小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

日本虚人列伝――立花隆(その2)

2017年05月30日 13時14分18秒 | 思想



 次に『脳死』(一九八六年)『脳死再論』(一九八八年)『脳死臨調批判』(一九九二年)。
 脳死に関する議論は、厚生省が八五年に脳死の判定基準〈竹内基準〉を公表してから、九九年に「法的脳死判定マニュアル」を発表するまでの一五年間にわたって続きました。このうち前半の八年間、立花氏は精力的にこの問題に精力的に取り組み、右の三冊を発表します。
 その主旨は、脳死を人の死と認めることに反対するというものですが、なぜ反対するのか、その理由に対して筆者は大きな疑問を持ちました。その理由とは、竹内基準(瞳孔散大と対光反射喪失、自発呼吸停止、心停止)は機能死を意味しており、これだけではまだ生き残っている可能性があるから、細胞の壊死、つまり器質死を確かめるもっと精密なテストを二つ追加すべきだというのです。
 立花氏はこれを訴えるために、四百字詰め原稿用紙にしてじつに二千枚を超える右の三作を著します。この膨大な枚数を費やして、反「脳死=人間死}論を展開するのですが、不思議なことに、二つのテストを追加せよという以外には、人間の死とは何かといった本質的な考察はどこにも見当たりません。しつこくしつこく二つのテストを追加せよと繰り返すのみです。
 それはちょうど、田中角栄を論ずるのに、その政治家としての力量や政策のよしあしにはまったく目を配らず、ひたすら派手な金の出入りだけを問題視するのによく似ています。
 筆者は、もともと「脳死=人間死」の議論に反対でした。ですから、医療のレベルでテストをより厳密にすることに異存はありません。しかし問題はその理由です。
 当時、脳死をめぐる議論の中心は、医学的に「死」と認められたからといって、それをもってただちに人間の死としてよいのかという高度に倫理学的・哲学的なレベルにありました。これはもちろん、臓器移植技術の発達によって、移植医からの要請が高まり、どういう形で人間の死を規定したらよいのかという、これまでなかった問題が発生したからです。ところが立花氏は、こうした問題に少しも興味を示していないのです。
 筆者の考えはこうでした。

 テストの厳密化はテクニカルなレベルでやるに越したことはないが、そこに議論の中心を持ってくるのはおかしい。人間の死とは、共同関係の崩壊あるいは変容であって、当人を取り巻く親密な共同性のメンバーの同意なくしてある個人を死んだものとみなすのは誤りである。だからこそ人は路傍の死体の身元引受人を探すのだし、家族や親族の間で誰かが死ねば、必ず手厚く葬るのである。葬送はその人の死によって共同性が変容しつつあることを遺族が承認する手続きとして不可欠であり、人倫の基本をなすものである。もし立花氏の主張するように、医学的テストの厳密化だけを議論の中心にすると、裏を返せば、そこだけ厳密化すればあとは家族・親族が認めようが認めまいがどうでもよいという論理を導きかねない。

 この違いを感じてから、ひょっとしてこの人(立花氏)は、人間というものをただの生物個体としてしかとらえていないのではないかと思うようになりました。もしそうだとすると、それは極めて通俗的・非哲学的な人間観の持ち主だということを意味します。
 やがてこの推測は的中します。
 立花氏は『脳死臨調批判』を刊行してからなぜかぷつりとこの問題について論じなくなり(議論はずっと続いていたのに)、臨死体験やインターネットや宇宙やオウム事件へとその関心を移していくのですが、臓器移植法が成立した九八年から一年後の九九年、何の迷いもなくドナーカードに署名します。脳死と判定された場合でも、心停止の場合でもすべての臓器を提供する意思がある、と。
 「え? 立花さん、それはおかしくないですか?」とだれもが思いました。しかし、よく考えてみるとこれはおかしくないのです。
 というのは、彼はこの疑問に答えて、ぼくはなぜドナーカードに署名したか」という論文を書き、その中で、「『脳死は人の死ではない』論の多くは、死の本質と死に付随して起こるアクシデンタルなできごと(状況)の混同の上に立論されている」と述べ、また、「生死の問題はその人自身の生死の問題でしかなく、他者の心の中にある私という存在は、私にとってはヴァーチャルな存在でしかない」とまことにあっさりと述べているからです。
 この捉え方は、哲学めかしていますが、要するに「あなたはあなた、私は私」という身体の個別性にもとづいた通俗的な個体主義にほかなりません。
 こうした個体主義は、わかりやすいので巷に蔓延していますが、少し哲学的に考えていくと、「どのようにして私は他者を私と同じ人間存在として認めるのか」とか、「別々の個体なのに、示し合わせもせずに感覚や感情において共感が成り立つのはなぜか」といった疑問に答えることができないことに気づきます。
 答えられなくても別に生きていくのに困りませんが、問題は、立花氏が「死の本質」などといかめしい言葉を使いながら、その素朴個体主義に何の懐疑も抱いていないことです。そこがまさに彼の哲学的センスのなさなのです。
 立花氏は、東大仏文科で唯心論者のメーヌ・ド・ビランについて卒論を欠き、卒業後文芸春秋に入社してから二年後に再び東大文学部哲学科に学士入学しているのですが、この哲学研究の経験はいったい何だったのでしょうか。

 ほどなくこの素朴個体主義にもとづく人間観、生命観は、もっと過激な形で現れます。彼は臓器移植問題に早々と見切りをつけ、ティッシュ・エンジニアリング(遺体をバラバラに解体し、組織断片を生きた人間の身体の欠損部に埋め込む再生医療技術)に異様な興味を抱きます。ロシアやアメリカの再生医療工場を見学して感動し、この新しい技術を手放しで礼讃するのです。
 理屈は、エコロジーから借りてきます。いまや人間も野生動物と同じ生命連鎖を人工的に作り出すことができるようになったのだ、と(『人体再生』二〇〇〇年)。
 これは立花氏が、人間身体のすべてをパーツの組み立てによって構成できるとする科学万能主義のイデオロギーに何の疑いもなくハマってしまったことを意味しています。この発想が優生思想と紙一重なのだということ、その脱倫理性に彼は気づいてもいません。
 やがてこの発想は、遺伝子組み換え食品に対する無条件な礼讃にもつながっていきます。これについては、先の『嘘八百』のなかで、粥川準二氏が、その誤りや危険性について周到に説いています)。まさに昨今問題となってきた、TPPや農協改革法などによるグローバリズムの国家侵略とかかわってきますね。
 科学技術の発展に対して何の疑いも抱かないこのナイーヴな受容は、彼の知性の質が基本的に普通の人以下の幼稚なものだということを示しています。
人間の身体も機械と同じように単なるパーツの組み合わせだというのは、デカルトを連想させますが、ではデカルトが悩んだような、そしてその説明に失敗したような、「こころ」「魂」「精神」と身体とのつながりはどうなっているのだという疑問に対しては、立花氏はどう考えたのでしょうか。これについては、『臨死体験』(一九九四年)が、その恰好の材料となるでしょう。

 そこで最後に『臨死体験』。
 この本は、死の間近まで行きながら蘇生してきた人たちが証言する「体験」の事例をおびただしく集め、それに解釈を加える研究者やニューエイジの信奉者などの発言を加えて、その「体験」の客観的真偽を確かめようとした本です。これまた九百ページ超。
 立花氏のこの領域への「浮気」は、明らかに当時の新々宗教ブームに関係があります。もともと素朴実在論者であるはずの彼が、周囲の文化的趨勢に押されて、よし、このスピリチュアルな領域も踏破してやると考えたのがおそらく本音でしょう。
 そもそも多くのインテリたちまでも巻き込んで、やがてオウム事件(一九九五年)という悲惨な結末へと至る新々宗教ブームはどうして起きたのか。
 筆者の考えでは、これは日本の豊かな近代化の完成と関係があります。バブル時代を経て一億総中流が唱えられましたが、それは同時に、人々を浮かれ騒ぎへと誘う「退屈な日常」を提供するものでもありました。
 日本人の長年の憧れであった豊かな近代都市社会。憧れが実現してそれが日常化してみると、それは強力な個人化の流れのなかを泳ぐことでもあり、自我意識の空虚と孤独感をかき立てる光景でもありました。
 こういう時、人々はきっちりと枠づけられた合理的な物質生活では得られない(と感じる)何か別の世界、スピリチュアル、霊的なもの、神秘的な経験といった、贅沢な境位を空しく求めます。この世界を超越したもっと「真実」な世界がどこかにあるのではないか?
 この時期、栗本慎一郎氏や中沢新一氏など、いささかエキセントリックなインテリたちが一様にこの文化的空気に巻き込まれ、また自らその空気をリードしたのでした。足元ではすでにバブルがはじけ、以後長く続く不景気の波が押し寄せていたのですが、とかく個々人の意識はマクロ経済に無頓着です。九〇年代は足元の危機とバブル期以来の超日常感覚の残存とのタイムラグが歴然と現れた十年でした。
 素朴実在論者であるはずの立花氏も例外ではありませんでした。彼もまた時代の空気には逆らえず、スピリチュアルな領域に関心を抱き、日ごろの信条を、臨死体験や超常現象の解明(?)という試練にかけようとしたのです。
 彼のこの領域への挿入武器は、たったひとつ、臨死体験は「現実体験」なのか、それとも夢や幻覚と同じ「脳内現象」なのかという二元論的な問いにこだわることでした。
 ただし立花氏の名誉のためにことわっておくと、この本では、膨大な告白例やインタビューの記載に対してけっして軽信に陥ってはいず、かなり慎重な態度を崩していません。それでも最終的に自ら立てたこの二元論的問いの枠組みを崩さず、結論として、自分としては「脳内現象」のほうに傾くが、「現実体験」である可能性も完全には否定しきれないというところに落ち着いています。
 さて筆者の私見ですが、この二元論的問いの立て方そのものが非哲学的であり、言葉の使い方からして不正確です。そもそも脳内現象とは、ある人の脳の内部を観察・観測している他者の視点にとってのみ把握可能なものです。それは、ニューロンとニューロンとの複雑な電気化学的やりとりのことであり、それ以上のものではありません。
 何かを知覚・認識している本人にとって、あるヴィジョンなり心的体験なりは、どんな形を取ろうと、それ自体としては「脳内現象」ではないのです。私たちはただ、視点を自分自身と他者とに二重化させることによってはじめて、「脳内現象」と「体験」とが並行現象であることを知ることができるだけです。
 ところで夢や幻覚は、脳内現象がどんな形を取っていようと、明瞭な「体験」なのであって、現実と異なるのは、それらが必ず「醒める」ものであり、またまれにいつまでも醒めない場合にはけっして他者に承認されないという本質的な特性を持っているという点です。
 現実は逆にけっして醒めることがなく、また必ず他者の承認を得られる可能性のうちにあります。これ以外に夢や幻覚と現実とをわけ隔てる条件はありません。翻って私たちが現実と呼んでいるものは、脳内現象を伴わなければ知覚不能であり、不能であれば現実として認識できないこともまた自明です。
 立花氏の二元論的な問題の立て方は、初めから間違っています。
 なぜ間違えたのか。それは、主観とは無縁に客観的現実なるものが厳然として存在し、それに適合しないものは「体験」とは呼べないという俗流唯物論に拘束されているからです。
 彼はただこう問うべきでした――臨死体験は人が限界状況に置かれたときのヴィジョンなのか、それとも彼岸の客観的存在を証拠立てる入り口なのか、と。そして答えはもちろん前者です。
 ここでは詳しく述べませんが、臨死体験のようなことは(いわゆる「幽体離脱」なども含めて)、特に何か別世界の存在を暗示するような神秘体験として扱うに値しない、十分に起こりうる自然な心的現象です。
 わが国では川や橋やお花畑や亡くなった近親者が出てくる例が多いようですが、これは、私たち一人ひとりが共同性を背負った歴史的存在だからです。一部の人々はそうした共同幻想への感応力が強く、生活環境と有機的に結びついた物語性に深く染められた生き方をしています。それは別に不思議なことではありません。
 
 立花氏はその後、「こちらの世界」に引き返したようで、今度は持ち前の「科学少年」的な情熱を、宇宙、現代物理学、遺伝子工学などに差し向けるのですが、もう深追いはしますまい。『嘘八百』には、立花氏は現代物理学の基礎もわかっていないという故佐藤進京都大学名誉教授の痛烈な指摘があります。
 かくして、立花隆という人を一言で言い括るなら、一つの問題意識に取りつかれると他のことはきれいに忘れてしまい、いっときそれにものすごいエネルギーを注ぐのですが、世の流行関心が移ると、何の脈絡もなくそちらに乗り換える、子どもっぽい多元オタク志向の持ち主だということになるでしょう。
 一見、社会現象や学問領域を広く扱って「総合知」を目指しているような体裁を取ってはいますが、自ら総合化して独自の思想にまで仕上げる力はないようです。もちろんまた、逆に何かの専門家になるわけでもありません。「知の巨人」ならぬ「知の風来坊」というのがふさわしい。
 しかしことは立花氏一個の問題ではありません。彼の活躍期は、七〇年代から九〇年代。立花氏はいわば、日本が一番元気だったころに言論ジャーナリズム界に咲いた仇花だったのです。
 そういう時期に、言論界が、スペシャリストでもジェネラリストでもない、好奇心だけは人一倍旺盛な、ヘンな物書きを、仇花としてしか咲かすことができなかったのだとすれば、これは日本という国がいまだに国際社会の中で文化後進国の位置しか占めていないという哀しい事態を象徴するものだとも言えます。ましてデフレ不況で元気をなくしている今の日本。この環境風土のなかで自立した思想家や哲学者が育つのだろうか、と心配するのは筆者だけでしょうか。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

日本虚人列伝――立花隆(その1)

2017年05月29日 00時40分14秒 | 思想

      





以下2回にわたってに掲載するのは、『正論』2017年6月号に寄せた論考にほんの少しの修正を施したものです。

 立花隆? あんな人、もう終わってるよ――そう思われた人は多いのではないでしょうか。しかし仮にそうであるにしても、なぜ七〇年代から九〇年代にかけてあれほど日本の言論ジャーナリズムでもてはやされたのか、そこには当時の日本のどんな文化風土が背景としてあったのか、こうした歴史学的、文化人類学的関心を掘り起こしてみることは、いまの日本を理解する上で一つの導きの糸となるのではないでしょうか。
 じつは今から十五年前の二〇〇二年に『立花隆「嘘八百」の研究』(別冊宝島Real027・宝島社)というムックが出たことがあります。冒頭、編集部が書いたイントロダクションの一節を引きます。

 《「教養」や「知」を盾に取った立花隆の仕事ぶりをつぶさに検証していくと、浮かび上がるのは「シロウト騙し」の手練手管、知的欲求を満足させたい読者に向けて、事実歪曲、思い込み、デタラメ解釈といった不純物混じりの情報を横流しする「知のテキヤ」ぶり。立花隆は二〇世紀のマスコミが抱えてきた恥部、すなわち、いかがわしい情報(知)ブローカー体質を象徴的に体現した存在でもあるのだ。》

