦争も辞さず、とは言へない絶対的平和主義などあり得ない。

 

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価値観外交、靖国参拝そして憲法改正

 「偉大な事」を伝えようとしている安倍首相   

       福井県立大学教授   島田洋一

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地政学と現代東アジア情勢

      国士舘大学特別研究員 山本昌弘

教育隨想       

  教育による国民統合を (勝)

この世が舞臺

     『宇治拾遺物語』盗跖と講師と問答の事                              

                            圭書房主宰    留守晴夫

コラム

     生物としての制約 (紫)

     再検証・シュリーフェン計画 (石壁)

     「進化」が人間を傷つける(星)

     政府には向かない仕事(騎士)   

   ●      

  問ひ合せ

電話076-264-1119     ファックス  076-231-7009

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手を動かすこと――最低限の技量

2014年06月17日 21時47分05秒 | 日記・エッセイ・コラム

 昨日の続きのやうな話。

 理想的な環境があるからと言つて教育がうまくいくとは限らない。また逆に、理想的な環境がないからと言つていつでも教育がうまくいかないといふこともない。これが教育の逆説で、いつでも自分のしてゐること(させられてゐること)に意味を見いだせずに、惰性となつてしまへばうまくはいかない。

 行動の主体が自分自身であると思へる時にしか、教育は達成されない。


 先日、トヨタの工場の職員の様子をテレビでみた。「カイゼン」の現場である。上司が命令してそれがなされるのではなく、自分の仕事の意味を考へ、仕事に豊かさを感じたいがために、工夫し「カイゼン」が図られてゐることを知つた。過酷な労働状況もあるやうにも聞く。しかし、少なくともテレビに出てきた社員の姿からは、自分自身の仕事にオーナーシップを持たうとする意識が感じられた。

 さて、そのためには、最低限の技量が必要であらう。そこには忍耐と努力とがいる。それすらない人に、オーナーシップは望めまい。もちろん、人によつて時は違ふ。特に少年期の発達にはさまざまな違ひがある。さうであれば、今の一律の受験体制はあまりいいものではないやうにも感じる。もちろん、それが現実への妥協、現実への敗北を意味するのであれば、警戒すべきだが、人間の幼児化が進んでゐるなかで、教育だけが一律に毎年一定の「成長」を求められるのは、不合理とも思へる。

 だいぶん疲れてゐるかな。弱気になつてゐるのかもしれない。しかし、学力の前提となる技量の不足には閉口するしかないのである。

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京都 堀川高校の奇跡の軌跡

2014年06月16日 21時03分48秒 | インポート

 先日、元京都市立堀川高校の校長で、大谷大学の教授をされてゐる荒瀬克己氏の講演を聞く機会があつた。

 以前、勤めてゐた学校では、この堀川高校の動向を気にしてゐたから、公立高校でどういふ指導をされてゐるのか気になつてはゐたので、突然の機会を得て、名古屋まで出かけてきた。

 国語の先生であり、御自身は洛南の出身であることもあつて、仏教の法話のやうな話で面白かつた。教師に話すといふのは思ひのほか緊張するのであらう。理路整然とといふより連想ゲームのやうに話が移り変はり、強引に結論に持つていくといふスタイルであつた。一時間半たつぷりと時計を一度も見ることなく聴けたのであるから、お話はうまい。自信がみなぎり、それでゐて威圧的でもなく、カリスマといふのだらうか、これでは普通の先生は適はないなといふ印象である。

 「生徒は、よーく先生を見てゐますよ」と言はれ、人の話を聞かない先生が、生徒には「話を聞け」と言つてゐる姿を何度も見ました、とは耳が痛い。誰にも心当たりがある事柄であらう。

 しかし、ころころ意見が変はるのはよくないといふ件で、現政権を批判してゐたのは、行き過ぎである。政治は妥協の産物だとは言はないが、事態を一歩前に進めるのが政治であるのだから、朝令暮改結構ではないか。さう思ふ。たぶん、御自身だつて、変節しながら改革を進めてきたはずである。それを取り上げて「生徒は、よーく見てゐますよ」と私が言つたとしても、それは当たらないのと同じである。口が滑つたのであらうが、反体制の親分的な雰囲気があつたから、政治的な本音がつい出てしまつたのであらう。

 今の職場の同僚に、京都の府立高校での教員経験者がゐて、彼から後日荒瀬氏について話を聞くと、すばらしい方だと聞いてゐますとのこと。ただ、市立高校で進学校を作るためには、相当に市立中学校に圧力をかけたといふことも聞いてゐますとのことであつた。それ以上は言はないが、教育とは理想的な教育制度によつてのみなされるのではないといふことは事実のやうだ。一人勝ちの発想では、どこかにひずみが起きるのも事実である。一つの高校の奇跡の中に見出すべきは、もつと違ふ何かであらう。もちろん、それは奇跡の主人公には見えないものであるかもしれない。京都市の教育がいまどうなつてゐるのか、少なくともそこまで視野を広げて見ることによつて、却つて見えてくるものがあると感じた。

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最先端から廃れていく――ブログ人終了のお知らせ

2014年06月09日 21時48分16秒 | 日記・エッセイ・コラム

 今年中に、このブログを運営してゐるOCNが、ブログ事業から撤退すると案内がきた。「次は、こちらの方で継続してください」とのアナウンスが八月から始まるさうだが、やれやれである。

 私はかういふ機械物はからつきしで、やうやく何とかやれてゐるものの、これまで書いたものを引つ越すことなどできるかどうか不安である。かういふ不安を感じるのがいやだから、NTTのやつてゐるOCNでブログを始めたのだが、NTTよ、お前もかといふ心境である。

 先日、テレビで、最先端の記憶媒体は磁気テープであるといふことを知つた。テープはカビが生えたり、伸びきつたり、音質が劣化したりと、カセットテープをCDに焼いて保存しようかと思つてゐたが、その報道によれば、DVDやCDでは枚数が嵩んでしまふから、非常に記憶容量の大きい磁気テープを使つて公共団体は住民データなどを保存してゐるといふ。何だかキツネにつままれたやうな感じであつた。

  でも考へてみれば、メディアの進化はこの三十年驚くほどであり、録画に限ればβ、VHS、LD、DVD,ブルーレイ、SDなどなど次々に生まれた。しかし、忘れてはならないのは、それらの記憶媒体は、再生機器がなければ見ることができないといふことである。大手メーカーではすでにVHSの再生機器は製造してゐないだらうし、ベータやレーザディスクは、早々に撤退してゐる。さうであれば、それらによつてしか再生できないメディアは、ゴミ同然である。恐ろしい話ではないか。絵に描いた餅のやうに、中身は想像することによつてしか再生しないのである。

 それに対して、本や写真は、いつだつて機械なしに使用することができる。これこそメディアとして最善のありやうである。本は無くなると豪語する人がかつてゐたが、今日の状況を見てどう言ふのだらうか。

 開高健だつただらうか。小説は形容詞から腐つていくといふやうなことを言つてゐたやうに記憶してゐるが、最先端の機械ほど廃れていくのは早いといふことである。

 さて、年末に向かつて、ブログはもうしまひにしようかとも思ふが、その時になつて考へようと思ふ。デジタルデバイド(情報機器による格差)で、劣位にある身にはかういふ事態は気持ちのよくないストレスでしかない。

 

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