小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

日弁連「死刑廃止宣言」の横暴――死刑存廃論議を根底から考える(その1)

2016年12月01日 16時20分14秒 | 社会評論
      




以下の記事は、月刊誌『正論』2017年1月号に掲載された拙稿に若干の訂正を施したものです。

 去る二〇一六年十月七日、日弁連が福井市で人権擁護大会を開き、「二〇二〇年までに死刑制度の廃止を目指す」とする宣言案を賛成多数で採択しました。採決は大会に出席した弁護士で行われ、賛成五四六、反対九六、棄権一四四という結果でした。当日は犯罪被害者を支援する弁護士たちの反対論が渦巻き、採決が一時間も延長されたそうです。
 また同月九日、朝日新聞がこの日弁連の宣言を「大きな一歩を踏み出した」と全面評価する社説を載せ、これに対して同月十九日、「犯罪被害者支援弁護士フォーラム」が「誤った知識と偏った正義感にもとづく一方的な主張」として、公開質問状を送付しました。同フォーラムは二週間以内の回答を求めており、回答も公開するとしています(以上、産経新聞記事より)。
 まず日弁連について。
 この団体は強制加入であり、全国に加盟弁護士は三七〇〇〇人超いますが、今大会に集まったのは七八六人(わずか2%。賛成者だけだとわずか1.4%)です。しかも委任状による議決権の代理行使は認められていません。こういうシステムで死刑廃止のような重要な宣言を採択してよいのでしょうか。団体の常識を疑います。
 次に朝日新聞の社説について。
 これはフォーラムの公開質問状が批判しているとおり、「死刑廃止ありきとの前提で書かれている」ひどいものです。論理がまったく通っていない箇所を引用します。

《宣言は個々の弁護士の思想や行動をしばるものではない。存続を訴える活動は当然あっていい。
 そのうえで望みたいのは、宣言をただ批判するのではなく、被害者に寄り添い歩んできた経験をふまえ、いまの支援策に何が欠けているのか、死刑廃止をめざすのであれば、どんな手当てが必要なのかを提起し、議論を深める力になることだ。》

 日弁連の総意として宣言が出された以上、弁護士の思想や行動は当然しばられます。これを著しく非民主的な手続きでごく一部の執行部が打ち出したということは、明らかな独裁です。
 また、あたかも被害者支援弁護士たちが「ただ批判」しているかのように書き、実態も調べずに「支援策が欠けている」と決めつけています。
 極めつけは「死刑廃止をめざすのであれば」というくだりです。被害者やその遺族に寄り添って死刑存続を望んでいる人たちが、いつの間に「死刑廃止をめざし」ている人に化けさせられたのでしょう。毎度おなじみ朝日論説委員の頭の悪さよ。作文の練習からやり直してください。
 さて朝日新聞は十一月二日付でフォーラムの質問状に回答しましたが、これについて記者会見を行った高橋正人弁護士は「聞きたかったのは、なぜ朝日は死刑存続を望むわれわれも死刑廃止に向けた議論に協力しなければならないと主張したのか、という点だったが、答えていない。残念だ」と話し、今後、再質問も検討するそうです。さもありなむ。
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/nation/sankei-afr1611080041.html

 ところで問題の日弁連の「宣言」の中身について検討してみましょう。正式名称は、「死刑制度の廃止を含む刑罰制度全体の改革を求める宣言」。
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/civil_liberties/year/2016/2016_3.html
 結論から言うと、これまた「罪を犯した人の人権」にだけ配慮した一方的なもので、被害者および遺族の支援については申し訳程度にしか言及されていません。以下、この宣言における死刑廃止論の根拠を箇条書きでまとめます。

 ①平安時代には死刑がなかった。死刑は日本の不易の伝統ではない。
 ②国連の自由権規約委員会、拷問禁止委員会等から、再三勧告を受けている。
 ③誤判、冤罪であった場合、取り返しがつかない。
 ④法律上、事実上で死刑を廃止している国は一四〇か国あり世界の三分の二を占める。
 ⑤OECD加盟国のうち死刑を存続させているのはアメリカ、韓国、日本の三つであるが、アメリカは州によっては廃止しており、韓国は十八年以上死刑を執行していないので。OECD三四か国のうち、国家として統一的に存続させているのは日本だけである。
 ⑥死刑には犯罪抑止効果があるという説は、実証されていない。
 ⑦内閣府の最近の意識調査では「死刑もやむを得ない」という回答が八割を超えるが、死刑についての十分な情報が与えられれば、世論も変化する。
 ⑧そもそも死刑廃止は世論だけで決めるべき問題ではない。
 ⑨日本の殺人認知件数は年々減少しているのだから、死刑の必要性には疑問がもたれる。
 ⑩死刑は国家による最大かつ深刻な人権侵害であり、生命というすべての利益の帰属主体そのものの滅却であるから、他の刑罰とは本質的に異なる。


 だいたい以上ですが、ひとつひとつ検討します。
 ①ですが、たしかに不易の伝統ではないでしょう。しかし平安時代の法と近代法を単純に比較するわけにはいきません。なぜなら古代や中世においては、支配階層と一般民衆とは截然と分かれており、高い身分の者が低い身分の者に対して今なら考えられないほど理不尽で残酷なことをしても平気で許されていたに違いないからです。いくら法的に死刑がなくても、私的な刑としての殺害はいくらでも行われていたでしょう。
 ②ですが、ここには国連を、国家を超越した権威を持つ機関として疑わない戦後日本人の弊害がもろに出ています。国連の勧告は七つありますが、そこには日本の法律や受刑者への対処に対する無知と、その裏返しとしての「人権真理教」が躍如としています。ここでは主なものだけ取り上げます。
 第一に「死刑執行の手続き、方法についての情報が公開されていない」と指摘していますがそんなことはありません。手続きは確定後、法務大臣の署名捺印によって執行され、その氏名も公開されます。また方法は誰でも知っているとおり絞首刑です。
 第二に「死刑に直面している者に対し、被疑者、被告人段階、再審請求段階、執行段階のいずれにおいても十分な弁護権、防御権が保障されていない」とありますが、これもウソです。日本の司法手続きは重大犯罪においてきわめて慎重であり、前三者については確実に保障されています。
 もっとも裁判員裁判のもとでは、しばしば求刑越えの判決が出されることがありますが、これはむしろ裁判員制度自体の問題点です。裁判員制度は、英米系の陪審員制度をより進んだ制度と勘違いした弁護士たちが日本にもそれに類する制度の導入を強引に進めた結果できた制度です。いまその問題点については論じませんが、ご本家の陪審員制度こそ被告人段階での十分な弁護権、防御権が保障されていない欠陥を表わしているのです。この点については拙著『「死刑」が「無期」かをあなたが決める 裁判員制度を拒否せよ!』参照。
 また最後の執行段階については、死刑制度が存在する以上、確定者に執行段階で弁護権や防御権を保障することは論理矛盾であり、法そのものの権威を失墜させます。さらに日本の実態として、死刑が確定しても執行までの期間に高齢に達していたり心身の健康を損なっていたりすれば延引されるのが普通です。
 第三に「心身喪失の者の死刑執行が行われないことを確実にする制度がなく」とありますが、これもデタラメです。刑法39条には「心身喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」とあって、入念な精神鑑定が行われることが保障されています。国連は日本の刑法を読みもしないでこういう断定を下しているのです。
 第四に国連勧告では「死刑執行の告知が当日の朝になされること」がけしからんという趣旨になっていますが、もっと前に告知すべきだとでもいうのでしょうか。心の準備期間が長い方が人道的だと言いたいのでしょうが、さてここにはキリスト教文化圏と日本との価値観の違いが出ています。
 日本では死刑囚の多くが「いつ告知されてもおかしくない」という覚悟を早くから決めて「お迎えの日」を静かに待っています。考え方によりますが、あらかじめ執行日を知らされていれば、むしろ多くの日本人はかえって動揺と不安の日々を過ごさなくてはならないでしょう。この国連の勧告には、キリスト教文化圏の価値観を普遍的なものとして押しつけている傲慢さがあらわです。
 何よりも問題なのは、日弁連幹部が、法律の専門家でありながら、この勧告の明らかな誤りを認めず、そのまま自分たちの主張に利用している事実です。
 ③の誤判、冤罪の可能性は廃止論者が必ず持ち出す論拠です。しかし誤判や冤罪を防げるかどうかは、法理上、死刑制度の存在とは直接のかかわりをもちません。日弁連は判断形式を誤っています。それはちょうど交通事故の可能性がゼロではないから車を廃止しろという議論が間違っているのと同じです。
 冤罪をいかに防ぐかは、捜査から判決までの全刑事過程における手続きをいかに厳正・慎重に行うかというテクニカルな問題であって、国家が死刑制度を持つことが是か非かという本質的な問題とは別です。冤罪をゼロにするためにどういう司法手続きがさらに必要かと問うのが正しい判断形式なのです。再審制度があるのもそのためで、これが不十分だというならそれを改めていけばいいのです。
 ④⑤の世界情勢は死刑廃止に向かっているという議論もよく聞かされます。しかしこれまた欧米が全部正しいという価値観を押しつけるもので、単なる情勢論におもねています。
 日弁連のこの宣言では、⑧で「そもそも死刑制度は世論だけで決める問題ではない」と正しい指摘をしています。ところが世界の多くの国が廃止しているから日本もそれに倣えというのは広い意味の世論に従えといっているのと同じで、論理が破綻しています。日本では「死刑もやむを得ない」という世論は直近で八割を超えていますが、この数字が必ずしも存置論者の論拠にならないのと同断です。両陣営は水掛け論をやっているのです。
 また廃止論者は国の数や「先進性」というあいまいな基準を傘に着ていますが、これは多様な文化を尊重するリベラルなインテリのスタンスと矛盾しています。
 しかもそれを言うなら、廃止または凍結した国が数では多数派でも、中国、インド、インドネシア、パキスタン、バングラデシュなど、人口の多い国では存置しており、超大国かつ先進国であるアメリカの三十三州でも存置されていることを考慮に入れるべきでしょう。そこでいま、少なく見積もってアメリカの全人口の半数が存置側の州に住んでいるとすると、その人口は一・五億人になります。
 以上を勘案した上で、四捨五入して人口一千万人以上になる国で、存置国:廃止国(事実上の停止も含む)の人口を集計してみると、約五十二億人:約十七億人となり、人口比では圧倒的に存置国のほうが多いことがわかります。
http://www.geocities.jp/aphros67/090100.htm
http://ecodb.net/ranking/imf_lp.html
 もう一つ重要なことは、たとえ法的には廃止されていても、欧米諸国では、凶悪犯やテロリストを逮捕前の犯行現場で警察が殺害してしまうことが非常に多いという点です。またフィリピンや南米諸国のように法的には廃止の建前を取っていても、麻薬所持や取引だけで超法規的に殺してしまうような国もあります。
 警察による殺害は審理抜きの死刑と同じです。このほうがよっぽどひどい「人権侵害」に当たるはずですから、国連および日弁連幹部はこれらをきちんとカウントして、それに対して強く非難の目を向けるべきでしょう。「人権真理教」の弁護士たちは、著しく公正を欠くと言わなければなりますまい。
 ⑥の「死刑に犯罪抑止効果があるかどうかは実証されていない」というのは、正しい指摘です。本当に実証するためには、少なくとも人口、政治形態、経済規模、文化的特性、治安状態、国民性などが非常に似通った複数の国を選び出し(そんな国はまずありませんが)、一方は廃止、他方は存置して、数十年にわたって実験結果を比較してみなければならないでしょう。しかしそんなことは不可能です。ですから、ここでも廃止論者と存置論者は決着のつかない水掛け論をやっているのです。
 ⑦「十分な情報によって世論が変化する」は、日弁連も大いに世論を気にしている証拠で、先述の通り⑧と矛盾します。「十分な情報」という言葉で何を言おうとしているのかよくわかりませんが、もしこれが正しいなら、むごたらしい犯行現場や被害者遺族の心情について「十分な情報」が与えられれば、世論はさらに存置側に傾く可能性もあるでしょう。日弁連幹部の論理はそういう事情を公平に見ずに、もっぱら「初めに廃止論ありき」で、そのための政治的な闘争をやっているのだということを自己暴露したものと言えます。
 ⑨「殺人数が減っているから死刑は必要ない」というのはまったくの没論理です。いくら減っていても冷酷な動機と残虐な手段で何人も殺す殺人犯は現にいますし、これからの情勢次第で凶悪殺人は増えるかもしれません。
 以上、「死刑廃止宣言」の論拠を検討してきましたが、総じてこれらは、表層の情勢論に終始していて、そもそも死刑とは何か、それが行なわれるとすればその意義はどこにあるのかという本質的な問いに対する考察が欠落しています。
 唯一⑩がその本質論に触れていますが、それもただ「国家が生命を奪う最大の人権侵害」という犯罪者個人の被害の面が押し出されているだけで、被害者の側の悲しみや憤りについてはまったく思料されていません。これでは被害者の立場に立つ人たちが怒るのも当然と言えるでしょう。(以下次号)
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誤解された思想家・日本編シリーズその3

2016年11月23日 15時18分34秒 | 文学
      




慈円(1155~1225)


『愚管抄』は、神武期から起こして自らの晩年に当たる承久年間までを綴ったユニークな歴史書です。ユニークなというのは、この書を「歴史書」というジャンルに収めることに大きなためらいが残るからです。
 というのは、まずこの書には、単なる伝承や歴史事実が記述されているのではなく、摂関家を出自に持ちしかも天台宗座主という仏教界の最高位についたひとりの個人の、特別に選ばれた地位から見た貴族的歴史観が執拗に表現されているからです。その意味でむしろ歴史哲学書と呼んだ方がふさわしいでしょう。
 また保元の乱の一年前に生まれた彼は、崩れゆく貴族政治と勃興する武家政治との対照を目の当たりにしています。その乱世のありさまの描写に最も多くのページを割いているのですが、この場合も単に事実を客観的に記述するのではなく、あくまで自分が等身大の位置から見聞した多くのエピソードを中心に据えて書かれています。
 つまり作者は自分の主観的な視点をけっして崩していません。その意味では日記のようでもあり、天皇や上皇や公達のありさまを生き生きと綴った部分には、男性版『源氏物語』のような趣さえあります。そういう意味では、文学書としての側面も大いに持っているわけです。特定の人物や宗派に対する毀誉褒貶の評価もあからさまですから、社会評論といってもおかしくないでしょう。。
 さらに、最後の巻第七になると、終わりに近づくほど政治の現状を嘆く言葉がしきりと繰り返されるようになり、加えて、実際に深い関係にあった後鳥羽院の武家打倒の野心に対して、近臣として陰に陽に諌める調子が強くなっていきます。余命の少なくなったことを自覚した作者が、政治に対する自分の思想をあたかも遺言のごとく悲痛な思いで訴えているように見えます。その意味からは、この書は政治思想の書であるとも言えます。もちろんその政治思想は、後述するように、現代にも通ずるものをじゅうぶんに持っています。
 ちなみにこの書は承久の乱の一年前の一二二〇年(承久二年)に書かれ、乱後に修訂が加えられているというのが定説らしいですが、乱の様子や後鳥羽院以下、三上皇が配流された記述はまったく見られません。ですから、最後の部分は乱以前に書かれたものと見るのが自然でしょう。慈円は乱以後も四年生きていますが、この事実についてはあまりのことに筆を執る気も失せたのかもしれません。

 この書は、かくも重要な意義と価値を具えた古典であるにもかかわらず、読まれることがまれな書物として知られています。まさにその点こそが、「誤解された思想家」として第一に言挙げするに足ると私は思います。
ではなぜそんなに無視あるいは軽視されてきたのか。
 その理由は、なんといってもこの書のいわゆる「難解さ」にあるでしょう。私もできるだけ原文に当たろうと試みましたが、正直なところ外国語文献のようで、専門家(大隅和雄氏)の現代語訳にほとんど全面的に頼らざるを得ませんでした。
 このいわゆる「難解さ」はどこからやってくるのか。いくつか理由を考えてみました。

①現代人がカタカナ表記に慣れていないこと(後述)。
②個々の文章自体はそれほど難解ではありませんが、『源氏物語』と同じように複数の人間が錯綜して登場しながら、その主語がはっきりせず、また同一人物がいろいろな呼称で呼ばれるので、天皇家や摂関家の精密な系図を傍らに置きながら読まないと、誰のことを指しているのかわからなくなります。
③大隅氏が指摘していることですが、挿入句が次々に挟まれ、くねった文体になっていること。これに付け加えると、慈円の連想がときおり時間を超えてあっちこっちに飛んでいくので、よほど神代から当代までの流れを把握していないと、ついていくのがたいへんです。
④先に触れたように、書のスタイルが独特の多面性を持つので、近代人の分類感覚にうまく適合せず、「いったいこれは何を書こうとしたのか」という疑問を提起しやすいこと。
⑤最後に読者側の問題。これについては、松岡正剛氏が的確な指摘をしています。そのくだりを引用しましょう。
http://1000ya.isis.ne.jp/0624.html
日本人は、このような人物の歴史観に慣れていない。トップの座についたアリストクラシーの歴史観を受け止めない。聖徳太子や藤原冬継や北条泰時を軽視する。どちらかといえば西行や兼好法師や鴨長明の遁世の生き方に歴史観の襞をさぐったり、民衆の立場というのではないだろうが、『平家』や『太平記』にひそむ穢土と浄土のあいまに歴史を読むのがもっぱら好きだった。為政者に対しても、将門や義経や後醍醐のような挫折者や敗北者に関心を示して、天智や頼朝や尊氏のような勝利者がどのように歴史にかかわったかということには、体温をもって接しない。系統から落ちた者をかえって熱心に読む。(中略)けれども『愚管抄』は、そうした従来の判官贔屓の好みだけでは読めないのである。