 かなり激しい決めつけ方がされています。
しかし立花隆という人は、引用文に書かれたような、意識的にシロウト読者を騙してやろうといった奸智に長けた人ではありません。もっと素朴でクソまじめ、物事をひねって考えることのできない人です。つまり、批評精神ゼロ、哲学的センスゼロ、だけど好奇心とエネルギーだけは並外れて大きい、言ってみれば猪突猛進型の突撃隊員のような人です。だからこそよけい困るのです。
 さて先の本では、政治、脳死、臨死体験、IT、宗教思想、公安問題、現代物理学、生命工学、エコロジー、精神医学、宇宙論等々、彼が扱ってきた驚くべき広汎な対象領域にまたがる「知的探究」なるものに対して、それぞれの書き手が個別に批判を繰り広げています(ちなみに筆者も、「脳死」の項を担当しました)。もっとも中には部分的にほめたたえている稿もあります。
そもそもたった一人の物書きを取り上げて、よってたかっていじめてやろうという企画がビジネスとして立派に成り立つということ自体が、この人物の図体のデカさを示しています(かなり売れたらしい)。その点だけは誰も否定できないでしょう。立花氏本人にとっては名誉なことかもしれません。

 何はともあれ、彼の主要著作のいくつかについて、具体的に当たってみましょう。
 まず彼の出世作である『田中角栄研究 全記録』(一九七六年)。
 これは、田中角栄がいかに金の力によって自民党内最大派閥を形成し、総理大臣の地位を射止め、退陣後も隠然たる力を及ぼし続けたかを、ロッキード事件による田中逮捕に至るまで執拗に追いかけたドキュメンタリーです。
立花氏はリアルタイムで細大漏らさずそのプロセスを記録しました。金権政治とか田中金脈といった言葉はこの本がもとで流行したのです。庶民宰相とか今太閤とか呼ばれてもてはやされた田中角栄が二年五カ月という短期間で退陣に追い込まれたのも、この本によるところ大です。
 この本の功罪は、次のところにあります。
「功」は、これ以降、政治資金規正法がしだいに整備され、大掛かりな贈収賄事件があまり見られなくなったことです。
田中角栄の金集め、バラマキはたしかに露骨というにふさわしいものがありました。これ以後もリクルート事件、KSD事件などが起き、大きなスキャンダルになりましたが、金集めの手法、その金額、中央政治家が堂々と金で人を動かす姿勢などにおいて、いわゆる「田中金権政治」の比ではありません。
「罪」ですが、これは、著者・立花氏自身にもかかわることです。それは、この本によって、政治家というものはいつも利権のためにだけ行動するものだという印象が国民の間に植え付けられてしまったことです。
もちろん政治倫理は大切ですが、権力を握っている政治家のすべてが官僚や財界と癒着してその利権のうまみを目指して行動しているわけではありません。しかしいったんこうした印象が定着すると、国民は、行われている政治のよしあしの判断基準を、贈収賄や公金横領などの倫理的な問題にだけ置くようになり、ある政党の政策や政治家の政策実現能力などを見ないようになります。
 立花氏は、実際この固定観念から抜けられず、その後の汚職事件についての感想を求められると、判で押したように「田中金脈以来の日本政治の本質的な構造は改まっていない」と答えるようになります。
 実際にはそういう見方はもう古く、日本の政治は、さほど金の力で動くようなものではなくなっていました。最近では、むしろ国会が機能せず、タコツボに入って視野狭窄に陥った官僚や学者、一部の「民間議員」と称する内閣直属の会議の「議員」たちの間違った独裁がこの国の政治を悪い方へ、悪い方へと導いています。
 国民大衆の多くがいまだに「政治は金が動かしている」というわかりやすい図式で政治批判をする根底には、富裕層や権力者に対するルサンチマンがあります。ことに長引くデフレ不況で貧困層が増えれば増えるほど、この傾向は増していきます。
最近の例では、舛添元都知事のチンケな公金使い込みなどをこれでもかこれでもかと追及して、ついに辞任に追い込んだ例があります。国民のルサンチマンは、このようにして、現実政策の是非を判断することから目をそらさせるために常に利用されているのです。立花氏はこの本によってその先鞭をつけたと言えるでしょう。
これはこの本の「罪」というよりは、決定的な「欠落」というべきなのですが、上下巻九百ぺージ近くに及ぶこの大著で、田中角栄が議員時代、閣僚時代にどんな政策を実現させたかという、政治論として最も大事なことがらに言及した部分は、驚くべきことにほとんど一ページも見当たりません。
 少なくとも田中の政治家としての初期の活躍ぶりには目覚ましいものがあります。
 一九四九年、田中はインフラ整備と国土開発を主なテーマに活動。以後、五三年まで、三三本の議員立法に関わり、その間、建築士法、公営住宅法を成立させ、公営住宅法は後に日本住宅公団設立の基礎となります。
五二年には道路法改正法を成立させ、二級国道の制定により国費投入の範囲を広げます。また道路審議会を設置し、「陳情」の民意を反映させる方式を取りいれます。
五三年には、道路整備費の財源等に関する臨時措置法を議員立法として提出し、ガソリン税相当分を道路特定財源とすることを可能にします。
五七年、岸内閣で郵政大臣に就任。テレビ局と新聞社の統合系列化を推し進め、現在の新聞社 - キー局 - ネット局体制の民間放送の原型を完成します。
 田中はマクロ経済に無知でしたから、首相時代には高度成長後のインフレ対策を大蔵省出身の福田に丸投げしましたが、それは裏を返せば、田中がいかに日本の経済成長に執念を燃やしていたかということの証左でもあります。
以上の記述からは、戦後の混乱がまだ収まらない中で、国民が何を一番望んでいるかに敏感で、ことの要を押さえつつ、辣腕を発揮しているさまが彷彿とします。
 これらの政策のよしあしの判断は読者にお任せしますが、立花氏が信じさせたがっているように、田中が権力欲や金銭欲だけのために巨額の金を動かしたのではないことは確かでしょう。状況に応じてどんな政策を取ったか、それは正しかったかという設問なしに「田中角栄研究」など成り立つはずがないのです。
これは、立花氏自身が政治音痴であることを明かすものであり、同時に、「大衆も政治家も金のことにしか興味がないのだ」という単純なテーゼによって、国民を煽り本来の政治から目をそらさせていることになります。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

経済音痴が日本を滅ぼす

2017年05月24日 12時21分05秒 | 政治
      




以下は、5月13日付「日刊スパ!」デジタル版に掲載された、「自衛隊を守る会」顧問・梨恵華氏の記事の一部です。
https://nikkan-spa.jp/1329422
《ここでさらに防衛大綱で潜水艦の新造艦や延命措置によって大幅に増やされることとなり、人員を増やす計画がなされないまま潜水艦だけが増やされた形となっています。
 財務省としては、防衛予算を毎年、少しでも削減することが目標ですから、潜水艦が増えた分のコスト削減目標があります。何かを増やせば何かを削減しろというのが財務省です。潜水艦が増えたら、潜水艦に必要な乗組員を大幅に増やす予算を確保しなければならないはずなのに真逆の目標があるのです。
 毎年防衛省から発行される「防衛省の我が国の防衛と予算」には「自衛隊定数等の変更」という報告があり、必ずどれくらい定数を減らしたのかという削減マークが付けられています。モノが増え、船が増え、装備が大型化しても、予算削減のためにその運用するための人員は減らすといういびつな予算が潜水艦の過酷な労働を生む大きな原因です。潜水艦を増やすが人は増やさないとなると、方法は一つです。休みなしに長時間労働で補うしかないのです。また従順な潜水艦乗組員は不満を表にあらわさずちょうどいいのでしょう。》

 自衛隊員は、有事平時に限らず、労働基準法適用外です。人員が十分確保できないため、有給休暇などとることができず、長時間苛酷な任務に耐えなくてはなりません。
 特に潜水艦乘りは秘密厳守が必要なので、おいそれと停泊できず、狭く暗い環境の中で、休日、睡眠なしの長期勤務を強いられるのが常識となっています。これは容易に想像できることですね。
 おまけに医者を乗船させるだけの予算もなく、病気になっても十分な投薬もされないとのこと、そのためここ1、2年間で自殺や事故が多発しているそうですが、これも表ざたになっていません。

 梨恵華氏は、「これを改善する道はただ一つ、人員を大量に募集して二交代制にすることだ」と書いていますが、上記の引用でわかるように、財務省の予算削減の方針がこれを頑固に阻んでいます。
 当たり前のことが当たり前に行われていない。これで日本の安全保障が守られるはずがありません

 この記事に触れたすぐ後、今度は次のような記事に触れました。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS16H5U_W7A510C1PP8000/
《自民党税制調査会の野田毅最高顧問ら有志議員が16日、財政再建に向けた勉強会を発足させた。勉強会を通じて安倍晋三首相の経済政策「アベノミクス」に警鐘を鳴らすのが目的。野田氏が代表発起人を務め、中谷元・前防衛相や野田聖子元総務会長が呼びかけ人となった。野田毅氏は「財政破綻の足音が聞こえてきており、このまま放置するわけにはいかない。財源の裏付けがないまま、惰性に流されるのはあまりにも無責任だ」と語った。

 臍が茶を沸かすとはこのことです。ようよう、おバカ政治家・両野田氏、財務省にペーパーなど出してもらって何をお勉強するの。
 「国の借金1000兆円」「PB黒字化目標」「積極財政は国債の暴落(金利の暴騰)を招く」「財政再建待ったなし」――耳にタコができるほど聞かされたこれらの嘘八百を真実と勘違いして、進んで再確認しようというのですから、話になりません。一体どこから財政破綻の足音が聞こえてくるのか。

 この記事についてはすでに三橋貴明氏がご自身のブログで、「野田毅氏の幻聴」といううまい表現を使ってすでに触れていましたが、「財源の裏付け」なんて、財務省教祖様の「緊縮真理教」をいち早く棄教して、財政出動に打って出るだけでいくらでも確保できるではありませんか。
 政権与党である自民党の重鎮が、このようにマクロ経済のイロハも理解していないために、財務省お墨付きの「勉強会」とやらをやってますます騙されていくという構図です。
 これが日本の政治です。情けないとしか言いようがありません。
 笑って済ませられないのは、この中に防衛問題に強いはずの中谷元氏が含まれていることです。
 中谷氏は、いったい自衛隊のボロボロの現状をどれだけ知っているのか。前防衛大臣として自衛隊が可愛くはないのか。
 さらに笑って済ませられないのは(こちらの方が重要ですが)この勉強会なるもの、明確な政治的意図のもとに組織されているという事実です。
 言うまでもなく、ここには、今のうちに、2019年に予定されている消費増税への足固めをしておこうという魂胆がありありと見え透いています。
 ふつふつと怒りが沸き起こってくるのを抑えることができません。

 安倍政権は、2020年までのPB黒字化目標という方針を見直して、政府債務の対GDP比率を重視するという方針に転換しようとしています(これにはおそらく、内閣官房参与の藤井聡氏の懸命な努力が功を奏しているのでしょう)。野田氏らの「勉強会」なるものは、これに対する露骨な対抗措置と言えます。
 ここからは想像になりますが、その底にあるのは、党内の反安倍勢力による安倍降ろしという、ただのくだらない権力争いです。
 たぶんポスト安倍と目されている石破茂氏を担ぎ出そうとでもいうのでしょう。筆者は自民党内の派閥勢力図などよく知りませんが、石破氏もまた恐るべき経済音痴であることだけは知っております。
 筆者はまた、けっして安倍首相を支持しているわけではありませんし、彼がマクロ経済をよく理解しているとも思いません。しかし、せっかく彼がデフレ脱却に結びつく少しはマシな政策を取ろうとしている時に、無知な政治家たちが財務省のデマを政争の道具に利用して足を引っ張ろうとするのを許すわけにはいかないのです。
 まことに無知ほど恐ろしいものはありません。

 まだあります。
 これも三橋氏や藤井氏がすでに触れていますが、1~3月期のGDP実質成長率が年率換算でプラス2.2%と5四半期連続で伸びているという内閣府発表にもとづく最近のニュースです。
 いかにも景気が回復しているように見えます。
 じっさい少し前に、筆者は「景気が回復したので」といった経済記事の記述を見てびっくりしたおぼえがあります。
 しかしこれもペテンに引っかかっているのです。
 実質成長率は、それ自体は計算できず、「名目成長率-物価上昇率」という式で表されます。ですから、たとえ名目成長率がマイナスでも(実際そうなのですが)、物価上昇率がそれを上回ってマイナスなら(これも実際そうなのですが)、実質成長率はプラスとして表されることになります。
 名目成長率がマイナスで、物価上昇率が大きくマイナスに落ち込んでいるということは、言うまでもなく、日本が再デフレ化に突入しつつあることを意味します。名目成長率も物価上昇率もともにプラスになるのでなければ、景気が回復したとは言えません。
 にもかかわらず政府およびマスコミは、名目成長率にも物価上昇率にも触れず、実質成長率のプラス化だけを発表・報道し、あたかもデフレから脱却しつつあるかのような悪質な印象操作を行っているわけです。
 政府はこの四年間何ら有効な財政政策を打たなかったのに、数字をごまかすことによって国民を騙し、来たるべき消費増税を正当化しようとしているのです。私たちは、このウソを見破って、断固として国民窮乏化をもたらす動きに抵抗しなくてはなりません。
 冒頭に例示した自衛隊のような悲惨なありさまは、他の社会領域でもあちこちで起きています。大げさでなく、亡国への歩みは確実に進んでいるのです。


コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

中野剛志著『富国と強兵』読書会のお知らせ

2017年05月22日 20時46分05秒 | お知らせ


読書会のお知らせです。

6月11日(日)、美津島明氏が主宰する「日本近代思想研究会」にて、中野剛志著『富国と強兵』の読書会が行なわれます。

当日は、中野氏ご自身が参席されます。

実施要領は以下のとおりです。どうぞふるってご参加ください。

ご予約申し込みは特に必要ありません。直にお越しください。

《実施要項》

日時:6月11日(日)午後3時~7時

会場:ルノアール新宿区役所横店6号室

アクセスhttps://tabelog.com/tokyo/A1304/A130401/13116914/dtlmap/
(立ち上がった画面を少しスクロールしてください。地図が出てきます)
  新宿区 歌舞伎町 1-3-5 相模ビル1F 2F 03-3209-6175

テキスト:『富国と強兵 地政経済学序説』(中野剛志 東洋経済新報社 3600円+税)

レポーター:藤田貴也さん

参加費用は、人数によりますが、場所代・飲み物込みで一人当たり1500円前後(場所代・飲み物代)+1300円です。プラス1300円は、中野氏への謝礼に充当されます。ご理解のほど、お願いいたします。

また、中野氏が2次会に参加なさる場合、氏の分は、ほかの参加者で均等負担することになります。合わせて、ご理解のほどお願いいたします。

                                                 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

サイコパスは生まれつきか

2017年05月19日 13時38分32秒 | 社会評論
      




*以下に掲げるのは、『Voice』2017年5月号に寄稿した記事にほんの少し訂正を施して転載したものです。


◆独り歩きして濫用される言葉

『言ってはいけない』(橘玲著・新潮新書)や『サイコパス』(中野信子著・文春新書)がよく売れているそうです。背景には、相模原障害者施設殺傷事件や小金井女子大生傷害事件の加害者がサイコパスではないかとの世間の判断があると思われます。森友学園問題の渦中の人もそういう悪口を叩かれました。一度ある言葉が流行ると、独り歩きして濫用されます。
「サイコパス」とは精神医学用語です。もともとは「精神病質」と訳されていましたが、その適用対象が時代とともに変遷し、現在では「反社会性人格障害」と訳されています。
 犯罪心理学者のロバート・D・ヘア氏はサイコパスを以下のように特徴づけています。

