言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

時事評論 石川 最新号

2009年03月22日 12時32分53秒 | 告知

○時事評論石川の3月号の目次を以下に記します。どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。1部200圓、年間では2000圓です。

 宮崎大学の吉田先生の論考が注目です。『諸君!』での西尾幹二・秦郁彦両氏の対談について書かれたもの。歴史家らしからぬ秦氏の言葉をぴしりとたしなめ、歴史とは何かを語り、客観とは何かを質す論旨はきはめて明快でした。御一読を勧めたい。

   4面のコラムで(菊)氏が書いた櫻田淳氏への批評にはまつたく同意する。「現実に立脚した柔軟なリベラリズム」とは何ものか。私には風に揺れる一本足の案山子にしか見えない。今必要なのは二本足(現実と理想と)で立つことであり、保守とはさういふ精神のあり方であるはずだ。平衡感覚だけで立ち行くと思つてゐるうちは御都合主義と峻別できまい。二本足で立つこと、それには平衡感覚を司る脳幹や小脳(柔軟なリベラリズム)だけではなく、価値を捉へる大脳(絶対への思考)が必要なのである。

小沢流「選挙第一主義」の正体

    ―角栄型の資金再配分システムを得る手段にすぎぬ―

                  拓殖大学教授 遠藤浩一

宮中祭祀の本義――『国中平安、救済諸民』

 私事として貶められていいのか

                        伏見稲荷大社禰宜  黒田秀高

歴史(イストワール)は物語(イストワール)である

 「客観」だ「史実」だ「定説」だ、と言ふ愚

                  宮崎大学准教授  吉田好克

奔流            

やはり政治資金でつまづいた小沢氏

  ―地検が乗り出した理由―

                ジャーナリスト 花岡信昭

コラム

        『諸君!』休刊の背景  (菊)

        『鷗外』と『鴎外』 (柴田裕三)

          誤讀される漱石の『こゝろ』(星)

        朝日の対中国"曲者報道"(蝶)            

  問ひ合せ

電話076-264-1119    ファックス  076-231-7009

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「言語的状況の清掃」ポール・ヴァレリー

2009年03月18日 21時03分42秒 | 日記・エッセイ・コラム
ポール・ヴァレリー 1871‐1945 (叢書・ウニベルシタス) ポール・ヴァレリー 1871‐1945 (叢書・ウニベルシタス)
価格:¥ 9,240(税込)
発売日:2008-10

 先日の日曜日の毎日新聞に、『ポール・ヴァレリー』の書評が載つてゐたので讀んでみた。書評自體は、私にはあまり得るものはなかつたし、この値段ではたぶん買ふこともない。本の値段は存外に大事なことで、これが高いと手にすることはあまりない(大學の先生に憧れる一つの點が、研究費がもらへることである。高校の教師ではさういふわけにはいかない)。

    購入はしないけれどもこの書評を讀んで、最近讀んでゐないヴァレリーの文章を讀み返してみたくなつた。「精神の政治學」といふ講演録は、乏しいヴァレリー讀みの經驗のなかでは大切にしてゐる書である。いろいろなところで引用もしたが、今囘は何か別のものを讀んでみようと思ひ、ネットでアマゾンで調べてゐたら、平凡社から、下のやうな本が出てゐることを知り、讀んでみようと思つたが、その前に讀者のコメントが載せてあるのが目に入り、そこに林達夫のエッセイ「主知主義概論――ヴァレリーの場合――」が紹介されてゐた。

ヴァレリー・セレクション (上) (平凡社ライブラリー (528)) ヴァレリー・セレクション (上) (平凡社ライブラリー (528))
価格:¥ 1,260(税込)
発売日:2005-02

   林達夫のエッセイもまたしばらく讀んでゐなかつたので、まづはそれが讀みたくなつた。こちらは手の屆くところに著作集があつたのですぐに讀めた。フランス文學に通じた碩學林達夫は、福田恆存の發見者でもあり、私もその「自分の頭で考へる」姿勢に啓發されるところ大である。この林の文章(「主知主義概論――ヴァレリーの場合――」)のなかにあつたのが、「言語的状況の清掃」といふ言葉である。言ふまでもなく、思想家ヴァレリーは第一に言葉を嚴密に使はうとした人であつた(もちろん詩人ヴァレリーは言葉の魅惑的效果を知つてゐる人である)。林の文章を引用する。

   そこで主知主義という言葉であるが、ポール・ヴァレリーという人は、何にもまして「言語的状況の清掃」nettoyage  des  situations  verbales ということを重んじている思想家である。「仮に私が――そんな真似はしたくないが――哲学をやることに手を出すようなことがあるとするならば、先ずすっかり私の辞書をやり更えることからはじめるだろう。」ある言葉がどんな風に受け容れられているかを悉く調べ上げて、それを使用すべきいっさいの場合に応ずることができるほどに精確な定義を見出すのでなければ、彼は安心しないのである。

