小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

トランプ次期大統領に日本はどう対応すべきか(その3)

2017年01月19日 16時24分02秒 | 政治

      




⑦オバマケアの破棄と新しい保険制度の創出
 アメリカの医療保険はすべてが民間保険会社に牛耳られていて、日本のような皆保険制度はありません。しかも各州で一社が独占していて、加入すると高い保険料を払わせられます。医療費は異常に高額で、低所得層は満足な医療を受けることができません。
 そこでオバマ大統領は低所得階層にも十分な医療をという名目で、オバマケアを通しました。一見良い方向に向かっていたかのようですが、日本人の多くはその実態についてあまり知らないようです。
 オバマケアは、オバマ氏の出身州で独占的に運営している保険会社の保険を全米に拡張して、強制的に加入させたものです。したがって高額の保険料を取られるという状態が少しも改まったわけではなく、かえって全米の低所得者層が生活難に陥るという事態を招く一因となったのです。
 トランプ氏がプア・ホワイトの支持を得るためにオバマケアの廃棄を訴えたのにはそういういきさつがありました。ただ、これからどんな保険制度を提案するのかは、今のところ未知数です。

⑧いわゆる「移民排斥」と「メキシコ国境に壁建造」
 トランプ氏は、一般的に移民を排斥しようとしているのではありません。中南米からの不法移民を受け入れないと言っているので、「不法」であるかぎり、法治国歌の長として正当な言い分です。また次の三つの事実を知る必要があります。
 一つは、実際にメキシコから国境を超えてやってくる不法移民の数は膨大で、しかもその中にはコロンビアなどからの麻薬密売人が数多く含まれており、限られた国境警備隊員たちはとても取り締まり切れずに音を上げているという事実。二つ目に、米国内に入ってから犯罪を犯すヒスパニックの不法移民たちは、その犯罪対象に、白人を選ぶのではなく、むしろすでに米国民として公認されている同じヒスパニックを選ぶことが多いという事実。そして三つ目に、ムスリム移民の中にテロリストが紛れ込んでいる可能性が高いという事実。
 これらの事実にオバマ大統領を含む民主党陣営およびその傘下にあるほとんどのマスメディアは目をつむり、何一つ有効な対策を打てませんでした。代わりに硬直したPC(ポリティカル・コレクトネス)の理念を振りかざしてトランプ発言を歪曲し、「差別主義者」「排外主義者」というレッテルを貼りつづけてきたのです。
 評論家の江崎道朗氏によれば、いまアメリカの白人たちは歴史教育の領域で幼いころから「ホワイト・ギルト」と呼ばれる自虐史観を叩きこまれているそうです。黒人やヒスパニックやムスリムやインディアンなどこれまでマイノリティと見なされてきた人たち、あるいは女性に関して、少しでも「公正」とみなされない言葉を出すとPCに反するとされます。この厳しいタブーによって、アメリカ社会はまことに息苦しい雰囲気に支配されています。「メリークリスマス」はキリスト教だけを称揚するから「ハッピー・ホリデイ」と言わなければダメ、「天にましますわれらの父よ」は男性優位を示す思想だからダメ、といった具合です。アメリカが最も尊重しているはずの「言論の自由」はいったいどこに行ったのでしょう。トランプ氏は、この不自然極まる風潮に対してNOを突きつけました。
 しかも確かな入国手続きも施さずに、ヒューマニズムと過剰な平等主義に裏打ちされたPCの原則だけで無条件に移民を受け入れてしまうことは、麻薬禍や犯罪の増加だけでなく、アメリカ全土に賃金低下競争を引き起こし、階層間格差をますます広げる結果を生んでいます。これはEUの現状と同じですね。国民の間に文化摩擦や被抑圧感を高め、ルサンチマンを蓄積させ、国民間の分断をもたらします。硬直した理想主義・形式的な平等主義が生み出す弊害です。
 国境に壁を築くことは、費用をメキシコにもたせるという案はともかくとして、特に突飛な計画ではなく、こうした悲惨な状況に根差した現実的な計画なのです。これはまさに安全保障策であって、国防費の拡大と同じ意味を持っています。しかもこれも雇用創出という経済効果が見込まれるわけです。

 ここでトランプ氏の内政面における人事に着目してみましょう。
 財務長官には元ゴールドマンサックス幹部のムニューチン氏、商務長官には知日派で著名投資家のウィルバー・ロス氏、国家経済会議(NEC)委員長にはゴールドマン・サックス社長兼COO(最高執行責任者)のゲーリー・コーン氏、主席戦略官・上級顧問には同社で勤務経験のあるスティーブ・バノン氏が起用されました。「トランプ政権はさながらゴールドマン・サックス政権のようだ」との声が上がっているそうです。
 これは一見、マクロ経済にあまり明るくないトランプ氏が、グローバリズムに妥協・迎合しているように感じられます。たしかに人事だけを見ると、そういう懸念を感じさせます。
 しかし私の推測では、これらの起用には二つの理由が考えられます。ひとつは、彼の親ユダヤ感情やこれまでのビジネスを通して築き上げたユダヤ人との親密な人間関係の表れです。もう一つは、金儲けがうまく利にさといユダヤ人金融資本家を多く高官に起用することによって、私的利益の追求から離れさせて国富の増大に専念させようとの腹ではないかと考えられます。
 新財務長官・ムニューチン氏は、「法人と中間所得層を対象とした減税、規制緩和、インフラ投資、二国間の貿易協定を通じて、米国は3~4%の経済成長を達成できる」「法人税の引き下げによって米国に大量の雇用が戻ってくる」との見方を披露したそうです。この点では、トランプ氏の考えに一致しています。
 ムニューチン氏は同時に、リーマンショック後に銀行規制のために制定されたドッド・フランク法(DF法)が複雑すぎて融資を抑制する要因になっているとして、これを解体するとも述べています。
 銀行と証券取引とを分離するために1933年に制定されたグラス・スティーガル法(GS法)は資本移動の自由を阻害しているとして1999年にその一部が廃止され、代わってグラム・リーチ・ブライリー法によって、銀行の資金運用が大きく自由化されました。しかしその結果リーマンショックが起きたため、このような事態を防ぐべく2010年オバマ政権の下でDF法が制定されました。
 DF法は主として巨大金融機関の動きを監視することを目的としていますが、金融機関の抵抗が大きく、実際には骨抜きにされていると言われています。またこの法によって、かえって小規模金融機関が廃業に追い込まれた例も多いそうです。
 トランプ陣営は、選挙運動期間中にGS法の復活を訴えていましたが、これはザル法と化しているDF法の解体というムニューチン氏の主張と同一方向です。しかしGS法の復活やDF法の解体という過激な規制の方向は、おそらく金融機関の抵抗があまりに大きいでしょうから、結局DF法の修正という形に落ち着きそうです。
http://www.dir.co.jp/research/report/law-research/securities/20161115_011406.pdf
 いずれにしても、トランプ氏の反ウォール街の姿勢は、この人事によって覆されるというわけではないと考えられます。ただしなにぶん複雑な意向が錯綜する金融界のこと、ミイラ取りがミイラになる危惧は拭えませんが。

 以上、トランプ次期大統領の政策を検討してきましたが、繰り返すように、これらが彼の思ったとおり、すべて実現するわけではありません。議会には反対党がいますし、同じ共和党でも反トランプ派は多いでしょうから。また仮に実現したとしても、本当に国内に好影響を与えるのか、世界にどういう波紋を引き起こすのかは今のところ未知数です。
 しかし一つだけ確かなことがあります。それは、彼が取ろうとしている政策が矛盾しているように見えながら、じつはすべて思想的な一貫性を持っているということです。その一貫性とは、すでに述べたように、グローバリズムの行き過ぎた流れを押しとどめて、アメリカのナショナリズムの再建(アメリカ・ファースト!)を目指していることです。それは同時に、形骸化した民主主義をもう一度健全なものに戻す試みでもあります。なぜなら国家統合が崩れたところによい意味での民主主義体制は成り立ちようがないからです。
 冷戦崩壊後のアメリカの政権は、莫大な財産や資金を自分たちの周りに集めながら貧困層を救えず格差問題を解決できず、いたずらにPC、人権、自由などの空疎な精神論を振りかざしてきました。好景気はあったものの、すべて富裕層に吸い取られてきました。国民の多くはその欺瞞性に気づき、それがグローバル金融資本体制に本気で殴り込みをかけるトランプ氏を支えたのでしょう。それはいうなれば、ソフト・クーデターであったといっても過言ではありません。これが新しいアメリカの統合を作り出すかどうか、超格差社会の是正を成し遂げることができるかどうか。敵の多いトランプ氏のかじ取りは荒海での航海に似たものとなるでしょう。

 最後に、日本との関係についてまとめます。
 日本人のなかには、選挙期間中にマスメディアによって流されたトランプ氏のイメージのために、何となく彼に対して「政治経験のない乱暴な人」という軽蔑的な印象を抱いている人がいまだに多いようですが、これまで述べてきたように、それはまったくの誤りです。トランプ侮るなかれ。
 彼の政策を見ると、政治的にはこちらによい風が吹いてくる可能性が高いですが、それは日本側がいかに彼の意向にきちんと応えるかにかかっているとも言えます。また経済的には、よほどきつい闘いを覚悟しなければならないでしょう。何しろ相手は強力な国益第一主義をもって攻めてくるのです。グローバリズムの夢に酔っ払い続けて、TPP批准だの、アメリカ流規制緩和だの、移民政策だの、農協改革だの、混合診療だの、電力自由化だの、英語第二公用語化だのと、いつまでもバカげた周回遅れをやっていると、日本の健全なナショナリズムは崩壊し、遅かれ早かれ、アメリカの属州になるか、中国に併呑されるか――要するに亡国の道を歩むほかはないでしょう。
 トランプ大統領の登場は、英国のハード・ブレグジットと同じように、グローバリズムの弊害を除去して健全なナショナリズムを建て直す大胆な試みの意味を持っています。それは、世界の不安定化と格差拡大に抵抗する一つのお手本なのです。願わくはわが日本もこのお手本から多くの教訓を学び取らんことを。
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トランプ次期大統領に日本はどう対応すべきか(その2)

2017年01月19日 00時40分58秒 | 政治

      



 それでは、経済に関わるトランプ氏の政策姿勢から、日本は何を読み取るべきでしょうか。
 彼が公約として掲げている経済政策の主なものは次の通り。

①TPPからの離脱
②NAFTAの見直し
③ラストベルト地域を中心とした製造業の復活による雇用の創出
④劣化したインフラ整備のために10年間で一兆ドルの財政出動
⑤米国企業の外国移転の抑制とグローバル企業の国内還帰のための法人税の値下げ
⑥トヨタなど外国有力企業からの輸入に高関税
⑦オバマケアを破棄し新たな保険制度を創出

⑧ついでにリベラルからPC(ポリティカル・コレクトネス)に反する差別だとして悪名の高い、いわゆる「移民排斥」「メキシコ国境に壁を建造」も挙げておきましょう。これは労働政策であり、労働政策はすなわち経済政策だからです。
 
 さてこれらがすべて実現可能であるかどうか、また適切であるかどうかは別として、その姿勢は見事に一貫しています。狙いをひとことで言えば、グローバリズムがもたらした弊害を一掃することであり、同時に国内需要を増大させて経済的利益を少しでも一般国民に還元させ、超格差社会を是正しようという考え方に立っています。
 一つ一つ検討してみましょう。

①TPPからの離脱と②NAFTAの見直し
 これはTPPやNAFTAに盛られた関税撤廃・自由貿易の促進がアメリカの主要産業をますます弱体化させ、またさせてきたという認識にもとづくものですが、その根には、アメリカの経済的パワー、特に製造業がなぜこんなに衰えてしまったのかという嘆きがあります。その原因を自由貿易促進を謳う各国間協定という外部要因に求めるのは、やや不適切の感無きにしも非ずですが、とりあえず、⑤や⑥と相まって、国内産業保護の効果を持つことは明らかで、グローバリズムを善と考えるイデオロギーに対しても強力なアンチテーゼになっています。その意味で経済思想として評価できます(日本にとって有利という意味ではありません。後述)。
 なお、アメリカのTPP撤退はトランプ氏が当選した時点で決定的で、すでにTPPは死んだので、その後日本国会がこれを批准したことはアホの極みですが、いまだに政府内には、「TPPの対中戦略の側面を理解すれば(トランプ氏の)立場に変化があるかもしれない」(産経新聞1月16日付)などという超アホなことを言う人が政府内にいるそうです。それぞれの国の利害の調整によって成立する国際的な経済協定が軍事同盟の絆を固くするなどということはあり得ません。むしろ経済関係が深まれば深まるほど、その内部で軋轢の可能性も増すと考えるのが自然です。
 また逆にTPPのお流れを喜ぶ向きもあるようですが、ことはそう簡単ではありません、これからの対米通商交渉において、日本における協定の批准は、かえってガンになりかねないのです。というのは、あのアメリカ流規制緩和・各分野における制度変更・国家に対する企業優先の姿勢を謳ったTPPを批准してしまった日本は、これらの拘束条件を前提として対米交渉に臨まなければならないからです。アメリカはそれにうまく便乗して、さらに厳しい条件を要求してくる可能性があります。

③ラストベルト地域を中心とした製造業の復活による雇用の創出
 これは解説するまでもなく、ニューディール政策と同じ性格のもので、⑤や⑥と連動しており、トランプ氏が彼の支持層に応えるべき最も重要な政策と言ってよいでしょう。うまく行けばトランプ氏の国内人気は一気に高まるものと思われます。

④劣化したインフラ整備のために十年間で一兆ドルの財政出動
 アメリカのインフラはその劣化が日本よりもひどいそうです。この政策は乗数効果も見込まれ、たいへん有意義な政策です。
 日本のインフラがまだ一定水準を保ちえているのは、50年以上前の高度成長時代に大規模な公共事業を徹底して行ったからで、半世紀も前のインフラがまだもっているからといって、少しも威張れません。
 すでに笹子トンネル事故、常総市堤防決壊、博多駅前陥没事故をはじめとして、全国の橋やトンネル、道路、堤防、水道管などはあちこちで壊れていっています。これからどんどん劣化の度合いは進むことは必定で、おまけに日本は屈指の災害大国ですから、トランプ政策を大いに見習って、一刻も早く大規模な公共事業の拡充に乗り出すべきです。
 ところが土木学会による点検作業はまだ始まったばかりで、橋梁で9%、トンネルで13%しか進んでいません。こんな状態でわかっただけでも橋梁、トンネルいずれも五段階評価でD(「多くの施設で劣化が顕在化。補強、補修が必要」)という危険な状態です。これから10年先が思いやられます。
http://committees.jsce.or.jp/reportcard/system/files/shakai.pdf
 しかもいまだに日本には、財務省を筆頭として公共事業アレルギーが蔓延しており、公共事業予算は1998年のピーク時に比べて現在はなんと五分の二以下に減らされています。http://www.mlit.go.jp/common/001024981.pdf
 日本にトランプ氏のような決断力のある政治家がいれば、と羨望せずにはおれません。

⑤米国企業の外国移転の抑制とグローバル企業の国内還帰のための法人税の値下げ
 これはタックスヘイヴンに大量の資本が逃げている現在、企業を国内に呼び戻そうと思ったら法人税減税競争に与さざるを得ないので、やむを得ない措置として当然ではあります。しかし税収減を消費増税のように他の面で補うとしたら、一般国民にしわ寄せがいくことは当然で、国民経済はデフレから脱却できないでしょう。無条件で減税するのではなく、国内設備投資減税、雇用促進減税、賃金値上げ減税などの条件を付けるべきでしょう。
 世界経済を健全化させるというマクロな面からは、いずれタックスヘイヴンを一掃して法人税減税競争をどこかで食い止めるような国際ルールを作る必要があります。
 しかし応急手当としてはこの政策は間違っているとは言えません。事実、フォードはこの政策を呑み、その他の有力企業の中にもこの国家的方針に従う流れが出始めています(アメリカでは国内にタックスヘイヴンが存在し、おそらく大企業はそちらのほうに逃げるのでしょうが)。

⑥トヨタなど外国有力企業からの輸入品に高関税
 これまた製造業の復活と雇用の創出を目指すアメリカの側に立てば当然の措置と言えます。しかしもちろん日本企業にとってこれはシビアな問題です。①と並んで、これから世界各国の企業と米企業との間でさらに熾烈な競争が起きるでしょう。TPPとの関連で言えば、もはやTPPは死滅したのですから、この協定のISD条項を使って合衆国政府を訴えるわけにもいきません。その意味で、トランプ氏は国益を守るためにじつに巧妙な政策を打っていると言えます。トヨタなど日本のグローバル企業はよほど臍を固める必要があるでしょう。

