言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

質問するといふこと―問の両義性

2016年07月08日 10時41分18秒 | 日記

 先日、芦田氏と話をしてゐるなかで、自分の著作は自分が抱いた疑問に自分が答へていくといふことで、書き上げて一番勉強になるのは自分だといふやうなことをおつしやつてゐた。

 質問することは難しい。うまく質問できれば、もう答へは自明である、といふやうなことを確か小林秀雄も講演で語つてゐた。今、ネットで調べると、正確にはかう言つてゐた(実に便利である)。

「実際、質問するというのは難しいことです。本当にうまく質問することができたら、もう答えは要らないのですよ。(中略)僕はだんだん、自分で考えるうちに、『おそらく人間にできるのは、人生に対して、うまく質問することだけだ。答えるなんてことは、とてもできやしないのではないかな』と、そういうふうに思うようになった。」

 ところで、臨床哲学をはじめた鷲田清一氏は、「質問とは、本来分からない人が分かる人に訊くものだ。しかし、試験の問とはそれと逆の構造である。つまり分かつてゐる人が分からない人に訊くわけだ。」したがつて、知りたい、学びたいといふ思ひがないなかで、試されるといふ心理状態の中で問が発生してゐるのが、学校といふ空間といふことになる。それでは、うまく伝はることも、学びが発動することもない。そこで、鷲田氏は、「めだかの学校」のやうに「だれが先生でだれが生徒か分からない空間にすれば、大人がほんたうに伝へたいことも、子供がほんたうに訴へたいことが、行き交ふだらう」と書いてゐる(要約)。

 果たしてどうだらうか。確かに、分かる人が分からない人に問ふといふことが「試験の問」ではある。しかし、それは本来の問ふとは違つた性質を持つものであらうか。鷲田流に言へば、問は両義的な性質を持ち、分かる人が訊くことも、分からない人が訊くこともある。その双方向の問の関係が、物事の理解を深めていくとはどうして言へなかつたのだらうか。とても疑「問」である。

 学びの主体が出来上がつてゐない学校空間を、もし「めだかの学校」のやうにすれば、それはイヴァン・イリイチの「脱学校化」の主張にからめとられてしまふのではないか。まさか鷲田氏は、近代が作り出した学校といふ制度を壊していくべきだといふ急進的な思想家であるまい。学校制度はほころびが出てきてはゐるが、それを継続的にいかに改良していくかが今「問」題なのである。

 

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