 かういふ姿勢が「主知主義」と呼ばれるゆゑんであると認めた上で、林はヴァレリーを何々主義者であると言ふことに異論を述べてゐる。

  精神の混亂した現代を批評し、そこでは精神の政治學を必要とすると述べたヴァレリーの日常の實踐としてあつたのが、「言語的状況の清掃」なのであらう。言葉を大事にするといふことは、何も文法に限ることではない。言葉の定義に嚴密になるといふこともその一つである。

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『トロイ戦争は起きないだろう』鑑賞

2009年03月13日 21時36分25秒 | 日記・エッセイ・コラム

ジロドゥ戯曲全集〈3〉テッサ、トロイ戦争は起こらない ジロドゥ戯曲全集〈3〉テッサ、トロイ戦争は起こらない
価格:¥ 3,990(税込)
発売日:2001-07

 劇団四季京都劇場でジャン・ジロドゥの『トロイ戦争は起こらないだろう』を観てきた。何の予習もなく出かけたが、これが思ひのほか良かつた。フランス外交官として第二次世界大戦前夜に活躍したジロドゥのもう一つの顔は、戯曲作家または詩人であつた。トロイとギリシャとの戦争前夜を題材に、この芝居は書かれてゐる。トロイの王子(エクトール)は人事を尽くして戦争を回避しようと務めるが、その彼が戦争の引き金を引いてしまふ。宿命の力をまざまざと見せ付けられる舞台であつた。舞台中央やや右側に立つ巨大な兵士の足は、まさに宿命の力の象徴である。舞台に繰りひろげられるは、足蹴にされる人間の努力であるか。

 それにしても、かういふ歴史物は人間といふものを突き放して見るには格好の題材である。史劇や叙事詩といふものは、日本の文学にはあまり見られないものであるが、日常生活の人間関係の微細を顕微鏡で見るやうな小説は、私たちの文学は得意のやうであるが、ダイナミックな歴史の流れの中で人間の自然、性を描くのはどうも不慣れであるといふことを実感させてくれる芝居であつた。

 素晴らしい舞台であつたが、望蜀の願ひを一つ言へば、戦争の危機がすごそこに迫つてゐるのであるから、台詞の発声はもう少し早いはうが良かつた。20日まで京都劇場で、そのあとは名古屋に行くさうである。

http://www.shiki.gr.jp/applause/trojan/index.html

 

補足 それからこれは直接この芝居には関係ないことだが、気づいたので書かせてもらふ。この京都劇場で福田恆存の『解つてたまるか!』を見たときにも感じたのだが、舞台が客席に向かつて急勾配に下がってゐた。役者がじつに動きにくさうだつたので、演出家の意図はそれをおしても優先したいものであつたのだらうと考へてゐたが、この舞台の形状も同じやうであつたので、驚いた。前回はすり鉢状だつたが、今回は前面傾斜だけだつた。また、役者にほとんど動きがないので、話しにくさうではなかつた。しかし、どうしてかういふ舞台を連続してつくるのだらうかと考へてゐたら、終幕後の美術監修の土屋茂昭氏の話がそのことに触れてゐた。氏によれば、演出家の浅利慶太氏や装置の金森馨氏がこの形状が好きなのださうだ。それなら、仕方ないのか。演出家も装置の意匠を考へる人もさうであれば、役者は引き下がるしかあるまい。

 私がかういふ形状の舞台を始めて見たのは、確か十年以上前、渋谷の文化村だつたか。読売演劇賞を受賞した『ゲットー』である。あの迫力は忘れられない。ナチスに追はれるユダヤ人が絶望のなかにあるからこそ藝術に生きる証を求めようとした緊張感が舞台から伝はつてきた。その絶望と希望とに引き裂かれる緊迫感にはあの形状は、しごく自然なもののやうに思はれた。バランスを崩しながらも声を張り上げる役者の葛藤が、そのまま主題を象徴してゐた。うまくいくかいかぬかのギリギリのところである。さて、今回の舞台がその点で成果をあげたかどうかは、台詞のテンポにも関はつてくるが、今ひとつといふのが私の評価である。ちなみに、土屋氏によれば、あのやうな形状を「開帳場(かいちょうば)」といふのださうだ。勉強になつた。

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関岡英之『拒否できない日本』を読む

2009年03月07日 20時46分43秒 | 日記・エッセイ・コラム

拒否できない日本 アメリカの日本改造が進んでいる (文春新書) 拒否できない日本 アメリカの日本改造が進んでいる (文春新書)
価格:¥ 735(税込)
発売日:2004-04-21
 建築士の資格、会計基準、弁護士制度など、アメリカンスタンダードをつぎつぎに押し付けてくる、それは何も陰謀的にではなく、「年次改革要望書」や「外国貿易障壁報告書」などの公式文書で明らかにしながらである。これはすごいことだ、アメリカの日本侵略ともいふべき内政干渉である――関岡氏の主張はさういふところにある。