 ちなみに、トランプ氏のこれらの姿勢に「保護主義」というレッテルを貼る人たちが多いようですが、それは間違いとは言えないものの、単純に決めつけすぎています。彼は貿易の自由を認めていないわけではありません。TPP離脱にしても、高関税の主張にしても、自国の弱体化した部分の補修を優先的に考えているというだけで、二国間の取引に限定してそれぞれについてことを有利に運ぼうとしているのです。どこの国でもやっていることです。第一、いまさらこれだけグローバル化(グローバリズムではありません)してしまった経済を元に戻すなど不可能だということくらい、ビジネスマンのトランプ氏が知らないはずはありません。自分もそれによって大いに恩恵を受けてきたわけですから。
 要はバランスの問題なのです。

 長くなりましたので、続きは明日アップすることにします。

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トランプ次期大統領に日本はどう対応すべきか(その1)

2017年01月15日 23時52分30秒 | 政治

      



 トランプ氏の大統領就任もあとわずかに迫りました。彼のデビューが世界にどんな衝撃をもたらすのか、いろいろと取りざたされています。ここでは国際政治と世界経済の二つの面から、今後予想される趨勢と、それについて日本がどう対応すべきか考えてみましょう。

 まず国際政治ですが、彼が「アメリカ・ファースト」を強く訴えていることから、保護主義に走り、内政面に精力を集中して中東問題や東アジアの緊張から手を引くのではないかと見る向きもあるようですが、それは当たらないと思います。
 対外関係に関わる重要ポストの人事を見ると、次のような戦略が見えてきます。
 国務長官に決定したティラーソン氏はエクソンモービルの元CEOで、エネルギー面でロシアと太いパイプを持っています。彼が政治面ではなく、経済的にロシアと関係が深いという点が重要です。よく知られているように、トランプ氏は選挙運動期間中からロシアに対するこれまでの敵対姿勢を根本から見直すことを訴えています。おそらく彼が対露経済制裁を解除することは確実でしょう。
 アメリカはこれまで、人口一憶四千万、GDP12位と、さほどの大国ではないロシアにことごとく敵対姿勢を取ってきましたが、現在自由主義対社会主義といったイデオロギー上の対立は意味を失っていますし、経済的な利害も特に衝突しているわけではありません。ただしサイバー攻撃など、情報戦争の面でいまだに黒い探り合いが続いていることは確かですが、これは冷戦時代を引きずったアメリカの側の過剰なロシア危険視によるところが大きい。
 ロシアのクリミア併合に対して、アメリカは欧州諸国(および日本)を巻き込んで厳しい経済制裁を課してきましたが、クリミア併合はロシア側からすれば当然の措置と言ってよく、しかも、一応公式的には国民投票という民主的な手続きを取っています。これはアメリカおよびNATOの東進政策の脅威に対抗したもので、事実グルジア(現ジョージア)のバラ革命、キルギスのチューリップ革命、ウクライナのオレンジ革命などには、アメリカの強い関与があったことは周知の事実です。ロシアがこれに脅威を感じて対抗意識を燃やさないはずはありません。
 要するに、自国の「自由と民主主義」イデオロギーを普遍的価値として世界全体に押し広げようとしてきたビル・クリントン政権以来のアメリカの独善がもたらしたものといってもよいのです。そこには実質的には、各地域の特殊事情を無視した身勝手な覇権拡張の意思以外、何の必然性もありません。
 オバマ大統領は、彼特有の理想主義から、「アメリカは世界の警察官ではない」と宣言して徐々にこの戦略から身を引く構えを取りましたが、ロシアとの間に融和の関係を打ち立てるには至りませんでした。それどころか、オバマ氏も含めた民主党陣営は、トランプ候補攻撃のために、しきりにロシアの介入を喧伝してきました。
 ところがトランプ氏は、ロシアとの積極的な協調体制を考えています。大統領選に敗れた民主党陣営のほうがロシア敵視にいまだに固執しているのです。その表れの一つが、大統領選にロシアが関与しており、しかもそれにはプーチン大統領自身の指示があったという国家情報長官室の報告書です。これは事実かもしれませんが、真相はわかりません。
 いずれにせよ、最近のトランプ氏に関するつまらぬ「セックス・スキャンダル」についてのBBCやCNN報道と合わせて、ここにはロシアとの関係改善を目論むトランプ氏を追い落とそうとする勢力の強力な動きが感じられます。おそらくこの勢力の中には、民主党のみならず、共和党のエスタブリッシュメント、つまり反トランプ派も含まれているでしょう。報告書やスキャンダルの出現は、事実の存否の問題であるよりは、アメリカの政治社会がいろいろな意味で分裂状態にあることを意味します。言い換えるとそれは、民主党対共和党というわかりやすいヨコの対立であるよりは、理念派対現実派、富裕なエスタブリッシュメント対トランプ支持層、グローバリスト対ナショナリストといった複雑な乖離現象や亀裂現象であり、それがいよいよアメリカ統合の危機をかつてないほど深刻なものにしている状態と捉えられるでしょう。
 トランプ人事に話を戻しましょう。
 ティラーソン氏はトランプ氏と同じようにビジネスマンですから、ロシアが経済制裁で苦しんでいる現状を軽減して、その見返りにロシアとの協調関係を作り上げる目論見にとってまさに適役というべきでしょう。トランプ氏は、この経済交渉という手を使って、すでに意味のなくなった米露の政治対立を解消に向かわせようとしているのだと推定されます。なぜそうするのかは後述します。
 次に国防長官に任ぜられたマティス氏は、「mad dog」の異名をとっていますが、これを「狂犬」と訳すのは適切とは言えません。要するに戦争において作戦能力や戦闘能力に秀でていて、部下の士気を高めるのがうまい「荒武者」と呼ぶのがふさわしい人です。彼は、後に仲たがいはするもののすでにオバマ大統領によって中央軍司令官に任ぜられており。その軍人としての力量は誰もが認める所なのでしょう。
 つまりトランプ氏はオバマ大統領の平和主義志向に飽き足らず、戦闘的な実力者を復活させて、安全保障上の最重要ポストに配置したということが言えます。これを見ると、トランプ氏が「敵」に対して容赦しない構えを固めていることがうかがえるでしょう。
 では「敵」とはだれか。いうまでもなく中国です。
 彼は一方で、駐中国大使に、習近平氏の「旧友」であるアイオワ州知事のブランスタド知事を起用しています。ブランスタド氏は中国指導部とのつながりが深いため、国営新華社通信は米中関係にとって前向きだと歓迎しているそうですし、専門家の間では、米中間の貿易摩擦の逓減に寄与するとの見方が出ているそうですが、私は、これらの見方は甘いと思います。
 国防面で有事における体制をがっちりと固め、外交面では相手国の指導部に深く食い込んでパイプを太くしておく。中共政府の本音を探り、時には巧妙に懐柔し時には断固たる対抗措置を取る。この硬軟両面での作戦はすぐれた戦略的思考の表れで、いわば中国との緊張した知恵比べ、力比べがこれから始まることになるでしょう。親中派のヒラリー氏が大統領になっていたら、およそ考えられないことです。
 そこで先ほどのティラーソン氏の国務長官起用の狙いは何かといえば、これまでの米政府の惰性によるロシア敵視を清算し、その経済的関係を深めることによって、中露分断の意図を鮮明に打ち出すものだと考えられるわけです。
 以上のことから、トランプ氏はけっして内向き志向になっているのではなく、むしろ無駄な方向に戦費や国民の生命を費やすことを停止し、「敵」を一本に絞ってエネルギーをそこに集中させることを考えているのだと思われます。
 それは、オバマ氏の優柔不断さが、シリアの反アサド勢力(≒反ロシア勢力)に加担しながら結果的にISのような過激派の跋扈を許し、ロシアにIS対策をゆだねる格好になった事実、また中共の強引な南シナ海侵略に対してほとんど口先だけの「航行の自由」作戦を唱えただけで、ずるずるとアジアにおける中共の覇権主義を許してきた事実などに対する、明確な批判を意味しています。
 じっさい、トランプ氏は、「アサド政権は悪いが、ISはもっと悪い」と表明してIS掃討を優先させ、ロシアとの間でこの問題で協力しあう約束をしています。中東情勢を安定化させる主役をロシアに託したのです。そこには、アラブ諸国の混乱からイスラエルを守るという思惑も見え隠れします。イスラエルのネタにエフ首相は、プーチン氏とトランプ氏の両方と会談しています。
 またトランプ氏は、中共に対しては、南シナ海での膨張主義を許さない姿勢を鮮明に打ち出し、さらに台湾の蔡英文総統と電話会談を行って、中共の意図を挫く挙に出ています。
 トランプ氏のこうした安全保障政策は、日本にとって好都合で、日本は彼が日本に対して発信しているもろもろの自主防衛の要請を奇貨として、中共の脅威に自ら対処するために、国防体制をいち早く整えるべきなのです。基地費用など細かい点で認識の齟齬があるものの、それはよく説明して理解してもらえば済む話です。基本線において、トランプ氏の東アジア問題、対露問題に対する発言は、中国を共通の敵として真に対等な同盟関係、協力関係を築く方向に大きく一歩を進めたものと理解できます。日本はこれに対して国防費の倍増をもってきちんと応えなければいけません。それは投資や消費を活発化させ総需要の増大をもたらすので、デフレ脱却にも寄与するでしょう。しかし情けないことに、いまの日本政府にそれを期待するのはどうも難しそうです。
 一方、世界経済に関する彼の姿勢は、日本にとって安穏としていられない厳しい面を示していますが、これについては、次号で展開しましょう。

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誤解された思想家・日本編シリーズその4の②

2016年12月22日 13時57分35秒 | 思想

      



親鸞②

 ここで、いささか余談めきますが、親鸞の妻帯について指摘しておくべきことがあります。
これも法然の項で当然の事実のように触れたのですが、そのいきさつは、佐々木正氏の『親鸞・封印された三つの真実』(洋泉社)という本に詳しく説かれています。
 まず親鸞の伝記についてですが、明治後期からの実証主義偏重史観によって、覚如(親鸞の曾孫)作の『親鸞伝絵』と、大正十年に発見された親鸞の妻(じつは後妻)・恵信尼が娘に宛てた『恵信尼消息』だけが決定的証拠と見なされてしまいました。
 しかし佐々木氏によると、それ以前は真宗高田派による『親鸞聖人正明伝』の記述がそのまま受け入れられていました。しかもこちらの方があらゆる面において親鸞の生涯を生き生きと伝えており、しかも『伝絵』では意図的に抹消されている親鸞の結婚の事情が『正明伝』には詳しく書かれているというのです。
『正明伝』によれば、親鸞はじつは二度結婚しており、最初の妻は権勢をふるった関白・九条兼実の娘・玉日姫でした。ちなみに山形大教授・松尾剛次氏も、仏光寺派の説話『親鸞聖人御因縁』等により、親鸞と玉日姫の結婚説を肯定しています。さらに『恵信尼消息』発見のわずか五年前に書かれた『出家とその弟子』にも玉日姫が親鸞の妻として出てきます。
 これはまことにありうべきことと思われます。親鸞二十九歳、六角堂への百日参籠の折、救世観音から受けた「女犯偈」の夢告によって妻帯を許された話は有名ですが、それ以前に親鸞は比叡山を降りて吉水の法然のもとに帰依しています(『恵信尼消息』では順序が逆)。ですから法然は、当然「女犯偈」の夢告について親鸞から聞いていたでしょう。
 私はこれらの説を正しいものとして、以下、論を進めます。

 さて兼実は失脚して後、法然に深く帰依し、凡夫こそ救われるという彼の説に強い探究心を示します。そこで、僧に妻帯が許されるというあなたの持論が本当なら、私の娘をあなたの弟子と結婚させてみてくれと、法然を一種の試練にかけます。法然はこれを承諾し、ただちに愛弟子の親鸞に白羽の矢を立てました。親鸞は、たとえ尊敬する師の命令とあってもそれはできないと拒否するのですが、そこで法然から「女犯偈」の話を持ち出され、悩んだ挙句これを受け入れるのです。
 当時、僧侶の妻帯はじつは公然の秘密でした。また遊女との関係も盛んだったに違いありません。親鸞の悩みは、単に不婬戒を破る罪を犯してもよいのかという倫理的な点にあったのではなく、位の高い貴族や高僧の並み居る「世間」を前にして、しかも最高位の貴族の娘と公式的に婚姻するなどということが許されるのかという点にあったと思われます。近現代人が想像するような、性に対する禁欲と恋愛感情との葛藤に悩んだというようなことではないのです。ですから、「女犯偈」は恵信尼との恋愛が成就したなどという話には結びつきません。
 たとえば五木寛之氏の大作『親鸞』は、こうした事情を無視しており、親鸞が不婬戒を破らなくてはならないところに追い込まれた時の苦悩を恵信尼との恋愛関係にそのまま結びつけています。おそらく『正明伝』の存在を知らなかったか、知っていてもあえてそれを斥け、それまでの定説を基礎に物語を仕立てたのと、ストーリーテラーとしての強いサービス精神とがそうさせたのでしょう。
 現代読者を相手とするエンタテイメントとしてはそれで一向にかまいません。しかし指摘しておきたいのは、親鸞の妻帯に絡む苦悩を、個別の男女の単なる恋愛の問題としてとらえることは、単に近代人のロマンをそこに投影する試みであり、その分だけ時代に対する想像力を欠いたものに他ならないということです。

 さて玉日姫との間には、長子・範意が生まれます。これは貴族・日野家(親鸞は日野家の系統)の系図に「母、兼実の女」とちゃんと書かれています。結婚から六年後、建永の法難によって法然は土佐(じつは讃岐)、親鸞は越後へ流罪と決まります。この後の親鸞の足跡については定説がないので自由に想像をめぐらせてみます。
 法難を契機に玉日姫とは離縁することになった。あるいは玉日姫は第二子の出産の際、産後の肥立ちが悪く死んでしまった。また再婚相手の恵信尼は、玉日姫に仕える女房であった可能性が高い。親鸞と恵信尼はその関係でつながりができた。恵信尼の故郷が越後だったという説も有力なので、付き添う女の出身地を流罪先として選ぶ配慮が上部ではたらいたと考えれば自然です。
 私の想像は飛躍します。
 東国での布教から帰京して何年もたったころ、親鸞のいないのをいいことに、関東に派遣された息子の善鸞が勝手な振る舞いに走ります。悪人正機説を歪曲して「悪いことをすればするほど救われる」という、いわゆる「造悪論」を流行らせるのですね。その折、善鸞は、恵信尼はじつは継母で自分は貴種の出なのだという説を主張し、自らの権威づけに利用します。
 東国の忠実な弟子からこの情報を受け取った親鸞は激怒して善鸞を義絶します。親鸞激怒の理由はいろいろ考えられます。真相を突かれてうろたえた、当時男子は身ごもりや出産・育児にはかかわらなかったので真相を知らなかった、など。しかし、この善鸞の主張は、あながち嘘八百とも思えません。というのは、善鸞は、範意と同一人物だった、または玉日姫との間の第二子だったという説もあるからです。前者なら法難に遭ってから親鸞と恵信尼が結婚した時、五歳くらいにはなっていたはずで、記憶が残っていた。こう考えると、話が妙に符合するのですね。

 益体もないことを書き連ねましたが、親鸞という人が、人間としてそれほど特異な個性ある人ではなく、ごく几帳面でまじめな日本人だったと言いたかったからです。
 もちろん卓越した資質と燃えるような向学心、教えに対する敬虔で一途な心根、そして情熱的な布教精神の持ち主であったことは確かでしょう。しかし伝えられる行跡から浮かび上がってくるのは、貴族社会から武家社会に移っていく時代の激流に不可避的に流されて生きたひとりのまっすぐな「凡夫」の姿です。だからこそ、東国から弟子たちが上洛した時も、「念仏を信じること以外にさして申し上げることはない」と何のてらいもなく答えたのでしょう(『歎異抄』二節)。
 また反抗息子には世の親と同じように怒りをあらわにしたところにも、その愚直なまでに忠実に教えを守る性格がよく表れているのではないでしょうか。じっさい善鸞に対する親鸞の怒りは尋常でなく、書簡の中で教えを曲げることは五逆の罪に値し、父殺しに等しいとまで言っています(「古写書簡」第三書簡ほか)。
 思想家の故吉本隆明氏は、親鸞関係の書物で、親鸞その人に「造悪論」を許すだけの根があったと頑なに主張していますが、書簡の文面にまったく合わない強引な説です。
 親鸞をことさら偉大な存在として神格扱いせず、その等身大の姿をよく見つめることこそ、彼自身の本意に叶うように思えるのです。