 さてその「アリストクラシー」の歴史観ですが、これは簡単に言うと、次の四つくらいにまとめられるでしょう。なおこの番号順は、抽象的な原理から次第に具体的な提言のレベルにまで降りてくるように配列されています。

①この世の出来事には、良いことにも悪いことにもすべて「道理」がはたらいている。その「道理」は世につれて移り変わっていく。
②この世は人の目に見えるもの(「顕」)だけで動いているのではなく、人の目には見えないもの(「冥」)によっても動かされている。「冥」は神仏のみがこれを知る。怨霊や天狗、狐なども「冥」の世界からの兆しである。
③王法と仏法とが車の両輪のように機能することによって、世の中はよくおさまる。
④天皇とそれを補佐する役割とがうまく噛み合った統治が行なわれる時、この世は秩序ある世界となる。

 慈円の言う「道理」とは一体何かについてはさまざまな議論があるようです。しかしこれは、たとえば孔子の言う「仁」やプラトンの言う「イデア」が何であるかをポジティブに定義しようとすると、必ずどこかはみ出す部分をもってしまうのと同じようなもので、それ自体はたいへん定義(他の言葉による言い換え)しにくいものです。「道理」といえば、「摂理」「理法」というのに近いでしょうが、それでは永遠に通用する法則のように聞こえて、彼が本当に言いたかったこととはずれてくるように思われます。「道理」という便利な言葉をあまりに多用させたせいかもしれません。これは自ら招いた第二の誤解でしょう。
 慈円は「世」とは「人」のことだと強調しています。そのことと「道理」は移り変わるものだという説とを重ね合わせて考えると、慈円の言う「道理」とは、要するに後から確認できる「運命」とほとんど同じことではないかと思われます。もちろん、こう決めつけてもやはりはみ出す部分はあるでしょうが、しかしこのように考えると、彼の思想の特色がよく浮かび上がってくるのです。
 彼は、当代を末法の世と考えていました。理屈としては、天皇の代数の限界は百代と言われており、あと十六代しか残っていないこと、また感情としては、あさましき乱世を目の当たりにしたのだから、これから時代は悪くなるばかりだという不安感を同時代人と共有していたことが挙げられます。ですからこの末法思想そのものは、とりわけて慈円の特徴というわけではありません。浄土思想の庶民への浸透と流行などもその一例と言えます。
 ちなみに慈円は、法然一派の専修念仏思想を悪魔の仕業とまで言って非難していました。いかにも僧侶の頂点に立った人らしく、そのプライドが許さなかったのでしょう。世俗の政争に明け暮れた兄の九条兼実が法然に帰依したのと比べると、興味深い違いですね。
 慈円の言う「道理」の特徴は、それが移り変わるものであり、たとえ上古にはことが滞りなく通ったとしても、堕落した今の世では、それをそのまま当てはめることはできず、その時代その時代に合った「道理」があるという点にあります。この考え方は、柔軟で現実的です。彼が歴史の流れを具体的にどう見ていたかに添って説明しましょう。

 神々の時代にはすべて明澄だったのだが、人の世になって「顕」と「冥」との分裂があらわれた。「冥」の世界は人間の手に負えなかった。そこで仏法が伝わり、聖徳太子の時代にこれが王法を支えてくれるようになった。しかしやがて天皇だけではこの世を治めきれなくなり、摂政関白との連携によって世俗世界を統治する必要が生まれた。ところが院政という節目を経て今度は武家の力が天皇家と摂関家を圧倒するようになり、これを無視するわけにはいかなくなった。武家はもともとは下賤の身分ではあるが、この趨勢には誰も勝てない。これも神仏が私たちに末法の世をいかに克服するかをお示しになっているのである。そこで、この危機を克服するには、武家を滅ぼすのではなく、実朝の死によって源氏の血統が途絶えたのを契機として、摂関家から将軍を出して摂関家と武家を一体化し、文武両面において、天皇家を援けるように再編成するのがよい。

 今から見れば貴族政治を何とか保守するための調子のよい合理化のようにも思えますが、慈円にしてみれば懸命に知恵を絞って編み出した歴史哲学・政治学であり、当代に思いを馳せれば、なかなかよくできた緻密な論理だと思います。慈円は、けっして天皇を絶対化しないし、その限界もよく見ています。後に扱う北畠親房の『神皇正統記』は、これより百年以上後に書かれていますが、後醍醐天皇側につき天皇親政の論理を編み出そうとした親房は、論理としては空想的で、その点、慈円のほうがはるかに現実を広くよく見ていたと言えるでしょう。これは『神皇正統記』が熱い情熱をたぎらせた「闘いの書」「実践の書」であるのに対して、『愚管抄』があくまでも冷静な智慧を重んじるという違いから来ているのかもしれません。
 丸山眞男は二つを比べて、やはり『愚管抄』のほうが優れているという評価を下しているそうですが、彼はまた晩年、古代研究に打ち込み、日本人の国民性を「歴史に対するオプティミズム」と規定しました。そして滅びかけてもまた蘇生するその連続性を、植物のように「次々と成り行くいきほひ」と形容しています。これはなかなか的を射た指摘で、災害と恵みとをもたらす自然の両面性に早くから向き合ってきた日本人の精神風土と深く関連しているでしょう。また、千数百年もの間一つの王朝を守り抜いてきた世界に類例のないこの国の性格を言い当ててもいます。
 ところで『愚管抄』がまさにこの「歴史に対するオプティミズム」「次々と成り行くいきほひ」を体現した書なのです。というのは、第一に、中国では国王の器量ひとつで国が栄えたり滅んだりする習わしになっているが、日本はそうではないとして次のように述べているからです。

コノ日本国ハ初ヨリ王胤ハホカヘウツルコトナシ。臣下ノ家又サダメヲカレヌ。ソノママニテイカナル事イデクレドモケフマデタガハズ。≫〈巻第七)

 また最後の問答部分で、「すでに世は落ちぶれ果てたというのにどうして容易に立ち直るなどというのか」と問われて「ある程度ならば容易なのだ」と答えると、「ではどうやって立ち直らせるのか」と再び問われ次のように答えます。

≪(前略)不中用ノ物ヲマコトシクステハテテ目ヲダニミセラレズハ、メデタメデタトシテナヲランズル也(後略)≫

要するに、あまりに繁多になってしまった官位の部類を整理して優れたものだけを残せばよいということです。では捨てられた人々が反乱を起こしたらどうするのかと問われて、だからこそ武士を側につけておく必要があるのだと答えます。さらに、誰が優れた人々を選ぶのかと問われて、そういうことをできる人が四、五人は必ずいる。その四、五人が選んだなら天皇は反対を唱えてはいけないと答えています。
 これは、国会議員や官僚がひどく劣化している今の衆愚政治の時代に大いに参考になる考え方です。私は国会議員の数を減らすのには反対ですが、有権者にも被選挙権者にもそれぞれ難易度の違うテストを課すべきだと考えています。また視野狭窄のタコツボ官僚を排するには、ハーバード大学を出なくてもいいですから、何年かに一度庶民の勤労現場に出向させるべきだと思います。

 慈円はまた、カタカナ表記を選んだことにきわめて自覚的で、こういうおかしな方法をとるのは、漢文では今の時代に読める人が少なく、できるだけたくさんの人に自分の考えを知ってもらいたいからだと述べています。当時、公式文書はすべて漢文で、和歌、日記、随筆などは女文字である平仮名と漢字が混用されていました。慈円は読者がある程度位の高い男性であることを想定して、その中間を狙ったのでしょう。これも効果はどうだったかはともかくとして、新しい試みでした。類例を挙げるなら、ルターが聖書をラテン語からドイツ語に翻訳したのに似ています。もっとも、その方法は、現代人が読むにはかえって裏目に出てしまったわけですが。

『愚管抄』は。いまから見れば私的なアングルに偏した書物なので、実証史的価値はさほどないかもしれません。しかし日本史の大きな変わり目をたまたま生きる羽目になった最高の知性が政治問題をどのように考えたかを知るには、超一級の資料だと言えましょう。日本における政治学の嚆矢といっても過言ではありません。
 それは彼が、この世に通底している原理を見破ってやろうという強い問題意識をもって、統治が行なわれる現場のすぐ近くで鋭い観察に徹したからこそできたことで、今日の政治を考えるのに、マスメディアの形式化した政局報道などに頼っていても、ことの本質が何も見えてこないのと似ています。私たちがマスメディアの流すウソ(たとえば「国の借金1000兆円」や「ヒラリー優勢」や「TPPは日本にとってぜひ必要」など)を見抜くために、信頼できる情報を選択し、それらを自分の頭で処理することが必要であるように、慈円は、よく見え、よく聞こえる情報だけを頼りに、自らの優れた、そしてややひねくれた哲学的知性を存分に駆使したのでした。

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鬼才ファジル・サイの魅力

2016年11月19日 00時43分02秒 | 音楽
      




 久々にクラシックコンサートに行ってきました。ファジル・サイ ピアノ・リサイタル。 なんとオール・モーツァルト・プログラムです。

11月17日(木) 19時開演 紀尾井ホール
【プログラム】
ピアノ・ソナタ第10番 ハ長調 K.330
ピアノ・ソナタ第11番 イ長調 K.331「トルコ行進曲付き」
 休憩をはさんで
ピアノ・ソナタ第12番 ヘ長調 K.332
ピアノ・ソナタ第13番 変ロ長調 K.333
幻想曲 ハ短調 K.475

 数年前、私の実家の近くの神奈川県立音楽堂で、音楽に詳しい友人のOさんと一緒に初めてファジル・サイの音楽に触れました。曲名は忘れましたが、最後に彼自身が作曲した曲が演奏されました。これがじつに独創的で面白く、しかもそこに出身国トルコのトルコらしさといったものが感じられたので、とても楽しい演奏会でした。私も含めて、観客は興奮し、万雷の拍手とともにスタンディングオベーションで終わりました。
 トルコらしさと書きましたが、別にトルコ文化に詳しいわけではありませんし、行ったこともありません。ただ思うのは、この国が古来、ヨーロッパ、アラビア、中央アジア、ロシアなどが出会う地点に位置していて、民族的にも宗教的にも政治的にもさまざまな要素が混淆した複雑な歴史を閲してきたという事情についてです。この事情からして、そこに独特の文化的特性があるに違いないと想像するわけです。それはひとことでまとめるなら、フュージョンそのものが国民性の根底をなしていると言ったらよいでしょうか。
 じっさい、あの時の自作自演の曲は、何とも言えない不思議な世界を開いていて、西洋的とかオリエンタルとかアラビア風とか、一定の様式やジャンルといったものに分類できないところが印象的だったのです。これには彼が現代人としてグローバル世界に住んでいて、さまざまな音楽のスタイルからインスピレーションを得ているといったことも関係しているでしょう。
 あのファジル・サイが、彼自身尊敬してやまないモーツァルトを弾くという。どんなふうに弾くか、とても興味深かったのです。
 今回のリサイタルですが、私の席は2階バルコニーの右側、つまり彼の顔を真正面から見下ろせる位置でした。チケットを取った時にはあまりいい席ではないなと思ったのですが、座席につくやいなや、こんなにいい席はないと気づきました。何しろ表情や手ぶり身振りがすぐ近くで見られるのです。
 さて演奏が始まりました。その演奏ぶりは期待に違わず、いや、期待以上に独創的で迫力に満ちたものでした。緩急、強弱、曲想の変わり目での変幻自在さ、低音部の力強さ、カデンツァの即興性、激しい音の奔流。聴いていて、これは本当にモーツァルトか? と疑いたくなるほど、それはファジル・サイの音楽になりきっているのです。言い換えると、モーツァルトという素材を借りて、ファジル・サイがいま、ここで自らの表現を心ゆくまでほとばしらせているのでした。ところどころミスタッチかな? と思える時がありましたが、そんなことは全然問題ではありません。
 しかも、表情、身振り手振りを見ていると、彼がいかに自分の音楽に没入しているかが如実にわかります。右手だけのパートでは、自分に向かって指揮するように左手を振ります。緩徐楽章では自ら酔うように体を鍵盤から引き離して瞑目します。その時々の曲想に合わせて顔をゆがめたり、上下左右に体をゆすったり、うっとりとした恍惚感を表情に出したりします。そうして何人かのジャズメンたちのように、弾きながらたえずかすかに口ずさんでいます。それがまったく邪魔にならない。つまり彼の音楽は、全身で表現し、その場で創造する音楽なのです。それは「唄」そのものであり「舞踏」であると言ってもよいでしょう。
 一方彼は聴衆に対しては笑顔などのサービス心をあまり表さず、挨拶も簡単でその態度はそっけないといってもよい。また概して楽章と楽章との間にほとんど間を空けません。あの「コホン、コホン」という咳払いの暇がないのです。いわば自分自身の「ノリ」にあくまでも忠実に弾くのです。
 これは好き好きというもので、感情過多であるとか、ひとりよがりだといった批判の余地があるかもしれません。型にはまった謹厳実直な演奏を好むクラシックファンからは、「不良」の烙印を押されるかもしれません。しかし私自身は、彼の「ノリ」にすっかり惹きつけられ、小さなライブハウスでジャズを聴いているときのような一体感を味わいました。興奮し、感動しました。その「不良」性を丸ごと肯定したいと思いました。
「これは本当にモーツァルトか?」と書きましたが、演奏後に余韻を反芻するうち、逆に、やはりこれこそが本当に「モーツァルト」なのだと思うようになりました。というのは、モーツァルトは、古典派後期に属するために、その記された楽譜の面ではたしかに古典的な秩序を大きく逸脱してはいませんが、おそらく実演の場では、即興性の妙味が大きな価値を持っていたと考えられるからです。当時は一回的な生演奏が記録されて後世に残ることを誰も予想していませんから、それだけ、はかなく消えてゆく「このいまの素晴らしいひととき」が限りなく尊重されたと思うのです。
 事実、ファジル・サイ自身が次のように語っています。
http://globe.asahi.com/meetsjapan/090608/01_01.html

 クラシック音楽の演奏から個性がなくなっている。最近では、本来、即興的に独奏される協奏曲のカデンツァも、演奏全体の解釈も、他人まかせになっている。これは間違っている。クラシックのピアニストがいくら技巧的に演奏しても、それだけではまったく興味を感じない。

 ベートーベンやモーツァルトでさえも、即興的な作曲家だった。シューマンは、毎日のように即興演奏を自分の生徒に聴かせていた。彼らは当時(自分の曲を)キース・ジャレットのように演奏したはずだ。

 ピアノに向かって、5歳のときから作曲してきた自分にとって、作曲するとは「構想すること」であるとともに「即興演奏の延長」でもある。いい曲は書き残さなくても、演奏すれば、覚えてしまうものだ。

 かなり挑発的で過激な発言のように見えます。しかしこの発言は、彼の演奏そのものの的確な自己批評になっています。発言と演奏との間に浮ついた隙がないのです。同時に、これこそが、もしかすると「音を楽しむ」ことの原点を表わしているのかもしれないと思いました。特に若いころからジャズ(モダンジャズ)に親しんできた私にはよく納得のいく発言です。そしておそらく、モーツァルトがこの発言を聞き、ファジル・サイの演奏を聴いたら、「そうだ、そうだ!」と共感を示すのではないでしょうか。
 歯医者などでBGMとして小さな音量で流れるいわゆる「モーツァルト」は、人の心を和らげる優しい優雅な音楽としてだけ機能しています。もちろんその機能を否定はしません。でも一日、「ナマなモーツァルト」に接した瞬間を私は決して忘れないでしょう。それはあのいわゆる「モーツァルト」とはまったく別の何かでした。
 アンコールでは彼の変奏によるトルコ行進曲をあっさり弾いて、さっさと引き上げていきました。演奏してほしかった「《キラキラ星》の主題による変奏曲 ハ長調 K.265」をここに掲げておきましょう。
Fazıl Say -Mozart- Ah vous dirai-je maman (Twinkle twinkle little star)


 蛇足を一つ。最初の曲、K.330の第一楽章は、私の娘が小学校5年の頃、ピアノ発表会で弾いたことがあり、それをレコードにしてもらったのですが、いつの間にかどこかに消え失せてしまいました。ファジル・サイの最初の音を聴いた途端、当時を思い出して懐かしい気持ちが込み上げてきました。言うも愚かなことですが、ファジル・サイの演奏と娘のそれとはそもそも比較するにも及びません。でも今回のリサイタルの始まりが、私的なあの思い出と重なったことによって、これだけ記録技術、複製技術が発達した今日でさえ、「音楽とは消え失せていくもの。だからこそそれに永遠の憧れを抱く値打ちがある」という真実の再認識につながったこともまた偽らざる事実なのです。私の好きなジャズマンの一人、エリック・ドルフィーが、あるアルバムの中で、こうつぶやいています。
"When you hear music, it's gone in the air. You can never capture it again."

