言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

太郎の造型

2013年01月20日 10時30分46秒 | 日記・エッセイ・コラム

 岡本太郎の小さなおもちゃの第3集が、海洋堂から発売されることになつた。好きだから、早速手にして喜んでゐる。特に、「光る彫刻」と名付けられた照明器具の造型は、白い筒から何本も突起物が出てゐて、あるものは上を向いて曲がり、あるものは下を向いてねじれてゐる。かういふ形状は、太郎の特徴であるが、この形が気に入つてゐる。なぜかと訊かれても答へられない。http://www.youtube.com/watch?v=DxANGfjqwCI

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  岡本太郎の藝術は、背伸びである。無理をしてゐる。縄文土器を探りださうが、子どもの無邪気さを発見しようが、どうしようもない、私たちの近代の薄つぺらさを直観で知つてゐたやうに思ふ。その上で、なんとか日本の近代を造型しようともがいてゐるのである。そのもがきが、上のようなねじれになり、絵画に記されたやうな爆発の表現になつたのである。無理をしてしか生きられない、日本人の近代、それを体現した藝術家だから私は岡本太郎が好きである。

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尾崎豊論3

2013年01月08日 20時00分47秒 | 日記・エッセイ・コラム


(承前)

「人は悲しみのうちにいて、喜びを求めることはできないが、悲しみをととのえる事は出来る。悲しみのうちにあって、悲しみを救う工夫が礼である、即ち一種の歌である」と書いたのは、小林秀雄である。『言葉』と題された随筆の結論部分である。この伝にならえば、まさに尾崎豊の歌こそ「悲しみを救う」ものであるのだろう。<o:p></o:p>

 

四万もの数の人間が集いながら、整然としている様は、人々を驚かせた。駅員が驚き、警察官が驚き、取材に来ていたマスコミ人が驚いた。「不良な教祖」と言われた歌手の死にもっと騒然としたファンを予想していた彼らは一様に驚いた。<o:p></o:p>

 

そして、テレビにラジオに尾崎豊の歌が流れた。ファンの静寂の声が、人々に「こいつはただ者ではないぞ」と気付かせた。日常生活のなかでいつしか忘れていたものを思い出してくれもするし、よどんだ心に突き刺す鋭利な刃物の感覚をも感じさせた。<o:p></o:p>

 

ブラウン管には、彼のビデオが映し出されていた。<o:p></o:p>

 

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  「卒業」<o:p></o:p>

 

   校舎の影 芝生の上 すいこまれる空<o:p></o:p>

 

   幻とリアルな気持 感じていた<o:p></o:p>

 

   チャイムが鳴り 教室のいつもの席に座り<o:p></o:p>

 

   何に従い 従うべきか考えていた<o:p></o:p>

 

   ざわめく心 今 俺にあるものは<o:p></o:p>

 

   意味なく思えて とまどっていた<o:p></o:p>

 

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   放課後 街ふらつき 俺達は風の中<o:p></o:p>

 

   孤独 瞳にうかべ 寂しく歩いた<o:p></o:p>

 

   笑い顔とため息の飽和した店で<o:p></o:p>

 

   ピンボールのハイスコアー 競いあった<o:p></o:p>

 

   退屈な心 刺激さえあれば<o:p></o:p>

 

   何でも大げさにしゃべり続けた<o:p></o:p>

 

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   行儀よくまじめなんて 出来やしなかった<o:p></o:p>

 

   夜の校舎 窓ガラス壊してまわった<o:p></o:p>

 

   逆らい続け あがき続けた 早く自由になりたかった<o:p></o:p>

 

   信じられぬ大人との争いの中で<o:p></o:p>

 

   許しあい いったい何 解りあえただろう<o:p></o:p>

 

   うんざりしながら それでも過した<o:p></o:p>

 

   ひとつだけ 解ってしたこと<o:p></o:p>

 

   この支配からの 卒業<o:p></o:p>

 

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   誰かの喧嘩の話に みんな熱くなり<o:p></o:p>

 

   自分がどれだけ強いか 知りたかった<o:p></o:p>

 

   力だけが必要だと 頑なに信じて<o:p></o:p>

 

   従うとは負けることと言いきかした<o:p></o:p>

 

   友達にさえ 強がって見せた<o:p></o:p>

 

   時には誰かを傷つけても<o:p></o:p>

 

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   やがて誰も恋に落ちて 愛の言葉と<o:p></o:p>

 

   理想の愛 それだけに心奪われた<o:p></o:p>

 

   生きる為に 計算高くなれと言うが<o:p></o:p>

 

   人を愛すまっすぐさを強く信じた<o:p></o:p>

 

   大切なのは何 愛することと<o:p></o:p>

 

   生きる為にすることの区別迷った<o:p></o:p>

 

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   行儀よくまじめなんて クソくらえと思った<o:p></o:p>

 

   夜の校舎 窓ガラス壊しまわった<o:p></o:p>

 

   逆らい続け あがき続けた 早く自由になりたかった<o:p></o:p>

 

   信じられぬ大人との争いの中で<o:p></o:p>

 

   許しあい いったい何 解りあえただろう<o:p></o:p>

 

   うんざりしながら それでも過ごした<o:p></o:p>

 

   ひとつだけ 解っていたこと<o:p></o:p>

 

   この支配からの 卒業<o:p></o:p>

 

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   卒業して いったい何解ると言うのか<o:p></o:p>