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誤解された思想家・日本編シリーズその4の①

2016年12月20日 14時31分15秒 | 文学
      




親鸞(1173~1262)①

 親鸞については、すでにこのシリーズの一回目で法然を扱った際、親鸞人気の絶大さに比べて、彼の直接の師である法然の、思想家としての真価が正当な評価を受けていないと述べて、両者の比較検討を行いました。
そうして私個人としては、その宗教革命家としての偉大さにおいて、法然は親鸞に優るという結論に達しました。

 よく知られているように、親鸞の弟子・唯円は、親鸞の没後三十年ほどを経て、師の言葉を思い出しながら『歎異抄』という書物を著しました。この書の中に、師である親鸞の、人をハッとさせる逆説的な言葉がいくつも登場しています。
 近現代の大方の読者は、難しい教典や経典の注釈書(たとえば法然の『選択本願念仏集』や親鸞の『教行信証』)を通して彼らの思想を読み取るより、『歎異抄』に出てくるアフォリズムのような逆説的な言葉に魅せられて親鸞ファンになったのでしょう。かくいう私も例外ではありませんでした。
 私が最も印象づけられた親鸞の言葉は、『歎異抄』十三節の「わが心のよくて殺さぬにはあらず」でした。世の中のすべては「業縁」によるのであって、人を殺さないでいられるのも自分が善意志を持っているからではない、どんなに善意志を持っていても、ある「業縁」(現代なら「状況」というべきでしょう)に置かれれば千人でも万人でも殺してしまうことがある……。
 この思想は、人が道徳的であるためには何が必要かという倫理学的な問いそのものを相対化しています。個人の自由意志で「善」が実現できるわけではない。その意味で、たとえばカントの個人主義的な道徳論の枠組みなどに見られる近代人のさかしらをはるかに超えた深みを湛えている――私はそう感じて、永らく座右の銘としてきたのです。
 現在でも、親鸞の残した言葉のなかで、少なくともこの一句だけは名言中の名言と思っています。もちろん彼はこの言葉を阿弥陀仏への絶対的な帰依という宗教的な文脈の中で用いているので、その他力信仰をそのまま近代人の意識に適用することには無理が伴います。そこには中世という時代がもたらした一種の仏教的ペシミズムが濃厚に漂っています。ですから、近代がもたらした紛れもない光明――平和でさえあれば普通の人が簡単には死ななくなったこと――を経験した地点から見れば、苛酷な現実に対する諦念をただ合理化する説教と見えるかもしれません。しかし他方では、近代社会は複雑で巨大な暴力的システムと化しており、個人の無力や不安や煩悩を実感させる場面にも事欠きません。そのことに思い至るとき、親鸞のこの言葉が俄然現実味を帯びてきます。現代人の心の奥底でもこの言葉は鳴り響いており、その力はけっして衰えてはいないのです。

 けれども『歎異抄』成立のいきさつや、ここに書かれた親鸞自身の言葉とされるもの、また『歎異抄』全体の構成などによく目を配りますと、それらの言葉だけをよすがとして親鸞の思想に傾倒する前に、いくつかの留保をつけなくてはなりません。
 第一に、唯円のこの書は、老い先の短くなった(と自ら記しています)自分が、念仏宗徒たちの間に異説がはびこっている状態を憂え、将来を案じて三十年前の記憶を懸命に掘り起こし、親鸞上人の「お言葉」によってもう一度自ら信ずるところを権威づけようとしたものです。これは親鸞の書ではなく、何よりも老唯円の書なのです。
 老いぼれているから記憶が正確ではないなどと言いたいのではありません。そうではなく、登場する親鸞の言葉が唯円自身の切実な動機に大きく囲繞されている点を見逃してはならないと言いたいのです。そういう彼の一種の強烈な編集意図に思い及ばずに、ただ親鸞の言葉の断片だけを抽出してありがたがると、九十年も生きた親鸞の人となりが浮かび上がらず、彼の思想はただこれだけのアフォリズム的表現に凝縮されているという思い違いをしてしまいます。またここに盛られた唯円独特の思想をも読み落とすことになりかねません。
 事実この作品で、親鸞自身の「お言葉」が直接紹介されている部分は、全体の四分の一に及ばず、唯円の語りの中に出てくる親鸞の言葉を全てこれに加えても、全体の36%にすぎません。いま唯円の思想がどんな性格のものであるかについては割愛しますが、ご関心のある方は拙訳『歎異抄』(PHP研究所)の解説部分をお読みください。ともあれ、この一事をもってしても、『歎異抄』一篇の中に親鸞の思想や人間性をすべて読み取ったと考えることがいかに片手落ちであるかがわかるでしょう。

 留保の第二点目。
 その鋭いアフォリズム的表現のいくつかですが、これらの中には、前後の文脈との関係で読むと、自分の尺度や好みに合わせた近現代人の解釈が必ずしも適切ではないことに気づきます。宗教的言語以外に知の言葉を持たなかった当時の社会背景の下ではごく当然のことを言っているにすぎないものがけっこう多いのです。具体例を挙げましょう。

①「とても地獄は一定すみかぞかし」【二節】。
 この前後には、自分は師である法然の言葉を正しいと固く信じているので、たとえ法然上人の専修念仏の教えを信じたために地獄に落ちたとしても騙されたとは思わないし、後悔もしないと書かれています。
 つまりこれは、ごく単純に念仏信仰の揺るぎなさを強調した言葉であって、自分の罪深さの自覚や末法の世のありさまを表現したものではありません。デスペレートなニュアンスは少しもないのです。

②「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」【五節】。
 これは一見、個人主義的な信仰心を述べているようですがまったく違います。生きとし生けるものはみな生死を離れられず互いに父母兄弟となってきたのであって、往生して仏になってこそ、まだ仏になりきらない人を救うことができる。だからこの世にある間に父母を救おうと念仏を唱えても、それは自力のはからいにすぎず、他力浄土門の教えからすれば不可能なことなのだという理法を語っているのです。
 この言葉は、まだ世俗との妥協に至っていない新しい宗派というものがもつ一種の普遍的性格を物語っています。そもそもどんな宗教も、その勃興期には世俗道徳や惰性化した社会慣習に叛逆する要素を不可欠としています。仏教の場合には、眷属の絆をまずいったんは断ち切って、同じ教えのもとに結ばれた師弟関係を何よりも尊重します。
 釈迦も王族の身分を捨てることによって初めて自分の信念を貫き、その教えを広めることができました。法然に始まる念仏宗も、親鸞が生きた時代にはまだ新興宗教でした。ですから親鸞のこの言葉は、堕落した日本仏教界を見直して、もう一度釈迦の教えの本源に帰れという一つのメッセージの意味を持つのです。

③「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」【六節】
 これは、人はそれぞれだから各人信ずるがままに行くがよいと言っているように聞こえますが、前後を読むと、弟子の取り合いをするような争い事を、専修念仏の教えに背くものとしてきつく戒めていることがわかります。つまり弥陀のはからいによってこそ念仏を唱えることができるので、自分の弟子として囲い込んで念仏行を指導するなどという態度こそは、自力を恃んだ傲慢だというわけですね。これも他力の教えに忠実な言葉と言えます。

④「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」【後序】
 これも信仰は一人ひとりの心の中にあるものという個人主義的な態度の表明のように見えます。しかしそうではなく、自分を含めた誰もが煩悩具足の凡夫であって、阿弥陀様はそういう人にこそ目をかけてくれるのだという第十八願の真実を象徴的に語っているのです。つまり自分自身を前世からの業がかくも深い凡夫の一人であると見立てて、その自覚を告白したものだと解釈できます。

 以上を要するに、これらの言葉は何か新しい「思想」を開示したものではなく、むしろ他力浄土門の教えを、親鸞一流の端的な表現でそのまま踏襲したものなのです。その意味で法然のそれを一歩も出るものではありません。親鸞自身が甦ったら必ずそのとおりと言うでしょう。

 留保の第三点目。
『歎異抄』の中で「悪人正機説」として最も有名な「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」【三節】という逆説表現ですが、法然を論じた時に言及したように、これは親鸞の独創ではありません。くどいようですが、ここでもう一度、法然の『一期物語』から引きましょう。

≪われ浄土宗を立つる意趣は、凡夫の往生を示さんがためなり。……善人なお生る。いわんや悪人をや。……この宗は悪人を手本となし、善人まで摂するなり。≫

 悪人(=煩悩を抱えているために積善をまっとうしえない人、凡夫)がまず手本(弥陀の救済の第一の対象)であって、そのうえで善人も摂取してくれる――この鮮やかな思想的転回は、すでに法然が完全に成し遂げているのです。
 悪人正機説を親鸞の独創と誤解している人は、次の二つの歴史的経緯に無意識に影響されているのです。
 一つは「浄土真宗」中興の祖である蓮如によって、親鸞の開祖としての盛名が定着したこと。同時代から室町時代にかけて、親鸞の名はほとんどまったく知られていませんでした。
 二つ目は、大正五年に発表された倉田百三の『出家とその弟子』が大ヒットしたために、それ以降、短くて読みやすい『歎異抄』への関心が一気に高まったこと。
 ここには歴史の皮肉ともいうべき事態とともに、「宗教」ではなく「思想」好きの近代人の、片思い的な深読みの現象が見られます。
 こう言ったからといって、私は親鸞を貶めようという意図を持っているわけではまったくありません。ただ、文献とそれが生まれた歴史的背景とを誠実にたどる限り、法然をさしおいて親鸞だけを特別の宗教改革者(革命的思想家)とみなす理由は何もないということを強調したいだけです。

 人間的魅力としてはどうか、という問いが持ち上がるでしょう。親鸞はたしかに法然と違って公然と肉食妻帯に踏み切りました。ところがじつは後述のように、彼は妻帯に主体的に踏み切ったのではないのです。
 また越後流罪以降、東国で精力的に布教につとめたという、法然にはない行跡があります。つまり実践的宗教改革者としての側面ですね。東国は荒々しい「もののふ」たちが跋扈し、賎しい身分の者たちがその日その日を暮らす社会です。そうした地域でこそ、「非僧非俗」に自ら身をやつした親鸞の本領が発揮されたに違いない――この見立ては、おそらく正しいでしょう。
『歎異抄』にも、親鸞の言葉として、漁師や猟師や商人や農民など、みな同じで、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」【十三節】というくだりが出てきます。これは殺生戒の空しさを突いた言葉ですが、いかにも庶民の中に入って生きたのでなければ出てこない具体性が感じられます。
 そこがほとんど貴族や高僧たちの取り巻く「世間」の中で一生を過ごした法然との違いといえばいえます。しかし法然の説法を聴きに集まった人々には多くの一般庶民が含まれていましたし、晩年の土佐流罪(じつは讃岐)の際には、じかに民衆に念仏宗を説いてもいます。(つづく)
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老人運転は危険か――高齢者ドライバーの事故激増のウソを暴く(その2)

2016年12月13日 00時38分09秒 | 社会評論
      






:まずこういう資料が出てくる。内閣府のデータ(*注3)だが、交通事故の「死者数」はここ13年間減少の一途で、平成25年では4373人、うち65歳以上の死者は2303人で、やはり減少気味だが、他の世代のほうの減少カーブのほうが圧倒的に急なので、交通事故死者全体の中で占める割合としては増加していることになる。でもこれは被害者のほうだからね。歩いている老人がはねられるというケースが多いんだろう。このことは別の資料(*注4)に当たってみると確かめられる。歩行中が1050人くらいで、約半数。自動車乗車中は600人から700人の間を推移していて横ばいだ。「乗車中」ということだから「運転中」はもっと少ないことになるよね。いずれにしても、「高齢者は交通事故に遭いやすい」ことは当然で、それは高齢者ドライバーが他人を殺める割合が高いかどうかとは直接の関係がない。でも世間では「高齢者は危ない」というイメージを抱いていて、そのことと、「高齢者ドライバーは事故を起こしやすい」という先入観とを混同しているんじゃないかな。だから報道の関心がそちらのほうに集中して、そういう事件を好んで取り上げるようになる。どうもそう思えるんだけどね。
:先入観か事実かどうか、まさにそこを調べるわけだろ。
:その通り。その前に、君が初めに挙げた五つの事故の死亡者は、全部合わせると6人になる。約一か月間の間に6人という数字は年間に換算すると72人。亡くなった方には不謹慎な言い方になって申し訳ないが、この数字は、現在の年間交通事故死者総数約4300人という数字に比べて多いと言えるだろうか。割合にするとわずか1.7%にしかならないよ。
:だけど、報道されてないのもあるかもしれないぞ。
:それはまずないだろう。いま言ったように、マスメディアはニュースヴァリューのある事件が一つでもあれば、一定期間、連鎖反応的にそれっとばかりそういう事件ばかり集中的に探し当てる。これまでいつもそうだったじゃないか。
:ふむ。まあそれは認めるとしよう。だけど、老人の免許保有者が実際にどれくらい運転しているかはわからない。身分証明書代わりに更新している割合が多いんじゃないか。
:それは確かにそうだな。しかしより若い世代だってペーパードライバーはけっこういるからな。その世代差がどれくらいかは、よほど精密な意識調査でもやらない限り割り出せないだろう。だから一応、免許保有者は実際に運転をしているという仮定のもとに考えていくしかない。で、いまのところ、我々が得ている資料から、もう少し厳密に計算してみよう。同じ年の警察庁の資料によると(*注5)、運転免許保有者の総数は約8200万人。高齢ドライバーは年々増えていて、80歳以上は平成25年時点でなんと165万人を超えている。そこで、全体と80歳以上とで、死亡事故を起こしたドライバーの割合を比較してみるよ。さっき言った通り、80歳以上で死亡事故を起こしたドライバーを年間72人と仮定する。交通事故死亡者総数は4300万人台。そうすると、次の計算式が成り立つだろう。

 交通事故死亡者の、免許保有者総数に対する割合
  4300÷8200万×100≒0.0052(%)
 80歳以上の人が起こした事故での死亡者の、免許保有者数に対する割合
  72÷165万×100≒0.0044(%)。

どうかね。80歳以上のドライバーが他の世代に比べて死亡事故を起こす割合が高いわけではないことがわかるだろう。
:うーむ。仮定が入っているからそんなに厳密とは言えないな。それに死亡事故だけでは、不十分じゃないか。負傷者がたくさんいるかもしれないからな。もう少しびしっと結論づけられる資料はないのかね。
:君もなかなかしぶといな。まあいい。じゃあ、もう少し探してみよう。……あった、あった。これも同じ平成25年のものだけど、ちょっと決定的だぞ(*注6)。ていねいに読んでみてくれ。(一部語句、改行など変更)

 平成24年の65歳以上のドライバーの交通事故件数は、10万2997件。10年前の平成14年は8万3058件だから、比較すれば約1.2倍に増えている。これだけを見れば確かに「高齢者の事故は増えている」と思ってしまうだろう。しかし、65歳以上の免許保有者は平成14年に826万人だったのが、平成24年には1421万人と約1.7倍となっている。高齢者ドライバーの増加率ほど事故の件数は増えていないのだ。
 また、免許保有者のうち65歳以上の高齢者が占める割合は17%。しかし、全体の事故件数に占める高齢者ドライバーの割合は16%で、20代の21%(保有者割合は14%)、30代の19%(同20%)に比べても低いことがわかる。
 年齢層ごとの事故発生率でも比較してみよう。平成24年の統計によれば、16~24歳の事故率は1.54%であるのに対し、65歳以上は0.72%。若者より高齢者のほうが事故を起こす割合ははるかに低い。この数値は30代、40代、50代と比較して突出して高いわけでもない。
 また、事故の“種類”も重要だ。年齢別免許保有者10万人当たりの死亡事故件数を見ると、16~24歳が最も高く(8.52人)、65歳以上はそれより低い件数(6.31人)となっている。


:うーむ……。
:つまり、これから推定できることは、認知症の人は別として、高齢者は概して自分の心身の衰えをよく自覚していて、また経験も豊富なので、慎重な運転を心がけているということになる。だから、マスメディアの流すイメージを鵜呑みにして、「高齢者の免許証を取り上げろ!」などと乱暴なことを言う人が多いけど、それはナンセンスだな。俺のドライバー歴は約30年だけど、俺も若い頃のほうが事故を起こしていたよ。ここのところけっこう車を使っているが、10年ばかり無事故だ。でもたしかに自信過剰は禁物だね。また一口に高齢者といっても、65歳と75歳と85歳とでは衰え具合が全然違うだろう。そのへんのきめ細かな分析視点も大事だと思うよ。
:うーむ。マスメディアの流す情報に踊らされてはダメだということだな。俺も免許証返上や規制強化論については、少し考え直すことにしようか。

 *注1:小浜逸郎『デタラメが世界を動かしている』(PHP研究所)
 *注2:http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo
 *注3:http://www8.cao.go.jp/koutu/taisaku/h26kou_haku/gaiyo/genkyo/h1b1s1.html
 *注4:http://www.garbagenews.net/archives/2047698.html
 *注5:https://www.npa.go.jp/toukei/menkyo/pdf/h25_main.pdf
 *注6:">http://www.news-postseven.com/archives/20131010_215628.html

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老人運転は危険か――高齢者ドライバーの事故激増のウソを暴く(その1)

2016年12月10日 23時28分35秒 | 社会評論
      





:久しぶり。この前会った時よりだいぶ老けたな。
:何しろもうすぐ古希だからな。そういうおぬしも人のことは言えんぞ。
:そりゃそうだ。ところで君はまだ運転やってるのか。
:何だやぶからぼうに。やってるよ。仕事で必要だしドライブは好きだからな。
:いや、最近、ほら高齢者ドライバーが起こす事故が連続して起きているだろう。ここに新聞を持って来たんだが、11月12日、立川市で乗用車が歩道に乗り上げ2人死亡。10日には栃木県で乗用車がバス停に突っ込み3人死傷。10月28日には横浜市で軽トラックが小学生の列に突っ込み7人死傷。13日にも小金井市と千葉県で交通死亡事故。運転していたのはいずれも80歳以上の高齢者とある。こう続くと俺も運転するのが怖くなってくる。
:たしかに年を取ると、自分ではちゃんとしているつもりでも判断能力や運動神経がどんどん鈍ってくるからな。俺も気をつけるようにしてはいるけどね。
:しかしこの横浜の事件では、認知症の疑いがあったそうだ。認知症だったら「気をつける」なんて次元の問題じゃないだろう。
:その人はいくつだったの。
:87歳。
:87歳かあ。そんなに高齢じゃ、認知症を疑われるのも無理はないな。家族がちゃんと監視して運転をやめさせるべきだな。
:いや、一人住まいだったのかもしれない。孤独な老人が増えてるからな。それに、認知症でなければいいのかというとそうも言いきれないだろう。あと数年で俺たち団塊も75歳だぞ。こういう事件がどんどん増えるんじゃないか。
:でも地方の過疎地域なんかでは車がないと買い物にも医者にも行けない人が多いんだろう。簡単に免許返納というわけにもいかんじゃないか。
:自動運転車の早期実用化や地域の協力体制が求められるな。でもそれを待っている間にも事故は起きるだろうしな。だからどうしても規制強化が必要だと思う。
:今の道交法では、高齢者の免許に対する規制はどうなっているんだっけ。
:75歳以上の免許更新時に認知機能検査をやって、「認知症の恐れがある」とされても、交通違反がなければ免許の取り消しとはならないんだそうだ。これははなはだ不十分だな。で、一応2017年3月の改正道交法では、「恐れがある」場合には医師の診断が義務づけられて、認知症と診断されると免停か取り消しになることになってる。俺はこれでも甘いと思うよ。さっき言ったように、認知症でなくたって危ないからな。
:そうすると、君の考えでは、免許返納を制度面で強化することと……。
:うん。高齢者の自覚を促すキャンペーンをさかんにして、家族もこれに協力して自主的な免許返納のインセンティブを高める必要があると思う。俺ももうそろそろ免許証を返上しようかと思ってるよ。君も考えたほうがよさそうだぞ。自信過剰は最大の敵だ。
:なるほど。我々は都会に住んでるから、車がなくてもなんとかやって行けるしな。でも俺の場合は今のところどうしても必要だから、できるだけ慎重な運転を心がけて、もうちょっと続けることにするよ。ところでこれはけっして自信過剰で言っているんじゃなくて、免許返納制度の強化というのにはちょっと異論があるな。
:どうして? 免許を更新するときにもっと厳しいテストを課せばいいじゃないか。
:それは口で言うのは簡単だけど、膨大な免許保有者に対していちいち時間のかかる厳しいテストを課すことが今の警察の限られた交通安全対策施設や人員で可能だろうか。
:それは、ITをフルに活かした最新鋭の診断システムを導入するとか、早急に増員を考えるとかすればいいだろう。
:それだって相当時間がかかるぞ。君がさっき言っていたとおり、そういうシステムが整うのを待っている間にも事故は起こるだろう。しかも一律規制を厳しくして、テストに引っかかった過疎地の人はどうするのかね。
:……。
:じつは俺の異論というのは、今話したような問題点だけじゃなくて、もっと根本的な疑問にかかわっているんだ。昔と違って今の時代は、ふつう想像している以上に元気な高齢者がわんさかいる。また最近は車の性能がすごく進化しているから、歩いたり走ったりするのが困難な人でも精神さえしっかりしていればむしろ運転のほうが容易な場合が多い。そういう人たちの意志や行動の自由を拘束するのはあまりよくないと思う。身体障害者に対しては、条件さえ整えば健常者と同等に免許が取れるように制度が整備されてきたよね。精神はたしかだけど体にガタが来ている高齢者って、一種の身体障害者だと思うんだ。そうすると単に高齢者だからという理由で規制を厳しくするのは矛盾してないか。
:そうはいっても、その意志や行動の自由が、生命を奪うことになりかねないんだぜ。これは「個人の自由」を尊重するか、「生命の大切さ」を尊重するかという問題で、俺は無条件に「生命の大切さ」を選ぶね。だって、当の高齢者ドライバー自身の命もかかってるんだし、たとえドライバーが命も失わず怪我を負わないにしても、人を殺めてしまったら、加害者やその家族のほうも計り知れない有形無形の苦痛を背負うだろう。
:まてまて。いま君の議論を聞いていて気づいたんだが、「個人の自由」か「生命の大切さ」かというような抽象的な二項選択問題に持っていく前に、もっと冷静に考えておくべきことがある。いままで俺たちは、高齢者ドライバーの引き起こす事故が増えていることを前提に議論してきたよな。でもそれって本当なのかね。
:だって、現にこんな短期間に80歳以上のドライバーが次々に事故を起こしている事実が報道されているじゃないか。まさか君はそれを認めないわけじゃないだろう。
:個々の事故報道を疑っているわけじゃないよ。だけど、「超高齢社会・日本」というイメージが我々ほとんどの日本人の中に刷り込まれていて、それに絡んだ問題点を無意識のうちに拡大してとらえてしまう傾向が、もしかしたらありゃしないだろうか。昔からよく言うよな、「ニュースは作られる」って。これはニュースの発信者と受信者が同じ空気を醸成していて、いわばその意味では、両者は共犯者なわけだ。発信者は「87歳の高齢者ドライバーによる死亡事故がありました」と報道する。聞く方も、「えっ、それはたいへんだ。そんな高齢者に運転させるのは間違いだ」と即座に感情的に反応してしまう。そこから「規制をもっと強化しろ」という結論までは簡単な一歩だ。
:しかしごく自然に考えて、年を取れば取るほど生理的に衰えてくるから、運転の危険度も増すことは否定できないだろう。君だってそれは認めていたじゃないか。
:もちろん認めたよ。でもそれを認めることと、高齢者への運転規制を強化しろという結論を認める事との間には、まだ考える余地があると言っているんだ。俺が何でこんなことにこだわるかというと、俺たちはマスメディアの流すウソ情報にさんざん騙されてきたからだ。たとえば旧帝国軍隊は韓国女性を「従軍慰安婦」として強制連行しただとか、三十万人に上る「南京大虐殺」があっただとか、アメリカは自由・平等・民主主義という「普遍的価値」のために戦ってきただとか、ヨーロッパを一つにするEUの理想は素晴らしいだとか、自由貿易を促進するTPPは参加国の経済を飛躍的に発展させるだとか、「国の借金」が国民一人当たり八百万円だから、財政を健全化させるために消費増税はやむを得ないだとか、トランプ候補はとんでもない差別主義者で暴言王だとか……。だけどこれらはよく調べてみると全部デタラメだということがいまでははっきりしている。
:わかった、わかった。そう興奮するな。それが君の持論だということは俺も君の本(*注1)やブログ(*注2)を読んだから認めるよ。だけど高齢者ドライバーがもたらす危険性については、事実が証明しているんじゃないか。少し疑り深くなりすぎてやしないか。
:そうかもしれない。じゃ、ちょうどパソコンの前に座っているから、果たして高齢者ドライバーが起こす事故が、他の世代に比べて多いかどうか調べてみようじゃないか。
:もとより異存はないよ。(以下次号)

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日弁連「死刑廃止宣言」の横暴――死刑存廃論議を根底から考える(その2)

2016年12月04日 17時53分43秒 | 社会評論
      





 では死刑の意義とは何か。
 普通言われるのは、国家が被害者に代わって加害者を罰して罪を償わせることという考え方です。しかしこれは完全な間違いとまでは言いませんが、不適切な捉え方です。死刑は国家による復讐の代行ではありません
 そもそも国家は共同体全体の秩序と国民の安寧を維持することをその使命とします。犯罪はこの秩序と安寧の毀損です。たとえ個別の小さな事件でも全体が毀損されたという象徴的な意味を持ちます。だからこそその回復のために国家が登場するのです。
 この秩序と安寧を維持する意志を仮に「正義」と呼ぶとすれば、死刑は、国家が、極刑という「正義」の執行によらなければかくかくのひどい毀損に対しては秩序と安寧が修復できないと判断したところに成り立ちます
 その場合、被害者およびその遺族という私的な人格の被害感情、悲しみ、憤りなどの問題は、この国家正義を執行するための最も重要な「素材」の一つにほかなりません。だからこそこれらの私的な感情的負荷が、ときには国家の判断に対して満たされないという事態(たとえば一人殺しただけでは死刑にならないなど)も起こりうるのです。
 もちろんその場合には私人は、法が許す限りで国家の判断を不当として変更を迫ることができます。そのことによって、国家正義のあり方自体が少しずつ動くことはあり得ますが、近代法治国家の大原則が揺らぐことはありません。
 つまり死刑とは、国家が自らの存続のために行なう公共精神の表現の一形態なのです。繰り返しますが、国家は被害者の感情を慰撫するため、復讐心を満足させるために死刑を行うのではない。むしろ逆に復讐の連鎖を抑止するためにこそ行うのです。極刑によってこのどうにもならない私的な絡まりの物語を一気に終わらせようとするわけです。そこにまさに近代精神(理性)の要があります。

 ところで筆者は、この公共精神の表現の一形態たる「死刑」という刑罰が存置されることを肯定します。なぜなら、人間はどんな冷酷なこと、残虐なことも、大きな規模でなしうる動物だからです。これだけのひどい秩序と安寧の毀損は、死をもって贖うしかないという理性的な判断の余地を葬ってはなりません。
 抽象的な「人権」、絶対的な「生命尊重」の感覚のみに寄りかかった現代ヨーロッパ社会(および国連)の法意識はけっして「進んでいる」のではなく、むしろ近代精神を衰弱させているというべきです。日弁連幹部の廃止論はこの衰弱した近代精神にもっぱら依存しています。
 さて日弁連の先の「宣言」では、明確な死刑廃止宣言をしていながら、それに代わる刑として「仮釈放のない終身刑を検討する」としており、その場合でも、社会復帰の可能性をなくさないために仮釈放の余地も残すべきだとしています。
 そうすると廃止をした後に「検討する」わけですから、死刑に代えるに終身刑をもってするのではなく、終身刑の規定すら採用されない可能性が大いにあります。もし終身刑の規定が採用されなければ、最高刑は「仮釈放のある無期懲役」ということになります。また終身刑でも「仮釈放の余地も残す」のでは、極刑の概念を完全に抹消することになります。
 筆者は到底これを受け入れるわけにはいきません。なぜなら、人間は神と悪魔の間の膨大な幅を生きるのであってみれば、極刑の概念を残しておくべきであるし、また懲罰の選択肢は多ければ多いほど良いからです。
 たとえばこれは筆者の個人的なアイデアにすぎませんが、死刑、仮釈放のない終身刑、仮釈放の余地を残した終身刑、無期懲役、有期最高刑懲役五十年(現行三十年)等々――刑法を、複雑多様化した現代、寿命の延びた現代に合わせて改革するなら、こういう方向で模索すべきでしょう。
 もちろん、極刑を課さなくても済むような社会づくりに向かってみんなが努力すべきであることは言うを俟ちませんが。

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日弁連「死刑廃止宣言」の横暴――死刑存廃論議を根底から考える(その1)

2016年12月01日 16時20分14秒 | 社会評論
      




以下の記事は、月刊誌『正論』2017年1月号に掲載された拙稿に若干の訂正を施したものです。

 去る二〇一六年十月七日、日弁連が福井市で人権擁護大会を開き、「二〇二〇年までに死刑制度の廃止を目指す」とする宣言案を賛成多数で採択しました。採決は大会に出席した弁護士で行われ、賛成五四六、反対九六、棄権一四四という結果でした。当日は犯罪被害者を支援する弁護士たちの反対論が渦巻き、採決が一時間も延長されたそうです。
 また同月九日、朝日新聞がこの日弁連の宣言を「大きな一歩を踏み出した」と全面評価する社説を載せ、これに対して同月十九日、「犯罪被害者支援弁護士フォーラム」が「誤った知識と偏った正義感にもとづく一方的な主張」として、公開質問状を送付しました。同フォーラムは二週間以内の回答を求めており、回答も公開するとしています(以上、産経新聞記事より)。
 まず日弁連について。
 この団体は強制加入であり、全国に加盟弁護士は三七〇〇〇人超いますが、今大会に集まったのは七八六人(わずか2%。賛成者だけだとわずか1.4%)です。しかも委任状による議決権の代理行使は認められていません。こういうシステムで死刑廃止のような重要な宣言を採択してよいのでしょうか。団体の常識を疑います。
 次に朝日新聞の社説について。
 これはフォーラムの公開質問状が批判しているとおり、「死刑廃止ありきとの前提で書かれている」ひどいものです。論理がまったく通っていない箇所を引用します。

《宣言は個々の弁護士の思想や行動をしばるものではない。存続を訴える活動は当然あっていい。
 そのうえで望みたいのは、宣言をただ批判するのではなく、被害者に寄り添い歩んできた経験をふまえ、いまの支援策に何が欠けているのか、死刑廃止をめざすのであれば、どんな手当てが必要なのかを提起し、議論を深める力になることだ。》

 日弁連の総意として宣言が出された以上、弁護士の思想や行動は当然しばられます。これを著しく非民主的な手続きでごく一部の執行部が打ち出したということは、明らかな独裁です。
 また、あたかも被害者支援弁護士たちが「ただ批判」しているかのように書き、実態も調べずに「支援策が欠けている」と決めつけています。
 極めつけは「死刑廃止をめざすのであれば」というくだりです。被害者やその遺族に寄り添って死刑存続を望んでいる人たちが、いつの間に「死刑廃止をめざし」ている人に化けさせられたのでしょう。毎度おなじみ朝日論説委員の頭の悪さよ。作文の練習からやり直してください。
 さて朝日新聞は十一月二日付でフォーラムの質問状に回答しましたが、これについて記者会見を行った高橋正人弁護士は「聞きたかったのは、なぜ朝日は死刑存続を望むわれわれも死刑廃止に向けた議論に協力しなければならないと主張したのか、という点だったが、答えていない。残念だ」と話し、今後、再質問も検討するそうです。さもありなむ。
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/nation/sankei-afr1611080041.html

 ところで問題の日弁連の「宣言」の中身について検討してみましょう。正式名称は、「死刑制度の廃止を含む刑罰制度全体の改革を求める宣言」。
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/civil_liberties/year/2016/2016_3.html
 結論から言うと、これまた「罪を犯した人の人権」にだけ配慮した一方的なもので、被害者および遺族の支援については申し訳程度にしか言及されていません。以下、この宣言における死刑廃止論の根拠を箇条書きでまとめます。

 ①平安時代には死刑がなかった。死刑は日本の不易の伝統ではない。
 ②国連の自由権規約委員会、拷問禁止委員会等から、再三勧告を受けている。
 ③誤判、冤罪であった場合、取り返しがつかない。
 ④法律上、事実上で死刑を廃止している国は一四〇か国あり世界の三分の二を占める。
 ⑤OECD加盟国のうち死刑を存続させているのはアメリカ、韓国、日本の三つであるが、アメリカは州によっては廃止しており、韓国は十八年以上死刑を執行していないので。OECD三四か国のうち、国家として統一的に存続させているのは日本だけである。
 ⑥死刑には犯罪抑止効果があるという説は、実証されていない。
 ⑦内閣府の最近の意識調査では「死刑もやむを得ない」という回答が八割を超えるが、死刑についての十分な情報が与えられれば、世論も変化する。
 ⑧そもそも死刑廃止は世論だけで決めるべき問題ではない。
 ⑨日本の殺人認知件数は年々減少しているのだから、死刑の必要性には疑問がもたれる。
 ⑩死刑は国家による最大かつ深刻な人権侵害であり、生命というすべての利益の帰属主体そのものの滅却であるから、他の刑罰とは本質的に異なる。


 だいたい以上ですが、ひとつひとつ検討します。
 ①ですが、たしかに不易の伝統ではないでしょう。しかし平安時代の法と近代法を単純に比較するわけにはいきません。なぜなら古代や中世においては、支配階層と一般民衆とは截然と分かれており、高い身分の者が低い身分の者に対して今なら考えられないほど理不尽で残酷なことをしても平気で許されていたに違いないからです。いくら法的に死刑がなくても、私的な刑としての殺害はいくらでも行われていたでしょう。
 ②ですが、ここには国連を、国家を超越した権威を持つ機関として疑わない戦後日本人の弊害がもろに出ています。国連の勧告は七つありますが、そこには日本の法律や受刑者への対処に対する無知と、その裏返しとしての「人権真理教」が躍如としています。ここでは主なものだけ取り上げます。
 第一に「死刑執行の手続き、方法についての情報が公開されていない」と指摘していますがそんなことはありません。手続きは確定後、法務大臣の署名捺印によって執行され、その氏名も公開されます。また方法は誰でも知っているとおり絞首刑です。
 第二に「死刑に直面している者に対し、被疑者、被告人段階、再審請求段階、執行段階のいずれにおいても十分な弁護権、防御権が保障されていない」とありますが、これもウソです。日本の司法手続きは重大犯罪においてきわめて慎重であり、前三者については確実に保障されています。
 もっとも裁判員裁判のもとでは、しばしば求刑越えの判決が出されることがありますが、これはむしろ裁判員制度自体の問題点です。裁判員制度は、英米系の陪審員制度をより進んだ制度と勘違いした弁護士たちが日本にもそれに類する制度の導入を強引に進めた結果できた制度です。いまその問題点については論じませんが、ご本家の陪審員制度こそ被告人段階での十分な弁護権、防御権が保障されていない欠陥を表わしているのです。この点については拙著『「死刑」が「無期」かをあなたが決める 裁判員制度を拒否せよ!』参照。
 また最後の執行段階については、死刑制度が存在する以上、確定者に執行段階で弁護権や防御権を保障することは論理矛盾であり、法そのものの権威を失墜させます。さらに日本の実態として、死刑が確定しても執行までの期間に高齢に達していたり心身の健康を損なっていたりすれば延引されるのが普通です。
 第三に「心身喪失の者の死刑執行が行われないことを確実にする制度がなく」とありますが、これもデタラメです。刑法39条には「心身喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」とあって、入念な精神鑑定が行われることが保障されています。国連は日本の刑法を読みもしないでこういう断定を下しているのです。
 第四に国連勧告では「死刑執行の告知が当日の朝になされること」がけしからんという趣旨になっていますが、もっと前に告知すべきだとでもいうのでしょうか。心の準備期間が長い方が人道的だと言いたいのでしょうが、さてここにはキリスト教文化圏と日本との価値観の違いが出ています。
 日本では死刑囚の多くが「いつ告知されてもおかしくない」という覚悟を早くから決めて「お迎えの日」を静かに待っています。考え方によりますが、あらかじめ執行日を知らされていれば、むしろ多くの日本人はかえって動揺と不安の日々を過ごさなくてはならないでしょう。この国連の勧告には、キリスト教文化圏の価値観を普遍的なものとして押しつけている傲慢さがあらわです。
 何よりも問題なのは、日弁連幹部が、法律の専門家でありながら、この勧告の明らかな誤りを認めず、そのまま自分たちの主張に利用している事実です。
 ③の誤判、冤罪の可能性は廃止論者が必ず持ち出す論拠です。しかし誤判や冤罪を防げるかどうかは、法理上、死刑制度の存在とは直接のかかわりをもちません。日弁連は判断形式を誤っています。それはちょうど交通事故の可能性がゼロではないから車を廃止しろという議論が間違っているのと同じです。
 冤罪をいかに防ぐかは、捜査から判決までの全刑事過程における手続きをいかに厳正・慎重に行うかというテクニカルな問題であって、国家が死刑制度を持つことが是か非かという本質的な問題とは別です。冤罪をゼロにするためにどういう司法手続きがさらに必要かと問うのが正しい判断形式なのです。再審制度があるのもそのためで、これが不十分だというならそれを改めていけばいいのです。
 ④⑤の世界情勢は死刑廃止に向かっているという議論もよく聞かされます。しかしこれまた欧米が全部正しいという価値観を押しつけるもので、単なる情勢論におもねています。
 日弁連のこの宣言では、⑧で「そもそも死刑制度は世論だけで決める問題ではない」と正しい指摘をしています。ところが世界の多くの国が廃止しているから日本もそれに倣えというのは広い意味の世論に従えといっているのと同じで、論理が破綻しています。日本では「死刑もやむを得ない」という世論は直近で八割を超えていますが、この数字が必ずしも存置論者の論拠にならないのと同断です。両陣営は水掛け論をやっているのです。
 また廃止論者は国の数や「先進性」というあいまいな基準を傘に着ていますが、これは多様な文化を尊重するリベラルなインテリのスタンスと矛盾しています。
 しかもそれを言うなら、廃止または凍結した国が数では多数派でも、中国、インド、インドネシア、パキスタン、バングラデシュなど、人口の多い国では存置しており、超大国かつ先進国であるアメリカの三十三州でも存置されていることを考慮に入れるべきでしょう。そこでいま、少なく見積もってアメリカの全人口の半数が存置側の州に住んでいるとすると、その人口は一・五億人になります。
 以上を勘案した上で、四捨五入して人口一千万人以上になる国で、存置国:廃止国(事実上の停止も含む)の人口を集計してみると、約五十二億人:約十七億人となり、人口比では圧倒的に存置国のほうが多いことがわかります。
http://www.geocities.jp/aphros67/090100.htm
http://ecodb.net/ranking/imf_lp.html
 もう一つ重要なことは、たとえ法的には廃止されていても、欧米諸国では、凶悪犯やテロリストを逮捕前の犯行現場で警察が殺害してしまうことが非常に多いという点です。またフィリピンや南米諸国のように法的には廃止の建前を取っていても、麻薬所持や取引だけで超法規的に殺してしまうような国もあります。
 警察による殺害は審理抜きの死刑と同じです。このほうがよっぽどひどい「人権侵害」に当たるはずですから、国連および日弁連幹部はこれらをきちんとカウントして、それに対して強く非難の目を向けるべきでしょう。「人権真理教」の弁護士たちは、著しく公正を欠くと言わなければなりますまい。
 ⑥の「死刑に犯罪抑止効果があるかどうかは実証されていない」というのは、正しい指摘です。本当に実証するためには、少なくとも人口、政治形態、経済規模、文化的特性、治安状態、国民性などが非常に似通った複数の国を選び出し(そんな国はまずありませんが)、一方は廃止、他方は存置して、数十年にわたって実験結果を比較してみなければならないでしょう。しかしそんなことは不可能です。ですから、ここでも廃止論者と存置論者は決着のつかない水掛け論をやっているのです。
 ⑦「十分な情報によって世論が変化する」は、日弁連も大いに世論を気にしている証拠で、先述の通り⑧と矛盾します。「十分な情報」という言葉で何を言おうとしているのかよくわかりませんが、もしこれが正しいなら、むごたらしい犯行現場や被害者遺族の心情について「十分な情報」が与えられれば、世論はさらに存置側に傾く可能性もあるでしょう。日弁連幹部の論理はそういう事情を公平に見ずに、もっぱら「初めに廃止論ありき」で、そのための政治的な闘争をやっているのだということを自己暴露したものと言えます。
 ⑨「殺人数が減っているから死刑は必要ない」というのはまったくの没論理です。いくら減っていても冷酷な動機と残虐な手段で何人も殺す殺人犯は現にいますし、これからの情勢次第で凶悪殺人は増えるかもしれません。
 以上、「死刑廃止宣言」の論拠を検討してきましたが、総じてこれらは、表層の情勢論に終始していて、そもそも死刑とは何か、それが行なわれるとすればその意義はどこにあるのかという本質的な問いに対する考察が欠落しています。
 唯一⑩がその本質論に触れていますが、それもただ「国家が生命を奪う最大の人権侵害」という犯罪者個人の被害の面が押し出されているだけで、被害者の側の悲しみや憤りについてはまったく思料されていません。これでは被害者の立場に立つ人たちが怒るのも当然と言えるでしょう。(以下次号)
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誤解された思想家・日本編シリーズその3

2016年11月23日 15時18分34秒 | 文学
      




慈円(1155~1225)


『愚管抄』は、神武期から起こして自らの晩年に当たる承久年間までを綴ったユニークな歴史書です。ユニークなというのは、この書を「歴史書」というジャンルに収めることに大きなためらいが残るからです。
 というのは、まずこの書には、単なる伝承や歴史事実が記述されているのではなく、摂関家を出自に持ちしかも天台宗座主という仏教界の最高位についたひとりの個人の、特別に選ばれた地位から見た貴族的歴史観が執拗に表現されているからです。その意味でむしろ歴史哲学書と呼んだ方がふさわしいでしょう。
 また保元の乱の一年前に生まれた彼は、崩れゆく貴族政治と勃興する武家政治との対照を目の当たりにしています。その乱世のありさまの描写に最も多くのページを割いているのですが、この場合も単に事実を客観的に記述するのではなく、あくまで自分が等身大の位置から見聞した多くのエピソードを中心に据えて書かれています。
 つまり作者は自分の主観的な視点をけっして崩していません。その意味では日記のようでもあり、天皇や上皇や公達のありさまを生き生きと綴った部分には、男性版『源氏物語』のような趣さえあります。そういう意味では、文学書としての側面も大いに持っているわけです。特定の人物や宗派に対する毀誉褒貶の評価もあからさまですから、社会評論といってもおかしくないでしょう。。
 さらに、最後の巻第七になると、終わりに近づくほど政治の現状を嘆く言葉がしきりと繰り返されるようになり、加えて、実際に深い関係にあった後鳥羽院の武家打倒の野心に対して、近臣として陰に陽に諌める調子が強くなっていきます。余命の少なくなったことを自覚した作者が、政治に対する自分の思想をあたかも遺言のごとく悲痛な思いで訴えているように見えます。その意味からは、この書は政治思想の書であるとも言えます。もちろんその政治思想は、後述するように、現代にも通ずるものをじゅうぶんに持っています。
 ちなみにこの書は承久の乱の一年前の一二二〇年(承久二年)に書かれ、乱後に修訂が加えられているというのが定説らしいですが、乱の様子や後鳥羽院以下、三上皇が配流された記述はまったく見られません。ですから、最後の部分は乱以前に書かれたものと見るのが自然でしょう。慈円は乱以後も四年生きていますが、この事実についてはあまりのことに筆を執る気も失せたのかもしれません。

 この書は、かくも重要な意義と価値を具えた古典であるにもかかわらず、読まれることがまれな書物として知られています。まさにその点こそが、「誤解された思想家」として第一に言挙げするに足ると私は思います。
ではなぜそんなに無視あるいは軽視されてきたのか。
 その理由は、なんといってもこの書のいわゆる「難解さ」にあるでしょう。私もできるだけ原文に当たろうと試みましたが、正直なところ外国語文献のようで、専門家(大隅和雄氏)の現代語訳にほとんど全面的に頼らざるを得ませんでした。
 このいわゆる「難解さ」はどこからやってくるのか。いくつか理由を考えてみました。

①現代人がカタカナ表記に慣れていないこと(後述)。
②個々の文章自体はそれほど難解ではありませんが、『源氏物語』と同じように複数の人間が錯綜して登場しながら、その主語がはっきりせず、また同一人物がいろいろな呼称で呼ばれるので、天皇家や摂関家の精密な系図を傍らに置きながら読まないと、誰のことを指しているのかわからなくなります。
③大隅氏が指摘していることですが、挿入句が次々に挟まれ、くねった文体になっていること。これに付け加えると、慈円の連想がときおり時間を超えてあっちこっちに飛んでいくので、よほど神代から当代までの流れを把握していないと、ついていくのがたいへんです。
④先に触れたように、書のスタイルが独特の多面性を持つので、近代人の分類感覚にうまく適合せず、「いったいこれは何を書こうとしたのか」という疑問を提起しやすいこと。
⑤最後に読者側の問題。これについては、松岡正剛氏が的確な指摘をしています。そのくだりを引用しましょう。
http://1000ya.isis.ne.jp/0624.html
日本人は、このような人物の歴史観に慣れていない。トップの座についたアリストクラシーの歴史観を受け止めない。聖徳太子や藤原冬継や北条泰時を軽視する。どちらかといえば西行や兼好法師や鴨長明の遁世の生き方に歴史観の襞をさぐったり、民衆の立場というのではないだろうが、『平家』や『太平記』にひそむ穢土と浄土のあいまに歴史を読むのがもっぱら好きだった。為政者に対しても、将門や義経や後醍醐のような挫折者や敗北者に関心を示して、天智や頼朝や尊氏のような勝利者がどのように歴史にかかわったかということには、体温をもって接しない。系統から落ちた者をかえって熱心に読む。(中略)けれども『愚管抄』は、そうした従来の判官贔屓の好みだけでは読めないのである。

 さてその「アリストクラシー」の歴史観ですが、これは簡単に言うと、次の四つくらいにまとめられるでしょう。なおこの番号順は、抽象的な原理から次第に具体的な提言のレベルにまで降りてくるように配列されています。

①この世の出来事には、良いことにも悪いことにもすべて「道理」がはたらいている。その「道理」は世につれて移り変わっていく。
②この世は人の目に見えるもの(「顕」)だけで動いているのではなく、人の目には見えないもの(「冥」)によっても動かされている。「冥」は神仏のみがこれを知る。怨霊や天狗、狐なども「冥」の世界からの兆しである。
③王法と仏法とが車の両輪のように機能することによって、世の中はよくおさまる。
④天皇とそれを補佐する役割とがうまく噛み合った統治が行なわれる時、この世は秩序ある世界となる。

 慈円の言う「道理」とは一体何かについてはさまざまな議論があるようです。しかしこれは、たとえば孔子の言う「仁」やプラトンの言う「イデア」が何であるかをポジティブに定義しようとすると、必ずどこかはみ出す部分をもってしまうのと同じようなもので、それ自体はたいへん定義(他の言葉による言い換え)しにくいものです。「道理」といえば、「摂理」「理法」というのに近いでしょうが、それでは永遠に通用する法則のように聞こえて、彼が本当に言いたかったこととはずれてくるように思われます。「道理」という便利な言葉をあまりに多用させたせいかもしれません。これは自ら招いた第二の誤解でしょう。
 慈円は「世」とは「人」のことだと強調しています。そのことと「道理」は移り変わるものだという説とを重ね合わせて考えると、慈円の言う「道理」とは、要するに後から確認できる「運命」とほとんど同じことではないかと思われます。もちろん、こう決めつけてもやはりはみ出す部分はあるでしょうが、しかしこのように考えると、彼の思想の特色がよく浮かび上がってくるのです。
 彼は、当代を末法の世と考えていました。理屈としては、天皇の代数の限界は百代と言われており、あと十六代しか残っていないこと、また感情としては、あさましき乱世を目の当たりにしたのだから、これから時代は悪くなるばかりだという不安感を同時代人と共有していたことが挙げられます。ですからこの末法思想そのものは、とりわけて慈円の特徴というわけではありません。浄土思想の庶民への浸透と流行などもその一例と言えます。
 ちなみに慈円は、法然一派の専修念仏思想を悪魔の仕業とまで言って非難していました。いかにも僧侶の頂点に立った人らしく、そのプライドが許さなかったのでしょう。世俗の政争に明け暮れた兄の九条兼実が法然に帰依したのと比べると、興味深い違いですね。
 慈円の言う「道理」の特徴は、それが移り変わるものであり、たとえ上古にはことが滞りなく通ったとしても、堕落した今の世では、それをそのまま当てはめることはできず、その時代その時代に合った「道理」があるという点にあります。この考え方は、柔軟で現実的です。彼が歴史の流れを具体的にどう見ていたかに添って説明しましょう。

 神々の時代にはすべて明澄だったのだが、人の世になって「顕」と「冥」との分裂があらわれた。「冥」の世界は人間の手に負えなかった。そこで仏法が伝わり、聖徳太子の時代にこれが王法を支えてくれるようになった。しかしやがて天皇だけではこの世を治めきれなくなり、摂政関白との連携によって世俗世界を統治する必要が生まれた。ところが院政という節目を経て今度は武家の力が天皇家と摂関家を圧倒するようになり、これを無視するわけにはいかなくなった。武家はもともとは下賤の身分ではあるが、この趨勢には誰も勝てない。これも神仏が私たちに末法の世をいかに克服するかをお示しになっているのである。そこで、この危機を克服するには、武家を滅ぼすのではなく、実朝の死によって源氏の血統が途絶えたのを契機として、摂関家から将軍を出して摂関家と武家を一体化し、文武両面において、天皇家を援けるように再編成するのがよい。

 今から見れば貴族政治を何とか保守するための調子のよい合理化のようにも思えますが、慈円にしてみれば懸命に知恵を絞って編み出した歴史哲学・政治学であり、当代に思いを馳せれば、なかなかよくできた緻密な論理だと思います。慈円は、けっして天皇を絶対化しないし、その限界もよく見ています。後に扱う北畠親房の『神皇正統記』は、これより百年以上後に書かれていますが、後醍醐天皇側につき天皇親政の論理を編み出そうとした親房は、論理としては空想的で、その点、慈円のほうがはるかに現実を広くよく見ていたと言えるでしょう。これは『神皇正統記』が熱い情熱をたぎらせた「闘いの書」「実践の書」であるのに対して、『愚管抄』があくまでも冷静な智慧を重んじるという違いから来ているのかもしれません。
 丸山眞男は二つを比べて、やはり『愚管抄』のほうが優れているという評価を下しているそうですが、彼はまた晩年、古代研究に打ち込み、日本人の国民性を「歴史に対するオプティミズム」と規定しました。そして滅びかけてもまた蘇生するその連続性を、植物のように「次々と成り行くいきほひ」と形容しています。これはなかなか的を射た指摘で、災害と恵みとをもたらす自然の両面性に早くから向き合ってきた日本人の精神風土と深く関連しているでしょう。また、千数百年もの間一つの王朝を守り抜いてきた世界に類例のないこの国の性格を言い当ててもいます。
 ところで『愚管抄』がまさにこの「歴史に対するオプティミズム」「次々と成り行くいきほひ」を体現した書なのです。というのは、第一に、中国では国王の器量ひとつで国が栄えたり滅んだりする習わしになっているが、日本はそうではないとして次のように述べているからです。

コノ日本国ハ初ヨリ王胤ハホカヘウツルコトナシ。臣下ノ家又サダメヲカレヌ。ソノママニテイカナル事イデクレドモケフマデタガハズ。≫〈巻第七)

 また最後の問答部分で、「すでに世は落ちぶれ果てたというのにどうして容易に立ち直るなどというのか」と問われて「ある程度ならば容易なのだ」と答えると、「ではどうやって立ち直らせるのか」と再び問われ次のように答えます。

≪(前略)不中用ノ物ヲマコトシクステハテテ目ヲダニミセラレズハ、メデタメデタトシテナヲランズル也(後略)≫

要するに、あまりに繁多になってしまった官位の部類を整理して優れたものだけを残せばよいということです。では捨てられた人々が反乱を起こしたらどうするのかと問われて、だからこそ武士を側につけておく必要があるのだと答えます。さらに、誰が優れた人々を選ぶのかと問われて、そういうことをできる人が四、五人は必ずいる。その四、五人が選んだなら天皇は反対を唱えてはいけないと答えています。
 これは、国会議員や官僚がひどく劣化している今の衆愚政治の時代に大いに参考になる考え方です。私は国会議員の数を減らすのには反対ですが、有権者にも被選挙権者にもそれぞれ難易度の違うテストを課すべきだと考えています。また視野狭窄のタコツボ官僚を排するには、ハーバード大学を出なくてもいいですから、何年かに一度庶民の勤労現場に出向させるべきだと思います。

 慈円はまた、カタカナ表記を選んだことにきわめて自覚的で、こういうおかしな方法をとるのは、漢文では今の時代に読める人が少なく、できるだけたくさんの人に自分の考えを知ってもらいたいからだと述べています。当時、公式文書はすべて漢文で、和歌、日記、随筆などは女文字である平仮名と漢字が混用されていました。慈円は読者がある程度位の高い男性であることを想定して、その中間を狙ったのでしょう。これも効果はどうだったかはともかくとして、新しい試みでした。類例を挙げるなら、ルターが聖書をラテン語からドイツ語に翻訳したのに似ています。もっとも、その方法は、現代人が読むにはかえって裏目に出てしまったわけですが。

『愚管抄』は。いまから見れば私的なアングルに偏した書物なので、実証史的価値はさほどないかもしれません。しかし日本史の大きな変わり目をたまたま生きる羽目になった最高の知性が政治問題をどのように考えたかを知るには、超一級の資料だと言えましょう。日本における政治学の嚆矢といっても過言ではありません。
 それは彼が、この世に通底している原理を見破ってやろうという強い問題意識をもって、統治が行なわれる現場のすぐ近くで鋭い観察に徹したからこそできたことで、今日の政治を考えるのに、マスメディアの形式化した政局報道などに頼っていても、ことの本質が何も見えてこないのと似ています。私たちがマスメディアの流すウソ(たとえば「国の借金1000兆円」や「ヒラリー優勢」や「TPPは日本にとってぜひ必要」など)を見抜くために、信頼できる情報を選択し、それらを自分の頭で処理することが必要であるように、慈円は、よく見え、よく聞こえる情報だけを頼りに、自らの優れた、そしてややひねくれた哲学的知性を存分に駆使したのでした。

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鬼才ファジル・サイの魅力

2016年11月19日 00時43分02秒 | 音楽
      




 久々にクラシックコンサートに行ってきました。ファジル・サイ ピアノ・リサイタル。 なんとオール・モーツァルト・プログラムです。

11月17日(木) 19時開演 紀尾井ホール
【プログラム】
ピアノ・ソナタ第10番 ハ長調 K.330
ピアノ・ソナタ第11番 イ長調 K.331「トルコ行進曲付き」
 休憩をはさんで
ピアノ・ソナタ第12番 ヘ長調 K.332
ピアノ・ソナタ第13番 変ロ長調 K.333
幻想曲 ハ短調 K.475

 数年前、私の実家の近くの神奈川県立音楽堂で、音楽に詳しい友人のOさんと一緒に初めてファジル・サイの音楽に触れました。曲名は忘れましたが、最後に彼自身が作曲した曲が演奏されました。これがじつに独創的で面白く、しかもそこに出身国トルコのトルコらしさといったものが感じられたので、とても楽しい演奏会でした。私も含めて、観客は興奮し、万雷の拍手とともにスタンディングオベーションで終わりました。
 トルコらしさと書きましたが、別にトルコ文化に詳しいわけではありませんし、行ったこともありません。ただ思うのは、この国が古来、ヨーロッパ、アラビア、中央アジア、ロシアなどが出会う地点に位置していて、民族的にも宗教的にも政治的にもさまざまな要素が混淆した複雑な歴史を閲してきたという事情についてです。この事情からして、そこに独特の文化的特性があるに違いないと想像するわけです。それはひとことでまとめるなら、フュージョンそのものが国民性の根底をなしていると言ったらよいでしょうか。
 じっさい、あの時の自作自演の曲は、何とも言えない不思議な世界を開いていて、西洋的とかオリエンタルとかアラビア風とか、一定の様式やジャンルといったものに分類できないところが印象的だったのです。これには彼が現代人としてグローバル世界に住んでいて、さまざまな音楽のスタイルからインスピレーションを得ているといったことも関係しているでしょう。
 あのファジル・サイが、彼自身尊敬してやまないモーツァルトを弾くという。どんなふうに弾くか、とても興味深かったのです。
 今回のリサイタルですが、私の席は2階バルコニーの右側、つまり彼の顔を真正面から見下ろせる位置でした。チケットを取った時にはあまりいい席ではないなと思ったのですが、座席につくやいなや、こんなにいい席はないと気づきました。何しろ表情や手ぶり身振りがすぐ近くで見られるのです。
 さて演奏が始まりました。その演奏ぶりは期待に違わず、いや、期待以上に独創的で迫力に満ちたものでした。緩急、強弱、曲想の変わり目での変幻自在さ、低音部の力強さ、カデンツァの即興性、激しい音の奔流。聴いていて、これは本当にモーツァルトか? と疑いたくなるほど、それはファジル・サイの音楽になりきっているのです。言い換えると、モーツァルトという素材を借りて、ファジル・サイがいま、ここで自らの表現を心ゆくまでほとばしらせているのでした。ところどころミスタッチかな? と思える時がありましたが、そんなことは全然問題ではありません。
 しかも、表情、身振り手振りを見ていると、彼がいかに自分の音楽に没入しているかが如実にわかります。右手だけのパートでは、自分に向かって指揮するように左手を振ります。緩徐楽章では自ら酔うように体を鍵盤から引き離して瞑目します。その時々の曲想に合わせて顔をゆがめたり、上下左右に体をゆすったり、うっとりとした恍惚感を表情に出したりします。そうして何人かのジャズメンたちのように、弾きながらたえずかすかに口ずさんでいます。それがまったく邪魔にならない。つまり彼の音楽は、全身で表現し、その場で創造する音楽なのです。それは「唄」そのものであり「舞踏」であると言ってもよいでしょう。
 一方彼は聴衆に対しては笑顔などのサービス心をあまり表さず、挨拶も簡単でその態度はそっけないといってもよい。また概して楽章と楽章との間にほとんど間を空けません。あの「コホン、コホン」という咳払いの暇がないのです。いわば自分自身の「ノリ」にあくまでも忠実に弾くのです。
 これは好き好きというもので、感情過多であるとか、ひとりよがりだといった批判の余地があるかもしれません。型にはまった謹厳実直な演奏を好むクラシックファンからは、「不良」の烙印を押されるかもしれません。しかし私自身は、彼の「ノリ」にすっかり惹きつけられ、小さなライブハウスでジャズを聴いているときのような一体感を味わいました。興奮し、感動しました。その「不良」性を丸ごと肯定したいと思いました。
「これは本当にモーツァルトか?」と書きましたが、演奏後に余韻を反芻するうち、逆に、やはりこれこそが本当に「モーツァルト」なのだと思うようになりました。というのは、モーツァルトは、古典派後期に属するために、その記された楽譜の面ではたしかに古典的な秩序を大きく逸脱してはいませんが、おそらく実演の場では、即興性の妙味が大きな価値を持っていたと考えられるからです。当時は一回的な生演奏が記録されて後世に残ることを誰も予想していませんから、それだけ、はかなく消えてゆく「このいまの素晴らしいひととき」が限りなく尊重されたと思うのです。
 事実、ファジル・サイ自身が次のように語っています。
http://globe.asahi.com/meetsjapan/090608/01_01.html

 クラシック音楽の演奏から個性がなくなっている。最近では、本来、即興的に独奏される協奏曲のカデンツァも、演奏全体の解釈も、他人まかせになっている。これは間違っている。クラシックのピアニストがいくら技巧的に演奏しても、それだけではまったく興味を感じない。

 ベートーベンやモーツァルトでさえも、即興的な作曲家だった。シューマンは、毎日のように即興演奏を自分の生徒に聴かせていた。彼らは当時(自分の曲を)キース・ジャレットのように演奏したはずだ。

 ピアノに向かって、5歳のときから作曲してきた自分にとって、作曲するとは「構想すること」であるとともに「即興演奏の延長」でもある。いい曲は書き残さなくても、演奏すれば、覚えてしまうものだ。

 かなり挑発的で過激な発言のように見えます。しかしこの発言は、彼の演奏そのものの的確な自己批評になっています。発言と演奏との間に浮ついた隙がないのです。同時に、これこそが、もしかすると「音を楽しむ」ことの原点を表わしているのかもしれないと思いました。特に若いころからジャズ(モダンジャズ)に親しんできた私にはよく納得のいく発言です。そしておそらく、モーツァルトがこの発言を聞き、ファジル・サイの演奏を聴いたら、「そうだ、そうだ!」と共感を示すのではないでしょうか。
 歯医者などでBGMとして小さな音量で流れるいわゆる「モーツァルト」は、人の心を和らげる優しい優雅な音楽としてだけ機能しています。もちろんその機能を否定はしません。でも一日、「ナマなモーツァルト」に接した瞬間を私は決して忘れないでしょう。それはあのいわゆる「モーツァルト」とはまったく別の何かでした。
 アンコールでは彼の変奏によるトルコ行進曲をあっさり弾いて、さっさと引き上げていきました。演奏してほしかった「《キラキラ星》の主題による変奏曲 ハ長調 K.265」をここに掲げておきましょう。
Fazıl Say -Mozart- Ah vous dirai-je maman (Twinkle twinkle little star)


 蛇足を一つ。最初の曲、K.330の第一楽章は、私の娘が小学校5年の頃、ピアノ発表会で弾いたことがあり、それをレコードにしてもらったのですが、いつの間にかどこかに消え失せてしまいました。ファジル・サイの最初の音を聴いた途端、当時を思い出して懐かしい気持ちが込み上げてきました。言うも愚かなことですが、ファジル・サイの演奏と娘のそれとはそもそも比較するにも及びません。でも今回のリサイタルの始まりが、私的なあの思い出と重なったことによって、これだけ記録技術、複製技術が発達した今日でさえ、「音楽とは消え失せていくもの。だからこそそれに永遠の憧れを抱く値打ちがある」という真実の再認識につながったこともまた偽らざる事実なのです。私の好きなジャズマンの一人、エリック・ドルフィーが、あるアルバムの中で、こうつぶやいています。
"When you hear music, it's gone in the air. You can never capture it again."

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日本はトランプ新大統領を歓迎すべきである

2016年11月02日 02時08分00秒 | 政治
      





 アメリカ大統領選もあと一週間に迫りました。ヒラリー氏かトランプ氏か、世界中が注目しています。
 今回の大統領選は、いろいろな意味で、史上まれに見るセンセーショナルな選挙だと言えるでしょう。どういう意味でそういえるのか、以下思いつくままに列挙してみます。

①政治の素人で泡沫候補だったトランプ氏が、あれよあれよという間に16人もの共和党候補を出し抜いて大統領候補に昇りつめた。
②一年前には民主党員ですらなかった自称社会主義者・バーニー・サンダース候補が予備選で46%の票を取るという大健闘を示した。
③ヒラリー氏のパーキンソン氏病が疑われている。一説に余命一年。
④トランプ氏が「メキシコとの国境に万里の長城を築く」「イスラム教徒の入国を制限する」「日本は米軍の基地費用を全額支払うべきだ」「日本や韓国は核武装してもかまわない」など、いわゆる「暴言」を発していると報道された。
⑤ヒラリー氏が私用メールで公的問題をやり取りし、FBIが捜査したが7月時点でいったん打ち切られた。しかし投票日10日前になって捜査を再開すると発表した。
⑥両者への不支持率が、これまでになく高い。
⑦有力共和党員の中に、トランプ氏を支持しないと宣言する議員が何人も現れ、民主、共和両党のエスタブリッシュメントが、こぞってトランプつぶしに走っている。
⑧ヒラリー氏が国際金融資本家や投機筋から驚くべき巨額の選挙資金を得ていることが取りざたされている。クリントン財団にはチャイナ・マネーを含む膨大な裏金が流れ込んでいるとも言われている。
⑨トランプ氏の過去の女性蔑視的な発言やセクハラ疑惑がヒラリー陣営によって暴露され、彼は発言のほうは認めて謝罪したがセクハラ疑惑は否定した。
⑩マスメディアのほとんどが民主党寄りであり、トランプ氏自身もテレビ討論におけるその偏りを指摘している。
⑪トランプ氏は結果が出る前から「この選挙は不正選挙の疑いがある。自分が落選した場合には投票やり直しを申し立てる」と広言している。独自のテレビ局を創設するという噂もある。

 まだありますが、このくらいで。
 さてこれらの情報の向こう側に何が見えてくるでしょうか。

 ①と②について、どうしてこういう現象が起きたのか、日本のマスコミはほとんど論じませんが、理由は明らかです。すでに6月の時点でこのブログにも書きましたが、
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/a4185972e8dadf6f0151dc4b0a24fb67
これまでエスタブリッシュメント(ほとんどが白人エリート層)の統治によって成り立ってきた民主・共和の二大政党制秩序が、あまりにひどい格差社会(いわゆる「1%対99%」問題)の出現と中間層の脱落によって、崩壊の危機にさらされているのです。国際政治・米国金融アナリストの伊藤貫氏によれば、米国民の五割は百万円以下の金融資産しか持たず、65歳以上の引退者の三分の一は貯蓄ゼロの状態、一方ヘッジファンド業者トップの年収は時には五千億円に達するといいます。