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日本はトランプ新大統領を歓迎すべきである

2016年11月02日 02時08分00秒 | 政治
      





 アメリカ大統領選もあと一週間に迫りました。ヒラリー氏かトランプ氏か、世界中が注目しています。
 今回の大統領選は、いろいろな意味で、史上まれに見るセンセーショナルな選挙だと言えるでしょう。どういう意味でそういえるのか、以下思いつくままに列挙してみます。

①政治の素人で泡沫候補だったトランプ氏が、あれよあれよという間に16人もの共和党候補を出し抜いて大統領候補に昇りつめた。
②一年前には民主党員ですらなかった自称社会主義者・バーニー・サンダース候補が予備選で46%の票を取るという大健闘を示した。
③ヒラリー氏のパーキンソン氏病が疑われている。一説に余命一年。
④トランプ氏が「メキシコとの国境に万里の長城を築く」「イスラム教徒の入国を制限する」「日本は米軍の基地費用を全額支払うべきだ」「日本や韓国は核武装してもかまわない」など、いわゆる「暴言」を発していると報道された。
⑤ヒラリー氏が私用メールで公的問題をやり取りし、FBIが捜査したが7月時点でいったん打ち切られた。しかし投票日10日前になって捜査を再開すると発表した。
⑥両者への不支持率が、これまでになく高い。
⑦有力共和党員の中に、トランプ氏を支持しないと宣言する議員が何人も現れ、民主、共和両党のエスタブリッシュメントが、こぞってトランプつぶしに走っている。
⑧ヒラリー氏が国際金融資本家や投機筋から驚くべき巨額の選挙資金を得ていることが取りざたされている。クリントン財団にはチャイナ・マネーを含む膨大な裏金が流れ込んでいるとも言われている。
⑨トランプ氏の過去の女性蔑視的な発言やセクハラ疑惑がヒラリー陣営によって暴露され、彼は発言のほうは認めて謝罪したがセクハラ疑惑は否定した。
⑩マスメディアのほとんどが民主党寄りであり、トランプ氏自身もテレビ討論におけるその偏りを指摘している。
⑪トランプ氏は結果が出る前から「この選挙は不正選挙の疑いがある。自分が落選した場合には投票やり直しを申し立てる」と広言している。独自のテレビ局を創設するという噂もある。

 まだありますが、このくらいで。
 さてこれらの情報の向こう側に何が見えてくるでしょうか。

 ①と②について、どうしてこういう現象が起きたのか、日本のマスコミはほとんど論じませんが、理由は明らかです。すでに6月の時点でこのブログにも書きましたが、
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/a4185972e8dadf6f0151dc4b0a24fb67
これまでエスタブリッシュメント(ほとんどが白人エリート層)の統治によって成り立ってきた民主・共和の二大政党制秩序が、あまりにひどい格差社会(いわゆる「1%対99%」問題)の出現と中間層の脱落によって、崩壊の危機にさらされているのです。国際政治・米国金融アナリストの伊藤貫氏によれば、米国民の五割は百万円以下の金融資産しか持たず、65歳以上の引退者の三分の一は貯蓄ゼロの状態、一方ヘッジファンド業者トップの年収は時には五千億円に達するといいます。

 ③のヒラリー重病説は確たる証拠があるわけではありませんが、それを疑わせるに足る多くの動画が流れており、また事実9月には「肺炎」と称して入院しました。数年前には脳梗塞で倒れています。
 この重病説が事実なら、ヒラリー氏は、すでに大統領の任務をこなす能力を喪失しているのに、彼女の支持基盤の一つである金融資本家層によって無理に立てられた傀儡だということになります。私はその公算が高いと思います。米国で初めての「黒人」大統領の次は、初めての「女性」大統領。この看板が、実態とは裏腹に、人権やポリティカル・コレクトネスをことさら前面に押し出すアメリカという国の国民性にマッチすることは疑いがありませんから。

 ④のトランプ氏のいわゆる「暴言」ですが、これも先のブログ記事に書きました。「万里の長城」は、南米やメキシコからの不法移民がいかに多いかを物語っています(一説に現在二千万人超)。いくら国境警備員が努力しても水の泡だそうです。ちなみにトランプ氏は、不法移民を規制せよ、テロリストへの警戒を強めよと言っているのであって、合法的に合衆国国民になった移民やイスラム教徒を排斥しろと言っているのではありません。民主党の人道的理想主義の甘さと失敗を批判しているわけです。
 なお日本との安全保障問題に関するトランプ発言については後述。

 ⑤のメール捜査再開問題ですが、ヒラリー氏とトランプ氏の支持率にはこれまで水があいていたのに、これによってトランプ氏がヒラリー氏に肉迫したと公式メディアは伝えています。しかし、アメリカのマスコミは、日本以上にリベラル左派の傾向が強く、もともと水があいていたという報道自体、当てになりません。第一回討論会後のWEBによる百万人規模を対象とした世論調査では、トランプ氏が大差をつけたというデータもあります。第二回討論会後は、さらに圧勝だったそうです。
 ちなみにこのメール問題は、国家機密を私用メールで漏らしたのですから、明らかに重大な違法行為です。⑨のセクハラ疑惑などの比ではありません。

 ⑥の両者の不支持率の高さは、二人のキャラに対する感情的反発が大きいでしょうが、ヒラリー氏の場合は、きれいごとを言っていても⑧のような事情が一部の国民に見抜かれていることが関係しているでしょうし、トランプ氏の場合は、成り上がり物の品格のなさや、人種差別的ととられかねない発言からくるものでしょう。大衆社会では、イメージで決まってしまう部分が大きいですから。いずれにしても、この不支持率の高さは、今回の大統領選における、特に民主党サイドでのかつてない腐敗ぶりを物語っています。トランプ氏はタブーにひるむことなくその欺瞞性を突いたので、現状維持派から嫌われた面もあると思います。現状維持派とは、アメリカが打ち出してきた「普遍的価値」としての自由、人権などの息苦しい建前をまだ信じている人たちのことです。
 
 ⑦の共和党上層部によるトランプつぶしこそは、アメリカ社会がどういう状況にあるかを象徴しています。すでに語ったように、いまのアメリカは世界に類を見ない超格差社会です。共和党の政治エリートもまた、ウォール街の金融資本家やエスタブリッシュメントと密着しているので、その現実を突きつけられるのはたいへん都合が悪い。そこで反ホワイトハウスの代表として登場したトランプ氏の告発を躍起になってつぶそうとしたわけです。
 いったん代表として選ばれた候補者を引きずりおろそうというのは、結束の乱れを周知させてしまう利敵行為であり、はなはだみっともない。でもなりふり構わずそれをしてしまうほどにいまのアメリカは、二極体制ではもたなくなっているのでしょう。資本主義・自由主義のあり方という地点から、根本的に体制を見直さなくてはなりません。
 ちなみにトランプ氏は、プアホワイトにだけ支持されているというようなことを言う人がいますが、不正確です。中間層から脱落してしまった白人か、脱落の不安を抱いている白人から強力に支持されているのです。またたしかに黒人への浸透はいまいちであるものの、ヒスパニックからはけっこう支持されています。
 黒人貧困層はオバマ氏への期待をヒラリー氏にそのままつないでいるのでしょうが、その期待は現実には裏切られており、この八年間に黒人の平均的生活水準はまったく改善されていないどころか、さらに悪化しています。自由平等、人権尊重、マイノリティ擁護のイデオロギーに騙されているのです。
 またヒスパニックは、新たに侵入して来ようとするヒスパニックが同一人種のコミュニティで賃金低下競争を招き、治安も悪化させる可能性が濃厚なので、それを恐れています。だからそれを防いでくれる人を望んでいるのです。

 ⑩⑪の偏向や不正は相当のものらしい。マスメディアは民主党を陰で操る富裕層に牛耳られています。民主党政権は不法移民にも免許証を交付しますから有権者登録ができます。またアメリカではそもそも本人確認がきわめて難しく、二つの州にまたがって二回投票することも可能です。さらに、タッチパネル投票なのでUSBメモリーを使って登録された投票を大幅に変えてしまう不正もできるそうです。
 投票前に不正を指摘する候補者というのは前代未聞ですが、そんなことをするのは戦術的に不利であることをトランプ氏が知らないはずはありません(事実、オバマ氏に痛烈に揶揄されましたね)。それでも、あえてやるというのは、選挙戦術に長けたヒラリー陣営のやり口がよほど狡猾なのを感知してのことなのだろうと私は想像します。もっとも不正申し立ては、自分が勝てばやらないとちゃっかり言ってはいましたが。

 以上述べてきたことは、要約すれば、アメリカの民主主義は瀕死の状態にあること、それをトランプ氏が身命をかけて告発しようとしていることを意味します。アメリカは、すでに民主主義国ではなく、ごく少数の強者とその番犬どもが君臨する帝国です。
 私は、この間の選挙戦の経過を遠くからうかがい、信頼のおける情報を知るに及んで、もし自分がアメリカ人だったら、トランプ氏を支持したいと思うようになりました。
 たとえば彼は、金融資本の過度の移動の自由のために極端な格差を生んでしまった今のグローバル資本主義体制に批判的で、銀行業務を制限するグラス・スティーガル法の復活を唱えています。また死に体と化している国内製造業を復活させるためにTPPにも明確に反対の立場を取っています。スローガンの「アメリカ・ファースト」とは、孤立主義の標榜ではありません。イラク戦争以来、多くのアメリカ国民の命を犠牲にし、膨大な戦費を費やしてきたのに、アラブや北アフリカの「民主化」に失敗し、ただ混乱をもたらしただけに終わった過去を反省し、まず国内の立て直しを最優先にするというごく当然の宣言にほかなりません。
 この彼の政治的スタンスは、好悪の念を超えてアメリカの一般庶民の深層心理に届くはずですから、私はトランプ氏が勝つと思います。またたとえ敗れたとしても、いったん開いたパンドラの匣は元に戻りません。彼は強力な問題提起者としてその名を遺すはずです。
 もちろん、彼が大統領になったとしても、この腐敗した帝国の毒気に当てられて、同じ穴の狢になってしまうかもしれない。あるいは、彼の気骨がそれを許さないとすれば、あの野蛮と文明の同居した恐ろしい国では、ひょっとして暗殺の憂き目に遭うかもしれないとまで思います。

 同盟国である日本にとって、もしトランプ氏が大統領になったらどうなるのかという問題が残っていますね。
 先に述べたように、彼は安保条約の片務性を批判して、日本に応分の人的物的負担を求めています。これはアメリカからすれば当然の話で、日本が真に同盟関係を大切にするなら、この提言にきちんと付きあうべきです。そうして、その方が日本にとってもよいのです。なぜなら、対米従属と対米依存から少しでも脱却して、自分の国は自分で守るという世界常識を身につけるよい機会だからです。
 中国の脅威からわが国を守るためにはもちろんアメリカの協力が必要です。しかし協力を正々堂々と要請できるためには、まずこちらが自立した構えをきちんと見せなくてはなりません。平和ボケした日本人の多くは、何となく現状にずるずる甘えて、ヒラリー氏が大統領になってくれればこのままの状態が維持できると考えているようですが、はかない希望的観測というものです。彼女は、よく知られているように、名うての親中派です。日本のために中国と闘う気など毛頭ありません。
 私たちはこのことをよく肝に銘じて、トランプ氏が大統領になったほうがよほど「戦後レジーム」の脱却に寄与すると自覚すべきなのです。脅されて突き放されて、初めて目覚める――これが日本人のパターンです。自主防衛の機運を高め、法的にも物量的にもその準備を急ぐことができます。

 トランプ氏はまた、TPPに反対しています。これも日本にとって幸いするでしょう。なぜならTPPは、アメリカのグローバル企業にとってのみ都合のよい条約で、これを呑めば、皆保険制度をはじめとした日本のさまざまなよき制度慣行が破壊されるからです。安倍政権は、率先してこれを批准するというバカなことをやっていますが、自ら墓穴を掘っているのです。経済条約が日米軍事同盟の強化につながるわけではないということがわからないのですね。てんやわんやのアメリカの実態もよく観ず、自由主義イデオロギーという「普遍」幻想に酔っているのです。
 ヒラリー氏もTPPに反対しているではないかという人がいるかもしれません。誤解している人が多いのですが、ヒラリー氏の反対は、トランプ氏のそれとは違って、今の条約規定よりももっと自分たちに都合よくなるように再交渉しようという考えです。具体的には、大きなシェアを占める製薬会社の利益拡大を図って、これと癒着している自分たちの利益につなげようというグローバリズムそのものの魂胆に発しているのです。

 日本人はお人好しで消極的、情緒的で戦略思考が苦手です。でもいざとなると敢然と立ちあがる気概がないわけではありません。トランプ新大統領というショック療法を正面から受け入れ、歓迎する覚悟を速やかに固めましょう
 

【参考資料】
1.http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E6%B0%8F%E5%84%AA%E4%BD%8D%E3%81%AB%E5%A4%89%E5%8C%96%E3%82%82%EF%BC%9D%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E6%8D%9C%E6%9F%BB%E5%86%8D%E9%96%8B%E3%80%81%E6%8A%95%E7%A5%A8%E5%89%8D%E3%81%AB%E6%BF%80%E9%9C%87%E2%80%95%E7%B1%B3%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E9%81%B8/ar-AAjyjTN?ocid=sf#page=2
2.http://www.mag2.com/p/money/25640?utm_medium=email&utm_source=mag_W000000204_tue&utm_campaign=mag_9999_1101&l=bcw1560714
3.http://www.mag2.com/p/money/25621?l=bcw1560714
4.「Liberty」2016年12月号
5.「CFR FAX NEWS」2016年10月16日号
6.「正論」2016年12月号
7.「マスコミが報じないトランプ台頭の秘密」江碕道朗(青林堂)
8.産経新聞2016年10月30日付

 
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『第2回グローバリズムとメディアの犯罪①』小浜逸郎 AJER2016.10.17(3)

2016年10月17日 16時50分28秒 | 経済
      


政治経済チャンネルChannel Ajerに、美津島明氏とともに出演しました。よろしかったらどうぞ。

『第2回グローバリズムとメディアの犯罪①』小浜逸郎 AJER2016.10.17(3)


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誤解された思想家・日本編シリーズその2

2016年10月13日 13時46分48秒 | 文学

      





鴨長明(1155~1216)

ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし」といえば、誰もが聞いたことのある鴨長明の『方丈記』の書き出しですが、この見事な書き出しのために、この作品、および長明という人物について、ある種の誤解がまかり通ってはいないでしょうか。
 この作品は、一般には、『平家物語』と同じように、時代の激動を経験・観察した冷静な書き手が、戦乱や災厄や都の荒廃を目の当たりにして、権勢や栄華や奢侈を誇ること、人と争って欲望を満たそうとすることの空しさを説いた仏教的な無常思想の書として受け取られているように思われます。そう受け取ってしまうと、鴨長明という人が解脱と悟りの境地に達した聖の一人にも感じられてくるのですが、よく読んでみるとどうもそう単純ではない。
 ここにはむしろ長明その人の繊細で孤独な人格に根差した恨み節と強がりと未練がましさのようなものが匂っていて、また同時にその人間臭さは、自分の不徹底だった生き方への慚愧の念としても現れていると言えそうです。いきなり飛躍したことを言うようですが、ルソーの『孤独な散歩者の夢想』(拙著『13人の誤解された思想家』PHP研究所参照)によく似た面があります。そう言えばどちらも音楽に深く傾倒したのですね。長明は琵琶の名手だったようですが、このほかに歌を詠むことに最も力を注ぎ、後鳥羽院から歌合の寄人に召されています。

 ところでよく知られているように、『方丈記』は、前半が恐るべき火災と竜巻の被害、源平の争いのさなかの慌ただしい福原遷都、凄惨な飢餓、大地震など、都の大いなる乱れの記述に当てられていて、これは分量にして全体の約半分を占めます。そうして次のように締めくくられています。

すべて、世の中のありにくく、わが身と栖との、はかなく、あだなるさま、また、かくのごとし。いはんや、所により、身のほどにしたがひつつ、心をなやます事は、あげてかぞふべからず。

 ここがこの短い「随筆」の大きな転換点で、この後、人と人とが相接して暮らすことに伴う不如意の話に進み、次に自分の来し方を簡単に語り、今のライフスタイルについて紹介するという展開になっています。これはおそらく意識的に取られた方法で、長明は、なぜ自分が六十近くになって、わずか三メートル四方ばかりの粗末な住処を都の中心から離れた日野の里に求めたのか、その意味づけを一生懸命わかってもらおうとしているといった趣きです。あたかも前半の乱世の姿の記述は、そのためであったかのように。
 ところがおもしろいことに、その「方丈」のさまを描写する筆は妙に踊っていて、こういう自由な独居暮らしこそ理想的で、君たちは見習うべきだとでも言いたげなのです。

