教育といふ仕事をしてゐると、毎日いろいろな「たいへんな」ことに直面する。相手が生きてゐて、こちらも少々生命力には欠けるところがあるもの、一応生きてゐるのだから当たり前である。しかも、こちらのペースとは関係なくいろいろな「たいへんな」ことはある。何も相手は生徒だけではない。家族も同僚も、仕事上の取引先も生きてゐるのだから、時々は「たいへんな」ことがある。それを処理して、改善して、ほころびを繕つてゐると「ああ今日も一日終はつた」と思ふことが多い。しかし、それだけでは充実してゐることにはならないだらう。こんな毎日でいいのかと考へるところから、何かをしなければと思ひ立つことになり、まづは讀書をし、時には芝居を観、一年に一度くらゐは師を訪ね、日常とは違ふ話を友人と語り、かうして文章を書き、少しでも精神の高みを目指さうと歩き出す。
それでも、やはり私が出来ることはほんのささいなことなのだらうと思はざるを得ない。世界のいろいろな「たいへんな」ことには何の関係もないところで、ささやかな抵抗のやうに努力する。さういふことなのだらうとだんだん思ふやうになつてきた。いや以前もあまり変はつてゐないかもしれない。
それでまた孔子などを引き合ひに出して言ふと、噴き出されてしまふだらうが、「述べて作らず。信じて古へを好む」といふ言葉を思ひ出した。最近は、ここに福田恆存の言葉を書かないが、今もときどき福田先生の本を開いては頭を整理してもらつてゐる。私の福田恆存評には、敬意は感じるが新しい解釈がないと批判されたことが何度かある。それに対しては「私に出来ることは祖述です」としか答へようがない。年若い研究者が最近福田恆存についての本を出してゐるが、それは私に出来ることではない。信じて福田恆存を好む、ばかりである。
今の生徒らには福田恆存についても語らない。未だ語る言葉が見つからないからである。それはそれでいいのではないかとも感じる。無理やり聞きたくもない話をしても貴重な時間がもつたいない。いつか話す機会があればいいだらう、ぐらゐには希望を残しておかう。さういふ意味では以前の教へ子たちと、福田やら誰それやらの文章を引き合ひにして、談義をすることの楽しみは得難い。この夏休みには、さういふこともあるか知れぬが、所詮私に出来ることは小さなことなのだらか、希望ばかりを大きくしても仕方はない。「信じて古へを好む」さう思へる古へを持てた幸ひに感謝する次第である。
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