 ①良心が異常に欠如している 
 ②他者に冷淡で共感しない
 ③慢性的に平然と嘘をつく
 ④行動に対する責任が全く取れない
 ⑤罪悪感が皆無 ⑥自尊心が過大で自己中心的 ⑦口が達者で表面は魅力的

 こういう傾向をもった人は昔から一定割合でいましたし、また他の変人、異常性格者、精神病者と同じように程度問題で、グラデーションをなしています。サイコパスのすべてが犯罪者ではないし、逆に犯罪者のすべてがサイコパスであるわけでもありません。

◆進化心理学は疑似科学

 ところで、右に挙げた二著に共通しているのは、両者とも、多くの外国の研究を紹介しながら、このサイコパスが遺伝性によるものではないかという考えを提出している点です。つまり成育環境の影響によるよりも、生まれつき普通の人とは違った種族なのだという印象を読者に与える効果を醸し出しているのですね。
 もっとも、中野氏の著書のほうは、脳科学の専門家らしく、かなり慎重な記述を取っています。これに対して橘氏の著書のほうは、かなりその面を強調していて、その点、ある意味で刺激的であるとも言えます。
 ここでは、両著の批評を試みようというのではありません。
 ちなみに一言だけ感想を申し上げておくと、両著とも英米系で発達した進化心理学なる学問にかなり信頼を置いているようですが、私自身は、この学問の方法原理をあまり信用していません。それには二つの理由があります。
 一つは、自然界に見られる「種の形態的変異」の多様性を進化によって説明したダーウィンのオリジナルを、そのまま人類社会における「個体(個人)の心」の変異に適用することに無理を感じるからです。「人類社会」という、それ自体自然とかかわりつつ変異を重ねていく一つの「種」を、自然環境と同一視しているのです。
 もう一つは、進化心理学は、自分(この場合も「種」全体ではなく特定個体群です)の子孫の維持繁栄のための「戦略」という言葉を好んで用います。しかし戦略というからには、初めからある目的を意識して特定の手段を用いる「主体」を想定しなくてはなりません(心理学なのですから)。ところが進化心理学は、その主体があたかも遺伝子それ自体であるかのようなあいまいな擬人法を用います。それは「神のご意志」をDNAに置き換えただけのことです。DNA決定論と人間の自由意志との間の矛盾という哲学的難問を飛び越したまま、生物学的進化と人間心理とを強引につなげているのです。
 だから私はこの学問は、疑似科学だと思っています。膨大な資料を収集して得られた統計的事実は現象として尊重しますが、説明原理には納得できないのです。
 閑話休題。

◆ラベリングに潜む倫理性からの免除

 この論考で考えてみたいのは、「サイコパス」のようなラベリングによって、私たちを分節すること、いわゆる普通人と生まれつきの異常人とを区別することが、私たちの社会的関心にとって何を意味するのかという点です。
 これは言い換えれば、倫理的なテーマです。
 ここで倫理とは、やや難しい言い方になりますが、ある行為や判断に関して、人生時間の長さや人間関係の広がりを視野に入れながら、その意味を考える精神のことです。この場合で言えば、「サイコパスは遺伝的に決定されているという説がある。それはこれこれの理由で当たっている(いない)」と表明しただけでは、物事を倫理的に見たことになりません。そのような捉え方を提出することの社会的な意味を考えることが重要なのです。サイコパスは遺伝現象だという判断が、どういう既成の理解や「正しさ」の観念を背景として投げ出され、それがどういう社会心理的効果を生むのか、それを見極めること――それが倫理的な営みというものです。
 たとえば「病気」という概念があります。
 私たちは普通、この概念を、個体の心身の健全さが何らかの生物的・心理的原因によって内部で損なわれることと理解して疑いを持ちません。しかしそれだけでは不十分なのです。
 病気とは、そうした心身の損害によって日常生活上の倫理的つながりから「免除」されることです。病気とはもともと人間関係に関わる社会的な概念なのです。ある個体の内部の変容、腹痛がするとか迫害妄想に悩まされるとか、それだけを取り出して「病気」と名付けるのではありません。
 病気という概念は、周囲の人々がその人の変容に対してどういう態度(モード)で振る舞うかという関わり方までを含んでいます。つまりその人から、義務や責任や、普通に人と共に生きることまでも含めた倫理性を免除してやるという関わり方です。医師の診断書がないと会社が病気と認めてくれないなどということがよくありますね。周りに疎まれる振る舞いをやめない人のことを「あれは病気だから仕方がない」などと言ったりします。
 倫理性からの免除は同時に日常的な関係からの「追放」でもあります。ことにメンタルな面に関して「あいつは病気だ」という周囲の判断は、「あいつとはつきあわないようにしよう」とか「あいつには仕事をさせられない」という決断に容易につながります。
 要するに自分たちとその人との間に明確な一線を引くことで、仲間はずれにするわけですね。「病気」にかぎらず、一般に他者に対するすべてのカテゴライズ、ラベリングには、この「免除」と「追放」との両義性が絡んでいます。

◆過剰なPCに挑んだトランプ大統領

 ポリティカル・コレクトネス(PC)について考えてみましょう。
 PCとは、人権尊重や平等主義、反差別主義の立場から、こうしたカテゴライズやラベリングを印象づける表現を禁止することです。PCは、カテゴライズやラベリングを嫌います。これらが、共同性からの「追放」の側面を多かれ少なかれもつからです。
 しかし過剰なPCは、硬直したイデオロギーとなって、人々を息苦しくさせます。冒頭に掲げた二著、特に『言ってはいけない』は、過剰なPCに対する挑戦の意図を込めています。
 米国は、民主党政権下で過剰なPCの傾向が顕著でした。多民族国家の秩序維持という難しい課題を前にして、実態としては相互異族視、排外主義、差別などが逓減していないにもかかわらず(だからこそ?)、建前の上でヒステリックなほどにPCを看板として立てています。「メリー・クリスマス」はキリスト教のお祭りの言葉で異教徒の差別につながるから言ってはいけないとか、「天にましますわれらの父よ」は父権主義のあらわれで女性差別だからダメだとか。
 日本に比べて欧米では、PC問題はかなり深刻なようです。自由、平等、人権などの理念を強固に打ち出してきた歴史を抱えているため、それらの建前と実態との乖離がますます露出してきたからです。欧米は移民・難民問題を抱えており、この問題が生み出す異民族、異教徒間の緊張関係が深まれば深まるほど、建前の欺瞞性が明らかになってきました。EUの見せかけの寛容さの下で、シャルリー・エブド事件、難民たちによる数々の暴動、ホーム・グロウンによるテロ、本国人たちによる逆襲、難民受け入れ停止国の出現、移民排斥・移民制限を訴える政党の勢力伸長など、もはや収拾がつかないありさまです。
 トランプ大統領が登場したことによって、PCの硬直性に風穴を開けようという雰囲気が新たに生まれました。空疎な理想主義を追わずに、現実をよく見て、本音で大いに語ろうではないかという雰囲気ですね。
 しかし彼のやり方、特にアラブ七か国(のち六か国)からの移民・難民制限政策がやや急激であったため、それに対する感情的反動もものすごく、連邦地裁やいくつかの州の地裁で大統領令差し止めの仮処分がなされたほか、理念を前面に押し出す民主党陣営の反トランプ勢力も強く、トランプ氏は劣勢に立たされています。
 けれども難民受け入れ制限についてのトランプ氏の大統領令の中身をよく見ると、テロを防ぐという現実的な観点からは当然と言ってもよいもので、格別差別主義とか排外主義とか呼べるものではありません。ちなみにこの点については、拙ブログhttp://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/94b4c5947b93f47089cb026a2547125cをご参照ください。

◆刑法第39条は半ば形骸化している

 橘・中野両氏の本も、それほど強くタブーを破っているといった印象はありません。「サイコパスは遺伝が原因である可能性が濃厚だ。サイコパスが犯罪者の一定割合を占めることは明らかだ」という判断を、精しい統計資料を紹介しながら述べているだけです。現実をよく見て、あるべき社会政策を考えていこうと提言するにとどまっています。
 サイコパスという概念も、その言葉の発祥からして病気との関連性を失っているわけではありません。したがって、それとおぼしき人が凶悪犯罪の容疑者となった時には精神鑑定の対象となります。
 心神喪失や心神耗弱による減刑(刑法第39条)の要求は弁護側からよく出されますが、最近は、たとえ「サイコパス」などの鑑定がなされた場合でも、責任能力ありと判断される場合が多いようです。39条は半ば形骸化している感があります。
 これは、社会倫理の重点が、被告の人権尊重の観点から、社会秩序防衛の観点に少しずつ移ってきたということなのでしょう。被害者遺族の心情や犯罪が引き起こす一般市民の不安感情を考えれば、ある意味当然と言えます。日本の治安状態は、いまのところけっして悪化してはいないのですが、情報社会化の進展によって、国際テロの影響などもあり、国民の不安が増大しているのだと思います。
「サイコパスは、生まれつき決まっている蓋然性が高い」、さらに一歩深めて、「ある種の凶悪犯罪者はサイコパスであるから矯正困難だ」というような判断が力を得てくるのも、不安の増大の流れの中にあるでしょう。社会学的に見れば、一人世帯の急激な増加なども関係していると考えられます。
 しかしこうした判断は、何も今に始まったことではありません。19世紀後半から20世紀初頭に活躍した犯罪人類学の元祖と言われるチェーザレ・ロンブローゾは、「生来的犯罪人説」を唱えて一世を風靡しました。この時期が、第一次大戦前夜のヨーロッパで、社会不安がたいへん高まった時期であるのも、何やら暗示的です。

◆ラベリングは集団心理を落ち着かせる

 あるそれらしき一群に名前を付けてカテゴライズし、それを「自分たち普通人」と区別(差別)しようという衝動が高まることの背景には、世界秩序の大きな流動化という要因が作用しているでしょう。
 それは個人に対して帰属意識(アイデンティティ)の不安定化を呼び起こします。名前のついていない一群を前にすると、私たちはとても不安になります。ラベリングは、私たちの集団心理を落ち着かせるために行なわれるのです。
 それを巧みに利用したのがナチスです。古くからのユダヤ人差別意識を下地に、優生学的な判断を結びつけたナチスのような動きが吹き荒れたのも、世界恐慌後の混乱期を背景としていました。それで、優生学といえばいまわしいナチスを思い浮かべるのが、自由主義社会の住人の条件反射のようになっています。
 しかし実は私たちは、優生学的な判断に近いことを薄められた形で日々行なっているのです。私たちは、いのちは平等に尊いとはけっして考えていません。
 たとえば大勢の人が危難に遭った時、誰を優先的に救うべきかという判断において、老人よりも子どもを、縁の遠い人よりも身近な親しい人を、大したとりえのない人よりも重要人物を先に生かそうと考えるでしょう。英雄にあこがれるのも、能力の劣った人を軽視するのも、「気に食わない奴」をよってたかって排斥するのも、出生前診断で障害児の出産を避けるのも同じ感覚です。
 優生学的な考え方は、私たちが無意識に取っている、そういうごく当たり前な序列化の感覚を、強大な権力が民族や人種というわかりやすい集団的指標をよりどころに、世界の不安定に乗じて巧みに組織化したところに成り立ちます。優生学的発想は私たちの中にもともとあり、逃れることはできないということを深く自覚する必要があります。
 だから「サイコパスは遺伝的に決まっており、ある種の犯罪者はこれに属する」という捉え方を一概に斥けるわけにはいきません。
 こうした判断が科学的真実として正しいか間違っているかが問題ではないのです。大事なのは、そういう見方をしなくてはならない局面がある、ということなのです。たとえば小学生の首を切り落として校門の前に置いた「少年A」や、同級生を絞め殺して遺体の頭や手首を切断した佐世保の女子高校生などを「理解」しようとする時には、こういう判断に立たざるを得ないでしょう。

◆決定論に頼ろうとする態度は不安の表れ

 またある異常が先天的なものであるとか、これは「病気」であるとかラベリングされたときに、その当人がかえって安心して落ち着くという不思議な面を人間はもっています。それは、自分の努力とか責任の問題ではないという告知によって、アイデンティティ不安から逃れられるからです。諦めれば腰が据わって生きる方向が見えてくるのですね。
 だから、ある種の決めつけは、局面次第で仕方がないこともあれば、よい効果を生むこともあります。要は、決定論に陥らず、人間という生物の可塑性を担保しておくことが大切なのです。
 しかし可塑性を担保しておくといっても、一部の人が好んで取りたがるような、人間の生まれつきの差異を極小に見積もろうとする態度にも全面的に賛成するわけにはいきません。この種の態度を取る人たちは、遺伝的決定論に対抗して環境決定論を持ち出します。この子の失調(非行、学力不振、暴力的傾向その他)は幼い時にこれこれの育てられ方をしたからだ、といったように。
 遺伝決定論も環境決定論も、科学によって決着のつく議論ではなく、初めに結論ありきの一種のイデオロギーなのです。
 遺伝か環境かというのは、決着のつかない永遠の問いですが、そもそもこの二者択一的な問いの立て方がおかしい。それはちょうど、グラスに入っている水の形を決めているのは、水の粒子の集まりか、それともグラスかと問うのに似ています。
 遺伝的形質は特定の環境を通してのみ発現します。ですから両方だと答える以外ありません。もともと質の違った二つの概念を目の前に並べてどちらかを選べという論理に無理があるのです。
 人間の性格や能力や行動の傾向について、遺伝的要因が優勢か環境的要因が優勢かをいうことはできるでしょう。けれども決定論に頼ろうとする態度は、それ自体が、その人の不安をあらわしています。人間はいずれ不安から逃れるすべはないので、大事なことは、決定論に陥らないように両極端の均衡点に立つ不安に耐え続けることです。それがよい倫理的態度なのです。




コメント (1)
この記事をはてなブックマークに追加

プレミアム・フライデー狂想曲 働かなくてほんとにいいの?