南に竹の簀子を敷き、その西に閼伽棚を作り、北に寄せて、障子を隔てて、阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢をかけ、前に法花経をおけり。東のきはに蕨のほどろを敷きて、夜の床とす。西南に竹の吊棚をかまへて、黒き皮籠三合を置けり。すなはち、和歌・管弦・往生要集ごときの抄物を入れたり。かたはらに、琴・琵琶おのおの一張を立つ。いはゆるをり琴・つぎ琵琶これなり。かりの庵の有様、かくのごとし。

 この後も、周辺の環境、風景をじつに詳しく、その春夏秋冬折々の風情がいかに自分の身に合っているかを述べ、また、毎日読経や持戒に汲々としなくとも適当にやっていれば罪を犯すこともないし、時々は松風や流水に合わせて琵琶を弾き歌を詠じて楽しむこともできるというような気楽な暮らしぶりを紹介しています。
 ここに描写された「方丈」は、たしかに広くはありませんが、かなり優雅でオシャレに感じられます。いまで言えば別荘暮らしのようなものか。しかも彼は必ずしも人との交渉を断った隠遁生活に徹したというわけではなく、近所の子どもと楽しそうに遊んでいるし、時々は、あるいはけっこう頻繁に、都に出ていたらしい。
 たとえば簗瀬一雄訳注の角川ソフィア文庫版巻末年表によれば、長明が庵を結んだ後に「『往生要集』(の写本)刊行す」とありますが、長明が上に書いている「往生要集」が、この写本を意味するとすれば、どうやってそれを手に入れたのか、相当のつてがなければできないはずです。またこれは、彼がこの年になっても、現実の状況に対する旺盛な好奇心と向学心とを持っていたことを示しています。何しろ往生要集といえば、法然による浄土宗再興期の知識人にとって、垂涎おくあたわざる必読本ですから(源信がこの原本を書いたのは、これより二百年以上前ですが)。
 また同じころ、彼は親友の推挙で鎌倉にまで赴き、実朝と何回も会ってもいます。
 ちなみにこの東下りの目的が何であったかはまったくわかっていません。実朝に短歌の指南をしたという説もありますが、実朝は藤原定家との間にすでに緊密な師弟関係を結んでいますから、どうもそれも怪しい。
 何よりも、自分のライフスタイルを、どうだ、いいだろうとばかりにこれほどしつこく自慢げに書くというのは、いったいどういう心根の表れでしょうか。へそ曲がりの私は、ついついそういうところに、長明自身のへそ曲がりぶりを読んでしまうのです。つまりはこれは自分の不本意だった前半生と、そういう運命を強いたこの世の不条理に対する屈折した恨み節ではないのかと。
 というのも、もし本当に過去に執着せず、今の暮らしぶりに満ち足りていて淡々と静かな日々を送っているのだったら、わざわざそんなことを構えて書く必要などないからです。世間から「半分だけ」遠ざかった物書き(知識人)の、未練がましい性とでも申しましょうか。

 では彼の前半生はどんなふうだったか。
 彼は下賀茂神社の禰宜・長継の次男として生まれ、父方の祖母のもとでかなり裕福な暮らしをしていたようです。短歌と音楽をことのほか好み、それにもいい先生がついていました。つまり由緒ある家のお坊ちゃんだったのですね。しかし十九歳のころ父を失います。三十代で祖母の家から独立し別の家を建てて住みました。事情はよくわかりません。この新しい家のことは、『方丈記』にも出てきますが、その大きさは、実家の「十分の一」しかなかったと書かれています。
 もはやあまり若いとは言えない三十三歳の時、千載集に一首が載りますが、歌論『無名抄』(『方丈記』とほぼ同じ五十代後半に成立)のなかで、その喜びをナイーブと思えるほどの調子で語っています。このナイーブさは、人が聞いたら書かずもがなの自慢とも聞こえ、そのあたりにこの人の人間関係のつたなさがほの見えます。
『方丈記』での屈折した強がりの姿勢に収斂していく芽は、すでにここに胚胎していたのかもしれません。音楽の先生に「この集には大したことのない人の歌がいくつも入っているので、それを見て悔しく思うはずなのに、一つ入っただけでそんなに喜ぶとは、とても心がけが美しいですね。それでこそ道を尊ぶというものです」とほめられたことまで記しています。ふつうそんなこと公開をもくろんだ作品に書きませんよね。
 また、父が生きていれば河合社の禰宜職を継ぐはずであったのを、歌詠みにうつつを抜かして社の奉公をおろそかにしている間に、親戚筋の鴨佑兼の進言によって佑兼の息子・祐頼にその職を奪われてしまいます。どうも長明はこの件で佑兼のことを後々まで恨んでいたフシがあります。
 賀茂川の別名として賀茂社の縁起の中に見える「瀬見の小川」という名を自分の歌に詠みこんだとき、佑兼から、ハレの場で使うべきその名をふだんの歌会などで使うべきではないと非難されました。ところがその名を判者も含め他の歌人が使うようになって広まってしまいます。するとまた佑兼が、「だから言わんこっちゃない。誰が初めて使ったかわからなくなってしまうじゃないか」と因縁をつけました。ところがこの長明の歌は後にちゃんと新古今和歌集に載ることになります。長明はその一部始終をやはり『無名抄』の中に書きこんでいます。彼にしてみれば、ざまあみろという気持ちだったのでしょう。でも何十年もたって書き下ろした「歌論」のはずなのに、ずいぶん執念深いところがありますね。
 ところで佑兼によって禰宜の職を奪われたことは、長明にとってよほど大きな人生の挫折だったと思われます。河合社の話の時には涙を流して喜んだのに、一度その話がおじゃんになってからは、おぼえめでたかった後鳥羽院がせっかく長明のために別の小社を建て、そこの神職に就くことを勧めてくれたのに、院の申し出を「もとより申す旨たがひたり」とあっさり断ってしまいます。この辺にも融通の利かない頑なな性格がよくあらわれていますね。
 さてこの事件の後、しばらく姿を隠してから再び召し出されるのですが、やがて五十歳の時突然出家して大原に五年間こもります。しかし、この五年のことを『方丈記』では、ただ「むなしく大原山の雲に臥して」としか語っていません。無意味な五年間だったと総括しているのですね。想像をたくましくするに、当時大原は、出家僧が群れて集団を作っていたそうですから、そこでも性狷介な長明は人間関係があまりうまくゆかず、不適応を起こしたのではないか。
 いったいに『方丈記』の長明は、自分の人生の大事な節目にどういう事情があったのかについては口をつぐんでいます。祖母の家を出たこと、出家したこと、大原を出て日野に移ったこと、すべてその動機や理由が何も語られていません。佑兼の横槍で禰宜職を失ったことについては、その事実にすら触れていません。この私生活上のいくつもの大事件に対する沈黙と、都の天変地異・荒廃を語る饒舌とはたいへん対照的で、私はそこにどうしてもある意図を感じないではいられません。
 つまり彼は、自分の人生上の有為転変の帰結として方丈の庵に到達したはずであるのに、その到達の理由を、一般的なこの世の無常という仏教的世界観に置き換えて表現しようとしたのです。そう考えないと、都の悲惨なありさまをこれでもかこれでもかと畳みかけるように活写するその鬼神めいた情熱と、方丈に落ち着いたときの心境をことさらうきうきと語る調子との間のちぐはぐさの印象がどうにも解決がつきません。それは論理的には整合性が取れているのですが、情緒面ではいかにも無理をしている――そんな感じなのですね。
 これは格別非難に値することではありません。何よりも漢文脈の簡潔な調子を活かした和漢混淆文によるこの随筆文体は、それまでの女性的な文学(物語、日記など)では考えられなかった力強さと思想性とに満ちており、そのオリジナリティは否定すべくもありません。男性として、あえて公的な事件を媒介に私的な心境を語る方法を選び、私的な事件を連綿と吐露する「女々しい」流れのほうは抑制せざるを得なかった。だからこそ、こうした斬新な文体が生まれたのかもしれません。
 長明はおそらく、性格的には過剰な自意識をもて余し、感情の起伏の激しい人であったように思われます。それゆえ、世渡りがあまり上手でなく、人間関係で多くの失敗を重ねたのではないでしょうか。

『方丈記』は、最後に、奇妙な迷いの表白で終わっています。仏の教えに従うなら、こうやって草庵暮らしを愛するのも静かな生活に執着するのも罪なことで、自分の振る舞いは格好ばかり聖人ぶっているけれど、心は濁りきっているのではないかと自問しているのですね。

栖はすなはち、浄明居士維摩のこと――引用者注の跡をけがせりといへども、保つところは、僅かに周利槃特釈迦の弟子――引用者注が行ひにだに及ばず。もしこれ、貧賤の報のみづから悩ますか。はたまた、妄心のいたりて、狂せるか。その時、心さらに答ふる事なし。

 あんなに得意げに今の暮らしぶりを語っていたのに、これはどんでん返しともいうべき展開です。察するに、長明の強い自意識は調子に乗りすぎたことを反省し、どう収めようかと苦慮した挙句、やはり悟りの境地に達した隠遁者を気取るよりは凡夫の煩悩をさらけ出しておく方が、当時の世相にふさわしいと考えたのでしょう。受け狙いとまでは言いませんが、なかなか心憎い自己演出です。
 新古今から二首。

  よもすがら ひとりみ山のまきのはに くもるもすめる有明の月

 これは禰宜職を失ったショックで引きこもってから出家するまでの間に詠んだ歌らしいですが、ひとりみ山にこもって鬱屈した気分で過ごしていても、自分の気持ちは有明の月のように澄んでものがしっかりと見えているという心意が込められているように思われます。やはり相当に意地っ張りでこわばったイメージですね。

    身ののぞみかなひ侍らで、やしろのまじらひもせでこもりゐてはべりけるに、葵をみてよめる
  みればまづいとゞ涙ぞもろかづら いかに契りてかけはなれけん


 これこそは、長明の真情が直接に出ていると言えるでしょう。「もろかづら」は葵の別名でもあり、葵と桂を組み合わせて賀茂祭の飾りにするそうです。だから「もろ」が「もろい」の掛詞とも見え、もろくも縁から見放された自分を暗示していることになります。また「かけはなれ」は、葛の縁語でもあるそうです。要するに、本来なら賀茂祭を取り仕切る立場になるはずであった自分なのに、どんな因縁からこんな悲運にあったのかと嘆く歌ですね。
 構えた「随筆(エッセイ)」ではいろいろと言葉の武装を凝らすことができましたが、やはり「歌」にこそ凡夫としての本音が出てしまうとは、昔も今も変わらないことなのでしょうか。このあたりまで長明に近づいてみると、彼に対するえもいわれぬ親しみがようやく湧いてくるような気がするのです。

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消費増税問答(その3)

2016年10月07日 10時18分31秒 | 経済
      






Q9:もう少し質問させてください。
「もう(国内で)モノが売れなくなっている」という状態がありますね。これは例えば車や携帯電話や各種サービス業など、すでに大体の人が手に入れてしまい、市場が飽和して、商品としての機能充実やサービスも熟しきって新たな需要を喚起できないという状態がけっこうあるんではないかと思います。それには社会構造や人口構成の変化も関係していて、資本主義先進国のある種の行き着く先なのかな? とも思っているんですけど、
・こういうことが内需頭打ちの構造的な原因になってるという理解は正しいと思いますか?
・そしていまのデフレを助長している要因のひとつではないかという疑問についてはどう思いますか。、
この「モノの売れなさ」に対しては、財政出動は経済という面における対症療法としての一定効果と理解すべきであって、社会構造の本質的な改善となると、体制変換のような国家的大問題になると思うのですが。


A9:これは、たいへん重要な問題です。
貴兄の疑問は、半分は当たっていますが、半分は当たっていません。そうして、多くの人が貴兄のように考えているようです。
 当たっているのは、「先進資本主義国では、モノやサービスが余り過ぎて、もう需要は伸びないだろう」とみんなが思い込んでいるために、じっさいに需要が開発されなくなってしまっているという事実。つまり、経済の動向はその時々の心理が大きな決定要因となるという一般的な事実ですね。たしかに、今の日本では、大部分の人がそう思い込んでいて、そのため、実際に内需拡大の方向に経済が動かないということがあると思います。
 しかし、これは結局、「いまはデフレなんだから、デフレが続くのだ」という同義反復のペシミズムを導くだけです。
 内需を拡大しなければこのひどいデフレからの脱却は不可能だという立場からは、この思い込みを取り除く論理を立てなくてはなりません。というよりも、内需は、実際やろうと思えばいくらでも拡大できるし、その条件は、今まさにそろいつつある、というのが真実です。

 具体的にその条件を挙げましょう。

①少子高齢化による労働力不足。
 これは、建設業、介護などの福祉の分野で深刻で、他の分野でも早晩そうなっていくでしょう。つまり、これからの日本は、仕事がない状態から、仕事があるのに人材がない状態へと移っていくのです。これは、内需を拡大するまたとないチャンスですし、同時に賃金が上がっていくことにもなります。
 ちなみに、この問題を口にする時に、ほとんどの人は、政府やマスコミが流した、将来の人口減少を理由として挙げますが、これは大きな誤りです。人口減少は、100年、200年単位の長期的な予測で、そのカーブは極めて緩やかです。事実は人口減少が問題なのではなく、そんなには減らない総人口と、急速に減っている「生産年齢人口」(15歳から64歳まで)とのギャップこそが問題なのです。つまり総人口に対する働ける人の割合が減っているからこそ、人手不足が深刻になり、だからこそ、需要が拡大する余地が大いにあるわけです。
 安倍政権は、一方で、この人手不足問題の解決を、技術開発投資による生産性の向上に求めていて、これは正しい方向です。ところが他方では、外国人労働者を増加させる政策も取っています。事実上の移民政策ですね。これは前者の方向と矛盾するだけでなく、ヨーロッパの移民難民の惨状をちょっと見ただけでわかるように、けっしてとってはならない愚策です。外国から安い賃金に甘んじる労働者が大量に入ってくると、賃金低下競争が起き、国民生活がいよいよ貧しくなる方向に引っ張られます。じつは財界はそれを狙っているので、その点で安倍政権、ことに自民党は、財界の圧力に屈しています。また、移民が増えると、深刻な文化摩擦も引き起こされます。
 外国人労働者拡大(実質的移民)政策は、いわゆるアベノミクス「第三の矢」の規制緩和の一環で、ヨーロッパが取りいれてきて失敗したことを目の当たりにしていながら、それを周回遅れで見習おうとしているのです。
 ちなみにここで言う「外国人」とは、その大きな部分が中国人です。中国政府は尖閣問題だけではなく、日本や南シナ海への進出を露骨に狙っていますから、日本が移民政策などを取ると、これ幸いとばかりどんどん押し寄せてくるでしょう。安全保障の意味からもけっしてとってはならない政策です。

②超高齢社会による、医療・福祉分野での需要の拡大。
これは、あらゆる分野に波及する可能性を持っていますよね。特に介護にたずさわる人は女性が多いのに、力仕事ですから、パワードスーツなどのAI機器の開発・普及が期待できます。

③高速道路網、高速鉄道網の整備による生産性の向上と地方の活性化
これは、地図を見るとわかるのですが、計画だけはすでに何十年も前からあるのに、その整備状況はひどいものです。先進国の中で格段に遅れています。
 山陰、四国、九州東周り、北陸から大阪までの各新幹線はまだ出来ていませんし、山形新幹線も中途半端で、鶴岡や酒田や秋田にそのままでは抜けられませんね。北海道新幹線も、札幌まで延ばさなければほとんど意味がありません。同じ地方の高速道路網も、全然整っていません。
 これが整備されていないために、地方の過疎化が進み、東京一極集中がさらに進むという悪循環に陥っています。これは、単に地方が疲弊してゆくという問題だけではなく、災害大国である日本の首都で大地震が起きたら、地方に助けてもらえないということも意味します。
 なおまた、新しい交通網の整備だけではなく、すでに1964年の東京オリンピックの頃に整備された古いインフラが、日本中で劣化をきたしていて、そのメンテナンスがぜひとも必要だという事実もあります。道路、橋、歩道橋、水道管、火力発電所など。こういうことにお金をかけることがいかに大切かは、ちょっと考えれば誰でもわかるのに、多くの人の頭の中には、消費物資の飽和状態というイメージしかないのです。

④スーパーコンピューターの開発
 日本は、この分野で世界で一、二位を争っていますが、蓮舫氏の言う「どうして二位じゃいけないんですか」は、絶対にダメです。すでにスピードでは中国に追い越されていて、省エネ部門(いかにエネルギーを使わずに高性能とスピードを達成するか)でも追い越されかかっています。エクサスケール(100京)のコンピューターが完成すると、コンピューターが自らコンピューターを作り始めるので、2位以下の国はもはや自国でコンピューターが作れず、すべて、1位になった国が作るコンピューターを買わされることに甘んじなければならないそうです。

 総じて、人間の技術の発達史を見ると、需要が頭打ちになるなどということはあり得ないことがわかります。新しい技術は、これまでの困難を克服するだけでなく、新しい欲望を作り出すのです。それがいいことか悪いことかは、この際措きますが。
 なお貴兄のいわゆる「資本主義の行き着く先」という問題は、実体経済における需要の頭打ちというところに現れるのではなく、金融資本の移動の自由や株主資本主義が過度に進んだために、ごく一部の富裕層にのみ富が集まり、貧富の格差が極端に開いているところに現れています。その意味でも私たち国民生活に直接役立つ実体経済の分野に投資がなされなくてはならないのです。


Q10:最後に幼稚な疑問ですが、最近は大新聞さま以外にもいろんなニュースサイト、オピニオンサイトがあり、情報ソースの選択肢自体は多いにも関わらず、例えば経済に明るい若手の企業家などが一見クレバーなことを言うようなケースは多くても、こういったことを一般の肌感覚に照らしてわかりやすく発信するところが少数派な気がするのですが、それはなぜですか。真実をきちんと見つめる人が常に少数派だからですか?

A10:これは残念ながらその通りですね。この傾向は、情報過剰社会になって、ものをよく考える習慣を身につけていない人たちが、いっぱし意見を発信するので、ますます真贋を見分けることが難しくなっていることを示しているでしょう。高度大衆社会は、無限に多様化したオタク社会でもあって、ものごとを総合的に把握する人が相対的に少なくなっていると言えそうです。
 真実をきちんと見つめて正しいことを言うのはいつも少数派です。マルクスは、バカどもが下らない議論をしているときに、「無知が栄えたためしはない!」とテーブルを叩いたそうですが、実際には「まずは無知こそが栄える」というのが正しいでしょう。
 私もそんなに大きなことは言えませんが、これまでの自分のささやかな言論活動のなかでも、聞く耳を持たない奴らに何度言ってもわかるはずがないという残念な感慨をたびたび味わってきました。
 しかし、こと経済に関しては、貴兄以上に音痴だったのですが、少しばかり勉強するうち、きちんとものを見ている人は、たとえ少数でもいるものだということに気づきました。これまで名前を挙げた人たち、田村秀男、三橋貴明、青木泰樹ら各氏ですが、あと二人、、内閣官房参与を務めている藤井聡氏と、経産省官僚ですが独自に言論活動をしている中野剛志氏を挙げておきましょう。ともかくこういう人たちがいるかぎり、こちらも絶望ばかりはしていられないという気になってくるわけです。

(このシリーズはこれで終わります。)
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消費増税問答(その2)

2016年10月03日 14時17分55秒 | 経済

      





*前回、このシリーズ、2回で終わらせると書きましたが、後半が長いので、3回とさせていただきます。今回はその2回目です。

Q4:消費増税を主張する財務省や御用学者が間違っていることはよくわかりましたが、なぜそういったことがマスコミで言われないのでしょうか? また財務省や御用学者はなぜ真実を隠してソッチに世論を誘導しようとしているのでしょうか?
まずマスコミについては、左翼的偏向などは影響なさそうだから、彼らがそうなってしまう仕組みがよくわかりません。単に不勉強というに尽きるのでしょうか? それとも何か、彼らがソッチへ行ってしまう偏りの根があるのでしょうか?
 そして財務省については、
・本当は真実を理解しているが予算拡大=権益確保のために意図的に世論誘導しているのか? あるいは他の理由もあるのか?
・増税という財務省の悲願は、その本来の意味/無意味を問うことを忘れるほど魔力のあるものなのか?
・あるいは、経済理解には常に諸説あり、現状ではソッチ派がなんらかの理由で(東大閥とか)主流になってしまう(つまり彼らとしては意図的ではなく、本当にソッチが真実だと思っている)のか?
 このへんはどうでしょう。


A4: なかなか鋭い質問です。当然起きてくる疑問で、私もこれについては相当考えてきました。貴兄の言っていることはある程度までは当たっています。これも前回紹介した拙著『デタラメが世界を動かしている』p73~74に書かれているのですが、もう少し展開してみましょう。

 まず、財務官僚ですが、彼らは何らかの悪意とか、作為とかがあってそうしているのではなく、ケチケチ病という一種の強迫神経症と、臆病という不治の病と、長年続いた公共投資アレルギーとに骨の髄まで侵されているのでしょう。単年度会計で収支バランスを取る、ということだけが彼らの習慣的な思考スタイルになってしまっていて、それを抜け出すことができなくなっているのだと思います。いわば彼らは「緊縮財政真理教」なる宗教団体と化しているとも言えましょう。
 なぜそうなるのか。
①ひとつは、彼らが悪しき意味での「秀才」だからです。この連中には、普通の国民が何に関心を持っているかという一番大事なことが視野に入っていません。「経済学」をお勉強して、密室の中でシコシコと机上の空論をもてあそんできた連中です。彼らは、与えられた課題、つまり、国家財政を均衡させるには数字をどう動かせばよいか、ということしか考えていず、そのためには、赤字国債や国債利子の支払いを減らして税収を増やさなくてはならないというテーゼに金縛りになっているのです。先に述べたとおり、税率を上げても税収は増えないのですがね。
②その「経済学」というやつですが、現在幅を利かせている「主流派経済学」は、「すべての個人は利益最大化と効率のために合理的な行動をとる」という機械的な仮定を前提として、数式を用いた理論モデルでガチガチになっています。これは、財務官僚の周りに群がる御用経済学者たちの基本的なスタイルです。そうして複雑難解な経済理論、経済法則なるものを作り上げ、理論と現実とが乖離している場合には、理論の間違いを柔軟に認めるのではなく、現実のほうが間違っているとみなすのです。
 たとえば、彼ら(新古典派経済学と呼ばれますが)の仮定によれば、市場の均衡原理が成り立っている状態では、完全雇用が成り立ち、非自発的な失業者(仕事を探しているのに仕事に就けない人)は存在しないというバカげた結論が導かれます。こういう経済学に依拠している限り、財務官僚も安んじて低所得者層の問題など頭から放逐できるわけです。
③官僚体質と昔から言われますが、彼らは、一度正しいと信じて決めたことは何が何でも通そうとします。現実の変化に応じて柔軟に対応しようという政治判断ができません。その決めたことを貫くための実務能力において、彼らは極めて「優秀」です。
 これは、今の場合で言えば、かつて田中角栄の時代やバブル時代に多少通貨が膨張してインフレになったので、「羹に懲りて膾を吹く」の体で、「決してインフレにしてはならぬ! そのためには倹約せねばならぬ!」という教科書の教えを守り抜いているわけです。そうしてひどいデフレ状況を二十年以上も支えてきました。ちなみに、江戸時代の三大改革は、いずれも倹約の美徳を説いて、産業の振興を抑制したために、経済政策としてはことごとく失敗していますね。
④このDNAは、後続世代にそのまま遺伝します。財務官僚といえども、若い世代のなかには、上司の方針はおかしいんじゃないのと疑っている人はけっこういると思いますが、部内で異を唱えると、必ず出世に差し支えます。官僚とはそういう世界です。

 次に御用学者ですが、彼らは若いころ、エール大学とかハーバード大学とかシカゴ大学とかで、いま言ったように理論経済学を叩きこまれていて、現実に生き生きと対応できるような思考の道具を持っていないのです。「真実」を知っていながら隠しているのではなくて、本当に自分たちが正しいと信じ込んでいるようです。
 つまりエリートとしてのプライドと権威主義とが、真実を見ることを妨げているのですね。だから、たとえば中小企業診断士から身を立てた筋金入りの経済評論家・三橋貴明さんなどから矛盾を突かれると、話を逸らしたり、答えないで黙ってしまったりします。消費税には直接かかわりませんが、日銀副総裁の岩田規久男氏などは、金融緩和だけでデフレ脱却できるという理論(リフレ派といいます)が現実によって裏切られているのに、いっこうにその誤りを認めようとしません。

次にマスコミですが、これは産経新聞特別記者の田村秀男さんのようなごくまれな例外を除いて、本当に不勉強でバカです。財務省や日銀という権威筋の言うこと、やることをそのまま虎の威を借りる狐のように大衆に向かって垂れ流しています。特に経済専門紙であるはずの日本経済新聞がひどい。この新聞は、率先して消費増税の必要性を説いてきました。
 そればかりではなく、景気悪化の指標が歴然と出ているにもかかわらず、政策の批判をせずに、その原因を暖冬のせいで暖房器具が売れなかったとか、原油安が響いたとか、政府が外部要因のせいにするのを鵜呑みにしています。つい先日も、8月の最終消費支出が前年同月比でマイナス4.6%になり、6カ月連続の落ち込みだと伝えながら、その原因を、台風で天候不順が続いたからだ、と平然と書いていました!
 忙しくて考える暇のないサラリーマンのほとんどが、日経を読み、経済紙の言っていることだから正しいだろうと刷り込まれてしまいます。非常に罪が重い。朝日、読売などもこの点では同じです。
 またNHKラジオなどでときおり経済問題特集をやるのをカーラジオで聴くのですが、出てくる経済部記者や論説委員は、ほとんど権威筋の言うことをオウムのように繰り返しているだけです。批評精神などみじんもありません。
 参考までに、先日、日銀が「総括的な検証」を発表した時のNHKのひどさについて、ブログに書きましたので、覗いてみてください。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/44d5affc8b33d3b9a0e525ed26c69820

Q5:貴兄は、「政府が通貨発行権を持つので、新たに通貨を発行することで、(すべてではないにしても)ある程度まで借金をチャラにできます。これは動画でも、だからってハイパーインフレなんかにならない」と言ってますが、現実的に問題が起きない程度での借金チャラ化は、およそどの程度までなら可能なのでしょうか?

A5:これに答えるのはちょっと難しい。つまり、仮に1000兆円借金説が正しいとして(正しくないのですが)すべてを通貨発行でチャラにするというのは、やや乱暴な話で、そんな政策を打ち出せば、それこそ緊縮財政派の財務省、学者、エコノミスト、マスコミが、「ハイパーインフレになって国債が暴落する!」と鬼の首を取ったように叫び出すでしょう。要するに、これは、その時々の実体経済市場と金融市場の情勢を踏まえて決定すべきバランスの問題でしょうね。たとえば私が試算したように、政府の負債が100兆円くらいなら、通貨発行でチャラにしてもほとんど悪影響はないと思います。また負債がこれくらいなら、わざわざチャラにする必要がないとも言えますね。

Q6:貴兄はまた、「日銀は広い意味で政府の一部門なので、日銀が買い取った国債を、新規発行の国債(無利子、返済期間無期限)と交換できます。」と言っていますが、これは、通貨発行で負債をチャラにするのと実質同じようなことに思えますが、そういう理解でよいのでしょうか?

A6:通貨発行でチャラにするのと、国債の借り換えとは違います。前者は、実際に通貨が市場に流通するので、巨額ならばインフレ懸念が発生しますが、後者の場合は、日銀と政府とで、書類上の書き換えをするだけです。だから、インフレ懸念も発生しないとてもよい方法だと思います。これは、日本の経済学界で、主流派経済学者に抵抗してほとんど孤軍奮闘されている青木泰樹先生から直接聞きました。

Q7:貴兄はさらに、「政府の負債は、拡大しても返済義務があるわけではなく、また罪悪視する必要は何らなく、国民生活に役立つならむしろ積極的に拡大すべきなのです。特にデフレの時は民間を刺激する必要があるので、これが求められます。」と言っていますが、これはつまり、借金、というより、出資、という方が正確な理解に近いと思ってよいのでしょうか? イコールではないにしても言葉のニュアンスとして。

A7:まさにそのとおり。そういうイメージで国民の多くが捉えれば、何の問題もないのに、財務省やマスコミが「借金」という言葉を使って国民を騙すので、国民は、自分の家計に引きつけて考えてしまうわけです。企業は自己利益のためになると考えたら、投資という賭けに出るために借金をしますが、儲からないと踏んだら融資を受けません。これに対して政府は自己利益のためにあるのではなく、国民の福祉のためにある公共体ですから、儲からなくても「出資」すべきなのです。

Q8:公共事業などで景気が良くなり設備投資などで好景気の影響が循環していくというのは分かりますし、低金利政策も仕組みとしては理解できます。でも低金利政策は行くところまで行っちゃってあまり日銀は有効な手を打てないのかなと理解しているんですがいかがですか。

A8;そのとおりです。日銀の金融政策にはもともと限界があります。一つは、黒田バズーカを続け過ぎて、金融市場の国債が不足しつつあることで、あと3年くらいこのまま続けるとゼロになってしまいます。すると、金融機関は、そのぶん海外のハイリスク商品に手を出す可能性が出てきます。運用が下手なことで有名な年金機構などは危ないですね。でも量的緩和(国債の買い取り)自体は低金利政策のために続ける意味があります。その点からも政府が新規国債を発行する必要があるわけです。
 また日銀は、ついにマイナス金利まで導入しましたが(すべての国債残高に対してではなく、新規発行のほんの一部ですが)、これは市中銀行が日銀に金を預けていると、逆に利子を取られてしまうという仕組みです。この結果、10年物長期国債の金利までマイナスになってしまいました。ここまでやっても、企業は積極的にお金を借りようとしません。それほどデフレマインドが染みついてしまっているのですね。
 それだけでなく、マイナス金利には、銀行の営業を圧迫するという副作用があります。特に中小銀行には痛手でしょう。これが高じると、預金者にも迷惑が及ぶ可能性すらあります。極端な場合、銀行預金にマイナス金利がかかり、みんなが預金を下ろしてタンス預金をしてしまう。そうなると、ますます市場にお金が回らなくなりますから、デフレの悪循環に落ち込みます。
 さすがに黒田総裁は、このたびの「検証」で長期国債の金利がマイナスからせめてゼロになるように誘導すると発表しているようですが、どうやってやるのかよくわかりません。じつは万策尽きているというのが本音でしょう。日銀は「まだできる、まだできる」と意地を張らずに、自分の限界をはっきり表明して、政府に強く財政出動を求めればよいのです。

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消費増税問答(その1)

2016年09月30日 01時04分10秒 | 経済

      




 さる9月19日、政治経済ジャーナルChannel Ajerに出演しました。テーマは「消費増税の真実」です。
 消費増税は3年後に延期されたので、とりあえず国民の関心から遠のいているように見えます。しかしなお、なぜ増税の必要があるのか、増税には根拠があるのかについて、ふつうの人々に理解が行き渡っているとはとうてい言えません。財務省やマスコミ、一部の経済学者やエコノミストたちは、いまだにその必要を説き、国民をまんまと騙しています。このインチキをしっかり暴いておくことは、たいへん重要です。なぜならば、三年後には必ず増税が実施されるものとほとんどの人がいま思い込んでいることそのものが、直近の経済活動の大きな抑制効果として現れているからです。増税は延期ではなく、少なくとも凍結、本来は増税ではなく元の5%に戻すべきなのです。根拠のない増税論がまかり通ることによって、現在の人々の消費行動や投資意欲を縛っています。人は将来の予想によって現在の経済行動を決めるからです。

 動画は全体で40分ほどですが、初めの15分は、you tubeで無料でご覧になれます。
https://www.youtube.com/watch?v=O4sbDuq7Dok

 
 さてこれを見た私の親しい知人から長い質問メールをいただいたので、それに応答しました。以下、2回にわたってその質疑応答を掲載します。なお質問は、より一般的なものにするために私が勝手に整理し、また応答のほうも若干修正したところがあります。

Q1貴兄は動画のなかで、増え続ける社会保障費の財源のためにも増税は必要だという論理に対して、「お金に色はない。歳入で税収が増えたとしても歳出を決めるのは財務省と各省庁との折衝で決まる。特別会計で使い道を決める法律でも通すなら別だが、そんな議論はなされていないのだから、国民だましのトリックにすぎない」と言っていますが、「でも、財布全体の支出増に対して収入を増やさなきゃ、ということ自体は考え方として間違っていないのでは?」という反論があったらどうなのでしょうか。この反論が正しければ、社会保障を抑えるか税収を増やすかどちらかは結局しなくてはならないのではないでしょうか
 あるいは、この動画の趣旨は、家計を「喩え」に用いて、何とか収入を増やすかそれとも我慢して節約するかと考えるのと、政府の歳入歳出とは本質的に違う、ということなのでしょうか


A1:収入を増やさなければならないというのはその通りです。社会保障費を抑えるわけにはいかないし、抑えるべきでもありません。しかし税収を増やすだけがその方法ではありません。
 社会保障費のためには、特例国債(赤字国債)を発行すればよいのです。特に長期国債の利子がマイナスにまで落ち込んでいる現在、特例国債によって賄うのは絶好のチャンスであり、理にかなったことです。もちろんその償還は将来の税収からということになるのですが、後に述べるように、「国の借金1000兆円」というのはデタラメですから、新規国債発行を政府が(まして国民が)恐れる必要はもともとないのです。
 また、社会保障費でなく、現在ぜひ必要な高速道路網、劣化した橋などのインフラ整備のためには、赤字国債とはまったく異なる建設国債を発行することができます。これによって公共投資を行った場合には、建設された公共施設が将来も国の資産として長く残るため、いま増税分で償還しなければならないということはありません。