 ③のヒラリー重病説は確たる証拠があるわけではありませんが、それを疑わせるに足る多くの動画が流れており、また事実9月には「肺炎」と称して入院しました。数年前には脳梗塞で倒れています。
 この重病説が事実なら、ヒラリー氏は、すでに大統領の任務をこなす能力を喪失しているのに、彼女の支持基盤の一つである金融資本家層によって無理に立てられた傀儡だということになります。私はその公算が高いと思います。米国で初めての「黒人」大統領の次は、初めての「女性」大統領。この看板が、実態とは裏腹に、人権やポリティカル・コレクトネスをことさら前面に押し出すアメリカという国の国民性にマッチすることは疑いがありませんから。

 ④のトランプ氏のいわゆる「暴言」ですが、これも先のブログ記事に書きました。「万里の長城」は、南米やメキシコからの不法移民がいかに多いかを物語っています(一説に現在二千万人超)。いくら国境警備員が努力しても水の泡だそうです。ちなみにトランプ氏は、不法移民を規制せよ、テロリストへの警戒を強めよと言っているのであって、合法的に合衆国国民になった移民やイスラム教徒を排斥しろと言っているのではありません。民主党の人道的理想主義の甘さと失敗を批判しているわけです。
 なお日本との安全保障問題に関するトランプ発言については後述。

 ⑤のメール捜査再開問題ですが、ヒラリー氏とトランプ氏の支持率にはこれまで水があいていたのに、これによってトランプ氏がヒラリー氏に肉迫したと公式メディアは伝えています。しかし、アメリカのマスコミは、日本以上にリベラル左派の傾向が強く、もともと水があいていたという報道自体、当てになりません。第一回討論会後のWEBによる百万人規模を対象とした世論調査では、トランプ氏が大差をつけたというデータもあります。第二回討論会後は、さらに圧勝だったそうです。
 ちなみにこのメール問題は、国家機密を私用メールで漏らしたのですから、明らかに重大な違法行為です。⑨のセクハラ疑惑などの比ではありません。

 ⑥の両者の不支持率の高さは、二人のキャラに対する感情的反発が大きいでしょうが、ヒラリー氏の場合は、きれいごとを言っていても⑧のような事情が一部の国民に見抜かれていることが関係しているでしょうし、トランプ氏の場合は、成り上がり物の品格のなさや、人種差別的ととられかねない発言からくるものでしょう。大衆社会では、イメージで決まってしまう部分が大きいですから。いずれにしても、この不支持率の高さは、今回の大統領選における、特に民主党サイドでのかつてない腐敗ぶりを物語っています。トランプ氏はタブーにひるむことなくその欺瞞性を突いたので、現状維持派から嫌われた面もあると思います。現状維持派とは、アメリカが打ち出してきた「普遍的価値」としての自由、人権などの息苦しい建前をまだ信じている人たちのことです。
 
 ⑦の共和党上層部によるトランプつぶしこそは、アメリカ社会がどういう状況にあるかを象徴しています。すでに語ったように、いまのアメリカは世界に類を見ない超格差社会です。共和党の政治エリートもまた、ウォール街の金融資本家やエスタブリッシュメントと密着しているので、その現実を突きつけられるのはたいへん都合が悪い。そこで反ホワイトハウスの代表として登場したトランプ氏の告発を躍起になってつぶそうとしたわけです。
 いったん代表として選ばれた候補者を引きずりおろそうというのは、結束の乱れを周知させてしまう利敵行為であり、はなはだみっともない。でもなりふり構わずそれをしてしまうほどにいまのアメリカは、二極体制ではもたなくなっているのでしょう。資本主義・自由主義のあり方という地点から、根本的に体制を見直さなくてはなりません。
 ちなみにトランプ氏は、プアホワイトにだけ支持されているというようなことを言う人がいますが、不正確です。中間層から脱落してしまった白人か、脱落の不安を抱いている白人から強力に支持されているのです。またたしかに黒人への浸透はいまいちであるものの、ヒスパニックからはけっこう支持されています。
 黒人貧困層はオバマ氏への期待をヒラリー氏にそのままつないでいるのでしょうが、その期待は現実には裏切られており、この八年間に黒人の平均的生活水準はまったく改善されていないどころか、さらに悪化しています。自由平等、人権尊重、マイノリティ擁護のイデオロギーに騙されているのです。
 またヒスパニックは、新たに侵入して来ようとするヒスパニックが同一人種のコミュニティで賃金低下競争を招き、治安も悪化させる可能性が濃厚なので、それを恐れています。だからそれを防いでくれる人を望んでいるのです。

 ⑩⑪の偏向や不正は相当のものらしい。マスメディアは民主党を陰で操る富裕層に牛耳られています。民主党政権は不法移民にも免許証を交付しますから有権者登録ができます。またアメリカではそもそも本人確認がきわめて難しく、二つの州にまたがって二回投票することも可能です。さらに、タッチパネル投票なのでUSBメモリーを使って登録された投票を大幅に変えてしまう不正もできるそうです。
 投票前に不正を指摘する候補者というのは前代未聞ですが、そんなことをするのは戦術的に不利であることをトランプ氏が知らないはずはありません(事実、オバマ氏に痛烈に揶揄されましたね)。それでも、あえてやるというのは、選挙戦術に長けたヒラリー陣営のやり口がよほど狡猾なのを感知してのことなのだろうと私は想像します。もっとも不正申し立ては、自分が勝てばやらないとちゃっかり言ってはいましたが。

 以上述べてきたことは、要約すれば、アメリカの民主主義は瀕死の状態にあること、それをトランプ氏が身命をかけて告発しようとしていることを意味します。アメリカは、すでに民主主義国ではなく、ごく少数の強者とその番犬どもが君臨する帝国です。
 私は、この間の選挙戦の経過を遠くからうかがい、信頼のおける情報を知るに及んで、もし自分がアメリカ人だったら、トランプ氏を支持したいと思うようになりました。
 たとえば彼は、金融資本の過度の移動の自由のために極端な格差を生んでしまった今のグローバル資本主義体制に批判的で、銀行業務を制限するグラス・スティーガル法の復活を唱えています。また死に体と化している国内製造業を復活させるためにTPPにも明確に反対の立場を取っています。スローガンの「アメリカ・ファースト」とは、孤立主義の標榜ではありません。イラク戦争以来、多くのアメリカ国民の命を犠牲にし、膨大な戦費を費やしてきたのに、アラブや北アフリカの「民主化」に失敗し、ただ混乱をもたらしただけに終わった過去を反省し、まず国内の立て直しを最優先にするというごく当然の宣言にほかなりません。
 この彼の政治的スタンスは、好悪の念を超えてアメリカの一般庶民の深層心理に届くはずですから、私はトランプ氏が勝つと思います。またたとえ敗れたとしても、いったん開いたパンドラの匣は元に戻りません。彼は強力な問題提起者としてその名を遺すはずです。
 もちろん、彼が大統領になったとしても、この腐敗した帝国の毒気に当てられて、同じ穴の狢になってしまうかもしれない。あるいは、彼の気骨がそれを許さないとすれば、あの野蛮と文明の同居した恐ろしい国では、ひょっとして暗殺の憂き目に遭うかもしれないとまで思います。

 同盟国である日本にとって、もしトランプ氏が大統領になったらどうなるのかという問題が残っていますね。
 先に述べたように、彼は安保条約の片務性を批判して、日本に応分の人的物的負担を求めています。これはアメリカからすれば当然の話で、日本が真に同盟関係を大切にするなら、この提言にきちんと付きあうべきです。そうして、その方が日本にとってもよいのです。なぜなら、対米従属と対米依存から少しでも脱却して、自分の国は自分で守るという世界常識を身につけるよい機会だからです。
 中国の脅威からわが国を守るためにはもちろんアメリカの協力が必要です。しかし協力を正々堂々と要請できるためには、まずこちらが自立した構えをきちんと見せなくてはなりません。平和ボケした日本人の多くは、何となく現状にずるずる甘えて、ヒラリー氏が大統領になってくれればこのままの状態が維持できると考えているようですが、はかない希望的観測というものです。彼女は、よく知られているように、名うての親中派です。日本のために中国と闘う気など毛頭ありません。
 私たちはこのことをよく肝に銘じて、トランプ氏が大統領になったほうがよほど「戦後レジーム」の脱却に寄与すると自覚すべきなのです。脅されて突き放されて、初めて目覚める――これが日本人のパターンです。自主防衛の機運を高め、法的にも物量的にもその準備を急ぐことができます。

 トランプ氏はまた、TPPに反対しています。これも日本にとって幸いするでしょう。なぜならTPPは、アメリカのグローバル企業にとってのみ都合のよい条約で、これを呑めば、皆保険制度をはじめとした日本のさまざまなよき制度慣行が破壊されるからです。安倍政権は、率先してこれを批准するというバカなことをやっていますが、自ら墓穴を掘っているのです。経済条約が日米軍事同盟の強化につながるわけではないということがわからないのですね。てんやわんやのアメリカの実態もよく観ず、自由主義イデオロギーという「普遍」幻想に酔っているのです。
 ヒラリー氏もTPPに反対しているではないかという人がいるかもしれません。誤解している人が多いのですが、ヒラリー氏の反対は、トランプ氏のそれとは違って、今の条約規定よりももっと自分たちに都合よくなるように再交渉しようという考えです。具体的には、大きなシェアを占める製薬会社の利益拡大を図って、これと癒着している自分たちの利益につなげようというグローバリズムそのものの魂胆に発しているのです。

 日本人はお人好しで消極的、情緒的で戦略思考が苦手です。でもいざとなると敢然と立ちあがる気概がないわけではありません。トランプ新大統領というショック療法を正面から受け入れ、歓迎する覚悟を速やかに固めましょう
 

【参考資料】
1.http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E6%B0%8F%E5%84%AA%E4%BD%8D%E3%81%AB%E5%A4%89%E5%8C%96%E3%82%82%EF%BC%9D%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E6%8D%9C%E6%9F%BB%E5%86%8D%E9%96%8B%E3%80%81%E6%8A%95%E7%A5%A8%E5%89%8D%E3%81%AB%E6%BF%80%E9%9C%87%E2%80%95%E7%B1%B3%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E9%81%B8/ar-AAjyjTN?ocid=sf#page=2
2.http://www.mag2.com/p/money/25640?utm_medium=email&utm_source=mag_W000000204_tue&utm_campaign=mag_9999_1101&l=bcw1560714
3.http://www.mag2.com/p/money/25621?l=bcw1560714
4.「Liberty」2016年12月号
5.「CFR FAX NEWS」2016年10月16日号
6.「正論」2016年12月号
7.「マスコミが報じないトランプ台頭の秘密」江碕道朗(青林堂)
8.産経新聞2016年10月30日付

 
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『第2回グローバリズムとメディアの犯罪①』小浜逸郎 AJER2016.10.17(3)

2016年10月17日 16時50分28秒 | 経済
      


政治経済チャンネルChannel Ajerに、美津島明氏とともに出演しました。よろしかったらどうぞ。

『第2回グローバリズムとメディアの犯罪①』小浜逸郎 AJER2016.10.17(3)


*当動画をすべて見るためには、プレミアム会員(¥1,050/月税込)になる必要があります。以下のURLをクリックしていただけば、そのための手続きができます。
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誤解された思想家・日本編シリーズその2

2016年10月13日 13時46分48秒 | 文学

      





鴨長明(1155~1216)

ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし」といえば、誰もが聞いたことのある鴨長明の『方丈記』の書き出しですが、この見事な書き出しのために、この作品、および長明という人物について、ある種の誤解がまかり通ってはいないでしょうか。
 この作品は、一般には、『平家物語』と同じように、時代の激動を経験・観察した冷静な書き手が、戦乱や災厄や都の荒廃を目の当たりにして、権勢や栄華や奢侈を誇ること、人と争って欲望を満たそうとすることの空しさを説いた仏教的な無常思想の書として受け取られているように思われます。そう受け取ってしまうと、鴨長明という人が解脱と悟りの境地に達した聖の一人にも感じられてくるのですが、よく読んでみるとどうもそう単純ではない。
 ここにはむしろ長明その人の繊細で孤独な人格に根差した恨み節と強がりと未練がましさのようなものが匂っていて、また同時にその人間臭さは、自分の不徹底だった生き方への慚愧の念としても現れていると言えそうです。いきなり飛躍したことを言うようですが、ルソーの『孤独な散歩者の夢想』(拙著『13人の誤解された思想家』PHP研究所参照)によく似た面があります。そう言えばどちらも音楽に深く傾倒したのですね。長明は琵琶の名手だったようですが、このほかに歌を詠むことに最も力を注ぎ、後鳥羽院から歌合の寄人に召されています。

 ところでよく知られているように、『方丈記』は、前半が恐るべき火災と竜巻の被害、源平の争いのさなかの慌ただしい福原遷都、凄惨な飢餓、大地震など、都の大いなる乱れの記述に当てられていて、これは分量にして全体の約半分を占めます。そうして次のように締めくくられています。

すべて、世の中のありにくく、わが身と栖との、はかなく、あだなるさま、また、かくのごとし。いはんや、所により、身のほどにしたがひつつ、心をなやます事は、あげてかぞふべからず。

 ここがこの短い「随筆」の大きな転換点で、この後、人と人とが相接して暮らすことに伴う不如意の話に進み、次に自分の来し方を簡単に語り、今のライフスタイルについて紹介するという展開になっています。これはおそらく意識的に取られた方法で、長明は、なぜ自分が六十近くになって、わずか三メートル四方ばかりの粗末な住処を都の中心から離れた日野の里に求めたのか、その意味づけを一生懸命わかってもらおうとしているといった趣きです。あたかも前半の乱世の姿の記述は、そのためであったかのように。
 ところがおもしろいことに、その「方丈」のさまを描写する筆は妙に踊っていて、こういう自由な独居暮らしこそ理想的で、君たちは見習うべきだとでも言いたげなのです。

南に竹の簀子を敷き、その西に閼伽棚を作り、北に寄せて、障子を隔てて、阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢をかけ、前に法花経をおけり。東のきはに蕨のほどろを敷きて、夜の床とす。西南に竹の吊棚をかまへて、黒き皮籠三合を置けり。すなはち、和歌・管弦・往生要集ごときの抄物を入れたり。かたはらに、琴・琵琶おのおの一張を立つ。いはゆるをり琴・つぎ琵琶これなり。かりの庵の有様、かくのごとし。

 この後も、周辺の環境、風景をじつに詳しく、その春夏秋冬折々の風情がいかに自分の身に合っているかを述べ、また、毎日読経や持戒に汲々としなくとも適当にやっていれば罪を犯すこともないし、時々は松風や流水に合わせて琵琶を弾き歌を詠じて楽しむこともできるというような気楽な暮らしぶりを紹介しています。
 ここに描写された「方丈」は、たしかに広くはありませんが、かなり優雅でオシャレに感じられます。いまで言えば別荘暮らしのようなものか。しかも彼は必ずしも人との交渉を断った隠遁生活に徹したというわけではなく、近所の子どもと楽しそうに遊んでいるし、時々は、あるいはけっこう頻繁に、都に出ていたらしい。
 たとえば簗瀬一雄訳注の角川ソフィア文庫版巻末年表によれば、長明が庵を結んだ後に「『往生要集』(の写本)刊行す」とありますが、長明が上に書いている「往生要集」が、この写本を意味するとすれば、どうやってそれを手に入れたのか、相当のつてがなければできないはずです。またこれは、彼がこの年になっても、現実の状況に対する旺盛な好奇心と向学心とを持っていたことを示しています。何しろ往生要集といえば、法然による浄土宗再興期の知識人にとって、垂涎おくあたわざる必読本ですから(源信がこの原本を書いたのは、これより二百年以上前ですが)。
 また同じころ、彼は親友の推挙で鎌倉にまで赴き、実朝と何回も会ってもいます。
 ちなみにこの東下りの目的が何であったかはまったくわかっていません。実朝に短歌の指南をしたという説もありますが、実朝は藤原定家との間にすでに緊密な師弟関係を結んでいますから、どうもそれも怪しい。
 何よりも、自分のライフスタイルを、どうだ、いいだろうとばかりにこれほどしつこく自慢げに書くというのは、いったいどういう心根の表れでしょうか。へそ曲がりの私は、ついついそういうところに、長明自身のへそ曲がりぶりを読んでしまうのです。つまりはこれは自分の不本意だった前半生と、そういう運命を強いたこの世の不条理に対する屈折した恨み節ではないのかと。
 というのも、もし本当に過去に執着せず、今の暮らしぶりに満ち足りていて淡々と静かな日々を送っているのだったら、わざわざそんなことを構えて書く必要などないからです。世間から「半分だけ」遠ざかった物書き(知識人)の、未練がましい性とでも申しましょうか。