2017年05月14日 19時50分57秒 | 社会評論
      





*以下に掲げるのは、『正論』2017年5月号に寄稿した記事にほんの少し訂正を施して転載したものです。


◆「早く帰った」は3・7%


 去る2月24日、私はある用事があって都心に赴きました。終わったのが四時半くらい。ラッシュアワーにはまだ早いのに、郊外に向かう帰りの電車が勤め人風の人でけっこう混んでいました。みなさん、何の日だったか憶えていますか。
 そう、初めてのプレミアム・フライデー(プレ金)だったんですね。なるほどと思ったものの、ぎゅうぎゅう詰めというほどではない。まあ、こんなものだろうという程度です。
「働き方改革」と消費の伸び悩み改善の一石二鳥という触れ込みのこのアイデア、いったい誰が言い出したのか、セコイというか、白けるというか、見当外れというか、まあ政府の考えることは、何ともバカバカしいとしか形容のしようがありません。
 後日の記事によると、首都圏在住の働く男女を対象にした民間調査では、実際に早く帰った人は、たったの3.7%だったそうです(産経ニュース・2017年3月3日付)。当たり前でしょう。
 このアイデアのどこがバカらしいか。いくつもありますが、一つ一つ行きましょう。
 まず前から言われていたことですが、早帰りできるのは、経営状態が良好で余裕のある大企業の正規社員だけだということ。
 日本の中小企業は99.7%を占めますが、このデフレ不況下で四苦八苦しているところがほとんどですから、そんなことが許されるはずがありません。ただでさえ残業、残業、休日出勤と、過酷な労働条件を強いられているのです。事前の聞き取りでも「プレ金? ウチは関係ねえよ」とほとんどの人が答えていたようです。
 後に紹介する「働き方改革」についての資料の中に、「厚労省が、所定外労働時間の削減や年次有給休暇の取得促進を諮る中小企業事業主に対して、その実施に要した費用の一部を助成する助成金制度を導入した」とありますが、そもそも現在のデフレ状況下で、そういうことが中小事業主に可能なのか、きちんと調査・検討した事実を寡聞にして知りません。
 いくら助成してくれるのか知らないけれど、おそらくは雀の涙。これは事業主の道徳心に期待したもので、そういう政治手法は効果薄弱なことが初めから見えています。
 プレ金についての前期記事によれば、余裕のある大企業でも以下のような有様です。

《実施・推奨している職場でも「早く帰るつもりだったが帰れなかった」という人が16.3%。理由には「仕事が終わらなかった」「後日仕事のしわ寄せが来る気がした」「職場の周囲の目が気になった」などがあがった。》

 初めの二つの理由は当然といえば当然ですね。でも最後の理由が、「働き方改革」全体の趣旨にとって意外にも大きな壁となっています。しかしそもそもこの趣旨自体がおかしいのですから、「壁」はじつは壁ではなく、配慮しなくてはならない重要なポイントなのです。これについては後述します。
 また、この種のアイデアが百害あって一利なしなのは、政府がデフレ脱却のために適切な対策を打っていないことから人々の目をそらす作用を持つからです。適切な対策とは、言うまでもなく、プライマリーバランス(基礎的財政収支)黒字化目標を破棄し、大胆な積極財政に打って出ることです(ちなみに積極財政の障害となっている「国の借金1000兆円。このままだと財政破綻する」という財務省発のウソは、いい加減に引っ込めてほしいし、国民もこのウソから目覚めてほしいものです)。

◆日本の休日はかなり多い

 こういう弊害もあります。日本の休日数(年次有給休暇日数)はいま世界の中でもかなり多い方に属するので、これ以上増やす必要はありません。しかし実際には休める人と休めない人との間には大きなギャップがあります。すると、賃金が低くきつい労働に耐えている人々の間にルサンチマンが貯めこまれます。公務員を削減しろなどというのがその典型ですね。
 また「早く帰宅させると消費が伸びる」などという論理は「風が吹けば桶屋が儲かる」と同じで、まったく論理が成り立ちません。というのは、時間当たりの労働生産性が変わらないと仮定すれば、長く労働した方がマクロレベルでは生産高が増え、それに応ずる需要がありさえすれば、その方が消費が増えるはずだからです。バブル期の時はみんな猛烈に働いていましたよ。仕事があったのです。つまり需要があったのです。
おまけに金曜日ですから、一週間精一杯仕事をした気分で夜の街に繰り出せば、それだけお店も繁盛するでしょう。その方が需要創出につながると思うんだけどな。先の記事では、退社した人で最も多かったのが「家で過ごした」(41.8%)だったそうです。あ~あ。

◆休日に働いている人は多い

 ここまでは、いわゆる「サラリーマン」をイメージして論じてきましたが、ここからは、人々があまり気づいていない事実を指摘して「プレ金」の無意味さを述べましょう。この視点は、言われてみれば当たり前なのですが、私たちの先入観を取り払うという意味で、意外に重要だと思います。
 その事実とは、休日というと、オフィスに勤務するホワイトカラーにとっての休日をつい思い浮かべがちですが、じつは休日やオフの時間帯こそ稼ぎ時だという人や、平日が休日になっていたり不定期に休みを取っていたりする人がたくさんいるということです。
「NAVERまとめ」の「職業別・男女別就業者人口の割合」という統計資料(https://matome.naver.jp/odai/2146752095773010701)によって、一般事務、会計事務、営業職業その他、平日オフィスに勤務しているだろうと思われる人の割合を推定してみると(厳密に仕分けすることは困難ですが)、わずか二七%から多くても三二%程度にとどまるのです。
 政府の「働き方改革」なるものも、こうした職業の人が「働く人」のすべてであるかのような錯覚にもとづいて構想されており、仕事に従事する人の正しい実態をとらえていません。レストラン、ホテルなどのサービス業関係者、医療福祉関係者、教育関係者、交通機関関係者、各種小売商、不動産業者、土木建設作業員、出版、テレビなどメディア関係者、農業従事者、漁業従事者、各種自由業者等々、政府はこういう人たちのことを考慮に入れているでしょうか。

◆働く人は減っているが…

 さて問題の「働き方改革」ですが、ニッセイ基礎研究所の金明中氏によると、政府がこの政策を進めている理由は次の三つです。
(1)日本の人口、特に労働力人口が継続して減少していること
(2)日本の長時間労働がなかなか改善されていないこと
(3)政府が奨励しているダイバーシティー(多様性)マネジメントや生産性向上が働き方改革と直接的に繋がっていること
http://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=53852&pno=3?site=nli
(1)は、正しくは、少子高齢化によって、人口減少カーブと労働力人口減少カーブとの間にはなはだしいギャップがあると捉えるべきです。この現象は、各分野での人手不足を生んでいます。人手不足は、長い目で見れば供給が需要に追い付かない事態を意味しますから、賃金上昇をもたらすはずです。超低金利と相まって、デフレ脱却の絶好のチャンスと言ってもよいのです。
 ただし経済評論家の三橋貴明氏が常々指摘しているように、人手不足解消の応急措置のために外国人移民を受け入れるのではなく、政府が技術開発投資やインフラ投資を率先して行うことで生産性を高めるのでなくてはなりません。しかるに安倍政権は、移民政策を推し進めようとしています。移民政策がどんな結果をもたらしつつあるかは、ヨーロッパの現状を見れば明らかでしょう。

◆単に目的は人手不足解消と低賃金なら…

 そもそも常識的に考えて労働力人口の減少がなぜ、働き「方」の改革に、それも長時間労働の削減を良しとする発想に結びつくのか理解できません。これはおそらく、電通若手女性社員の過労自殺やブラック企業問題などが世間を騒がせたので、あわてて木で鼻を括るように問題項目だけをそろえてみせたのでしょう。
 もっとも、長時間労働を減らしてワーク・ライフ・バランスを回復させると、かえって生産性が上がるという一応の理屈が付いてはいます。先のニッセイ基礎研究所の資料によれば、OECD諸国の統計で、一人当たりの平均年間労働時間と、労働生産性との間には逆相関が認められるというのです。つまり労働時間が長い国ほど労働生産性が低いというのですね。たしかにこの資料にはそれを示すグラフが付されていて、それらしき傾向が読み取れます。
 しかし相関関係は、因果関係ではありません。各国には各国の労働事情があり、安易に比較することはできないのです。労働生産性は、国によって産業構造がどう違うか、どんな社会環境下に置かれているか、設備や技術の普及度はどうか、労働の組織形態はどうか、働くことについての国民の意識はどうかなど、さまざまな条件に左右されますから、逆相関がみられるからといって、労働時間を減らせばいいなどという単純な結論は得られません。
 次です。先に挙げた「働き方改革」を進める理由の(3)に出てくる聞きなれない言葉「ダイバーシティー・マネジメント」ですが、これはいったい何でしょう。政府は、本音を見透かされないようにごまかすときは、たいていこういう聞きなれないカタカナ語を使います。最近聞かなくなったけどホワイトカラーエグゼンプションとかね。
ダイバーシティ・マネージメントとは、多様性を許す経営ということらしいですが、ちょっと聞くと、働き方の多様化、たとえば在宅勤務を条件付きで容認するとか、勤務時間の自由化(フレックスタイム)とか、ワークシェアリングを充実させるとかいったことをイメージさせます。ところが、読んでみるとそうではなく、女性、高齢者、外国人といった「多様な」人材を対象にするというだけのことなんですね。何のことはない、単なる人手不足解消策と、低賃金での人材確保策という財界の要望を反映させたものにすぎません。これでは企業のブラック化は少しも変わらないでしょう。

◆デフレで働かなければ貧しくなる

 現在のブラック企業問題や過労死問題の解決策を模索するには、労働行政の枠内にだけ視線を集中していたのではダメなのです。まず何よりも、なぜそういうことが発生する風潮が当たり前になっているのか、その根本原因はどこにあるのかを考えるのでなくてはなりません。
 根本原因は、誰でもわかることで、デフレ不況がもたらした経営困難や生活困難であり、それを作り出している政府の誤った経済政策(無策)です。電通の女性社員は生活困難ではなかったでしょうし、自殺の直接原因が過労であったとは必ずしも特定できませんが、長く続くデフレ下で醸成された企業のヒステリックな空気を毎日呼吸していたとは言えるでしょう。
 日銀の金融緩和だけではまったくデフレから脱却できないことが判明した現在、取るべき政策は国債(赤字国債と建設国債)の発行による大胆な財政出動以外にないのです。これは先ごろ来日したノーベル経済学賞受賞者のスティグリッツ教授も言っています。ここでは、なぜかを詳しく論じませんが、この方向性が財政危機・財政破綻を招くなどということは百パーセントあり得ません。
 要するに、まずデフレを解消して一般国民が豊かさとゆとりを回復するにはどうしたらよいかに言及せずに、働き「方」の問題だけ抽象して「長時間労働を減らしてワーク・ライフ・バランスを」などとのんきなことを言っているのは大いなる欺瞞なのです。中小企業主やその従業員の人たちがこれをまともに聞いたら怒りだすのではないでしょうか。「そんなお節介しなくていいから、そういうことが自分たちでできるように、まず働いた分に見合うだけの報酬が払える(得られる)ような景気対策を早く打ち出してくれよ」と。
 政府がデフレ対策を打ち、積極的にインフラ投資や技術開発投資をし、企業が設備投資をしたくなるような空気を作り出さなければ、単なる働き「方」の改革を抽象的に論じても、労働者にゆとりなど生まれるはずがないのです。
縦割り行政の弊害でしょうが、この改革理念の中に、物理的に労働者にゆとりを与えるためのAI技術(ロボットなど)の導入の話などがまったく入ってこないのも不思議です。デフレ期にただ長時間労働を減らせなどというのは、貧しい生活に甘んじろと言うのと同じではないですか。
 いま進められている「働き方改革」なる政策は、非現実的な観念の遊びの枠組みの中に、人件費を削れという経済界のいつもながらの陳腐な要求を忍びこませた「まがいもの」にほかなりません。

◆周りを気にして帰らない…は日本人の長所では?

 先に、プレ金を推奨している職場でも帰れなかった人がかなりおり、その理由の一つに「職場の周囲の目が気になった」というのがあったことを紹介しました。ニッセイ基礎研究所の資料にも、年次有給休暇の取得にためらいを感じると答えた人が68.3%に上るというデータが載っており、その内訳の上位一位と三位を見ると、複数回答で「みんなに迷惑がかかると感じる」74.2%、「職場の雰囲気で取得しづらい」30.7%となっています。
 この資料ではこういう結果を「働き方改革」を阻む障壁と見ていますが(この種の政策関係資料はだいたいそうですが)、私は無視してはならない尊重すべき点だと思います。ここに多くの人は日本的組織の特徴を見出すでしょう。私も日本人らしいとは思いますが、それを組織にとって必ずしも悪いこととは思いません。
 この周りを気にする意識は、「仕事」というものに対する日本人のとらえ方をよく表しています。つまり日本人にとって仕事とは一人でやるものではなく、仲間と一緒にやるものなのです。近代個人主義の立場からは、これは克服すべきだということになるでしょう。しかしよく考えてみると、初めから終わりまでたった一人で完成させる仕事というものは存在しません。周囲の人とのかかわりを大切にする日本人は、そのことを本能的にわきまえていて、いつも配慮を忘れないのです。
 このいわゆる「集団主義」的な精神、優れたチームワークが、かつて高度成長を生み、世界から驚嘆され、称賛を浴びたのではなかったでしょうか。
 もちろん長所は同時に欠点でもあり、過度な集団主義は個性をつぶします。それが独創的なアイデアの産出を阻んだり、間違った既定路線をいつまでもずるずると続けさせたりします(財務官僚の緊縮財政路線のように)。またお節介な上司との粘着的な関係が私生活の自由を阻害することもあるでしょう。
 しかし、どんな時にも「はい、五時になりました。帰らせていただきます」とさっさと席を立つようなドライな人は、関係を大切にせず、その結果、仕事を自分たちのものとして大切にしない人でしょう。責任を負わない人だと評価され、本当に結束しなければならない時に仲間から信用されないでしょう。
「働き方改革」を口にして、その中に「長時間労働一般の弊害の克服」や「年次有給休暇の取得促進」を絶対条件として繰り入れる人は、現実の「仕事」というものが初めから孕んでいる共同性感覚、情緒の共有の大切さを軽視しているのだと私は思います。
 しかし共同性感覚とか情緒の共有といった人間論的なテーマは、もともと抽象的な網によって問題を整理しようとする政策課題になじまないところがあるのは確かです。またもちろん、劣悪な処遇に対する法的な措置や緻密な管理・監督は大切です。しかしことが悪化するのも現場、悪化を正確にチェックできるのも現場ですから、「働き方改革」を真剣に考えるなら、個々の現場レベルでの数値化できない問題を、あえて問題として可視化する姿勢が問われるでしょう。ほんとにやる気があるなら、膨大な現場事例を集めて問題点を多角的に検討するところから始めてはどうでしょうか。
 プレ金はそれ自身のうちに、労働に関して一般化できないことを一般化しようとする無理解を含んでいます。早いうちに消えるでしょう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「教育、教育」と騒ぐなら金を使え

2017年05月09日 01時41分47秒 | 社会評論
      




5月1日付の産経新聞「産経抄」によりますと、日本の小、中学校の先生の労働時間は世界でも突出して長く、小学校教諭の33%、中学校教諭の57%が残業時間80時間を超えており、「過労死ライン」を上回っているそうです。
先生の多忙というと、平教員の忙しさをイメージしがちですが(それももちろんあるのですが)、なかでも多忙を極めるのは、副校長、教頭で、調査報告書の作成、休んだ教諭のフォロー、会計業務などあまりの激務に疲れ果て、教諭への降格を願い出るケースが跡を絶たないのだとか。

小中学校教師の忙しさは今に始まったことではなく、昔から部活の顧問として土日・夏休み返上で駆り出されるとか、テストの採点は家に持って帰って深夜までとか、年間いくつもある学校行事の指導とか、たいして意味のない研修会への参加強制とか、問題生徒の管理監督やいじめ防止への配慮とか、モンスターペアレンツへの対応などなど、とにかく息つく暇もないとの訴えはよく聞かされてきたものです。
ところが、世間の視線は意外とこうした実態に対して冷ややかで無関心です。それはなぜでしょうか。

