言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

視写の試み

2016年07月19日 09時44分32秒 | 国語学

  どこの学校よりも早い終業式を終へ、夏期講習も終はり、夏休みである。が、明日は企業訪問で、生徒を引率して東京都羽村市の日野自動車の工場を見学する。現地集合現地解散は、全国規模で生徒を募集する学校ならではのことだらう。私は一足早く上京して、いろいろと見て回はらうと思つてゐる。

  ところで、

  昨日、小学生に国語を教へる機会があり、視写といふことをやつてみた。長崎県の教育委員会が取り組んでゐることで、ひょんなことでそれを知り、視写の実践を試みた。
  条件は三つ。
1 字を丁寧に書くこと
2 正確に写すこと
3 改行は文節の切りの良いところで行うこと
のわづかな条件である。
  題材は、大岡信の『折々の歌』である。毎回200字で連載してゐた文章は授業で扱ふには持つてこいである。
  条件3の意味は分かりにくさうだつたので、ネを文節ごとに入れて皆で音読した。これがとても良かつた。面白がつてやつてゐた。小学生は身体性を目覚めさせながら学ばせないといけない。ここら辺りを分かつてゐない人が多い。教室から声が聞こえてこない授業は恐らく死んでゐる。
  時間は15分ぐらゐかかつた。内容の説明はしてゐない。感想まで書かせる予定で教材を作つたが、そこまではいかなかつた。反省である。むしろ感想欄はいらなかつたかもしれない。写す時間は7分まで縮めたい。
  説明をし過ぎてゐるのではないか、それが最近自分の授業に感じる反省である。噛んで含んで文章を理解させるのも大事であるが、硬いままの文章を生徒自身が自力で読めるやうになつてゐるかどうか、さういふ力を養ふやうな授業になつてゐるかどうか疑問が出てきた。
  写すといふことは精読することの方法である。黙読より音読。音読より視写である。それが精読に通じてゐる。さう思ふ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする