言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語90

2006年06月29日 22時36分06秒 | 福田恆存

 日本國内で、母國語の教育をするときに、國語教育、國語學、國語問題といふのは何の問題もない、ただそれが外國で、主に植民地で「國語」を使用させようとするとき、それは「日本語」としなければならなかつた。事實は、これのみである。植民地においても「國語」と言はせてゐた、と國語原罪論者は現代の私たちを意圖的に錯覺させるやうな文章を記す。

 そもそも、他國を植民地化した原罪を「言語」に負はせようと意圖するのであれば、その論者が、いくら國語を日本語と言ひ換へたところで、その責任を免れることはない。言語は植民地化などといふ政治の次元にあるものではない。植民地化に誤りがあれば、それは政治の次元で斷罪されるべきで、言語にその責任が及ぶものではない。

 ここで、福田恆存の「日本語普及の問題――政治と文化の立場」に觸れていかうと思ふ。この論文は、今では全集の第一卷に收録されてゐるので、讀みやすくなつた。が、あまりとりあげられることのない論文であつた(初出は『新潮』の昭和十七年四月號で、まさに戰時下のなかで、「日本語普及の問題」に關はつた本人が記した貴重な論文であつた)。

ところが、川村湊氏が平成六年に發表した『海を渡つた日本語――植民地の「國語」の時間』(青土社)で、この論文が引用され、同時に福田恆存が文部省の外廓團體で植民地の日本語教育の推進機關であつた「日本語教育振興會」の發行する『日本語』の編輯者兼發行者であつたことが、多くの人に知られるところとなつた。

 しかし、この本はその「紹介」以上でも以下でもない。川村湊氏の考へは、それ以降深まることも、繰り返へされることなかつた。韓国で四年間ほど日本語を教へてゐた経験をお持ちの川村氏がしてゐたことと、植民地下で日本語を教へてゐたことと何が違ひ、何が同じなのかを、詳細に論じれば、近代化のプロセスを戰前戰中戰後を一貫した論點で浮き彫りにすることができたのかもしれないが、その課題は殘されたままである。

 スケッチだけを記せば、近代化の力は、西洋にも日本にも日本の植民地にも今もなほ注がれてゐる。そして、そのうへで日本には西洋化の力が働き、韓國には西洋化と日本化の力が注がれてゐる。つまり、日本には二重の近代化の力が、韓國には三重の近代化の力が注がれてゐるのであり、植民地化といふのは日本化と近代化の複合的な作用のことであると見ることができる。

 川村氏の四年間の日本語教師生活は、近代化の産物であり(私たちが英語を學ぶのと同じことである)、戰前の日本語教育は日本化の産物であつたと定義することができる。

 いささか圖式的であるが、かういふ近代化モデルの三つの型を見るなかで、植民地政策を考へることが、今こそ有效であると考へられる。

 それから、川村氏の本書への不滿は、時枝誠記の言語論への反駁があまりに杜撰であることがあげられる。

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祝――訪問者10000人達成

2006年06月28日 22時57分49秒 | 告知

當ブログの訪問者が、昨日10000人を越えた。御高覽いただいてゐる皆樣に感謝いたします。福田恆存の讀者として、ささやかながらその遺志を受け繼ぐ方法を考へて、文章を綴つてきました。本居宣長が、醫者を續けながら、その一方で古の道をたずねたひそみにならひ、私もまたまつたくの我流であるが、國語のあり方についてこれからも發言していかうと思ふ。

折しも、福田恆存が創設した三百人劇場が、本年をもつて閉館する。福田恆存の遺業のうち、演劇は本道でもあり、今囘の件は痛恨事ではあるが、國語への愛着は、いかやうにも維持することはできる。假名遣ひの正統を守るべく、今後も書き續けてゆく所存である。

讀者諸兄に感謝。

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言葉の救はれ――宿命の國語89

2006年06月26日 22時14分24秒 | 福田恆存

さて、話をもどさう。國語は、私たちの言葉といふ意味であつて、帝國主義國家が他國を抑壓するために使ふ言葉といふ意味でも、國内に住む外國人を無言のうちに排斥するやうな内むきに閉ぢた言葉といふ意味でもない。

愛着と哀愁とがおのづからこめられた母語としての言葉である。いささか情緒的な表現であるが、國語といふ響きには、さういふ意味があるのだ。

柳田國男が言ふやうに國語といふ名稱も近代國家が作りだしたものである。しかし、近代の國民國家(ネイションステイト)を作りださなければ列強にやられてしまふといふ状況のなかで絞りだすやうにして産み落とされたこの言葉には、愛着と哀愁がこめられてゐる。