第一に、教師は公務員で、給与もそこそこ高く安定しているという点が挙げられます。
世の中にはもっと貧しい人やきつい仕事に耐えている人がいる、贅沢な悩みだといったルサンチマンに根差すまなざしを受けやすいのですね。ことにデフレ不況下の今日では、こうした声が高まっていると思われます。
しかしある職業が所得面や雇用面で安定しているという事実と、その職に固有のきつさがあるという問題とは別です。教師のきつさとは、授業をしっかりこなすという本業のほかに、やたらと生活指導や文書作成などの一般事務や部活動顧問など、本来の職務ではない仕事で埋め尽くされることからくるストレスなのです。いわば多種の肉体労働と神経労働がどっと重なってきて、それを毎日捌かなくてはならないところに、このストレスの原因があります。

第二に、土曜も隔週で休みだし、夏休みもあるので優雅なものじゃないかといった先入観があります。
しかしこれは、上に述べたように、実態とは著しく異なる偏見です。学校という特殊な現場の日常をよく知らない人は、こうした先入観でものを判断すべきではありません。

第三に、教師という職業に対する世間の期待過剰があります。
「教師は聖職者」という観念がいまだに残っているようです。
どの親にとってもかけがえのない子どもの教育と生活をあずかるのですから、大切な仕事には違いありません。しかし教師も能力や包容力に限界のあるただの人間です。
何もかも教師に背負わせて、ちょっと学校で問題が起きると、担任の責任、校長の責任と大げさに騒ぎ立てる風潮を改めなくてはなりません。
大事なことは、今の学校に何ができて何ができないか、一人の教師の職分と管轄範囲はどれくらいかということをはっきりさせて、その認識をみんなができるだけ共有することです。

ちなみに、教員志望者は年々減少の一途をたどっています。また教員志望者の中でも、こんなに忙しい日本の教員にはなりたくないと思う人が6割を超えているというデータもあります。
http://benesse.jp/kyouiku/201603/20160317-1.html
http://diamond.jp/articles/-/57792

ではどうして日本の小中学校教師はこんなに忙しいのでしょうか。
上に記したように、本来の職務でないことを背負わせられているという困った「文化伝統」の問題もありますが、これらのうちの無駄な部分を削ることができたとしても、ある重大な理由から、教師の多忙さはさほど減らないだろうと思われます。
その重大な理由とは、国が教育にお金をかけていないという事実です。
日本の公教育支出は、GDPの3.5%で、OECD諸国の中で、何と6年連続で最低なのです。
http://editor.fem.jp/blog/?p=1347

日本人の多くは、教育が大事だ、教育が大事だと口癖のように言います。歴史認識、理科離れ、平和憲法、公共心、グローバリズムにエネルギー、何でもいいですが政治問題や社会問題を話していて、現実がなかなか変わらない嘆きに達して行き詰まると、たいていの人が言うのです――「最終的には教育の問題だよね」。
これは要するにただの陳腐な「オチ」であって、教育をどうするのか、何かヴィジョンがあるわけではなく、あきらめや逃げの言葉をつぶやいているにすぎません。教育のことなど誰も本気で考えてはいないのです。

もし本当に教育が大事だと考えているなら、まずはこの恐ろしく貧困な教育投資の実態を何とかしなければなりません。
そして投資をどこに差し向けるか。もちろん、まずは人材投資です。
教師の数を増やすだけではなく、前述のような教師本来の仕事ではない部分を担える人材を雇用して、先生が余裕をもって本業に専念できるような環境を整備すること。

環境と言いましたが、物理的な意味での環境整備も非常に大切です。
これは一例にすぎませんが、いま日本の公立小中学校で、エアコンがどれくらい整備されているかみなさんはご存知ですか。
何とわずか三割です。
それも地域間格差が激しく、首都東京は八割ですが、暑いはずの九州は二割に満たないところもあります。
http://xn--88j6ev73kngghpb.com/%E5%B0%8F%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%AE%E3%82%A8%E3%82%A2%E3%82%B3%E3%83%B3%E8%A8%AD%E7%BD%AE3%E5%89%B2.html
かわいそうな九州の子どもたち。これで、子どもを大切にしている国と言えるのでしょうか。

文科省は二流官庁ですから、予算が十分に取れない苦しさもあるでしょう。
財務官僚はきっと日本の将来を担う世代のことなどに関心がなく、文科省の管轄事項を、それが喫緊の課題ではないという理由で、無意識に蔑んでいるのだと思います。
いま公立の小中学校教育に投資するとしたらどこにお金を使うべきか。小3から英語教育を、とか、道徳教育を正課に、など、百害あって一利なしの施策にではありません。基礎学力を徹底させるために、ゆとりのある人的物的環境を整えることに投資すべきなのです。これは教育界におけるソフト面、ハード面のインフラ拡充と言えましょう。
文科省は、グローバリズム迎合やヘンな精神主義を捨てて、具体的な窮状を訴え、改良策を引っ提げて財務省に予算要求を迫るとよいでしょう。「子どもや先生がかわいそうなんです」――これなら血も涙もある(と思いたいですが)財務官僚も、少しは耳を傾けてくれるかもしれません。

コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

誤解された思想家たち・日本編シリーズその7

2017年04月27日 19時28分03秒 | 思想

      




北畠親房(1293~1354)


 北畠親房の『神皇正統記』は、その考え方にいくつも屁理屈や矛盾があって、突っ込みどころ満載の書ですね。主なものを挙げておきましょう。

①皇統の正統性の根拠を三種の神器(八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙剣)の継承に置いているにもかかわらず、三種の神器を具した安徳天皇が海の藻屑と消えて以後、後白河院の「伝国詔宣」のみによる後鳥羽天皇践祚を認めています。
 これについては原文を引用しておきましょう(第八十二代・後鳥羽院の項)。

≪先帝(安徳天皇――引用者注)三種の神器をあひぐさせ給ひし故に践祚の初の違例に侍りしかど、法皇国の本主にて正統の位を伝えまします。皇大神宮・熱田の神明かにまぼり給ことなれば、天位つつがましまさず。≫

 格好さえつければ何でもいいと言っているみたいですね。

②一方、後醍醐天皇が三種の神器を押さえていたために、北朝方の光厳天皇践祚も後伏見天皇の「伝国詔宣」によって行われましたが、親房はこれをまったく認めていません。しかも光厳天皇は、建武の新政までの二年間、正式に在位していたのです。

③武家政権を否定して、天皇親政の昔に還れと呼びかけているにもかかわらず、頼朝の幕政をほめたたえ、かつ北条泰時の秩序維持の政治をひたすら高く評価しています。

④親房の思想によれば、善政を行った家系は天照大神のみそなわしにより必ず長く続くが、悪政を行なった家系は必ず絶えることになるはずです。ところが、善政を敷いたはずの頼朝の家系は頼家・実朝の暗殺によってわずか三代で滅んでいます。しかし親房はこの事態をどう見るかについてきちんと触れておらず、実朝暗殺は鎌倉幕府に背いた者のわざではないとして、素通りしています。

⑤承久の乱における義時の平定を肯定すると同時に後鳥羽上皇を批判しながら、一方で、足利尊氏を暗に「朝敵」と呼んで非難し、同時に後鳥羽上皇と同じようなことをやった後醍醐天皇を擁護しています。

 以上の③④⑤についてはほぼ一続きの文章で確認できるので、これも原文を引用しておきます(「廃帝・仲恭天皇の項)。なおカッコ内は、引用者の補注。

≪頼朝一臂をふるひて其乱をたひらげたり。王室はふるきにかへるまでなかりしかど、九重の塵もおさまり、万民の肩もやすまりぬ。上下堵をやすくし、東より西より其徳に伏せしかば、実朝なくなりてもそむく者ありとは聞えず。(中略)頼朝高官にのぼり、守護の職を給、これみな法皇の勅裁也。わたくしにぬすめりとはさだめがたし。後室その跡をはからひ、義時久しく彼が権をとりて、人望にそむかざりしかば、下にはいまだきず有といふべからず。一往のいはればかりにて(後鳥羽上皇が承久の乱を起こして敗れた後)追討せられんは、上の御とがとや申べき。(尊氏のように)謀反おこしたる朝敵の利を得たるには比量せられがたし。かかれば(後鳥羽上皇が乱を起こしたのは)時のいたらず、天のゆるさぬことは疑ひなし。但(尊氏のように)下の上を剋するはきはめたる非道なり。≫

 これらは、よく読めば子どもでも分かる撞着や偏向であって、すでに早くから指摘されています。しかしこの書の成立事情や親房の動機を考える時、共感できるとは言わないまでも、なるほどそういうわけか、と納得することはできるのです。
 まず、よく知られているように、北畠親房は、鎌倉幕府が滅んだ後、短い建武の新政が終わり、やがて南北朝時代に移って行くときに、後醍醐天皇とその子孫を皇統の正系として擁した南朝方の有力リーダーです。ですから、南朝に有利な記述に偏するのは当然と言えば当然でしょう。
 また、親房は、庶流とはいえ、村上天皇の血筋を引くプライドの高い貴族の末裔です。しかもその才能によって早くから後醍醐天皇のおぼえめでたく、若くして正二位、大納言にまで昇りつめています。
 彼は、心情的には明らかに武家を下品で賎しい身分として軽蔑していました。そうして当世をその賎しい身分によって乱された末法の時代と考えていました。それなのに、頼朝治世の称賛や、泰時に対する異常なほどの高い評価は、いったいどこから来ているのか。
 それは、ひとことで言えば身びいき感情です。というのは、まず親房は、村上源氏(より詳しくは久我源氏)の流れを汲んでいます。頼朝は清和源氏の流れなので、だいぶ系統が異なりますが、それにしても天皇家の皇子が賜った臣籍として同じ源姓を戴いていることのうちには、おのずからな共感ともいうべきものがはたらいていたとみるのが自然です。
 次に持明院統(第八十九代・後深草天皇)と大覚寺統(第九十代・亀山天皇)との間に皇位継承争いが発生する前、皇統は廻り持ちでそれなりに安定していました。その中に、第八十三代・土御門天皇とその嫡子である第八十八代・後嵯峨天皇がいます。この二人の天皇の母はそれぞれ村上源氏(より詳しくは久我源氏)の通親、通宗の娘であり、共に親房の先祖に当たります。つまり彼は、単に遠く村上天皇の末裔であったばかりでなく、この二人の天皇とたいへんゆかりの深い外戚だったのです。
 ところで、後嵯峨天皇の践祚に大きな力を及ぼしたのが、なんと泰時でした。親房は、自分の家系である村上源氏が天皇家と深く結びつくことに貢献してくれた泰時に、感謝の情を強く抱いていたわけです。
『神皇正統記』の土御門院、後嵯峨院の項を読むと、土御門院が承久の乱に関して父の後鳥羽院や弟の順徳院を時期尚早と諌める英明ぶりや、その温和で思いやりの深さが強調されており、また、泰時をべたほめしている調子が露骨に出ているのがわかります。

 さて『神皇正統記』の史実としてのいかがわしさや記述の矛盾について長々と述べてきましたが、私は、親房の記述のこうした傾向を、偏った見方をしているからよくないとか、自分勝手な歪曲があるから客観的視点から見て価値が低い、などと言いたいのではありません。歴史とはもとより、それを記述する者が創り出す物語の集積と絶えざる改編(改竄)の過程にほかなりません。
 このブログの他の記事でも書きましたが、フランス語では、「歴史」も「物語」も同じhistoire、英語のhistoryにもドイツ語のGeschichteにも両様の意味合いが含まれています。
 また私たち日本人にとっては、きわめて不快なことではありますが、東京裁判史観なるものがアメリカが創り出したインチキに他ならないことは、今日心ある日本人の間では常識となっています。中国の「南京大虐殺」説がでっち上げであることは明らかなのに、ユネスコ記憶遺産に登録されてしまいました。さらに韓国の「従軍慰安婦強制連行」説が欧米でまかり通ってしまっていて、改められる気配もありません。こうした光景を見ていると、そもそも歴史とは捏造の歴史であると言いたくなってきます。
 その場合、歴史改編(改竄)の成否のカギを握っているのは何かといえば、それはさまざまな意味での「力」にほかなりません。より具体的に言えば、軍事力、政治力、外交力、経済力、情報発信力、知力、創造力、演出力、勝者特権や被害者特権を利用した説得力、などです。戦後日本が、これらのうち、経済力以外のすべてにおいて負け続けてきたことは言うまでもありません。
 こういうと、それはあきらめのニヒリズムだと評されそうです。しかしそうではなく、私は、歴史とは本来そうしたものなのだと開き直ることこそが大事なのではないかと言いたいのです。
 この覚悟を固めることがまず歴史戦において「負けないこと」「勝つこと」の第一歩なのです。粘り強く誠実さを貫いてゆけば、いつかは相手もわかってくれる、などという日本人好みの倫理観は、国際社会では通用しません。私たちも彼らを見習って大いにでっち上げをやれとまでは言いませんが、少なくともマキャヴェッリが言うように、「誠実らしく見せること」「見くびられないようにすること」が何よりも大切です。歴史とはそれを紡ぐ共同体自身を利するための不断の闘いにほかならないのですから。

 北畠親房に話を戻しましょう。
彼はなぜ『神皇正統記』を著したか。出家僧でもあった彼は、この書の中で、三種の神器(鏡、玉、剣)のそれぞれに、仏教倫理としての「至誠」、「慈悲」、「智慧=決断力」を対応させて、この三つが具わっていれば、必ず自分の主張する皇統の原理は「正理」として認められると強調しています。本地垂迹をテクニックとして用いているのですね。
 しかし実際の中身は、いま見てきたように、矛盾だらけです。これらを親房自身がまったく自覚していなかったとは考えられませんが、闘いの情熱のあまりの大きさがそれらを小さなこととしてやり過ごさせてしまったのでしょう。
 この山っ気たっぷりの闘争精神がどこから出てきたのか、後醍醐天皇という変人めいた天皇の生き様と照らし合わせてみる時、親房は、天皇の一種の宗教的カリスマのような人格にかなりいかれていたのではないかという推測が成り立ちます。
 ちなみに建武の新政で後醍醐天皇が採用した人事が、自分が気に入った者ならやたらと重用してしまうきわめて衝動的で不公平なものであったことはよく知られています。この点に関しては、さすがの忠臣・親房も『神皇正統記』のなかで、徳も品格も地位も備わっていない人間をむやみに重用すべきではないと、暗に後醍醐天皇を批判しています。
 後醍醐天皇という人は、倒幕計画が事前に発覚した正中の変(一三二四年)では、自分は無関係としらを切り、また、同じく討幕を企んだ元弘の乱(一三三一年)では、捕縛された時、面通しを依頼された西園寺公宗に「魔がさしたので、どうかお許しください」と泣きつき、穏やかで教養豊かな花園院の眉を顰めさせたそうです。
 どうもあまりほめられた君主ではありませんが、親房にとっては若くして抜擢された御恩もあり、最後まで忠誠を尽くすつもりだったのでしょう。

 ところで、『神皇正統記』が書かれたのは、京都や吉野ではなく、常陸国・筑波山麓の小田治久の館においてでした。親房は、建武の新政の破綻後、劣勢明らかな南朝方の起死回生を期すべく、東国の武士たちにテコ入れするために難儀をしながらようやく小田城にたどり着いたのです。
 彼はここに三年近く滞在しますが、その初めの一年にこの書が大急ぎで書かれたようです(一三三九年秋ごろ完成)。じつはこの一年の間に、京都では北朝方についた尊氏が征夷大将軍に任ぜられて幕府を開き(一三三八年八月)、いっぽう吉野では後醍醐天皇が没します(一三三九年八月)。
 この因縁めいた事実を私は重く見たいと思うものです。というのは、草深い東国の閑居で、この二つの重大なニュースを知った親房の胸の内を想像すると、その孤独な執念の由来が見えてくるような気がするからです。
 陸奥白川の結城親朝に七十通を越す勧誘の手紙を書く傍らで、彼はおそらく、はるかに都を臨みながら、また吉野での主君の崩御に涙しながら、宿敵・尊氏の京都制圧に対して、怨念に打ち震え、歯噛みしながらこの書を一気に書き下したものと思われます。参考書として使用したのは、簡略な王代記ただ一冊でした。