 しかしながら、私はもう一つ別の意味もあるだらうと感じた。それはそのタイトルが暗示するやうに、「拒否できない日本」こそ問題であるといふ面である。じつは、今回この本を読むことになつたのは、ある読書会に参加するためである。毎回一冊のテキストを選定し、それについて話し合ふといふ主旨の会合で、今日参加してきた。自分では決して手にする本ではないが、以前からこの会に誘はれてゐたので、今回は読んで参加しようと思つて読了した。そして、思つたのは、アメリカは至極まつたうなことをしてゐるだけではないかといふことである。こんな無理難題を突きつけられながら唯々諾々としたがつてきた日本のはうがどうかしてゐる、これが私の感想である。アメリカはアメリカの国益を優先して日本を合法的に侵略してゐる。なぜそんなことができるのか、それは国家の意思が明確だからである。特定の組織が陰謀的に戦略を立ててゐるのではなく、国家意志が政府を動かし、企業を動かし、政治家を動かしてゐるのである。それにたいして「拒否できない日本」とは何か。国家の体を為してゐないといふことなのである。

 読書会の参加者は、なんだか反米の人ばかりでアメリカの悪口を言つて溜飲を下げてゐたが、ずゐぶんのん気にしてゐられるなと思つたので、思ひ切つて以上のことを言つてみた。案の定、大反論である。発表者は西部邁氏の愛読者らしく、西部邁風に反米論をまくし立ててゐられた。問題なのは日本が国家の体を為してゐないことであるのに、アメリカのやり方が許せないの一点張りであつた。時間切れでこの話は次回に持ち越すとのことであつたが、たぶん持ち越さないであらう。反米論は、論ではなく感情だからである。戦争に負けたことが悔しくてたまらないのである。それはそれで正しい感情であるが、またぞろ反米論を言ひ出したところで、日本の生きる道が開かれるわけでもあるまい。嫌米であつても友好関係は築けるし、築かなければならない。そのことを分かつて関岡氏の労作を読める場所であつて欲しかつた。敵を作つて仲間の結束をはかれば読書会の目的は達成されたのかもしれないし、保守派といふ人たちにはそのやうに敵を作つて日本人の良さを自画自賛する人が多いのであるが、そこからは何もうまれないと考へるから、ずゐぶん残念であつた。

 支那を相手にしてゆく上で、アメリカと手を組んでいく以外に日本の将来はありえない。私の拙い論文「親米といふ作法」もさういふ時代認識によるものである。どうアメリカと伍していくかといふことを考へてゐるのは、管見によれば西尾幹二氏だと思ふ。

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『諸君!』廃刊です。

2009年03月03日 22時03分20秒 | 日記・エッセイ・コラム

諸君 ! 2009年 03月号 [雑誌] 諸君 ! 2009年 03月号 [雑誌]
価格:¥ 680(税込)
発売日:2009-01-31
 今朝、職場の同僚から『諸君!』六月号で廃刊になるらしいと聞いた。正直驚いた。経営上の理由よりも、つぶしたかつたのだらうと直感した。朝日新聞にかうあつた。

保守系の代表的なオピニオン誌である月刊「諸君!」の休刊を、発行元の文芸春秋が決めた。5月1日発売の6月号が最終号になる。

 同誌は69年5月の創刊。看板雑誌である月刊「文芸春秋」の兄弟誌的な位置づけで、右派論壇を支える存在だった。福田恒存、山本七平、江藤淳、林健太郎の各氏らが論陣を張り、巻頭の「紳士と淑女」、巻末に置かれた山本夏彦氏の「笑わぬでもなし」の両コラムも評判になった。

 日本雑誌協会によると、08年9月30日までの1年間の平均発行部数は約6万5千部。だが関係者の話では、実売は4万部を割る状況が続いていたという。

 同社全体の広告収入が減っており、新年度の好転も見込めないことから、「選択と集中を進める」(同社幹部)との意味合いと、創刊から40年という区切りもあって休刊を決めた。

 実売、四万部を割るといふのははたして厳しい状況なのだらうか。650円×4万部=2500万円 儲からない数字なのかどうか私には不明であるが、そこまでして訴へるものがなくなつたといふことであらう。出版社はここのところ広告収入が減つて厳しいといふのは、あちこちで言はれてゐる。しかし、創刊当時の、広告収入だつてさう多くはあるまい。手元の創刊号を見ると、定価200円。総頁は272ページだから今とかはらない。字は小さいから原稿の量は今よりも多いから原稿料はもつとかかつてゐただらう。福田恆存の「利己心のすすめ」や小林秀雄と高尾亮一との対談「新宮殿と日本文化」や、清水幾太郎の「戦後史をどう見るか」が載つてゐる。読みたいものばかりだ。かういふところに、雑誌販売の停滞の原因があるのは明らかだ。そして、なにより敵が見えなくなつたから、オピニオン誌の特徴が薄れたといふことである。左翼がゐなくなり、保守派が親米と反米に分裂し、今必要な論とは何かが編集者にも読者にも分かりづらくなつたからだらう。いや『正論』や『WILL』は元気ではないかと言ふ人がゐるかもしれない。しかし、さうだらうか。論者はほとんど重なつてゐる。

 さうであれば、オピニオン誌そのものが今壁にぶつかつてゐるといふことである。私が今読みたい文筆家は、長谷川三千子、小谷野敦、西尾幹二、山形浩生、松本道介、山崎正和、新保祐司、富岡幸一郎、遠藤浩一、佐藤健志諸氏である。かういふオピニオン誌はどうだらうか。

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