國語といふ言葉は、それ自身新らしい漢語である。是に當る語は、古い日本語の中には無いやうに思ふ。

柳田國男「國語の成長といふこと」『國語の將來』昭和十一年

もちろん、植民地の皇民化教育のなかで「國語」といふ名稱は、抑壓性をもつてゐた。したがつて情緒的な愛着を持つて「國語」といふ名稱の優位なるを言つても意味はない。ありていに言へば、朝鮮や台灣に人々が、その言葉を嫌惡するのは分かる。しかし、何度も言ふやうに、それは日本語と言ひ換へても變はるものではない。いやそれどころか、今日であつても、それを日本語と言ひ換へても、アイヌの人々の言葉や在日外國人が話す言葉にたいして抑壓的であるといふ「支配―被支配」の構圖は變はらない。

しかし、それを日本語といふあたかも中和されたかのやうな名稱を用ゐて事實を隱蔽するよりも、國語といふ言葉を用ゐて、國家の公用語=國家語がもつ必要惡を明確に示したはうが良いであらう。

かういふ次元で日本語と國語といふ呼稱について考へれば、國語を日本語と改稱するだけで、「自立と獨立の意識」を囘復できるかのやうに錯覺してゐる言(石川九楊氏)は、見當違ひもはなはだしいと言はざるをえない。それこそが「甘え」であつて、國家語がもつ惡に目をむけない「自立と獨立の意識」を缺いたものである。

  では、なぜ「日本語」と言ふべきだといふ人々が多いのか。あるいは國語と言ふことを避けて、日本語と言つて事足りるとする意識はどこから生じるのか。このことこそが問題なのである。

 ここで、改めて「國語」の多義性についてまとめておく。

1 日本語の別稱。明治維新期に近代國家が成立する假定で、「國民」としての意識をもたせるために作られた。「日本」といふ名稱も同じく近代國家が成立する假定で生まれたもので、「大日本國憲法」といふ名稱を見れば、そのことが分かる

2 母國語といふ意味。意識せずに私たちが話す言葉といふ程度の理解で使はれる。しかしながら、アメリカ人は母國語のことを「English」と言ひ、國語とは言はない。私たちが何氣なく「國語」と言ふのも、普遍的なことではないやうだ。

3 明治三十三年の「改正小學校令施行規則」のなかで「義務教育における教科名」として使はれて以來、「國語」は教科名としても使はれてゐる。

4 それぞれの國家における公用語として使はれてゐる。その意味は、世界の緒言語のなかの一つといふ意味ではなく、あくまでも國家語としての性質を持つてゐるのである。したがつてアイヌ語は世界の緒言語の一つではあるが、「國語」ではない。

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言葉の救はれ――宿命の國語88

2006年06月24日 22時18分39秒 | 福田恆存

  ところで、假名遣ひを守らうとする人々は日本語とは言はない。みな國語である。では、彼らは、國家主義者であらうか。言葉は國家のものであるとする思想の持ち主であらうか。そんな考へは毛頭あるまい。國家主義が一時「國語」といふ言葉を利用したのかもしれないが、だからといつて、國語にその汚名を着することはできない。犯罪者が兇器に庖丁を使つたからといつて、庖丁といふ名稱を辭めようといふことの愚なことは言ふでもあるまい。それと同じである。

 專門的になるが、上代特殊假名遣ひを發見し、わが國の國語の文法を體系化することによつて、言はゆる學校文法の基礎を作つた橋本進吉氏の次の言葉に、異論のある人はゐるだらうか。國語を日本語と言ひ換へて事足りるとし、かへつて日本語のアジア支配言語としての目論見を隱蔽してしまつてゐるより、はるかに適切で正確な「日本語」認識である。

 國語即ち日本語は、世界の言語の一つである。元來國語といふ語は、一般には國々の言語をさしていひ、特殊化しては自國語の義に用ゐる。それ故、我國で國語といへば日本語の事であるが、支那では支那語、英國では英語、佛蘭西では佛蘭西語をさしていふ。處が、アイヌ語や猶太語のやうに、自分で國家を成さない民族の言語は、普通之を國語とは云はない。しかし此等の言語と、國語といはれる言語との間に性質上の差異がある譯ではない。どちらも世界に存する多くの違つた言語の中の一つである。

 (橋本進吉『國語學概説』「第二章 日本語の概念」)

 この文章は昭和七年に書かれたものである。正漢字で書かれたうへに漢字も多いので、現代の讀者には讀みにくいかもしれないが、その論旨は今日のどんな『日本語概説』よりも明快である。このことが何よりも重要だ。

