言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

原子力發電所事故の檢證番組を見て

2011年12月29日 09時00分44秒 | 日記・エッセイ・コラム

   ここにきて、NHKと民放とで3月11日の大地震に伴う福島第一原子力發電所の事故についての檢證番組が放送された。前者では、イソコンといふ電源を必要としない冷却裝置についての知識やその使用にあたつての訓練不足が事故を擴大したと傳へられ、後者の或る番組では、津波による電源喪失によつて事故が起きたといふ前提そのものが疑はれ、地震によつて既に放射能が漏れてゐたといふ衝撃的な「事實」が指摘されてゐた(政府は、先日事故にたいする調査の中間報告を發表された)。

   かうした番組を見てゐて私が感じた第一のことは、「こんな状況下でよくもあの程度で濟んだな」といふことである。細かいことについては、「何をやつてゐるんだ」といふ思ひはあつたが、それはどう考へても傍目八目であつて、「よくやつてくださつた」といふ思ひにしかならない。官邸の不手際だけが突出した不出來である。

   物理的な缺陷や「想定外」の事態への對應策は、嚴に改善すべきである。そのことだけが問題である。電力會社の構造的な問題や電力事業の在り方については、重大事ではあるかもしれないが、緊急性はない。政治家や批評家はすぐにそちらに飛付くが、それをとやかく言ふのなら、事故の前に言つておけばよい。それが出來なかつたといふことは、そもそも重要事ではないといふことである。西尾幹二氏が、反原發を言つてゐるが、出トチリであるやうにしか見えない。

   福島の人人の健康管理は、これから政府が眞劍に取り組む重要事である。避難指示の範圍と方向とがいづれも間違つてゐたといふ事實は重い。その責任を自覺せずに他者に轉嫁しようとしてゐた當時の官邸の人間は見てゐて見苦しかつた。涼しい顏をして「私は聞いてゐない」と言へるのは嘘を吐いてゐるからである、さういふことだ。

   モラルハザードであるが、現場の人人の必死な仕事振りが(それは自分の會社が起こした事故ではあるが)、モラルを維持しようとする人人がまだゐることを示してくれた。官邸には當事者といふ意識がなかつたのである。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史を見つめる強い目があるか――お祭り民主主義を利用する狡猾を見抜け

2011年12月20日 20時47分58秒 | 日記・エッセイ・コラム

文藝評論家 前田嘉則

         ☆    

今年一年の最大の事件は、何と言つても東日本大震災である。今もその影響は殘り、言ふまでもなく原發の問題は原子爐の破壞的安定といふ皮肉な事態を招き長期的な課題を抱へることになつたが、本來その終熄を圖るべき政治の側は破壞的混亂が今も進んでゐる。

  そんな中、九月には總理大臣が代り、今度こそ復興の路をひたすらに進むのかと思ひきや、消費税の増税やらTPP參加やらの問題で關心をそらし、言はばめくらまし作戰をとるばかりである。もちろん「これなら鳩山や菅の方が良かつた」とは誰の口にも上らないのだから、餘程彼等が酷かつたといふことでもあつて、まだしもとも言へる。しかしである。この數年の政治状況は酷過ぎる。

  そして、それは國政だけではない。先月二十七日、大阪で市長と知事の選擧があつた。「維新の會」といふとんでもない名稱を自らの政治團體に使ひ、天皇のゐない都市を「都」と呼ぶ不敬に愛想をつかしてゐたが、政黨中樞やマスコミは彼等が勝つとこれでもかと持ち上げてゐるのを見て、危機を感じる。彼等の勝利はその主張の正當性を證明してはゐないではないか。

  仕事がないこと、景氣が惡いこと、給料が上がらないこと、街に活氣がないこと、あるいは家族の關係がうまくいかないこと、上司とうまが合はないこと、さうしたもろもろの「憂さ」を人人は晴らしたかつたといふことに過ぎない。そんな「憂さ」はいつだつてある。それを晴らすために以前ならもつと別のことをしてゐただらうに、今はそれが選擧になつてしまつた。私はさういふことだらうと思つてゐる。本來祭りが持つてゐた「物を神樣に奉つて幸福を祈る」といふ意味にも似た、勝ちさうな候補者に票を入れて憂さを晴らすといふのが今日の選擧なのである。候補者を載せた車からは名前が連呼され、車から降りては町中を練り歩く姿は、差し詰め神社の神輿をかつぐ若衆である。幟には政策が掲げられるが、神輿と神輿のぶつかり合ひにしか見えない。

  大衆社會の人民の願ひもまた、祭りに參加することである。それが證據に「都構想」なる幟を見て投票した人に、「では、それはどういふ内容か」と訊くと、沈默してしまふ。これで政策選擇選擧とは聞いて呆れる。その沈默が雄辯に語るやうに、人人の關心は氣分の昇華であり、憂さ晴しである。その意味で、京大名譽教授の佐々木克氏による「幕末の『ええじゃないか』にも似た雰圍氣を感じる」との發言が正鵠を得てゐる。橋下氏を應援した堺屋太一氏が日本近代の最大の祭典大阪萬博の提案者であつたといふのは出來過ぎた話である。

投票した候補者が勝つた。大半の人人が溜飮を下げた。それだけであつて、先月號の本紙に「菊」氏が書いてゐたやうに、「内容空疎な政治ごつこ」が本質である。だから、終はれば次の祭りを待つだけで、早晩橋下氏は次の祭りを準備することになる。つまりは「政治」の名の下に文化的社會的な破壞が進み、大阪は更に混亂し、斷末魔の日本の一歩先を行くことになる。

    ☆ 

     アメリカの精神の骨

               ☆

  かういふ状況にあるのが現代の日本社會である。いやいやかうした混亂は今日では世界的な規模で起きてゐることであり、世界の民主主義が試されてゐるのだといふ見方もある。なるほどさうであらう。不思議なことに來年には、樣樣な國で政權交代が豫定されてゐる。中東での民主化も續くだらう。イランの核開發が現實となり、イスラエルがその危機感に耐えられずイランを攻撃すれば、またぞろ戰爭が起きかねない。そんななかでアメリカの大統領選擧が來年の十一月に行はれる。期待を裏切り、經濟の中樞ウォール街で起きた若者の叛亂は、思ひの外深いところまで傷附けてゐるやうで、資本主義の危機とまで言はれる。が、オバマ大統領は手をこまねいて見てゐるだけだ。

さうであれば政治のリーダーシップの不在は日本だけではない、といふ主張は一見尤もである。しかしながら、その一方でアメリカにはさうした流動化する社會の危さと共に、絶えず歸るべき原點を探らうとする動きがあることも忘れてはならない。このことを思ひ出させてくれたのが、この度新譯が出されたロバート・ベン・ウォーレンの『南北戰争の遺産』(圭書房)である。ウォーレンは「二十世紀アメリカ文學の巨人」であるが、日本ではそれほどの讀者はゐない。しかし、間違ひなくアメリカ精神の正統である。そのウォーレンが南北戰争勃發百周年を機してハーヴァード大學から刊行したのが本書である。

そして今年は、アメリカ南北戰争勃發百五十年。各地で樣樣な行事が行はれ、飜譯した留守晴夫氏によれば、昨年十二月二十六日附の「ワシントン・ポスト」は、南北戰争百五十周年を前にしてそのことが「國民の記憶の中に極めて大きく立ち現はれつつある」と報じたと言ふ。つまり、あの戰爭こそが今日のアメリカを決定附けたものであり、良くも惡くもアメリカ人がアメリカ人であることを認識する時、どうしても避けてはゐられない出來事であることを自覺してゐるといふのである。本書は日本の保守論壇のやうに過去を美化する書ではなく、「吾々が過去の一時代に移動してみて、その時代の樣々な問題や價値基準と吾々自身のそれとを複眼的に考察し、相互の批判と相互の明確な理解との裡に互ひを對比させようとした」ものである。そのためその筆は決して過去への憧憬に傾くことなく、「事實を事實として」執拗に追求し、資料に基づいて克明に描き出すスタイルをとつてゐる。時に晦澁な表現に出會ふと立ち止まらざるを得なかつたが、かういふ書物が存在することへの羨望を禁じ得なかつた。