 おっしゃる通り、家計と国家財政とは根本的に違います
 家計は決まった収入によって制約されますが、国家財政は、
①政府が通貨発行権を持つので、新たに通貨を発行することで、(すべてではないにしても)ある程度まで負債をチャラにできます。
②日銀は広い意味で政府の一部門なので、日銀が買い取った国債を、新規発行の国債(無利子、返済期間無期限)と交換できます。
③アベノミクス第二の矢であった「積極的な財政出動」によって公共投資を拡大し、民間経済を活性化させることができます。
④政府の負債が拡大しても、それはそのまま債権者である国民の財産ですから、普通の借金のように法的に返済義務があるわけではなく、また罪悪視する必要は何らありません。国民生活に役立つなら(デフレの時は特に民間を刺激する必要があるので)、むしろ積極的に拡大すべきなのです。
⑤日本国債は、100%円建てなので、①②で述べたように、政府・日銀レベルでいくらでも処理できますから、破綻の危険はゼロです。そこがユーロで借金しなければならないギリシャなどとまったく違うところです。
⑥そもそも国家財政の破綻とは、借金が返せなくなることではなく、誰も新たに貸してくれなくなること、つまり日本政府が国民や金融機関の信用を失って国債を発行しても誰も買わなくなることです。しかしそういうことはこれまで起きたことがありません。日本の国民と国家との信認の関係を考えれば、これからも起こりえないでしょう。
⑦日本は対外純資産(外国に貸している金―外国から借りている金)250兆円を保有しており、世界一の金持ち国です。これを処理することもできます。

 なお、動画でも言っていますが、税率を高くしさえすれば税収が確保できると考えるのは、端的に誤りです。なぜなら、税収はGDPの関数なので、消費税率を高めれば高めるほど、消費や投資が減り、つまりGDPが下がり、結果的にその分だけ税収も減ってしまうのです。これは97年橋本内閣の時に実際に起きたことです。

Q2いまよく世間で言われているのは、「国債の債務が膨張すると日本経済の信用や格付けが低下し、さらに予算膨張も続く。すると円の信用が低下し、国際発言力の低下やら対外経済の状況悪化を招く。だからそれを避けるために国民全体で国家予算を健全化しましょう。そのためには増税やむなしですね」といった文脈ではないのですか。貨幣価値が「信用」をベースにしている以上、海外の経済格付け会社の評価が下がったり、グローバル経済界を行き来している人々の間に蔓延しているトレンド(つまり、はやりの「気分」)とか、そういったもので信用低下という流れが定着してしまうと、それがどれだけ本質と離れていようと、貴兄の言われる怖ろしい「デタラメな世界」が実現してしまう。それに対する危機感、には一定の根拠があるのではないですか。

A2:まず国際経済の「気分」が円の信用失墜に結びつくことはあるのではないかという懸念ですが、現下の状況では、国際通貨の中で、円は、ドル不安やユーロ危機などが高まった時(実際高まっているのですが)に、必ず避難場所として買われる(両替される)ので、まず信用失墜ということはあり得ません(ただし再び円高に振れ過ぎて輸出がふるわなくなるということはあり得ますが)。
 また格付け会社などは、頼まれもしないのに、勝手に他国の国債の格付けをやっているので、こんな外国人投機筋の思惑を過度に気にするには及びません。それよりも真っ先に大事なことは、日本がデフレから脱却するにはどうすればよいかということであって、それは国家主権を握っている日本政府の決断しだいでいかようにも対策を打てます。それをやらないで、財務省、御用経済学者、エコノミストたちが「国の借金が~」とか「国際的な信認が~」などと根拠のないことを言って国民を騙し続けてきたので、いつまでも景気が良くならないのです。
 デフレとは国内の総需要の不足ですから、政府が内需拡大のために、率先して財政出動を行い、民間のデフレマインドを一刻も早く打払うべきです。ここさえ突破できれば、円高による輸出不振が多少あったとしても、それほど問題ではなくなります。
 なお、国際的な経済の減速はすでに十分認識されていて、先日のG7やG20でも、各先進国が緊縮財政から積極財政へと方向転換すべきだという点で一致しました(頭の硬いドイツ以外は)。このへんは、公式的には言いませんが、安倍首相も2014年の増税による大失敗で痛い目に遭って、ようやく理解したようで、財務省の圧力を何とかはねのけようと努力しています。
 しかし財務省、経済学者、エコノミスト、マスコミのマインドコントロールの力はものすごく、自民党議員もいまだに緊縮財政派が主流で、積極財政派は少数派です。政治家はじつに不勉強なのです。

 また、動画の無料公開部分では言及されていませんが、私は、いわゆる1000兆円の国の借金というのが完全なデマだということを、具体的な数字を挙げて細かく説いています。
 いろいろな算出の仕方が考えられますが、あの放送では(ここがあの放送の一番大事な部分なのですが)、最終的に政府の負債は100兆円足らずだという試算を試みています。
①政府の資産650兆円のうち、流用可能な額が約250兆円。
②財政投融資による特殊法人の借金が160兆円であり、これは税収から返済することが禁止されており、法人が政府に返済すべき。
③建設国債250兆円は、政府の資産に変貌するので、借金と見なす必要なし。
④3年間にわたる日銀の年間80兆円の国債買い取りによって240兆円の負債はすでに消えている。
 よって、1000兆円―250兆円―160兆円―250兆円―240兆円=100兆円
 なお拙著『デタラメが世界を動かしている』P59~P61でも、この試算をやっていますが、こちらは、①の650兆円を全て算入してしまっているので、やや乱暴であるのは否めません。

Q3「空気」によるデタラメが通ってしまう結果として、誰も望んでないのにグローバル化せざるをえず、誰も望んでいなくても、「日本経済ちゃんとやってます」的な花火を打ち上げないといけなくなる、ということはあるのではありませんか。だからと言って、消費増税がこれらの漠然とした国際的な信認失墜の不安に対する有効な対応策だとは思いませんが、上記のデタラメな危機感への対策として、「少なくとも何か手を打ってます感」を出さなくてはならない、ということはあるのかな、と思うのですが。

A3:一国のデフレ対策をどうするかということと、一定程度の已むをえぬグローバル化(ヒト、モノ、カネの国境を超えた移動)の必要とは話が別です。
 たしかに、IMFなどはバカの一つ憶えのように、何かといえば構造改革せよ、財政均衡を保てなどと偉そうに忠告してきます。IMFはもともと国情もわきまえずに、とにかくある国の財政破綻を過剰に恐れる体質を持っているので、それももっともといえばもっともですが、それに加えて、IMFの中に、財務省べったりで構造改革派の日本人メンバーが入り込んでいて、いかにも国際的権威の衣を着て、それが正論であるかのように押し付けてくるのです。
 しかし、体面を保つためにそうした言い分に従い続けているうちに、デフレからの脱却はますます困難になり、日本の実質賃金はこの三年間で、6%も下がってしまったのです。国民の生活をこれだけ犠牲にしてまで「何か手を打ってます」感などを示す必要があるでしょうか。しかもその「手」なるものが何の解決にも導かれないのです。根拠のない「危機感」のために、大げさではなく、亡国の憂き目に遭いかねません。まさしく「日本経済ちゃんとやってます」的なことを示すためには、デフレを解消して実体経済の活気を取り戻して見せなくてはならないのです。国民経済の全体と、政府の間違った経済政策とを混同してはなりません。

つい熱くなって長々と書きました。お許しください。


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9.21日銀の総括的な検証とそのNHK報道について

2016年09月22日 16時14分42秒 | 経済

      



 9月21日、日銀は政策決定会合で、「金融緩和強化のための新しい枠組み」と称して、量的・質的金融緩和導入以降の経済動向と政策効果についての「総括的な検証」を行い、その見解を発表しました。
 その要旨を見ますと(産経新聞2016年9月22日付)、例によって、事実と異なることが平然と書かれていたり、物価上昇が目標どおりにいかなかったことを「外的な要因」のせいにしています。
 たとえば――
 まず、「大規模な金融緩和の結果、物価の持続的な下落という意味でのデフレはなくなった」と書かれています。「物価の持続的な下落という意味での」と但し書きをつけているところがいかにも苦しいですが、事実は、4~6月の消費者物価指数はすでに発表されているとおり、0.5%下がっています。2%目標には程遠いのに、これを「デフレはなくなった」とは何事でしょうか。
 次にこの目標達成ができなかった原因を、原油価格の下落、消費増税後の需要の弱さ、新興国経済の減速といった「外的な要因」に帰しています。しかし、日銀は、そうした金融政策以外の要因とかかわりなく、リフレ派理論に従って、金融緩和だけで目標を達成できるとコミットメント(責任履行を伴う約束)したのですから、こういう言い訳は通用しないはずです。さまざまな外的要因をいつでも考慮のうちに入れておかなければ、そもそも目標設定の意味がありません。
 さらに、マネタリーベース(法定準備預金+現金通貨)の拡大が「予想物価上昇率の押し上げに寄与した」と書かれていますが、「予想」(=期待)と付け加えているところがミソで(誰が予想しているのか?)、現実の物価上昇率とのかかわりについては何も言及されていません。手の込んだ言い逃れです。当局が勝手に2%と予想すれば、それで「寄与」したことになるというわけです。予想して量的緩和を行い、その予想が全然当たらなくても、予想自体はもとのままなのだからその予想に「寄与」したのだ、というめちゃくちゃな論理です!
 最後に、マイナス金利の導入が長期金利の低下までもたらしたので、国債の買い入れとマイナス金利との組み合わせが有効であることが明らかとなったと書かれています。マイナス金利の導入は、市中銀行の経営を圧迫するという大きな副作用をもたらしていますが、それについては何も触れられていません。おまけに、長期金利まで低下したからといって、融資は一向に促進されず、投資も消費もほとんど伸びず、実体経済には何の有効な結果ももたらしていません。
 要するに今回の「総括的な検証」なるものは、全編、この間の日銀の政策が(2013年当初を除き)効果がなかった事実をあったかのようにごまかして正当化するための「検証」だったということになります。
 経済評論家の島倉原(はじめ)氏は、日銀が「これまでのコミットメントに加え、安定的に2%を『超える(オーバーシュート)』ことを現行のマネタリーベース拡大政策の新たなターゲットとする」と述べているのに対して、次のように書かれています。まったくこの通りというほかはありません。

しかしながら、もともと効果が乏しいと自らが認めている(この認識自体は正しい!)中央銀行の目標設定を、言葉遊びのレベルで「2%を実現する」から「2%を超える」に強めたところで、どれほどの上乗せ効果が見込めるというのでしょうか。
こうした政策を「新しい枠組み」として掲げていることが、むしろ現行の金融政策の迷走ぶりを示していると言えるでしょう。
(「金融政策の迷走」三橋経済新聞9月22日付)
https://mail.google.com/mail/u/0/#inbox/1574f72adf60f6a9

 もっとも島倉氏も私も、黒田バズーカが無意味だったと言っているのではありません。それはそれで一時的に円安、株高を導き輸出産業はいっとき息を吹き返しました。しかし3年にわたる「大胆な金融緩和」は、デフレ脱却にとって一番必要な内需の拡大にはまったく結びつきませんでした。これは金融政策だけではデフレ脱却には限界があるということを図らずも証明しているわけです。日銀としては、デフレ脱却のための政府の無策ぶりを公然と批判するわけにもいかず、苦し紛れの弁解に終始したということなのでしょう。
 このブログでも繰り返してきましたが、消費や投資が冷え込んでいるときに政府は消費増税という最愚策を断行して、日本経済にさらに致命的な打撃を与えました。また内需拡大のためには緊縮財政路線を即刻改めて、本来アベノミクス第二の矢であった「積極的な財政出動」を継続し続けなければならなかったのに、それも1年だけしかやりませんでした(ようやくその方向に舵を切ろうとはしていますが、財務省のプライマリーバランス回復論がいまだに大きく壁として立ちはだかっています)。
 
 さて9月21日の18時、NHKラジオ夕方ニュースでこの日銀の「新しい枠組み」問題を取り上げていました。ここに解説者の一人として登場した第一生命チーフエコノミストの熊野英生氏は、この件に関して、日銀の政策には限界があるので政府の財政運営に期待するという趣旨のことを語っていました。ここまでは一応同意できます。もっともこれは今回の日銀のペーパーにもすでに書かれていることですが。
 熊野氏はもともと日銀出身のエコノミストなので、日銀の政策に異を唱えないのはわからないではありません。問題なのは、彼が、この「新しい枠組み」によってデフレ脱却が可能なのかという最も聴取者の関心を呼ぶ疑問に対して、政府の財政運営への期待に言及しながら、脱却を困難にしてしまった2014年の消費増税の失敗や、いまようやくシフトしつつある積極的な財政出動政策についてまったく触れようとしなかったことです。
 熊野氏が、期待されるべき政府の財政運営として言及したのは、規制緩和による成長戦略(つまりアベノミクス第三の矢)であって、これは小泉改革以来の構造改革路線なので、百害あって一利なしです(拙著『デタラメが世界を動かしている』第三章参照)。
 熊野氏ばかりではありません。同席していたNHK解説委員の関口博之氏の解説や、アナウンサーのかなりしつこい質問の中にも、消費増税の「しょ」の字も財政出動の「ざ」の字も出てきませんでした。
 今日の番組のテーマは日銀の「新しい枠組み」と「総括的な検証」についてなので、それはまた別問題だ、という弁解があるかもしれません。しかし、すでに番組中で政府の財政運営について触れているのですから、デフレ脱却を遅れさせた過去の致命的な失敗事例に一言も触れないというのはおかしいですし、これから進むべき積極的な財政政策の前に財務省の緊縮財政路線が大きな壁として立ちはだかっている事情について何も語らないというのもはなはだ客観性に欠ける。マクロ経済問題を語るには、常に総合的な視野を手放さないようにしなければなりません。
 私の印象を付け加えるなら、ここにはそこに話をもっていかないような何らかの圧力がはたらいているか、そうでなければ、NHK番組構成陣の狭量な頭がそこまで及ばないかのどちらかとしか考えられません。一般の聴取者にとってただでさえ難しい経済問題です。公共放送NHKがこういう偏頗なレポートを続けているようでは、デフレ脱却へ向かっての国民の気運は、いつまでたっても高まらないでしょう。



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法然について(誤解された思想家・日本編シリーズ)

2016年09月16日 15時00分14秒 | 哲学

      




以下にお届けするのは、雑誌『表現者』に「誤解された思想家たち」と題して連載してきた原稿に、多少の手を加えたものです。『表現者』でお目に触れなかった方のために、何回かにわたってこの画面に掲載していくことにいたします。よろしくお願いいたします。

第一回 法然房源空(1133~1212)

 わが国で最大の寺数を誇る仏教の宗派は、親鸞を開祖とする浄土真宗ですが、親鸞の師である法然を開祖とする浄土宗は、これに比べるとずいぶん慎ましく見えます。こうした世俗的な意味での勢力分布の格差は、時の移り変わりとともに生じきたったやむを得ない現象というほかはないでしょう。
 しかし現代における親鸞の盛名ぶりによって、両者の思想に画然たる差があると考えられたり、法然の思想の独創性に霞がかかってしまったりするとすれば、それは不当というべきです。後述するように、親鸞の思想は、ごく一部を除いて師・法然のそれをそのままなぞったものと言っても過言ではなく、法然が専修念仏の考え方を徹底的に究めていなければ、親鸞の言行そのものが存在しなかったのです。何よりも親鸞本人がそのことを真っ先に認めるだろうと思います。
 ところが、西田幾多郎、三木清、亀井勝一郎、吉川英治、丹羽文雄、野間宏、吉本隆明、津本陽、五木寛之といったそうそうたる思想家、作家たちが、親鸞について格別の思い入れをこめて語っているのに、同じ人たちが法然について、それに見合うほどの関心を示しているとはとうてい言えません。
 この主たる理由は、倉田百三の『出家とその弟子』をきっかけとした百年間の親鸞ブームによるものですが(西田の着眼は倉田より古い)、それにしても、両者に対するこの熱の違いはいったいなぜなのでしょう。以下その内的な理由をいくつか挙げ、それらが必ずしも根拠のあるものとは言えない所以を語ってみようと思います。

①法然は僧としての戒を守って妻帯しなかったが、親鸞は公然と妻帯した。その自ら破戒に踏み込み非僧非俗を生きた行状が、多くの人の共感を呼び起こした。
 ――この理由ですが、僧が肉食や妻帯を無理に我慢する必要はないと公然と説いたのは法然自身です。これを聴いた法然の帰依者・九条兼実が、ではあなたの弟子のひとりを私の娘(玉日姫)と結婚させてくださいと試練にかけたのを受けて、法然自ら親鸞を指名したのです(佐々木正著『親鸞・封印された三つの真実』洋泉社参照)。この指名がなかったら親鸞は果たして妻帯したかどうか。彼自身この破戒に対してかなり悩んだ形跡があります。
 ちなみに妻帯OKの確信を抱いていた法然はすでにこの時七十歳を超えており、直前にはひそかに慕い合っていた式子内親王を失っています。叶わなかった自らの結婚を愛弟子に託したという推定も成り立つわけです。