戰前に書かれた文章でありながら、橋本は國語と日本語とを全く同じものと考へ兩者に「性質上の差異がある譯ではない」と斷言してゐる。戰前に「國語」が帝國主義の手段に使はれたと假定するとしても、だから「今日では國語を止めて日本語にしよう」などと主張しても「性質上の差異がある譯ではない」のである。問題は、日本語を國際社會が必要とするのなら、どのやうに「私たちの國語」を使ふかなのであつて、名稱の問題であるはずは全くない。

國語であらうが日本語であらうが、國家を成す國の言語であるひとつの言語が、他の地域に擴大して行かうとするとき、「支配言語としての權力性」が問題になるのである。

ここでもやはり問題は「近代化」の問題である。

日本の近代化が西歐化であつたと同じやうに、アジアのどこかの國で近代化が進展して行く過程においては、たとへ部分的であるとはいへ、日本化が進んでいくのであらう。「うどん」「おでん」「たくわん」「地下鐵」「百貨店」といふ物の名稱、あるいは「自由」「哲學」「革命」「共産主義」「民主主義」といふ觀念の名稱は、すべて日本が作りだした飜譯語である。それをそのままに使つて中國や朝鮮半島は近代化をなしてゐる。「日本語」を使ふことによつてそれらの地域は近代化してゐるのである。かういふ實情を見るとき、「國語」だ「日本語」だといふ名稱の使ひ分けは、あまり意味のある議論であるとは思へない。

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言葉の救はれ――宿命の國語87

2006年06月23日 21時41分47秒 | 福田恆存

前囘引用した文中の「上田萬年博士」とは、明治の國語政策を推進した中心人物である。最晩年にはその主張を撤囘したとも言はれるが、やはり終始一貫「ローマ字化」を主張してゐたと見て間違ない。

彼は、日本語をどうするのかを明治政府の特命を受けて、ヨーロッパに派遣されたのだが、このことが、いかにも明治の政策がいかに近代化の適應異常であるかを示してゐる。なぜならば、日本語の改革のモデルなど、全く言葉の性質の異なるヨーロッパにあるはずがないのに、ヨーロッパに留學するといふ的外れなことをしてしまつたからである。ヨーロッパに「近代」のモデルがあると思つたから、そんなことをしてしまふのだ。もちろん、そのすべてが間違つてゐるわけではない。鐵道も郵便制度も議會も學ぶべきモデルは西歐にある。しかし、言葉はどこか外國にあるものをモデルにすることなどできない。さういふ常識を忘れてしまふのが「適應異常」あるいは「過剩適應」と呼ばれる精神状況である。

上田はその體現者なのであつて、だからこそ「國語のローマ字化」などといふふざけた考へを出してきたのである。當時の西歐の言語學の言語觀が音韻法則に基いて言語のありやうを考へるといふものであり、彼も「言葉のために文字があり、文字のために言葉があるのではない」と述べてゐる。改めて申し上げることもないだらうが、この場合の「言葉」とは「話し言葉」つまり「音聲言語」といふ意味である。したがつて、言葉の發音どほりに表記(=文字)は書かれるべきで、その結果「ローマ字化」といふことが言はれるのである。

また、この人物、「純粹の學究といふよりも政治的學者」と評されてをり、文部省參與官、文部省學務局長、國語調査委員會主事などを歴任し、國語を個人的な言語觀に基いて改變しようとしたといふ政治的責任も負つてゐると言はざるを得ない。

この人と時枝誠記とは、國語に對する考へがまるつきり違ふ。しかし、その上田でも「國語は國民の精神的血液」であると言つてゐた。そして、國語は植民地においても「國語」であるべきだと考へてゐたのである。

さて、このことについて時枝誠記はどう考へたのか。また、昭和二十二年當時の「現代の國語學」はどう考へたのか。そして、文字どほり現代の國語學はどう考へてゐるのか。それは、追ひ追ひ見ていかうと思ふ。

しかし、ここでは一言だけ言つておく。

「國語」といふのは言葉であつて實體ではない。植民地において「國語」が強制されたといふことの罪科を見て、國語の使用を止めて日本語に代へるべきだと思ひ、そしてそれによつて原罪が精算されると考へる人々は、いかにも安易である。帝國主義の誤りを、言葉の變換で濟ますやり方こそが問題であり、自己欺瞞である。大東亞戰爭といふ名稱をありもしない太平洋戰爭に代へたり、天皇の位置を元首から象徴と代へて事足りるとしたりする安易な精神が、ここにも見られるのだ。

「國語」は帝國主義の産物であるか。それならば良し。國語を廢止して日本語にしよう。しかし、さう言ひ切るのなら、藤原定家も契冲も本居宣長も帝國主義者だつたといふことを證明しなければならない。それができない以上、「國語」を否定する必要はない。

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