 

   想い出のほかに 何が残るというのか<o:p></o:p>

 

   人は誰も縛られた かよわき小羊ならば<o:p></o:p>

 

   先生あなたは かよわき大人の代弁者なのか<o:p></o:p>

 

   俺達の怒り どこへ向かうべきなのか<o:p></o:p>

 

   これからは 何が俺を縛りつけるだろう<o:p></o:p>

 

   あと何度自分自身 卒業すれば<o:p></o:p>

 

   本当の自分に たどりつけるだろう<o:p></o:p>

 

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   仕組まれた自由に 誰も気づかずに<o:p></o:p>

 

   あがいた日々も 終る<o:p></o:p>

 

   この支配からの 卒業<o:p></o:p>

 

   闘いからの 卒業<o:p></o:p>

 

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この歌の最後は、「闘いからの卒業」で終っている。これを単なる学校や教師への反発と読んでしまうと、尾崎は「不良青年」になってしまう。しかし、この歌の中心を「自分からの卒業」において読み取ると、意味合いは大きく変わるに違いない。「この支配」とは、形としてあるものというよりは、もっと精神的な内面的なもの、たとえば「呪縛」のようなもののことであって、そこからの卒業を歌いあげているのだ。<o:p></o:p>

 

精神的な解放こそが尾崎豊の目指していたものなのである。<o:p></o:p>

 

もちろん、ここには青年期の特徴が明らかである。理想と現実に引き裂かれ、自分ではどうしようもなく、混乱している姿も鮮明だ。<o:p></o:p>

 

「ざわめく心 今 俺にあるものは 意味なく思えて とまどっていた」<o:p></o:p>

 

私も高校生を教えているし、なによりも自分自身の経験から、そのことは実感として分かる。クラブに燃えてがんばろうと思いながらも、ついつい怠けてしまったり、勉強に取り組もうと決心した側からテレビにひきずられてしまったといったこと。生徒会に立候補しようとしながら、集団家出の先頭を切ってしまうといったこともまさしくそうである。青年期の混乱、自我の分裂、アイデンティティーの喪失と言ってしまえば、それまでだが、大事なことは、普通はそういう状況を自分では分からないということである。だから一般の青年と、尾崎豊との違いには、そのことに気付いているかどうかということにその端緒がある。<o:p></o:p>

 

私は、いつでも私であり、「成長しつつある私」であるということも「分裂している私」であるということも、自分では分からないのである。言ってみればそれは、電車に乗っている自分が、窓の外を見なければ、その速度も方向も分からないという程度に分からないということである。<o:p></o:p>

 

私を見つめる私という二重性を自覚できるには時間がかかる。そして、もし分裂している私を自覚できた青年がいたとすれば、彼はその二重性から脱却しようとするであろうし、またその真実の姿を写し取ろうとするだろう。もちろんそれは、相当な苦労を伴う。それはあたかも電車の中で自画像を描く作業のようでもある。「酔い」が彼を襲う。<o:p></o:p>

 

尾崎豊という人間が、まさにそういう「酔い」を抱えていた存在であると思える。そしてなおも言えば、彼が酔ったのは、存在の二重性に気付いたという一段の覚醒のゆえであるという皮肉な事態であったということであろう。寝ているものには酔いはない。平凡な生を暮らしていれば、彼もまた酔うことはなかったのである。<o:p></o:p>

 

それでも彼は、はじめは外の世界を見ているだけで十分だった。退屈な気分は内面に充満してはいたが、動きの速い外界に目を向けることで紛らわすことができた。<o:p></o:p>

 

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謹賀新年

2013年01月05日 12時03分31秒 | 日記・エッセイ・コラム

平成25年 明けましておめでたうございます

久しぶりに実家のある静岡で元旦を過ごしました。富士山がこれ以上ないほどの美しさで迎へてくれたのがたいへんに嬉しかつたです。高速道路を運転しながら、その絶景ポイントになると急に自動車の速度が落ちるのは少々危険なことでもありますが、それほどに人々の心をとらへるのは富士山の魅力の証でせう。雲一つなく、すそ野までが一望できるのは、久しぶりのやうな気がします(下の写真は、もちろん助手席にゐた家内が撮つたもので、運転手たる私は脇目も振らずに運転してをりました・・・)。

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両親と正月を過ごし、高校時代の後輩に会ひ、懐かしい場所を訪ね、美味しいものを食べ、と正月の定番の過ごし方を今年は満喫した。

「昨年の三冊」といふのをこれまで元旦に書いて来たが、今年はそれを書く余裕さへない。本もあまり讀まなかつた。残念である。それでも挙げるとすれば、

1 『永遠の零』

2 『海賊と呼ばれた男』(途中)

3 『自由と規律』

1と2とは百田尚樹の小説である。とても清々しかつた。さうした内容に通じてゐるのが、岩波新書に入つてすでに60年以上経つ3の本である。池田潔のイギリス留学時代の経験談である。ノーブレスオブリージュの精神を表すエピソードが随所にあつて、かの帝国が世界をリードしたのは単に軍事力ばかりではないことを示してゐる。4時間もあれば讀めてしまふ。が、その精神は私たちの遠く及ばない、あるいはかつてはあつた(少なくとも1と2とにはあつた)が今はもう失ひかけてゐるものである。

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海賊とよばれた男 上 海賊とよばれた男 上
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良い一年でありますやうに。

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