『神皇正統記』には、古くから、誰に宛てて書いたものかという論争がありました。それは、最古の写本「白山本」の奥付のなかに「為示或童蒙所馳老筆也」(この書は、ある童蒙に示すために老いたる筆を走らせたものである)とあって、この「童蒙」がだれを指すのかをめぐって諸説が唱えられてきたからです。
 かつては後醍醐天皇の子、義良親王(後の後村上天皇)を指していると考えられていましたが、「童蒙」という言葉は蔑視のイメージが強いため、それは否定され、いまだに説が定まっていません。
 しかし親房自身の生きた乱世のありさまと、それに対する激しい義憤の念、尊氏のような「逆賊」に支配されている現状への怒りと、それをどうすることもできない焦慮、などのことを考えると、さしてその対象を絞る必要もないのではないか。
 つまり「童蒙」とは「正道を知らぬわからずや」といった程度の一般的な意味に解釈しておけばいいのではないでしょうか。親房は、「バカども、よく目を見開いてみよ、この私が正統を示してやる!」と怒れる仁王のように傲然と自ら信ずるところを獅子吼している――そういう姿を思い浮かべたほうが、この反時代的な書物の執筆動機をよく示していると思われるのです。

 親房はやがて吉野に帰り、後村上天皇の践祚を見届けます。そうして一度は入京を果たし、尊氏を後村上天皇に降伏させ、しかも北朝方の光厳・光明・崇光の三院を南朝・賀名生に幽閉するという挙にまで出ています。さらに足利尊氏・直義兄弟の対立につけ込んで交渉を重ねるといった政略家ぶりも見せています。
 これらは結局失敗に終わるのですが、ここに見られるのは、なんとしても権力を奪取しようという、貴族にはふさわしからぬ飽くなき執念です。こうした背景の中に『神皇正統記』を置いてみる時、この書が単なる皇統の通史を綴ったものではなく、時代と強く切り結ばれた「実践の書」であるさまがくっきりと浮かび上がってきます。
 突飛な連想ですが、それは西欧における旧教と新教の争いにも比すべき一種の宗教戦争だったと言ってもよいでしょう。だからそこには、どうにもならない著者(=信徒)の熱い思いが込められています。したがって、論理的な矛盾を突いても、じつはあまり意味がありません。むしろそれらの矛盾のうちに、激しい情念と執着とを読み取るべきなのです。もっとも、そこに盛られた「天皇親政に還る」という理念は、もはやどうみても時代に逆行する性格を免れなかったのですが。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

日本学術会議というアホ集団

2017年04月25日 00時59分10秒 | 思想

      




北朝鮮の核実験やミサイル発射が度重なっています。
アメリカはこれを阻止すべく、「あらゆる選択肢をテーブルに乗せている」として、空母カール・ビンソンを朝鮮半島沖に近づけつつあります。日本の自衛隊もアメリカのこの動きに対して協力体制を固めています。
また日本本土への北朝鮮のミサイル攻撃に対して、政府をはじめとした国民の間に、防衛意識が一気に高まっています。

一方、中国の大連では、国産初の空母「山東」の進水を間近に控えています。「山東」は台湾や日本近海、第二列島線周辺の海域を航行することが確実視されています。
さらに上海でも二番目の空母が建造中であり、これはおそらく南シナ海やその外側を主要な航行海域とするのでしょう。

さて、朝鮮戦争以来、かつてない東アジアの軍事的緊張が高まっている状態をよそに、さる4月14日、日本学術会議が京都内で総会を開き、科学者は軍事的な研究を行わないとする声明を発表しました。
この総会では、ミサイル防衛を否定するかのような発言まで飛び出し、自由討論では研究者9人のうち8人までが声明に対して支持を表明したそうです(産経新聞4月15日付)。
この総会に先立って、2月4日、日本学術会議はシンポジウムを開きました。
これは2016年度からスタートした防衛省の公募制度「安全保障技術研究推進制度」に対してどう対応すべきかを討論したものです。

学術会議は2016年5月、「安全保障と学術に関する検討委員会」なるものを設置し、「軍事的安全保障研究について」という報告書を、総会前日の4月13日に提出しています。
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-23-h170413.pdf#search=%27%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E7%9A%84%E5%AE%89%E5%85%A8%E4%BF%9D%E9%9A%9C%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%27
この報告書では、次のようなことが謳われています。

①防衛省の制度によって学術の本質が損なわれかねない。
②科学者コミュニティが追求すべきは学術の健全な発展である。
③科学者コミュニティによって研究成果の公開性が担保される必要がある。
④防衛省の制度は研究委託の一種である。
⑤軍事的安全保障研究の可能性がある研究には技術的・倫理的に審査する制度を設ける必要がある。


まあ、なんて浮世離れした殿上人の集まりのお話なんでしょう、と失笑を禁じえなかった読者もたくさんいるのではないでしょうか。
「学術の本質」「学術の健全な発展」「研究成果の公開性」――抽象的な用語の羅列ばかりですね。ご本人たちに「学術の本質」って何? と聞いてみたくなります。
特に最後の「公開性」は、国家機密や企業秘密に触れるものでもなんでもグローバルに共有しようという理念であって、リスク管理の意識がまったくないことを証明しています。きわめて危険であり、また技術流出が経済的な意味での国益を毀損する可能性に対してもてんで無頓着です。
こんな組織が大手をふるって存在するんですね。

しかし日本学術会議というのは、内閣府に所属するれっきとした国家機関です。政府への政策提言を行うことを任務の一つとしており、2017年度予算では国庫から10億5千万円が拠出されています。
日本の安全保障がこれだけ脅かされている時に、こういうサロンでの空想的平和主義のお話を、国費を費やして許しておいてよいのでしょうか。

この報告書では、ある研究が軍事目的であるか民生目的であるかの線引きが困難であることを認めています。
素晴らしくよく切れる包丁はよい料理を作るのに役立ちますが、凶器にもなりうることは子どもでも分かります。核物質の研究成果も平和利用が可能だし、インターネットやGPSが軍事利用目的から生まれたことは有名です。ネジ一つだって、どちらにも使えますね。
学術会議は、それを知っていながら、軍事的な研究であるかそうでないかをどうやって審査するのか、その基準については何も述べていません。基準などできるわけがないのに、言葉で逃げているだけです。
目的の如何は、技術研究そのものに存するのではなく、それを運用する人間、もっと言えば個々の局面での政治的な判断のうちにあります。

防衛省の制度が研究委託だというのもウソです。きちんと公募という手続きを取って、安全保障に役立つと思われるものを採用しているのです。2年間で153件の応募があり、採択されたのは19件です。必ずしも軍事用というわけではありません。
たとえば現在のガスマスクは有毒物質をフィルターにため込んでしまうため、これを分解・除去する技術の開発を目指した研究があります。これなどは、当然、農薬の被害や自然災害を避けるのに役立つわけですね。
先に述べたように、軍事用から民生用へ〈スピンオフ〉、民生用から軍事用へ(スピンオン)の転用というのは、技術というもののもつ本質的な特性ですから、学術オタクたちが個々の技術研究だけを取り出してそれらを軍事用、民生用と腑分けすることは不可能だし無意味でもあります。彼らに要求したいのは、いま日本がどういう緊迫した状況に置かれているかということについて正しい感度と認識を持ち、それにもとづいて、「何をしないか」ではなく、「何ができるか」を考えてもらうことです。期待しても無理かもしれませんが。

結局のところ学術会議は、防衛省の制度に全面的に反対するほかなくなるわけですが、ではそれを「政策提言」として政府に具申するのか。その働きかけが有効だとでも信じているのでしょうか。
もちろんそんな気はさらさらなく、安全圏にいて自分たちの幼稚な空想が満足させられればいい、ということなのでしょう。これでは話になりません。

また学術会議の考え方に従えば、武器や兵器についても一切研究してはならないということになりますが、これもバカげた考えの極みです。こういう「お花畑」志向はじつはたいへん有害なのです。
第一に、国民を守らなくてはならない時に、それに何ら貢献しなくとも、「学術」の権威の下に国費を費やすことが許されてしまいます。
第二に、それによって現実を見ようとしない幼稚な平和主義が民間の間に存続し、助長されます。いざ自分たちの身を守らなくてはならない時にその用意ができていない事態を招きます。
第三に、敵国が着々と軍事研究を進めている、その技術水準がまったくわからなくなります。まさかその部分だけは、敵国に「研究成果の公開性を担保」してもらうことを期待するのではありますまい。どこかの国の憲法の前文のように。
第四に、軍事研究から手を引くことは、技術全般における退歩をもたらし、民生用の技術においても世界に遅れを取ってしまいます。欧米やアジア諸国には、こんな軍事アレルギーは全然ありません。

こうして学術会議の今回の声明は、国民としての、また専門家としての義務を放棄した、きわめて無責任な振る舞いなのです。
どうせ危機対応など何もできない殿上人の集まりで、現実的な安全保障のことなど考えていないのだから、こんなのは無視してしまえばよい、とも思います。
しかし日本学術会議は「アカデミズムの国会」と見なされており、大学に対して強い影響力を持っています。現に今回の「検討委員会」の流れをよいことに、全国のいくつもの大学(関西大学、関西学院大学など)が、学者たちに防衛省の制度に応募することを禁止しています。
http://www.sankei.com/west/news/170226/wst1702260012-n1.html
これは、憲法で保障された「学問の自由」「思想表現の自由」が侵されていることになります。憲法を守りたい人たちが、その憲法を率先して破っているのです。
それでも象牙の塔にこもりたい方はどうぞ、というほかありません。ただ、こんな百害あって一利なしの組織に政府が予算をつけることだけはやめてほしいものです。
コメント (1)
この記事をはてなブックマークに追加

カジノ法案――米中のはざまで亡びの道を歩む日本

2017年04月04日 15時19分14秒 | 政治

      





政府は4日午前、カジノを含む統合型リゾート(IR)導入に向けた推進本部の初会合を首相官邸で開きました。
以下、日経新聞電子版4月4日付より、一部を引用します。

推進本部の本部長を務める安倍晋三首相は「世界最高水準のカジノ規制を導入する」と表明。政府はカジノの運営方法や入場規制について本格的な検討を進め、秋の臨時国会にIR実施法案の提出を目指す。ギャンブル依存症対策なども議論し、詳細なルール作りを急ぐ。
首相はIRについて「大規模な民間投資がおこなわれ、大きな経済効果・雇用創出効果をもたらすことが重要だ」と強調。カジノに関しては「国民の幅広い理解を得られるようクリーンなカジノを実現する」と述べ、法案提出へ向けた作業の加速を全閣僚に指示した。
(中略)
 政府はIRを経済成長の起爆剤としたい考え。カジノ解禁を巡ってはマネーロンダリングなどの犯罪防止策や暴力団対策が重要課題となる。(以下略)


経済成長の起爆剤としてIR法とは! 
何と愚かしい正当化とごまかしでしょう。
政府はデフレ脱却のためにやるべき財政政策をなんら打たず、「経済成長」を観光収入やカジノに依存しようとしています。
ちなみに、やるべき財政政策とは、言うまでもなく、まずは交通インフラ整備のための大規模な財政出動です。これによって大きな需要を作り出し、デフレのために疲弊しきっている地方に活力を甦らせること。

カジノについてですが、この法案に対しては、すでに米在日商工会議所が露骨な要求を押しつけてきています。「進出企業の税率を10%以下の低率にせよ、日本人の誰もが利用できるように高額の入場料検討はやめて無料とせよ。東京や大阪にはリゾート施設に複数併設せよ」等々。
http://www.jcp.or.jp/…/aik14/2014-12-21/2014122113_01_1.html
カジノでの収入は当然、米国を中心とした進出企業の手に落ちるので、この要求を呑めば、低い税収以外には、何ら日本の経済成長には寄与しません。また大都市圏に複数のカジノを併設すれば、いろいろな意味で都市と地方の格差はますます開きます。しかしアメリカの属国化している今の日本の状況からして、この米在日商工会議所の要求を、政府は結局は呑むことになるのでしょう。
安倍首相は「最高水準の規制を導入する」などと言っていますが、全然信用が置けない。なぜなら、TPPでは農産品の関税率は死守すると言っておきながら、結果は軒並み大きく下げられてしまった<からです。

これがアメリカ発グローバリズムの恐ろしさなのです。
もちろんアメリカは、TPPから離脱した今でも、個別の通商交渉でさらに厳しい条件を日本に突きつけてくるでしょう。トランプ大統領は、国益を最優先する生え抜きの「ビジネスマン」ですから。
いま日本は、従来のよき慣習を次々に捨て、悪い意味でアメリカ化しつつあります。外国人メイドさんOK、非正規社員増大OK,全農、農林中金潰しOK。国家戦略特区での英語使用、すべてはアメリカの思うツボです。
安全保障のためにアメリカに縋りつきたい安倍政権の気持ちはわからなくはありません。
衰えたとはいえ、アメリカはやはり超大国です。対ロシア外交で中露分断を狙っても、両国の相互依存関係は、容易には断ち切れません。
また、東南アジア諸国は中国と経済的な結びつきが強い上に、その軍事的脅威を恐れているので、対立をできるだけ避けようとします。現にフィリピンのドゥテルテ大統領が、中国に対して事実上の敗北宣言をしたことは記憶に新しいところです。ですからアジアの親日国はあまり当てにならないのです。頼みの綱はアメリカだけということになります。
しかし個別政策課題でアメリカに追従することが、必ずしもわが国の安全保障に貢献するとは限りません。アメリカの通商戦略関係者が日本のそういう意向を読み取って、ちゃっかりつけ込んでいるにすぎないのかもしれないのですから。いや、おそらくこの推測は当たっているしょう。
なるほどアメリカは、日本の完全な自立(たとえば核武装)をけっして許しません。日米同盟とは親分子分の関係ですから、日本の国家としての自立行動は、子分の分際を守る限りで、つまり監視付きで許されているのです。しかし、軍事問題ではなく、個別の経済問題に関してだったら、交渉次第で断固たる抵抗を示すことは可能なはずです。要は、時の政権がどれだけ国民の利益に重きを置いて、毅然として交渉に当たるかなのです。
安倍政権は、この区別をせずに、経済交渉と安全保障とを一括して捉え、とにかくアメリカの意向に逆らうなという姿勢ですから、少しも「戦後レジーム」からの脱却が果たせないのです。