②法然はほとんど京都中心に説法し続け、貴族高官との付き合いを絶やさなかったが、親鸞は、越後流罪のあと、東国の武士や庶民のただ中に飛び込んで永年布教を続けた。
――この理由ですが、法然の布教範囲が都中心に限られていたことは、彼が大都会で貴賤の別を問わず絶大な人気を得ていたことの証拠にこそなれ、地方の民衆を相手にしなかったことを意味しません。現に彼のもとには遠国からあらゆる身分の人々が集まってきましたし、土佐流罪の際には、弟子が赦免嘆願を勧めたのに対して、地方の民衆に教えを説くよい機会だと述べてこれを斥け、現に摂津で名もない人たちに布教しています。この時法然、なんと七五歳です。
 他方、親鸞の場合は、流罪先の越後は再婚相手の恵信尼の郷里であり、二人して新しい生活を切り開いていく希望をそこに見出し得たはずです。加えて東国への布教活動は、まさに法然の教えを広めていこうとする彼の使命感にぴったり叶うもので、それは同時に法然の意志をそのまま引き継ぐものであったことになります。その実践活動の地域的広がりの差などに質的な違いを見出すことは出来ません。

③『歎異抄』の有名な言葉「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という鋭い逆説こそは、親鸞の思想を特徴づけるものであり、法然はそこまでは言い切らなかった。罪びとこそ阿弥陀仏の救済の対象としてお眼鏡にかなうという絶対他力の徹底性において、親鸞は法然に優っている。
 ――この理由ですが、これは端的に誤りです。「善人なおもて」は親鸞の独創ではなく、法然自身の言葉にすでにあります。「われ浄土宗を立つる意趣は、凡夫の往生を示さんがためなり。……善人なお生まる。いわんや悪人をや。……この宗は悪人を手本となし、善人まで摂するなり。」(『一期物語』)――これは確固たる「悪人正機」の説というべきでしょう。
 一方ではたしかに法然は、ときに応じて逆の言い回しもしています。たとえば「罪をば十悪・五逆の者なお生ると信じて、小罪をも犯さじと思うべし。罪人なお生る、いかにいわんや善人をや。」(『和語燈録』)――これは、「黒田の聖人」への手紙の一部ですが、しかしこの場合は、前後の文脈から推して、黒田の聖人が、「自分は修行が足りないので往生できないのではないか」という不安を伝えてきたのに対して答えたものです。相手は「聖人」ですから、すでに十分な発心と念仏修行を経た人です。その人になお残る疑念を払拭してあげようという意図から書かれたのでしょう。「あなたならこれからも念仏を続けさえすれば往生できますよ」という優しい励ましの言葉と取るべきです。
 法然は、この種の、相手に応じたモードの使い分けをしばしば行っていますが、それは矛盾とか不整合とか不徹底とか非難されるたぐいのことではありません。むしろ教えを説くのに硬直した原理によらず、常に相手の特定の境遇や資質を丁寧に見抜きながらそのつど言葉を選んでゆく優れた心理家の手法と言えるでしょう。現代風に言えば、彼は人間通の名カウンセラーだったのです。
 ちなみに親鸞の思想をよく「絶対他力」と呼んで法然のそれと区別する向きがありますが、親鸞自身は「絶対他力」という言葉は一度も使ったことがなく、自力を恃む心を捨ててひたすら阿弥陀様の本願(観無量寿経における四十八願の、特に第十八願)を信じて念仏すれば往生は必定と説いただけで、その点では法然とまったく変わりません。
 先に両人の思想について「ごく一部を除いて同じ」と述べましたが、そのごく一部とは、法然が念仏行をあくまで往生の条件と考えていたのに対し、親鸞の場合は、それに阿弥陀様に対する感謝・報恩の念というアイデアを加味している点です。しかしこれは、「往生必定」の確信をより強調しているわけで、その強調は見方を変えれば、末法観がより深まったことによるペシミスティックな原理主義化とも言えるものです。また、法然のように、「念仏は往生の条件」としたほうが、民衆に実践的な指針を与えることによって「往生必定」に対する不安を取り除くことができるので、支持を得られやすいのではないでしょうか。

④法然は、延暦寺に発する念仏停止の動きを憂え、いち早く「七箇条起請文」の制戒を発して保身に走っている。親鸞にはそうした「不純な」世渡り術の持ち合わせはなく、激しい一途な生き方を貫いており、そのことといくつもの鋭い詩的な言葉との見事な一致が彼の魅力を際立たせている。
 ――この理由ですが、念仏さえ唱えれば凡夫も悪人もみな往生できるという浄土門の教えは、それまでの聖道門の教えに対して爆発的な人気を博しました。そのため法然は、「七箇条起請文」をどうしても書かざるを得なくなったのです。これは、たとえば、「あ。念仏一回唱えれば往生できるのね。じゃ、南無阿弥陀仏。はいこれで俺は大丈夫」といったたぐいの軽薄な理解、他宗の修行者への謗りを意図した論争、進んで悪をなすほど成仏できるといったいわゆる「造悪論」など、困った事態の横行に対する対策として書かれたものです。それは、宗を起こした者にとっては、教えが誤り伝えられたり、そのためにいわれなき弾圧や誹謗中傷を受けたりする惧れへの当然の措置であって、宗祖の責任感の大きさを表しているのです。
 一方、弟子の唯円が親鸞の言葉を書き残したものとして有名な『歎異抄』は、たしかに鋭く魅力的な詩的表現に満ちており(拙訳『新訳 歎異抄』PHP新書参照)、また和讃で多くの歌を残している点など、その点で散文的な法然に比べると印象に残りやすい点があるのは否めない事実です。しかしその生き方が特に一途で激しかったという証拠はなく、京都に帰ってからの二十数年間は庵で書写や著作に明け暮れる静かな生活を送っています。

⑤法然の主著『選択本願念仏集』は長くて難解だが、『歎異抄』は、短く簡潔で、誰でも親鸞の思想の神髄に触れられる。
 ――この理由ですが、これはある意味で当たっています。
『選択本願念仏集』はいわば浄土宗の理論書で、法然が阿弥陀仏の化身として崇めた唐の善導の教えを中核に据えて、往生のためには称名念仏がいかに重要な意味を持つかを説いた書物で、やや難解な部分を含むのは事実です。しかしきちんと通読すれば論旨は単純明快であり、その主張がいささかもぶれていないことがわかります。
 これに対して親鸞の主著である『教行信証』は、多くの先人の教えをあまり整理せずに詰め込んで自分の解釈を施したもので、『選択本願念仏集』に比べると、ゴタゴタしていてはるかに読みづらい書物です。『教行信証』を読み切った人はあまりいないと思われます。しかし、もし親鸞ファンの多くが、主著に触れずに弟子が聞きとった言葉の鋭さだけから親鸞のイメージをつくり、それに近代人風のロマンティックな思い入れをしているのだとすれば、それは翻って、法然こそが専修念仏思想を深く説ききった張本人だという事実を忘れさせかねません。思想系譜の正当な理解という観点からすれば、これは少々困ることなのです。

 以上で、親鸞偏重、法然軽視の風潮がどこから来ているかについて批判してきましたが、ここで法然の思想を要約しておきましょう。

 今は末法の世であり仏道が廃れかけているので、我ら凡夫は、厳しい修行や積善や叡智などの自力によってこの生死の世界を離れて往生することは不可能である。しかし幸いにしてはるか昔に阿弥陀が、貴賤、老若男女、智愚、善悪の如何にかかわらずいっさいの衆生を救済するのでなければ自分は真の悟りを得たとはけっして言わないという誓いを立ててくれた。そして阿弥陀は現に悟りを得て仏になっている。したがってその誓いはもうすでに成就しているのだから、我々は阿弥陀に帰依しさえすれば、往生できるに決まっているのである。そのためにぜひ必要な行は、ひたすら心を込めて念仏を唱えることである。それ以外の行は、機(人、資質、与えられた条件)に応じて、念仏行の助けにはなりうるが、絶対に必要というわけではない。また、生涯悪業を重ねた人でも、死に臨んで心から南無阿弥陀仏を唱えるなら、阿弥陀は必ず迎えに来て浄土へ連れて行ってくれる……。

 以上の法然の説の特徴として注意すべき点が二つあります。
一つは、他の行をけっして斥けない寛容さです。この寛容さは、硬直した教義による宗派争いを無意味化し、さらに飲酒や肉食や妻帯なども世の習いなのだからあえて禁欲する必要はないという考えにもつながっています。
 もう一つは、「念仏」の行を、ただ心の内で仏や浄土を観想したり南無阿弥陀仏を思念したりするのではなく、あくまで「声に出して唱える」ことに限定する点です。この後者の点を法然がなぜ重要視したかを考えてみます。
 当時、比叡山では円仁によって取りいれられた音楽的念仏法が盛んに行われたそうです。またのちに一遍が踊り念仏を諸国に広めたことは有名です。これらの流れには、思惟や感情を内部にこもらせずに身体表現として外に表出することの大切さが重んじられるようになった当時の文化的背景が反映しているでしょう。
 法然もその流れの一環にあったというべきですが、称名念仏の重要視には、また法然なりの格別な意図があったと思われます。
 それは、第一に、彼が心の中はみえないということをしきりに強調していることです。
 また第二に、一般の民衆は一つのことを黙って集中的に長く思念することに耐えられず、日常生活のなかで、互いの身体表出(おしゃべり)を通じて思いを交換し唱和しあっているのであり、それこそが彼らの生の実態なのだという事実に、彼が深く気づいたということです。
 また第三に、口に出した言葉は必ず自分もそれを聞くので、その声が意識に照り返してきて、さらに未来の自分のあり方を強く規定する力を持つという心理効果を彼が見破ったことです。
 これらは法然の人間観察の鋭さと明敏さを表しています。

 ところで称名念仏の最重要視は、これと異なる宗派の人たちの批判と反感にさらされたことは言うまでもありません。代表的なものに、法然没後すぐに書かれた明恵『摧邪輪』、約五十年後に日蓮によって書かれた『立正安国論』があります。ここでは前者について述べましょう。
 この書の批判点は、法然が①菩提心を不要と考えた、②聖道門を群賊にたとえた、の二点に絞られます。このうち、②は明恵自身の孤独な修行精神を汚されたという過剰な被害感覚にもとづくもので問題外です。
 また①については、菩提心という言葉に明恵が特別の重みを置いたために生じた誤解の一種と考えられます。というのは、明恵にとってこの言葉は俗界への執着をきっぱり断ち、山に籠ってひたすら修行に励むことと不可分の関係にありますが、法然の場合は、在家の人や無縁のともがらでも、一念発起してから心を込めて念仏するなら、その営みのうちに菩提心はすでに含まれていると考えるからです。
 法然は、念仏行には、三心、すなわち至誠心(まごころ)、深心(深く信じるこころ)、廻向発願心(阿弥陀様にもっぱら思いをさしむけるこころ)が不可欠だとしつこく説いています。これらの総合こそが菩提心であるという考えに、何らおかしなところはないと言えましょう。二人の食い違いは、初めから平行線であって、所詮キャラの違いと見なすより仕方がないようです。
 こうして、あの実力者台頭によって貴族政治が壊れてゆく激動期、高踏的な学識や厳格な修行を蓄積することの無益が強く感じられる時期にあって、法然こそがまさにその時期にふさわしく、救済の対象を民衆一般へと大きく視線変更したのです。それは日本における最も顕著な宗教革命でした。

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「シン・ゴジラ」の恣意的解釈

2016年09月07日 01時20分06秒 | 映画




 遅ればせながら、「シン・ゴジラ」を見てきました。この危機管理映画がこれだけ受けるのは、いまの日本人の多くが内外に抱える問題(災害、外交、安全保障、原発問題その他)に対してかなり危機意識を抱えていることの証左でしょう。
 ゴジラに何の寓意を見るかは人々の自由ですが、私は個人的には、初めに出てくる幼生ゴジラの首がどこかの国の象徴であるドラゴンによく似ていることと、外からやってきた危機を最終的には米国や国際機関に頼らず、ついに自国の力で守り抜くというストーリー展開に、どうしても例の国の脅威に立ち向かうためのあるべき姿を連想してしまいました。
 この映画では日本政府の実際の体たらくとは違って、かなりスピーディに中央政府のエリート事務官、技官たちが危機に対する対応態勢を固めてゆきます。現場への指揮命令系統の動きもきわめて迅速です。昔のこの種の映画では、権力の腐敗と無策ぶりを描いて国民のルサンチマンをガス抜きさせることが多かったようですが、その点が昔と違う点です。ここに私は、健全なナショナリズムの成長をみて、いささか希望を感じた次第です。
 エンタメをすぐに現実の安全保障問題に結びつけるのは鑑賞の仕方としては邪道ですが、以下に掲げるのは、折しも産経新聞9月6日付に載った「ミグ25事件40年 現代の脅威は中国の領空侵犯 元空将・織田邦男氏に聞く」という記事です。これを読むと、40年間、いかに立法府が怠慢を決め込んできたかがわかります。「シン・ゴジラ」をこういう怠慢ぶりに対する警鐘として観ることもあってよいのではないでしょうか。

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 航空自衛隊の対領空侵犯措置(対領侵)の主対象は冷戦期のソ連から中国に移った。ソ連軍の領空接近の目的が偵察と訓練だったのに対し、中国軍の目的は尖閣諸島(沖縄県石垣市)の実効支配とみられる。だが威嚇や挑発がエスカレートする中、空自が対処する上で重大な欠陥がある。元空将の織田(おりた)邦男氏に聞いた。
 --対領侵の問題点は
 「自衛隊法には防衛出動などと並び対領侵の行動が規定されている。ほかの行動は自衛官が武器を使用できる権限が規定されているが、対領侵だけ権限規定がないことが問題だ」
 「権限規定がないため自然権である正当防衛、緊急避難以外は武器を使えず、対領侵の任務を遂行するための武器使用はできない」
 --自分がやられるまで武器を使えない
 「そうだ。『領空侵犯機が実力をもって抵抗する』場合に武器を使用できるという政府答弁があるが、実力をもった抵抗ですでに空自は犠牲者が出ている」
 「『相手が照準を合わせて射撃しようとしている』場合には攻撃される前でも危害射撃を行えるとの答弁もあるが、机上の空論だ。相手が照準を…と悠長に判断していれば、次の瞬間に攻撃されている」
 --権限規定がないことは法的不備では
 「ある元裁判官は『立法不作為』と断じた。権限規定がないことは『武器を使用してまで(侵犯機を)領空から退去あるいは強制着陸させるべき強制的権限を与えないという国家意思と解さざるを得ない』とも指摘している」
「任務は与えるが、権限と手段は与えない。だから対領侵の実効性は担保されなくても構わないというのが国家意思だろうか。そうではなく、『断固として領空を守れ』のはずだ」
 --尖閣の領空が危うい
 「中国は尖閣を力ずくで奪おうとしており、中国軍機が尖閣で領空侵犯をする日は近いかもしれない。尖閣で頻繁に領空侵犯され、厳正に対応できなければ実効支配しているといえなくなるのではないか」
 「領空侵犯されれば直ちに撃墜できるようにすべきだと主張しているのではない。撃墜されるかもしれないと相手に認識させて初めて領空侵犯を防ぎ、強制的に退去・着陸させることも可能になる。対領侵の権限規定を追加する法改正は待ったなしの課題で、立法不作為を放置することは許されない」
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「ブルキニ」禁止の欺瞞性

2016年08月22日 21時02分54秒 | 政治
      





 まずは上の写真を見てください。
 浮き輪を持った女性が普通の服装で海岸から引き揚げていくだけの画像に見えます。
 ところがこの女性の着ているのは、イスラム教で許されている通称「ブルキニ」(ブルカとビキニの合成語)と呼ばれる水着なんですね。えっ、こんな服で泳げるのだろうかと思うのですが、ブルカと同じように女性が肌を露出することを禁ずる一部ムスリムたちの間では、これが当たり前ということです。
 ところで、すでに新聞報道でご存じの方も多いと思いますが、いまニース、カンヌ、マルセイユなど、リゾート地のあるフランスの10以上の自治体では、「政教分離」の原則という建前から、このブルキニの着用を認めないという判決や決定が出されています。カンヌでは、違反者は38ユーロ(約4300円)の罰金が科せられており、今月17日現在で、4人が罰金を払ったそうです。(毎日新聞8月19日付)
 フランスでは、ブルカやヒジャブ(頭から首にかけて巻くスカーフ。顔は隠さない)が学校や公共の場所で着用禁止とされていることは古くから知られています。前大統領のサルコジ氏が2010年に提案し、2011年には議会で圧倒的多数で可決されました。もちろん、「宗教の自由」に反するとか、人権侵害だとかの理由で反発の声も多く挙がっています。 同じような問題は、フランスばかりではなく、ドイツ、ベルギー、オランダ、オーストリアでも起きています。
 ドイツでは19日、大連立政権のうち、メルケル首相の保守系与党が自動車運転時や、公的機関、学校など公共の場の一部でのブルカ着用禁止を目指す方針を公表しました。移民らの社会統合を促すのが目的で、メルケル氏は「顔を隠す女性が統合される見込みはほとんどない」と強調したそうです。オーストリアでも移民統合問題を担うクルツ外相が18日、ブルカ禁止を図る意向を表明。ベルギーも公共の場でのブルカ着用を禁じ、オランダも一部の場で着用を禁止していますが、こうした動きがさらに広がる可能性もあるとのことです。(産経新聞8月21日付)
 みなさんはこの問題、どう思いますか。