アメリカの文化を皮相なものと見、その内政外交を謀略とのみ見る見方は、それ自體が皮相である。歸るべき精神の據り所を明確に意識してゐる作家が一人でもゐる國には、私たちの凡庸で浮き足立つた政治家が束になつてかかつても適ふはずはない。

        ☆

    民主主義の正統とは何か

                    ☆

 プラトンは『ゴルギアス』のなかで、相手を打ち負かすことだけが目的の議論なら私はこの議論をやめることにしたいとソクラテスに語らせてゐる。互ひに教へたり教へられたりしながら、雙方の納得のゆくまで問題になつてゐる事柄を探求するのではなく、議論で相手に勝つこと、その場を盛上げ聽衆を喜ばせることが目的であるやうな議論ならしても意味がないと考へるのが民主主義の正統である。少なくともソクラテスやプラトンはさう考へた。さうであれば、劇場型民主主義=御祭り民主主義が支配する日本の現状においてなされる「議論」から生まれるものは、貧しくて小さいと言はざるを得ない。

  人間としての弱さを見つめるのは辛い。しかし、南北戰争をアメリカ人が「怨恨、獨善、惡意、虚榮、自尊心、復讐心、机上の流血欲、自己滿足」の「捌け口」としてゐたといふことをウォーレンは剔抉した。しかも、さうした人間の持つ「缺點や無知や惡徳を曝け出してゐるにも拘らず」、同時にそれが「人間の尊嚴の可能性について教へてくれる」ものであると自覺してゐるから、日本の左翼のやうに過去の一方的な斷罪と現在の正當化、あるいはその逆に右翼のやうに過去の美化と現在の不當を安易に主張することもしない。人間の「複雜で混亂した行動の動機と、事件の雜多にして渾沌たる集合の只中にあつて」、意味を探らうとする複眼的な精神をこの作家の筆に見るのである。

    ☆ 

     政策は快樂の追求なのか

                       ☆

  アメリカ國民全體が、かういふ高尚な精神を持つてゐると言ふのではない。さうではなく、かういふことを確信をもつて語る作家がゐ、それを稱揚する一群の讀者がゐる國と、ただ氣分の造形をしてゐるだけの國との違ひに思ひを致すのだ。王政復古と關係のない維新を掲げ、天皇のゐない都を作らうとする動きに對して、何等の批判をしないどころか政府首腦から一般國民までが拍手喝采する國との違ひを歴然と感じるのである。

私たちの國に、何が今一番缺けてゐるのか。それは、私たちの國とはどういふ國かと問ふ意識である。何もすべての國民がそんな意識を持てといふことではない。しかし、未曾有の大慘事が東日本を中心に全國に擴がつた現在においてさへ、その問ひや答へが全く聞えて來ないといふことは異常である。

  政策論議なるものはこの十五年ほど嫌になる程聞いた。しかし、その結果、政治家の言葉はいよいよ輕薄になり、もはや人人の快樂を滿たす「パンとサーカス」を提供する給仕と成り果ててゐる。政治家の言葉が貧しくなるゆゑんである。

  南北戰争に、あのリンカーンの有名な言葉が紡がれたのは、決して偶然ではない。アメリカの現實と理想とを兩睨みした結果、彼をしてあのやうな發言をさせたのである。オバマ大統領の就任演説は決して優れたものではなかつたが、それでもアメリカとはどういふ國かといふ意識に貫かれてゐた。我國の首相の發言にはそれがない。どぢやうによる國民のための政治はあつても、日本とはどういふ國なのかといふことへの言及はない。いやさういふ發想すらない。