じっさい、トランプ政権の対日姿勢は未知数です。いつ日本という「財布」を、中国と分け合おうという協定を結ばないとも限りません。この場合、「財布」とは、金融や実体経済の面だけを指すのではなく、領土・領海の意味も含みます。
先の安倍・トランプ会談では、安倍首相がワシントン行きの飛行機に乗っている最中に、トランプ・習近平電話会談が行われています。何を取引したやら。
政府は、安倍・トランプ会談で、トランプ氏が100%日本の側に立って尖閣を守ることを保証したような発表をしていました。マスコミは右から左まで、これを聞いて、会談は大成功だったと浮かれていましたが、事実は異なります。
トランプ氏は、「The United States of America stands behind Japan , its great ally, 100%.」と言ったのです。「stands behind Japan」――つまり「日本の後方に立つ」、言い換えれば「後ろから支援する」と言ったにすぎません。(月刊Voice 四月号・中西輝政「米国は100%後方支援だけ」)
要するに、安保条約第五条を守るというこれまで何度も繰り返されてきた既定路線に、多少社交辞令としての粉飾を施して再確認を示しただけのことです。
自ら喜び、日本国民をぬか喜びさせるマスコミは、バカというかなんというか、じつに罪が深い。

先に当ブログに投稿したように、中国は尖閣・沖縄を狙っているのみならず、わが日本列島の後頭部(あまり政治的経済的関心の対象にならない部分)に相当する北海道で、土地買収により着々と「実効支配」を実現しています。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/aaf36ed3b0d0adf5a081f1cc4a8861be
また、安倍政権は、EUの悲惨な状況にもかかわらず、「技能実習生」「留学性」の名目で、率先して移民政策を進めています。この該当者のうち半数以上が中国人です。
グローバリズムをヒト、モノ、カネの自由な移動を積極的に進める考え方と定義するなら、いま日本は、ヒトとモノ(土地)の面において主として中国に、カネの面において主としてアメリカに浸食されつつあるわけです。日本はすでにグローバリズムから国民を守る戦争に巻き込まれているのです。ドンパチだけが戦争ではありません。日本は経済戦、情報戦、歴史戦、領土・領海戦において、じわじわと敗北し続けている。この事実を国民がしっかり自覚しなければなりません。

コメント (1)
この記事をはてなブックマークに追加

大岡 信 編訳『小倉百人一首』はすごい

2017年04月01日 00時58分55秒 | 文学

      





季節外れの話題で申し訳ありません。
詩人の大岡信さんが40年近くも前に編んだ『小倉百人一首』(1980年・世界文化社)が書棚にあったので、たまたま読んだのですが、これ、すごくいいですよ。さすがは一流の詩的センスと深い教養の持ち主と感心することしきりでした。
百人一首って、日本人ならかなり耳になじんでいますよね。でもその一つ一つの意味や歌心、背景などをしっかり考えてみた人はあまりいないんじゃないでしょうか。
実際、百人一首の歌は、すぐ意味の通ずる歌もあれば、こちらに教養がないせいか、ちょっと見には何を歌っているのかわからない歌などが混在しています。しかも、指示的な意味が通ずるからと言って、その奥に歌い手の複雑な心の屈折があるということにまではなかなか思い及びません。

ところが今度大岡さんの本を通読して、ああ、そういう歌心が隠されていたのか、とか、えっ、そうだったのかといった発見がいくつもあったのです。
この本を読むと、歌の意味を原典の「注釈」や「大意」に求めて辿るのとはずいぶん違った印象を受けます。詠んだ人の思い、趣向、機知、切実さ、場面、状況などにぐっと近づける感じがしてくるのですね。
これには編集上のちょっとした秘密があります。
1ページに一首を取り上げ、その下に大岡さん自らの手になる現代詩の形での訳。その左に短い解説と批評が載っています。そうして、ところどころに見開きで、小野小町、在原業平、紀貫之、和泉式部ら、有名歌人たちの評伝が綴られているのです。
大岡さん自身の述懐によれば、幼いころから親しんではいたものの、箱入り百人一首などに付属している釈文がみな「……であることよ」式の無味乾燥な散文であることにずっと不満を抱いていたそうです。なるほどそういう執着がこのユニークな試みに彼を誘ったのかと、深く納得するものがありました。

たくさん紹介したいのですが、紙数の都合もありますから、数首に限りましょう。

 わたの原八十島かけてこぎ出ぬと
       人には告げよ海人のつり舟

                     参議篁

(訳)大海原に横たわるあまたの島を経めぐって
   はてに配流の身を横たえるため
   この篁(たかむら)は舟に乗り揺られて去ったと
   告げてくれ海人のつり舟よ
   都に残るあの人にだけは

遣唐使拒否をめぐる争いに敗れて隠岐に配流される時の歌だそうです。
何となく読んでしまうと、旅の別れをさらりと歌っているように聞こえます。少なくとも私自身はそう思っていました。
が、じつは、「八十島」と「人」の二語に歌心の鍵があります。瀬戸内海のいくつもの島を経て、関門海峡を通り、山陰地方西部の沿岸を経てはるばる隠岐までたどり着かなくてはならない。地の果てに追いやられる思いだったことでしょう。いやがうえにも募る心細さを、せめて妻(おそらく)にだけはわかってほしい、この思いを伝えてくれと、途中まで篁を乗せてすぐ帰ってしまうつり舟に向かって、切々と呼びかけているわけです。
ちなみにこの時代、「人」とは、多くの場合特定の親しい人や愛する人、つまり「背」や「妹」と同じ意味を表していました。

 忘らるる身をば思はずちかひてし
       人の命のをしくもあるかな
                      右近


(訳)私はいいのです 忘れられてしまおうと
   わが身のことは いいのです
   でもあなた あれほどに変らぬ愛を
   お誓いになったあなたのおいのち それが
   ひとごとならず心にかかってなりません

この訳はちょっと演歌調で素直に受け取れるようですが、むしろ怨歌というべきかもしれません。きれいごとを並べて皮肉っているとも取れると大岡さんは解説しています。
しかもさらにその先があります。「ちかひてし」までの三句切れとすると、その場合は、「あんなに誓っておきながら破るなんてきっと天罰が下るでしょう、あなたが命を落としてしまわれるのが惜しまれますこと」という意味になるそうな。げに女心の複雑さ恐ろしさよ。

 有馬山猪名(いな)のささ原風吹けば
       いでそよ人を忘れやはする
                    大弐三位


(訳)私があなたに「否」などと申したでしょうか
   有馬山 猪名のささ原 風ふきわたれば
   ささ原はそよぎ それよそれよと頷きます
   そうでしょう この私が
   なんであなたを忘れたりするものでしょうか

作者は紫式部の娘だそうです。男が自分の無沙汰を棚に上げて、私をお忘れかと詠ったのに対して、やはり少しばかり皮肉を込めて、しかし先の歌よりはやんわりと繊細な調子で返した歌です。
「猪名」と「否」、風で笹が「そよ」とささやく音と「そうよ、そうよ、忘れるはずがないわよね」という作者への相槌とをかけたとても技巧的な歌です。けれども、そうした技巧の用い方そのものに、この女性の何とも優しい人柄が現われているように感じられます。これも、そんな複雑なからくりがあるのかと驚きました。返しを受け取った男はたまらなくなって会いに行った、と思いたい。

 夜もすがらもの思ふころは明けやらで
        閨(ねや)のひまさへつれなかりけり
                    俊恵法師


(訳)夜ごとわたしはまんじりともせず
   つれない人を待ちつづける
   物思いに更ける夜の なんという長さ
   早く白んでくれればいいのに
   ああ戸の隙間よ そなただけでも白んで…

この歌の「閨のひま」という言葉ですが、戸の隙間とは気づきませんでした。「がらんとした寝間の空間が寂しさをいっそうかき立てる」と、何となく解釈して済ませていたのです。
ところが、室内より早く明るくなるはずの「戸の隙間」さえ白んでくれようとしない、なんて恨めしい事態だと、その「わび」の心を強調しているのですね。細かい対象をわざわざ取り上げて歌いこむことによって、誰もが詠う「わびしさ」一般から抜きんでたユニークな味を出しているわけです。
作者は男性ですが、人を待っているのですから、女性の立場に立って詠んだ歌です。でも、主情を表出するのではなく、客観的なものにあえて目を馳せた男性的な技巧と言えるかもしれません。

 見せばやな雄島の海人の袖だにも
       濡れにぞ濡れし色はかはらず

                  殷富門院大輔


(訳)見せてあげたいこの袖を あの方に
   雄島の磯で濡れそぼっている漁夫の袖さえ
   どれほど濡れても色まで変りはしないのに
   わたしの袖は濡れに濡れて
   紅に変ってしまった 血の涙いろに

「色は変はらず」の部分、濡れつくして袖の色が褪せたのだと思っていたのですが、じつは逆で、血の涙で赤く染まってしまったのでした。ずいぶん激しい歌いっぷりです。
でも「血の涙」というのは当時の常套句だったそうなので、特にこの歌の独創というわけではありません。
大岡さんはむしろ誇張が目立つと評しています。つまり歌会などで、一つみんなをあっと言わせてやろうというけれんみが強い歌だということなのでしょうね。

 いかがですか。平安時代に作られた歌の多くは歌会の題詠でフィクションなのですが、いずれにしても歌は歌。そこに作者の真情が込められていないはずはありません。もやもやした思いに工夫と装いを凝らしてエイッと突き出す。ちょうど、シェフが腕によりをかけてこしらえた料理のようなものです。つくられて初めてその鮮やかさが目を射る。

古代人が歌文学にこめた深い魂のありかとその精力のすごさを手軽に味わうために、みなさんもぜひ大岡版百人一首を手に取ってみてください。
コメント (1)
この記事をはてなブックマークに追加

森友学園問題は財務省の陰謀?

2017年03月18日 13時25分35秒 | 政治

      




 北朝鮮の核ミサイル問題、韓国の親北政権誕生問題、中国の領土侵略問題、アメリカ通商省の対日FTA交渉問題と、国政全般に関わる喫緊の課題が山積しているにもかかわらず、日本国会村は、森友学園問題という矮小な村内スキャンダルで時間と税金を空費し続けています。
 これについて書くつもりはありませんでしたが、あまりのくだらなさを見ているうちに、ふとあることに思い至り、一度は触れておいたほうがよいと考えるに至りました。

 推測のかぎりを出ませんし、裏を取る力もありませんが、この問題は、次のように考えると、妙に符合します。
 籠池泰典理事長は、なぜ昭恵夫人をたらしこみ、さらにフリージャーナリストの菅野完氏に、安倍首相から数百万円(?)単位の寄付を受けたというようなことを言ったのか。
 国交省大阪航空局が地下埋設物撤去という籠池氏の言い分を聞いて、1億3000万円という破格の値段で国有地払い下げ契約を結んだのは2016年3月。しかしこの値段での売却を認可したのは近畿財務局でしょう。財務省がこの一件に大きく絡んでいることは確実です。
 さて財務省は、消費増税を安倍首相に2度延期されています。2度目は2016年6月。これ以前に財務省は安倍首相が再び延期する意志を固めていたことをキャッチしていたはず。これを何としても阻止するために、安倍落としを狙った。この時点で落とせなくても、安倍首相のイメージをダウンさせて首をすげ替えることに成功すれば、彼以外には増税を阻止できる首相候補は他にいないと考えた(これは実際そうでしょうね)。
 籠池氏ははっきり言って愚かな安倍信者であり、金さえつかませれば何とでもなると財務省は睨んだ。

 ここ数日の籠池氏の言動を見てみましょう。
・「財務省からしばらく身を隠すように言われた。10日間身を隠していた」と菅野氏を通してマスコミに発表(財務省はこれを否定)。
・塚本幼稚園での記者会見で息子を同席させ、もし開校が認可されなければたいへんな負債を抱えることになると言わせている(これも事実でしょうね)。
・その夜、籠池夫妻はうれしそうな顔をしながら帰宅したところをテレビカメラにキャッチされている。
・東京での記者会見をキャンセルしておきながら上京し、菅野氏と会い、その後菅野氏に、「現職閣僚から数百万円の金銭供与があった」旨を記者たちに語らせている。
・証人喚問を受けて立つと言い、「安倍首相から昭恵夫人を通じて2015年9月に百万円受け取った」と発表。

 この一連の言動の中には、思わず本音が出た部分と誰かから言わされている部分とが混在しているようです。
 さて誰かとはだれか。
 やはり財務省ではないか。
 籠池氏に、ある時点で相当のモノをつかませて口封じを試みたが、おっちょこちょいな籠池氏は、けっこうボロを出している・・・。
 つまりこの騒動の背景には、消費増税を何としてでも実現させたいという気〇いじみた財務省の執念と、これに精一杯の抵抗を試みている安倍首相との暗闘があるというのが、私の推理です。

 私は、周回遅れのグローバリズムの道を邁進する安倍政権の政策にはまったく賛成できませんが、財務省のウソまみれの緊縮財政路線圧力に抵抗している安倍首相の姿勢には賛同します。もしこの推測が当たっているなら、ここには財務官僚の救いようのない腐敗が現われています。
「将を射んと欲せばまず馬を射よ」。それにしても一連の報道が事実とすれば、昭恵夫人は少々軽率でしたね。

 好きではない陰謀論を試みました。好きではないのに、やらずにはいられない気持ちにさせる何かが私の中でうごめきます。
コメント (9)
この記事をはてなブックマークに追加

「新」国家改造法案

2017年03月14日 14時11分36秒 | 政治

      





安倍政権になってから、というと、まるで安倍さんだけが悪いように聞こえたり、民主党政権時代のほうがましだった、といっているように聞こえますので、どこを節目にしたらよいのか困るのですが、ともかく、ここ数年、日本の政治はひたすら亡国の道を歩んでいるように思います。
どこを向いても状況はかなり絶望的です。
当ブログを読んできてくださった方々なら、きっとこの私の感想に同意してくださるでしょう。
この感想の論拠をいちいち述べていると長くなりますので、ここではとりあえず政策とそれがもたらした結果、または予想される結果だけを列挙するにとどめ、それについて少し違ったことを述べます。

◆経済政策
「国の借金1000兆円」のウソによる緊縮財政の正当化積極財政が抑制される。投資が減退する。デフレ不況の悪循環が続く。
消費増税実質賃金が低下し、個人消費が下落する。投資が減退し、貧困層が拡大する(エンゲル係数の急騰)。富裕層、公務員らへのルサンチマンが高まる。
外国人労働者(移民)拡大・外国人への規制緩和政策賃金低下競争が激化し、労働の質が低下する。中国人の経済侵略が進み、技術が流出する。文化摩擦が拡大し治安が悪化する。内部から安全保障が脅かされる。
公共投資の抑制交通インフラの整備の遅れにより東京一極集中が強まり、地方がますます疲弊する。各種インフラの劣化が放置される。大災害のリスクに対応できない。
電力固定価格買取制度(FIT)利益本位の未整備業者が続出する。電気料金の値上げ。再生可能エネルギー推進の困難がかえって露呈する。
農協改革株式会社や外資の自由参入を許す。土地利用の勝手な転換。遺伝子組み換え食品などにより食の安全が脅かされる。日本農家が壊滅的な打撃を受ける。
労働者派遣法改悪非正規社員比率が増大し、若者の生活難、結婚難が深まる
年金改革法高齢者の生活難深まる。現役世代の不安が増大する。
カジノ法案国会通過経済政策の失敗が糊塗される。外資が乱入する、低所得層の生活が乱れ、社会秩序が混乱する。
TPP批准アメリカの撤退によって無意味化し、対米二国間交渉がかえって難航する。アメリカの要求への屈従が強まる。
水道事業の民営化が閣議決定→水道料値上げ。リスク管理が不安定化する。