「政教分離」の原則とはいったい何でしょうか。フランス革命から近代の自由・平等思想が定着していったとはよく言われることですが、これは言うまでもなく、人種、性、言語、宗教、政治的信条、文化的慣習などに関わらず、各人の法的な平等と、思想・信仰・表現の自由をどこまでも認めるという理念をあらわしたものです。だからこそ、現実政治や公共的な取り決めの場にいっさいの宗教的制約、強制、教唆、指導、判断などを持ち込んではならない――これが「政教分離」の原則であるはずです。この原則は、特定宗教に対する徹底的な寛容を貫くものでなくてはなりません。
 ところがムスリムに対するこの仕打ちはどうしたことでしょう。「政教分離」の原則を掲げながら、やっていることは、明らかにヒステリックな宗教弾圧です。同じ原則を、その理念とはまったく逆の政策に利用しているのです。フランス(ドイツ、ベルギー、オランダ、オーストリアも)政府や自治体は、その論理破綻に気づいているのでしょうか。自分たちが立てた原則を自分たちで壊しているのだということに。
 もしブルカやブルキニやヒジャブを公共の場でまとうことを禁止するなら、キリスト教の修道尼が僧服を着て街を歩くことも禁止すべきだし、カトリック教会やプロテスタント教会が寺院のファサードに十字架を掲げることも禁止すべきでしょう。いえ、教会という施設がそもそも誰が出入りしても自由という意味で、半公共的な施設ですから、この施設における宗教的行事なども禁止すべきだということになります。キリスト教のみならず、ユダヤ教のシナゴーグも、イスラム教のモスクも。

 フランスで、ヨーロッパで、何が起きているのでしょうか。
 もちろん、移民・難民が引き起こす文化摩擦やイスラム・テロに対する不安と恐怖が今回のような罰則まで伴う厳しい規制をもたらしていることは明瞭です。しかしそれなら、「私たちはキリスト教文化圏に属する市民を防衛する」とはっきり言えばいいのに、特定宗教に対する明らかな抑圧を、「政教分離」の原理によって正当化するのは、いかにも欺瞞的です。ただの排外主義を近代の普遍的価値のように言いくるめているのですから。これでは普通のムスリムが腹を立てても当然と言わなければなりません。その点では、新たなムスリム移民の制限を打ち出しているアメリカのトランプ大統領候補のほうがずっと正直です。
 こうした問題は言うまでもなく、率先してナショナリズムを否定し、域内グローバリズムの理念を掲げたEUが自ら招きよせたものですが、じつは根深い歴史を持っており、昔からヨーロッパの内部には、妥協しえない多くの民族どうしの対立、差別被差別、支配被支配、互いの潜在的な憎悪と恐怖の感情などが渦巻いていたのです。
 シェイクスピアの『ヴェニスの商人』にはあからさまなユダヤ人差別の実態が盛り込まれていますし、ヨーロッパが主戦場になった第一次大戦は、帝国主義国家どうしの植民地争奪戦が大きな原因の一つでした。また戦後のヴェルサイユ体制にも「戦勝国」フランスの長年にわたるドイツへの怨念が盛り込まれていましたし、日本がこの時提案した人種差別撤廃法案は、にべもなく却下されています。
 このヴェルサイユ体制の大きな歪みが、ナチス・ドイツを生みました。ヴェルサイユ条約後わずか20年で第二次大戦に突入し、そのさなかにユダヤ人強制収容と大虐殺とが行なわれました。多くの人々(特に戦後ドイツ人)は、悪者を特定することが贖罪願望を満たしてくれるので、ヒトラーだけを悪魔のようにみなしていますが、よく知られているように、フランスにもユダヤ人を売る人々はたくさんいましたし、当のユダヤ人でさえ同胞を密告する人が少なからずいました。また戦後、ポーランドでは、一部の人たちが報復のためにドイツ人を強制労働に駆り立てたと言われています。きれいごとを言っていても、有事にはこのように隠されていた本音が露出するのです。
 記憶に新しいところでは、2015年1月に起きたムスリム過激派によるシャルリー・エブド襲撃事件がありますが、このシャルリー・エブドという雑誌の内容がどれほど下品な形でムスリムを侮辱したものか、みなさんはご存知でしょうか。よろしければこれについて触れた以下の拙ブログ記事をご参照ください。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/9b41f69650ef0ef5018dab8b5e325872


 さてこのたびの報道には、あの硬直した理想主義が好きなドイツまでもが、ブルカ着用禁止の方針を決めたことが報じられています。つい昨年の八月に難民受け入れ大歓迎と大見得を切った当のメルケル首相が、わずか1年で「統合のため」を表看板にし、難民150万が引き起こす混乱と矛盾にたまりかねて、とうとう本音を吐いたと見るべきでしょう。これは、自分たちの文化に従うのでなければ、いっしょにやっていくことはまかりならぬと宣言したに等しいからです。でも今さら追い返すわけにいかないとすれば、どうやって同化政策を取っていくのでしょうね。私の見る所では、この「統合」は失敗するでしょう。そしてその時がおそらく「EU統合」の失敗がだれの目にも明らかになる時でしょう。
 それにしても、ハンガリーの防壁建造に象徴されるダブリン協定(難民は初めに到着した国が受け入れる)の実質的無効化、英国のEU離脱決定、かつてEU参加を熱望していたトルコの大混乱、そうして今回の「ブルキニ」禁止決定などを考え合わせますと、EUの空想的な理念が一歩一歩崩壊してゆく様をまざまざと見せつけられる思いです。そうしてこの事態は、グローバリズムというイデオロギーがいよいよ暗礁に乗り上げて、世界がナショナリズムを基調としたさらなる多極化の時代に突き進みつつあることを表わしています。世界の多くの人々は、ヒューマニズムやコスモポリタニズムの欺瞞性に気づき始め、正直に本音を語ろうとしているのです。これはよいことです。「ブルキニ」を禁止されたムスリムたちは、正当な抵抗に立ち上がるべきでしょう。

 わが国は、欧米由来のヘンなリベラリズムや空想的な地球市民主義にかぶれさえしなければ(困ったことに知識人や政治家ほどかぶれやすいのですが)、もともとナショナルなまとまりを維持できる条件に恵まれているのです。日本語という統一言語、島国という地政学的条件、天皇をいただく長い歴史を持つ文化的同質性等々。
 わが国で、牧師さんが僧服姿で歩いていたり、坊さんが袈裟を着て公共の場所に出入りしたりすることを禁止するなどということが考えられるでしょうか? おそらくムスリムが「ブルキニ」を着て湘南海岸で海水浴をしていても、誰も文句を付けないでしょう。この驚くほどの寛容さと安定感覚が何に由来しているか、よくよく考えてみましょう。
 それは欧米や中国のように、多民族どうしの軋轢と摩擦に悩まされてこなかったからです。彼らは長く悩まされてきたがゆえにこそ、EUとか、共産主義とかいった、維持困難な苦しい理念を掲げざるを得ないのです。私たちは、永く天皇の存在によってまとめられてきたこの文化の同質性のありがたさを、もっともっと自覚すべきだと思います。ゆめゆめ欧米を見習ってわざわざ低賃金競争や文化摩擦を引き起こす移民政策などに手を出してはなりません(残念ながらもう政府は手を出しているので、何とかこの動きを阻止すべきなのですが)。


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ポケモンGOが早く廃れますように

2016年07月26日 19時06分18秒 | 社会評論
      




 ポケモンGOが日本でダウンロード可能になってから数日が経ちました。
 初めメディアは軽いノリでニヤニヤしながらその爆発的な人気について報道していたようですが、予想通りいくつものトラブルを引き起こしつつあります。さすがにメディアの論調も、わずか数日で様変わりしてきたようです。しかし本当は、日本解禁の前にアメリカですでにトラブルが報告されていたのですから、このゲームの問題点についてもっと真剣に報道すべきでした。日本の「カワイイ」文化がまた一つ国際化したというので、メディアは調子に乗っていたのでしょう。
 固いことを言うようですが、この遊び、私は非常によくないと思っています。で、次のような趣旨のことをあるところに投稿しました。

 このゲームは、やってる当人の危険もさることながら、厳粛な場所を汚したり、静謐な領域を荒らしたり、プライバシーを侵害したり、交通事故を起こしたりと、問題だらけである。想定外の犯罪に利用される可能性も大きい。特に子どもに持たせると、誘拐が容易になったりする。
 治安維持や注意喚起や立ち入り禁止区域を設けなくてはならない立場の人たちの苦労もたいへんである。
 まただいたい、ゲームそのものがすこぶる幼稚で、大人が夢中になるような代物ではない。主体的に行きたい場所を選択するのではなく、受動的に移動させられるわけだから、広場や路上に愚民化した群衆が溢れる結果をもたらす。

 すると、実際にやってみた人の立場から次のような反論がありました。

 これはじゅうぶん面白いゲームで、みんなが飛びつくのも無理はない、もちろんTPOを心得る必要はあるが、それは電話をしたり音楽を聴いたりするときと同じこと。また、このゲームでは、接近しないとポケモンは出現しない。ポケモンを求めてさまようわけではなく、目的地に向かって移動している最中に寄り道感覚で捕まえに行くのである。言わばナビに毛の生えたようなもの。おかげさまでわが街の、知らなかったスポットにも気付かされた。また13才以下には配信されない。

 これに対して私は再反論しました。以下に、少し変奏し加筆してそれを掲げます。

 実際にやっている人の立場からは、肯定したくなるお気持ちは十分わかります。私もやりだせばハマってしまうかもしれません。しかし私が上記で主張しているのは、実際に起こりうる危険、迷惑についてです。これらはもう現にあちこちで起こっています。社寺などの静かに情趣を味わうべき場所、店舗その他、多少とも公共性のある空間にポケストップが置かれた場合、そこに群衆が集まれば、それらの場所の本来あるべきたたずまいが乱されるのみならず、付近の住民のプライバシーも侵害されます。マスゴミが芸能人宅に押し寄せるのと似ています。
 たとえばAさんは、皇居や靖国神社にポケストップが置かれることをお望みになりますか?
 以下の記事などもご参考になさってください。ナイアンティックと契約したあの猥雑なマクドナルドでさえ、食事空間を攪乱され、逆効果になりかねないことを指摘した記事です。
http://www.mag2.com/p/news/213217/3
 世の中の人は、Aさんのようにきちんとマナーを守る良識のある方ばかりではありません。本人の仕事に支障をきたす場合も出てくるでしょう。
 また、マナーを守るべきなのは電話をしたり音楽を聞いたりするときと同じであるとおっしゃっていますが、シチュエーションがまったく異なります。電話や音楽の場合は、広場や路上や公共の場所に不特定多数が密集するわけではなく、特定の個人がたかだか周囲の数人に対して迷惑を及ぼすだけであり、しかも事故を起こす気づかいなどありません。
 このゲームが他のゲームと違う点は(だからこそ爆発的人気を博したわけですが)、単なる歩きスマホではなく、目的地への行動とゲーム上での展開が一体化しているという点です。「ナビに生えた毛」は、他人のことなどお構いなしの興奮を呼び起こすのです。
 なおAさんは、「ポケモンを求めてさまようわけではなく、目的地に向かって移動している最中に寄り道感覚で捕まえに行く」とおっしゃっていますが、それは節度ある人の話で、すべての人がそうではない証拠に、これまで人が集まらなかったスポットに異常なほど人が集まっていますね。
 また13歳以下に配信されなくとも、親や年長者のスマホを使うことはいくらでもできるでしょう。親がダウンロードして楽しんでいるゲーム(しかもマージャンや競馬ではなく、本来子ども向けのゲーム)を子どもに禁じるのは不可能に等しいのではありませんか。

 以上ですが、いささか大げさに言えば、私はこのポケモンGO現象を、現代社会の愚民化の象徴であるとみなします。あのオルテガが嫌悪した、自分を懐疑することを知らず、数を恃んで自分たちこそが世界の主人であると厚かましくも思い込む大衆――その光景を目の当たりにする思いです。一人一人になれば賢い人はたくさんいるのに、群集心理によって蝟集した人たちは、その限りにおいてやはり愚民です。その間はずっと真正の「他者」と出会うことを避け、冷静で客観的な配慮を欠いた思考停止期間となるからです。
 ところで、開発元のナイアンティックにも文句を言っておきたい。世界地図の精密化の技術をよいことに、地域主体や建造物所有者に無断でポケストップを措定して、何が起きようと知らんぷり。しかも、以下の記事によると、トラブルや訴訟が起きた時は、合意事項規約で巧妙に責任逃れをしているそうです。
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%EF%BD%A2%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%A2%E3%83%B3go%EF%BD%A3%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%A6%8F%E7%B4%84%E3%81%AB%E4%BB%95%E7%B5%84%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%83%AF%E3%83%8A-%E7%94%A8%E6%84%8F%E5%91%A8%E5%88%B0%E3%81%AB%EF%BD%A2%E8%B2%AC%E4%BB%BB%E5%9B%9E%E9%81%BF%EF%BD%A3%E3%81%8C%E6%BA%96%E5%82%99%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%EF%BC%81/ar-BBuNVO5?ocid=MIE8HMPG#page=2
 まことに自分勝手というほかありません。先にこのブログでマイクロソフトの強引さを指弾した文章を書きましたが、それと同じです。アメリカ式「自由」が無秩序化して歪んだ姿をさらした典型と言えるでしょう。任天堂発の「カワイイ」文化にいい気になってばかりではいけないのです。
 この流行が一刻も早く廃れることを祈ります。
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天皇陛下の「生前退位」のご意向について

2016年07月14日 15時01分01秒 | 政治



 天皇陛下が「生前退位」のご意向を示されたというニュースが流れました。報道によれば、五年前から内々にそのご意向を示されていたとのことです。
 私見を述べます。
 このご意向は、陛下のご高齢と、背負いきれないほどの公務の数々とに鑑みて、きわめて賢明なご判断だと思います。しかも、陛下は、宮内庁が提言してきた公務の削減を潔しとしないがゆえに、このご意向を示されたそうです。ここには、公務に対する陛下の責任感の強さと誠実さがはっきりと示されています。崩御しなければ退位は認められないという現行の皇室典範の規定を超えても天皇としての役割を正しく継承したいという強いご意志が感じられるからです。よって、このご意向に国民の側からお答えするために、特別立法措置によって速やかな実現をはかるべきだというのが私の考えです。
 さて政府や知識人の間には、これを実現するためには、皇室典範の改正が必要になってくるという意見が大勢を占めているようですが、私は反対です。
 たしかに皇室典範には、生前退位に関する規定がないので、皇室典範によってそれを定めなくてはならないという前提に立つなら、改正は必定ということになるでしょう。しかし、皇室典範の改正は、たいへんな時間と評定を要しますし、仮に陛下ご在世のうちにそれが成ったとしても、その新しい規定の法的な拘束力が将来にまで及ぶことが考えられるため、将来の天皇が違うご意向をお示しになった時にはまた変更を余儀なくされるだろうからです。
 また、摂政を置くことにすればよいという意見も散見されます。
 しかし皇室典範第16条2項によれば、「天皇が、精神もしくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為を自らすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く」となっています。今上陛下の現在のご状態がこの規定に当てはまるとは思えません。
 問題の要点は、今上陛下がそのようなご意向をお示しになった以上、立憲君主国(法治国家)の原則として、何らかの法的な措置(全国民の合意)が必要であろうということ、そして皇室典範改正も摂政を置くことも時宜を得た措置ではないのだとすれば、特別立法を選ぶほかはないだろうということです。
 この場合、皇室典範にその規定がないことを「欠陥」とか「欠落」とか考える必要は何らなく、この法を一種のネガティブリストによるものと見なせばよいのです。言い換えると、条文に規定がないのだから、そのほかの(想定外の)案件に関しては、簡単に立法措置が可能だと考えればよい。
 今回のご意向が、まさしく公務の大切さを何よりも尊重されるお心から出たものであることは、火を見るより明らかです。それは、これまで幾多の災害や戦没者に対して取ってこられた両陛下の、お心を尽くしたご振舞を拝見しても十分すぎるほど納得のできることです。
 陛下のご意向をできるだけ速やかに叶えさせて差し上げることが、あれだけ国民に愛情を注いでこられた両陛下のお気持ちに対して、今度は国民の側から両陛下への愛情によって報いる最良の手立てなのではないかと愚考する次第です。
 大上段に「すわ一大事」とばかり、これから皇室典範の改正論議を始めなくては、などと騒いでいる政府関係者や知識人は、陛下のご一身に対する温かい愛情が不足しているのです。それでは皇室と日本国民との心情の一体性は望めないでしょう。またいたずらに小田原評定をして大騒ぎすることは、一般庶民の皇室および今上両陛下への思いとの間にギャップを生み出す結果にもつながります。
 陛下は、日本国の神主の長としての職分を見事にまっとうされてきました。もし今回のご意向が速やかに実現した暁には、そのご振舞と重ね合わされることで、将来、美智子皇后とともに、まれなる名君、名妃として称えられることでしょう。

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