 では彼の前半生はどんなふうだったか。
 彼は下賀茂神社の禰宜・長継の次男として生まれ、父方の祖母のもとでかなり裕福な暮らしをしていたようです。短歌と音楽をことのほか好み、それにもいい先生がついていました。つまり由緒ある家のお坊ちゃんだったのですね。しかし十九歳のころ父を失います。三十代で祖母の家から独立し別の家を建てて住みました。事情はよくわかりません。この新しい家のことは、『方丈記』にも出てきますが、その大きさは、実家の「十分の一」しかなかったと書かれています。
 もはやあまり若いとは言えない三十三歳の時、千載集に一首が載りますが、歌論『無名抄』(『方丈記』とほぼ同じ五十代後半に成立)のなかで、その喜びをナイーブと思えるほどの調子で語っています。このナイーブさは、人が聞いたら書かずもがなの自慢とも聞こえ、そのあたりにこの人の人間関係のつたなさがほの見えます。
『方丈記』での屈折した強がりの姿勢に収斂していく芽は、すでにここに胚胎していたのかもしれません。音楽の先生に「この集には大したことのない人の歌がいくつも入っているので、それを見て悔しく思うはずなのに、一つ入っただけでそんなに喜ぶとは、とても心がけが美しいですね。それでこそ道を尊ぶというものです」とほめられたことまで記しています。ふつうそんなこと公開をもくろんだ作品に書きませんよね。
 また、父が生きていれば河合社の禰宜職を継ぐはずであったのを、歌詠みにうつつを抜かして社の奉公をおろそかにしている間に、親戚筋の鴨佑兼の進言によって佑兼の息子・祐頼にその職を奪われてしまいます。どうも長明はこの件で佑兼のことを後々まで恨んでいたフシがあります。
 賀茂川の別名として賀茂社の縁起の中に見える「瀬見の小川」という名を自分の歌に詠みこんだとき、佑兼から、ハレの場で使うべきその名をふだんの歌会などで使うべきではないと非難されました。ところがその名を判者も含め他の歌人が使うようになって広まってしまいます。するとまた佑兼が、「だから言わんこっちゃない。誰が初めて使ったかわからなくなってしまうじゃないか」と因縁をつけました。ところがこの長明の歌は後にちゃんと新古今和歌集に載ることになります。長明はその一部始終をやはり『無名抄』の中に書きこんでいます。彼にしてみれば、ざまあみろという気持ちだったのでしょう。でも何十年もたって書き下ろした「歌論」のはずなのに、ずいぶん執念深いところがありますね。
 ところで佑兼によって禰宜の職を奪われたことは、長明にとってよほど大きな人生の挫折だったと思われます。河合社の話の時には涙を流して喜んだのに、一度その話がおじゃんになってからは、おぼえめでたかった後鳥羽院がせっかく長明のために別の小社を建て、そこの神職に就くことを勧めてくれたのに、院の申し出を「もとより申す旨たがひたり」とあっさり断ってしまいます。この辺にも融通の利かない頑なな性格がよくあらわれていますね。
 さてこの事件の後、しばらく姿を隠してから再び召し出されるのですが、やがて五十歳の時突然出家して大原に五年間こもります。しかし、この五年のことを『方丈記』では、ただ「むなしく大原山の雲に臥して」としか語っていません。無意味な五年間だったと総括しているのですね。想像をたくましくするに、当時大原は、出家僧が群れて集団を作っていたそうですから、そこでも性狷介な長明は人間関係があまりうまくゆかず、不適応を起こしたのではないか。
 いったいに『方丈記』の長明は、自分の人生の大事な節目にどういう事情があったのかについては口をつぐんでいます。祖母の家を出たこと、出家したこと、大原を出て日野に移ったこと、すべてその動機や理由が何も語られていません。佑兼の横槍で禰宜職を失ったことについては、その事実にすら触れていません。この私生活上のいくつもの大事件に対する沈黙と、都の天変地異・荒廃を語る饒舌とはたいへん対照的で、私はそこにどうしてもある意図を感じないではいられません。
 つまり彼は、自分の人生上の有為転変の帰結として方丈の庵に到達したはずであるのに、その到達の理由を、一般的なこの世の無常という仏教的世界観に置き換えて表現しようとしたのです。そう考えないと、都の悲惨なありさまをこれでもかこれでもかと畳みかけるように活写するその鬼神めいた情熱と、方丈に落ち着いたときの心境をことさらうきうきと語る調子との間のちぐはぐさの印象がどうにも解決がつきません。それは論理的には整合性が取れているのですが、情緒面ではいかにも無理をしている――そんな感じなのですね。
 これは格別非難に値することではありません。何よりも漢文脈の簡潔な調子を活かした和漢混淆文によるこの随筆文体は、それまでの女性的な文学(物語、日記など)では考えられなかった力強さと思想性とに満ちており、そのオリジナリティは否定すべくもありません。男性として、あえて公的な事件を媒介に私的な心境を語る方法を選び、私的な事件を連綿と吐露する「女々しい」流れのほうは抑制せざるを得なかった。だからこそ、こうした斬新な文体が生まれたのかもしれません。
 長明はおそらく、性格的には過剰な自意識をもて余し、感情の起伏の激しい人であったように思われます。それゆえ、世渡りがあまり上手でなく、人間関係で多くの失敗を重ねたのではないでしょうか。

『方丈記』は、最後に、奇妙な迷いの表白で終わっています。仏の教えに従うなら、こうやって草庵暮らしを愛するのも静かな生活に執着するのも罪なことで、自分の振る舞いは格好ばかり聖人ぶっているけれど、心は濁りきっているのではないかと自問しているのですね。

栖はすなはち、浄明居士維摩のこと――引用者注の跡をけがせりといへども、保つところは、僅かに周利槃特釈迦の弟子――引用者注が行ひにだに及ばず。もしこれ、貧賤の報のみづから悩ますか。はたまた、妄心のいたりて、狂せるか。その時、心さらに答ふる事なし。

 あんなに得意げに今の暮らしぶりを語っていたのに、これはどんでん返しともいうべき展開です。察するに、長明の強い自意識は調子に乗りすぎたことを反省し、どう収めようかと苦慮した挙句、やはり悟りの境地に達した隠遁者を気取るよりは凡夫の煩悩をさらけ出しておく方が、当時の世相にふさわしいと考えたのでしょう。受け狙いとまでは言いませんが、なかなか心憎い自己演出です。
 新古今から二首。

  よもすがら ひとりみ山のまきのはに くもるもすめる有明の月

 これは禰宜職を失ったショックで引きこもってから出家するまでの間に詠んだ歌らしいですが、ひとりみ山にこもって鬱屈した気分で過ごしていても、自分の気持ちは有明の月のように澄んでものがしっかりと見えているという心意が込められているように思われます。やはり相当に意地っ張りでこわばったイメージですね。

    身ののぞみかなひ侍らで、やしろのまじらひもせでこもりゐてはべりけるに、葵をみてよめる
  みればまづいとゞ涙ぞもろかづら いかに契りてかけはなれけん


 これこそは、長明の真情が直接に出ていると言えるでしょう。「もろかづら」は葵の別名でもあり、葵と桂を組み合わせて賀茂祭の飾りにするそうです。だから「もろ」が「もろい」の掛詞とも見え、もろくも縁から見放された自分を暗示していることになります。また「かけはなれ」は、葛の縁語でもあるそうです。要するに、本来なら賀茂祭を取り仕切る立場になるはずであった自分なのに、どんな因縁からこんな悲運にあったのかと嘆く歌ですね。
 構えた「随筆(エッセイ)」ではいろいろと言葉の武装を凝らすことができましたが、やはり「歌」にこそ凡夫としての本音が出てしまうとは、昔も今も変わらないことなのでしょうか。このあたりまで長明に近づいてみると、彼に対するえもいわれぬ親しみがようやく湧いてくるような気がするのです。

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消費増税問答(その3)

2016年10月07日 10時18分31秒 | 経済
      






Q9:もう少し質問させてください。
「もう(国内で)モノが売れなくなっている」という状態がありますね。これは例えば車や携帯電話や各種サービス業など、すでに大体の人が手に入れてしまい、市場が飽和して、商品としての機能充実やサービスも熟しきって新たな需要を喚起できないという状態がけっこうあるんではないかと思います。それには社会構造や人口構成の変化も関係していて、資本主義先進国のある種の行き着く先なのかな? とも思っているんですけど、
・こういうことが内需頭打ちの構造的な原因になってるという理解は正しいと思いますか?
・そしていまのデフレを助長している要因のひとつではないかという疑問についてはどう思いますか。、
この「モノの売れなさ」に対しては、財政出動は経済という面における対症療法としての一定効果と理解すべきであって、社会構造の本質的な改善となると、体制変換のような国家的大問題になると思うのですが。


A9:これは、たいへん重要な問題です。
貴兄の疑問は、半分は当たっていますが、半分は当たっていません。そうして、多くの人が貴兄のように考えているようです。
 当たっているのは、「先進資本主義国では、モノやサービスが余り過ぎて、もう需要は伸びないだろう」とみんなが思い込んでいるために、じっさいに需要が開発されなくなってしまっているという事実。つまり、経済の動向はその時々の心理が大きな決定要因となるという一般的な事実ですね。たしかに、今の日本では、大部分の人がそう思い込んでいて、そのため、実際に内需拡大の方向に経済が動かないということがあると思います。
 しかし、これは結局、「いまはデフレなんだから、デフレが続くのだ」という同義反復のペシミズムを導くだけです。
 内需を拡大しなければこのひどいデフレからの脱却は不可能だという立場からは、この思い込みを取り除く論理を立てなくてはなりません。というよりも、内需は、実際やろうと思えばいくらでも拡大できるし、その条件は、今まさにそろいつつある、というのが真実です。

 具体的にその条件を挙げましょう。

①少子高齢化による労働力不足。
 これは、建設業、介護などの福祉の分野で深刻で、他の分野でも早晩そうなっていくでしょう。つまり、これからの日本は、仕事がない状態から、仕事があるのに人材がない状態へと移っていくのです。これは、内需を拡大するまたとないチャンスですし、同時に賃金が上がっていくことにもなります。
 ちなみに、この問題を口にする時に、ほとんどの人は、政府やマスコミが流した、将来の人口減少を理由として挙げますが、これは大きな誤りです。人口減少は、100年、200年単位の長期的な予測で、そのカーブは極めて緩やかです。事実は人口減少が問題なのではなく、そんなには減らない総人口と、急速に減っている「生産年齢人口」(15歳から64歳まで)とのギャップこそが問題なのです。つまり総人口に対する働ける人の割合が減っているからこそ、人手不足が深刻になり、だからこそ、需要が拡大する余地が大いにあるわけです。
 安倍政権は、一方で、この人手不足問題の解決を、技術開発投資による生産性の向上に求めていて、これは正しい方向です。ところが他方では、外国人労働者を増加させる政策も取っています。事実上の移民政策ですね。これは前者の方向と矛盾するだけでなく、ヨーロッパの移民難民の惨状をちょっと見ただけでわかるように、けっしてとってはならない愚策です。外国から安い賃金に甘んじる労働者が大量に入ってくると、賃金低下競争が起き、国民生活がいよいよ貧しくなる方向に引っ張られます。じつは財界はそれを狙っているので、その点で安倍政権、ことに自民党は、財界の圧力に屈しています。また、移民が増えると、深刻な文化摩擦も引き起こされます。
 外国人労働者拡大(実質的移民)政策は、いわゆるアベノミクス「第三の矢」の規制緩和の一環で、ヨーロッパが取りいれてきて失敗したことを目の当たりにしていながら、それを周回遅れで見習おうとしているのです。
 ちなみにここで言う「外国人」とは、その大きな部分が中国人です。中国政府は尖閣問題だけではなく、日本や南シナ海への進出を露骨に狙っていますから、日本が移民政策などを取ると、これ幸いとばかりどんどん押し寄せてくるでしょう。安全保障の意味からもけっしてとってはならない政策です。

②超高齢社会による、医療・福祉分野での需要の拡大。
これは、あらゆる分野に波及する可能性を持っていますよね。特に介護にたずさわる人は女性が多いのに、力仕事ですから、パワードスーツなどのAI機器の開発・普及が期待できます。

③高速道路網、高速鉄道網の整備による生産性の向上と地方の活性化
これは、地図を見るとわかるのですが、計画だけはすでに何十年も前からあるのに、その整備状況はひどいものです。先進国の中で格段に遅れています。
 山陰、四国、九州東周り、北陸から大阪までの各新幹線はまだ出来ていませんし、山形新幹線も中途半端で、鶴岡や酒田や秋田にそのままでは抜けられませんね。北海道新幹線も、札幌まで延ばさなければほとんど意味がありません。同じ地方の高速道路網も、全然整っていません。
 これが整備されていないために、地方の過疎化が進み、東京一極集中がさらに進むという悪循環に陥っています。これは、単に地方が疲弊してゆくという問題だけではなく、災害大国である日本の首都で大地震が起きたら、地方に助けてもらえないということも意味します。
 なおまた、新しい交通網の整備だけではなく、すでに1964年の東京オリンピックの頃に整備された古いインフラが、日本中で劣化をきたしていて、そのメンテナンスがぜひとも必要だという事実もあります。道路、橋、歩道橋、水道管、火力発電所など。こういうことにお金をかけることがいかに大切かは、ちょっと考えれば誰でもわかるのに、多くの人の頭の中には、消費物資の飽和状態というイメージしかないのです。

④スーパーコンピューターの開発
 日本は、この分野で世界で一、二位を争っていますが、蓮舫氏の言う「どうして二位じゃいけないんですか」は、絶対にダメです。すでにスピードでは中国に追い越されていて、省エネ部門(いかにエネルギーを使わずに高性能とスピードを達成するか)でも追い越されかかっています。エクサスケール(100京)のコンピューターが完成すると、コンピューターが自らコンピューターを作り始めるので、2位以下の国はもはや自国でコンピューターが作れず、すべて、1位になった国が作るコンピューターを買わされることに甘んじなければならないそうです。

 総じて、人間の技術の発達史を見ると、需要が頭打ちになるなどということはあり得ないことがわかります。新しい技術は、これまでの困難を克服するだけでなく、新しい欲望を作り出すのです。それがいいことか悪いことかは、この際措きますが。
 なお貴兄のいわゆる「資本主義の行き着く先」という問題は、実体経済における需要の頭打ちというところに現れるのではなく、金融資本の移動の自由や株主資本主義が過度に進んだために、ごく一部の富裕層にのみ富が集まり、貧富の格差が極端に開いているところに現れています。その意味でも私たち国民生活に直接役立つ実体経済の分野に投資がなされなくてはならないのです。


Q10:最後に幼稚な疑問ですが、最近は大新聞さま以外にもいろんなニュースサイト、オピニオンサイトがあり、情報ソースの選択肢自体は多いにも関わらず、例えば経済に明るい若手の企業家などが一見クレバーなことを言うようなケースは多くても、こういったことを一般の肌感覚に照らしてわかりやすく発信するところが少数派な気がするのですが、それはなぜですか。真実をきちんと見つめる人が常に少数派だからですか?

A10:これは残念ながらその通りですね。この傾向は、情報過剰社会になって、ものをよく考える習慣を身につけていない人たちが、いっぱし意見を発信するので、ますます真贋を見分けることが難しくなっていることを示しているでしょう。高度大衆社会は、無限に多様化したオタク社会でもあって、ものごとを総合的に把握する人が相対的に少なくなっていると言えそうです。
 真実をきちんと見つめて正しいことを言うのはいつも少数派です。マルクスは、バカどもが下らない議論をしているときに、「無知が栄えたためしはない!」とテーブルを叩いたそうですが、実際には「まずは無知こそが栄える」というのが正しいでしょう。
 私もそんなに大きなことは言えませんが、これまでの自分のささやかな言論活動のなかでも、聞く耳を持たない奴らに何度言ってもわかるはずがないという残念な感慨をたびたび味わってきました。
 しかし、こと経済に関しては、貴兄以上に音痴だったのですが、少しばかり勉強するうち、きちんとものを見ている人は、たとえ少数でもいるものだということに気づきました。これまで名前を挙げた人たち、田村秀男、三橋貴明、青木泰樹ら各氏ですが、あと二人、、内閣官房参与を務めている藤井聡氏と、経産省官僚ですが独自に言論活動をしている中野剛志氏を挙げておきましょう。ともかくこういう人たちがいるかぎり、こちらも絶望ばかりはしていられないという気になってくるわけです。

(このシリーズはこれで終わります。)
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