◆外交・安全保障政策
尖閣問題への無策中国の対日侵略意図が増長する。
慰安婦問題、南京事件問題への無策中韓の反日政策を助長する。有力国間で日本のイメージがダウンする。戦勝国包囲網による日本の孤立化の危険。
対プーチン外交四島返還の不可能が確定的となる。ロシアペースでの「経済協力」が推進される。
対トランプ外交相変わらずの対米依存姿勢が露出し、自主防衛能力のなさを印象づける。
南シナ海問題への無策日本の資源獲得の根幹が揺らぐ。日本に対する東南アジア諸国の信頼が失われる。
防衛予算不拡大中国との格差が拡大し、日本はますます軍事的脅威にさらされる。
不動産に対する外資規制の欠落中国による領土の現実的支配が進む(特に北海道)。

これらは、もうほとんど実際に結果として現れています。
しかもこれらは、はっきり言って、すべて国民を苦しめるだけの「悪政」であり、「バカ政」です。
数少ない心ある人たちは、もちろん日本が直面しているこの危機に気づいており、早くから政策の誤りや無策の落とし穴を指摘してきました。
政治がなぜこういう過ちを犯すのかについてもさまざまに説かれています。個別的には処方箋も出されています。
つまり警鐘はもう十分鳴らされてきたのです(もちろんこれからも鳴らし続ける必要がありますが)。
ところが、です。
事態はいっこうに変わる気配を見せません。
なぜなのでしょう。
いろいろと原因を挙げることができますが、あまり詳しい原因分析をしても仕方がありません。
要するに権力者が、物事を総合的に考える能力と、国民のために尽くす意志とを失っているのです。だから「悪政」や「バカ政」がはびこるのです。
それには理由があります。
主権者である国民を代表するはずの代議員による政治が行われておらず、真の権力者が別にいるからです。真の権力者とは、オタク化した官僚であり、御用学者であり、「民間議員」と称する内閣傘下の会議委員であり、アメリカの圧力であり、彼らの言うことをそのまま垂れ流しているマスコミです。

ではどうすればこの「悪政」あるいは「バカ政」を少しでも修正できるのか。
二つの条件が必要です。
一つは、自ら権力を獲ること
もう一つは、権力に強い影響を与えること
とにかく権力に食い込めなければ、少数派は永遠の少数派であり、片隅で不平を唱えているだけの集団と見なされてしまいます。
一つ目は、たいへん難しい。社会の仕組みが複雑になっていて利害関心が個人化し、多くの同意を勝ち取ることが困難だからです。でも何かうまい手を考える必要があるでしょう。
二つ目は、言論を続けることも有力な手ですが、それだけでは不足です。みんながそれぞれの「信仰」に染まっていて、聞く耳を持たないからです。学者・知識人たちも自分を批判する議論から逃げていますね。テレビ討論などはみなその場限りです。これについても新手を考える必要があります。

これから、二つの条件を満たすために三つのアイデアを提示します。これらはさしあたり「夢物語」です。でも実力と気力ある賛同者が増えれば実現に向かって二歩も三歩も踏み出すことができます。

一つ目。超教育論
年少の青年子女を育成するのではありません。官僚の既定路線を変えるために、新しく官僚になった人たちを二年間くらい、庶民の生きている現場に出向させてそこで働いてもらうのです。財務省の役人は中小企業や商品市場に、経産省の役人は町工場に、国交省の役人は地方の過疎地域に、文科省の役人は小中学校に、というように。
一部で試みられているようですが、はなはだ不十分です。制度として徹底させる必要があるでしょう。これは、庶民の生活実態を肌で知ってもらい、そこで常に一般国民の幸せについて考える想像力、構想力を養ってもらうためです。

二つ目。超シンクタンク論
日本の民間シンクタンクは個別企業の利害に奉仕するだけか、公共政策に関与している場合でも、単発・シングルイシューで終わっているケースがほとんどで、権力との恒常的な連携があまり保たれていません。横の連携も脆弱で、活発な意見交換、議論も行われているように見えません。
経世済民の志をもった優れた人々が結束して日本の政治経済の総合的なヴィジョンを打ち出せるような統合組織が必要です。これは時の政権のアド・ホックなあり方を超越していなくてはなりません。そのためにはオーソリティとして認められる必要がありますね。
また、単に議論をしたり調査をしたり報告書を出したりするだけではなく、広く大衆に存在意義を知ってもらうために、映画などの文化事業と有機的に連携する必要があります。

三つ目。超選挙制度改革論
選挙制度改革というと、一票の格差がどうの、区割りがどうの、すべて比例代表制にしろだの、中選挙区制に戻せだのと、表面的・形式的な議論にとどまっていて、真に優れた政治家が選ばれるようにするにはどうしたらよいかという問いが欠落しています。
私のアイデアは、有権者と立候補者それぞれにテストを課して、参政権保持者をある程度まで絞るというものです。有権者には、健康な常識人ならまあだいたいが合格できるような易しいテストを課します。ただし、高得点者には複数投票権を与えるような「差別的」な選挙もあえて視野に入れるべきでしょう。また立候補者のテストは政治的見識を問う難しいものにします。ただしイデオロギー色があってはなりません。
これは、悪平等主義の弊害や組織ぐるみの半強制的な動員やポピュリズム政治を避けるためです。形の上だけの公正さは、真の公正さではありません。

そんなことができるわけがない、と思った方も多いでしょう。猫に鈴をつけるのは誰だ、金と力は誰が提供するのだ、どうやってコンセンサスを勝ち取るのだ、と。
なるほどこの提案自体が言論の無力を示していると考えることもできますね。日本には寄付文化もありませんからね。
でも、絶えず具体的な政権批判を繰り広げる一方で、これくらいのことを理念として掲げるのでななければ、今の日本の絶望的な政治実態に対するあきらめとニヒリズムが残るだけです。
何しろ、これだけ東アジアの安全保障が脅かされていながら、防衛予算の増加には75%が反対するお国柄です。政策レベルで安倍政権を対等に批判できる健全野党は存在せず、国会はやるべきことをやらず、くだらない足の引っ張り合いで時間と税金を空費しています。日本国民の大方は、GHQや財務省がかけたマインドコントロールにいまだに呪縛されている始末です。
 危機をしっかり見つめている覚めた人たちの結束を促すべく、また少しでも意気に感じてくれる有力者が現われることを願いつつこれを書きました。まだ生煮えです。ご意見、反論をお寄せください。







コメント (4)
この記事をはてなブックマークに追加

誤解された思想家・日本編シリーズその6の③

2017年03月09日 00時44分13秒 | 思想
      




兼好法師③(1283?~1352?)

 翻って、初めの四つを世俗的な関心に由来するものと見てまとめれば、全体の六割近くを占めることになります。この書物の本領は、こうした世俗的、現世的な事柄について持ち前の批評精神をたくましく展開した点にあると言ってよいでしょう。明恵のように、堅苦しく純粋な僧の見本のような人をからかったとしか思えない段(一四四段)もあります。
 さてその批評精神の主潮は、現世で生き抜くことに開き直った一種の「明るいニヒリズム」と、それに裏打ちされた合理主義、現実主義ともいうべきものです。それは、先に挙げた石清水八幡宮の話や出雲大社の獅子・狛犬の話のように、いわれなき権威主義に対する抗いや皮肉の表現としても現れています。
 また、「心は必ず事に触れて来たる」と説いて、かりそめでもいいからまずは実践することが大事だという次の段などは、高尚ぶって空疎な観念に耽ることを否定したプラグマティズム、あるいは心理学的な行動主義といってもいいでしょう。

心さらに起らずとも、仏前にありて数珠を取り経を取らば、怠るうちにも、善業おのづから修せられ、散乱の心ながらも、縄床に座せば、覚えずして禅定成るべし。》(一五七段)

 また、牛が床に入り込んでしまったので人々が陰陽師に牛を渡して占ってもらおうと騒いでいるのを、徳大寺右大臣殿が「牛に分別などない。どこでも上がり込むさ」とさらりと片付け、「あやしみを見て、あらしまざる時は、あやしみかへりて破る」と言ってのけた記事(二〇六段)には、兼好の合理を尊ぶ面がよく出ています。さらにたとえば次の段などはどうでしょうか。

文・武・医の道、まことに欠けてはあるべからず。(中略)次に、食は人の天なり。よく味はひをととのへ知れる人、大きなる徳とすべし。次に、細工、よろづに要多し。
 この外の事ども、多能は君子の恥づるところなり。詩歌に巧みに、糸竹に妙なるは、幽玄の道、君臣これを重くすといへども、今の世には、これをもちて世を治むる事、漸くおろかなるに似たり。金はすぐれたれども、鉄の益多きにしかざるがごとし。
》(一二二段)

 ここであえて「明るいニヒリズム」と呼んだのは、世間に伝わることの多くは嘘っぱちだと喝破した七三段、この世の中で頼むに値するものなど何もないと言い切った二一一段などにそれをうかがい知ることができるからです。
 しかし何といっても、終わり近くに人間の心を鏡にたとえてそのうつろなさまを語った二三五段が、その思想の中核をなしています。これは厭世哲学ではなく、人はそのように現に生きているという事実をありのままに肯定する姿勢の表れでしょう。

虚空よく物をいる。われらが心に念々のほしきままに来たり浮ぶも、心といふものなきにやあらん。心にぬしあらましかば、胸のうちに、若干のことは入り来たらざらまし

 しかしまた兼好には、貴族趣味的なロマンティシスト(美学的生き方)の傾向もふんだんにあって、有名な一三七段では、「花はさかりに、月はくまなきをのみ、見るものかは。雨にむかひて月を恋ひ、たれこめて春のゆくへ知らぬも、なほあはれに情けふかし云々」とか、「逢はで止みにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとり明かし、遠き雲井を思ひやり、浅茅が原に昔をしのぶこそ、色好むとはいはめ。」などとあります。
 また見合い結婚の味気なさを指摘した二四〇段、妻帯や家族生活を否定した六段、一九〇段などにもそれがあらわれているでしょう。
 ちなみにこれらの段は、家族の恩愛の大切さを説いた一四二段と明瞭に矛盾しますが、おそらく兼好なら、自分の美意識に添った生き方の表明と、世の人倫がどうあるべきかを客観的に説いたくだりとはおのずから別だ、と答えたことでしょう。ここらに、当時の知識人の孤独を見る思いがします。

 兼好の思想をあえてひとことでまとめよとならば、要するに、愚かな跳ね上がりを排して、寂かに伝統と向き合う健全な常識に還れということに尽きるでしょう。しかしそれを説くことの思わぬ難しさに気づいていた彼は、多くの矛盾をも顧ず、具体的なあの場面、この場面を持ち出しては、それにあくまでも即しつつ鋭い批判、批評を加えたのだと思います。
 最後に一言。彼がこの作品を書くにあたって、『枕草子』を強く意識していたことは、そのズバズバと切っていくいさぎよい価値判断のスタイルからして明白です。しかし、清少納言がもっぱら女性的な美意識とセンスの良さを価値判断の基軸に置いていたのに対して、兼好の場合はそれだけではなく、人間の生き方全体を対象とした思考の道筋を切り開いて見せたところに特色があります。小林秀雄が「空前の批評家の魂が出現した」と評した所以でもありましょう。


(この項了)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

誤解された思想家・日本編シリーズその6の②

2017年03月06日 17時15分27秒 | 思想

      






兼好法師②(1283?~1352?)

 この作品の思想性をうまくつかまえるために、私は自分なりのやり方で、各段が何を主題にしているかを類別し、どこに何段入るかを数えてみました。もとよりこれは単なる便宜にすぎず、分類に迷うものも多くあります。なお序段と最後の二四三段は除きます。
①世間的・世俗的な知恵、世界観と思われるもの。略号「」と記す。以下同じ。
②「をかし」「あはれ」「おくゆかし」など、風雅な興趣あるさまを語ったもの。「」。
③人間関係のマナーについての美意識、センスを語ったもの。これは『枕草子』のように、女性的なきめ細やかさを示す。「」。
④奇譚、エピソード、滑稽譚に類するもの。「
⑤仏教的な無常観の表現。「」。
⑥有職故実について語っているもの。「

結果は以下の通り。
 五一――初めにはほとんどなく、中間部から後半に多い。
 三三――初めの方に集中しているが、後半にも散見。
 二〇――初めと終わり近くに分かれる。
 三六――中間部よりあらわれ、終わりに近づくと少なくなる。
 三五――初めにやや集中し、中間部から後半にも散見される。
 六七――初めにはなく、中間部からあらわれ、後半に集中する。一か所にまとまって出てくるケースが多い。

 もし段の順序と書かれた順序が同じだと仮定すると(定説ではほぼそのようです)、若い時には、求道の心、美を愛する心、人付き合いにおいて上品であろうとする心などがせめぎ合って現れ、中年では、世間知や人生上のエピソードなどに関心が移り、老いてからは、職業意識や倫理意識が支配的となるということが言えそうです。
 なお、兼好が出家したのは三十歳以前と考えられており、同じ「仏」でも、初めの方と後半とでは、ニュアンスの違いが感じられます。端的に言えば、前半は出家の強い志を自分に言い聞かせているふうで、後半は他人に説教しているような調子が強い。
 いずれにしても、「仏」は全体として約15%を占めるにすぎないので(文字数としてはもっと多くなりますが)、このことからも『徒然草』を仏教的な無常観を説いた書と見るのは不適切であることがわかるでしょう。
 先に述べたように、この時代には、知的な階層にとって、できるだけ俗事に紛れず死の事実を直視する心構えを日ごろから養っておくというのは、共通の大前提でした。鎌倉末期から南北朝時代という乱世にあって、百姓でも荒武者でも高貴な身分でもなく、知性だけは優れていた人にとって、出家することは、それ以外には道のない当然の生き方でした。
 兼好が早々に出家したのは、彼もまた己れの運命に自覚的だっただけだと言えます。その上で、生き延びるためには実質的に還俗ともおぼしき道を選ばざるを得なかったのだと思われます。
 こうした前提に立って該当箇所について述べるなら、たしかに四九段、一〇八段、一一二段のように、いつ死が襲ってくるかわからないといった妙に切迫した語り口も見えますが、これと似たようなことは隋唐時代の高僧でも既に言っている常套句の部類に入ります。一方では、次のように、偉い坊さんの寛容で人間味のあるさまをほめたたえている段もあるのです。

ある人、法然上人に、「念仏の時、睡りにをかされて行を怠り侍ること、いかがしてこの障りをやめ侍らん」と申しければ、「目の覚めたらんほど念仏し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。また、「往生は、一定と思へば一定、不定と思へば不定なり」と言はれけり。これも尊し。また、「疑ひながらも念仏すれば、往生す」とも言はれけり。これもまた尊し。》(三九段)

法顕三蔵の、天竺に渡りて、故郷の扇を見ては悲しび、病に臥しては漢の食を願ひ給ひけることを聞きて、「さばかりの人の、無下にこそ心弱きけしきを人の国にて見え給ひけれ」と人の言ひしに、孔融僧都、「優に情けありける三蔵かな」と言ひたりしこそ、法師のやうにあらず、心にくく覚えしか。》(八四段)

 つまりは、兼好のような資質の人間の人生にとって、自分が出家僧であることは、それほど重い意味を持たなかったと言えます。


(以下次号)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加