日本の近代は、ひたすら幸福=快樂を求めて來たが、その裏面に虚無が貼附いてゐた。さういふことである。斷末魔であるが、行くところまで行くしかない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時事評論――最新號

2011年12月19日 18時28分07秒 | 告知

○時事評論の最新號の目次を以下に記します。どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)

  本日、金正日總書記が亡くなつた。來年が強盛大國の宣言をする大事な年であるのに、この時に亡くなるとはたいへん不自然である。いままでも影武者がゐるとかゐないとかさんざん言はれて來たが、かういふ時に影武者が登場しないといふことはどういふことだらうか。

  後繼者は軍部の掌握を果たしてゐないと言ふ。さうであれば、まづはクーデターが起きることなく順調な體制移行が果たされることを祈る(この邊りの私の意見は大概の保守派の主張とは違ふだらうけれども)。

             ☆     ☆  ☆

   さて、今月號は面白い記事が目白押しである。一面は遠藤浩一氏の論文。一國脱原發主義、TPPの目的化議論、中選擧區制復活論、これらはすべて敗北主義であるといふ内容。まつたくその通りである。溜飮が下がる。

   2面は、黛敏郎のオペラ「古事記」についてのエッセイ。朝日新聞だつたかで、批判的な記事を讀んだが、それとは違つた見方を教へてくれて收穫であつた。

   3面は、宮崎大學の吉田好克氏の論文。「我が國の眞の危機」と題したもので、教育の體たらくを實情を踏まへて論じてゐる。絶望的な内容であるが、それでも教育をし續けてゐる吉田氏の心情に思ひを致した。

   同じく、連載五囘目の留守先生の「この世が舞臺」が面白い。トルストイの「神父セルギイ」を取上げてゐる。聖者になるべく追求した男が、それゆゑに欲心に支配された自分自身であることに氣附く。そのやうにして二つの心に引き裂かれた人物を描く姿はトルストイその人に違ひないのである。聖者になるべき理想の無い私たちは、それゆゑに我欲に支配された醜い自我といふものも見ることはできないのであらう。いつもながら刺戟的であつた。

   それから2面には、「斷末魔の日本  歴史を見つめる強い目があるか」を書かせて戴いた。近近、編輯人の中澤氏の御厚意で、全文を本ブログに掲載させて戴けることになつた。乞ふ御講評。

         ☆    ☆   ☆

三つの敗北主義に覆はれる日本

                        評論家・拓殖大學大學院教授  遠藤浩一

● 

斷末魔の日本 歴史を見つめる強い目があるか――御祭り民主主義を利用する狡猾を見拔け

                文藝評論家 前田嘉則

教育隨想       

      黛敏郎のオペラ――日本初演の歴史的意義 (勝)

我が國の眞の危機

               宮崎大學准教授  吉田好克

この世が舞臺

     「神父セルギイ」トルストイ                                    

                     圭書房主宰   留守晴夫

コラム

        雙子の増税で國亡ぶ  (菊)

        『がんばれ被災地』の裏側 (柴田裕三)

        批評は「呪ひ」か(星)

        沖繩防衞局長の更迭(蝶)   

   ●      

  問ひ合せ

電話076-264-1119    ファックス  076-231-7009

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映畫『山本五十六』

2011年12月11日 21時39分51秒 | 映画

聯合艦隊司令長官 山本五十六 聯合艦隊司令長官 山本五十六
価格:¥ 1,470(税込)
発売日:2011-11-08
   試寫會のチケットをオークションで手に入れて、先日觀に行つた。ちゃうど開戰記念日であつた。

    素晴しかつた。あまりの感動にそれを言葉にしようとしても言葉にならず、いらいらしてしてしまふほどであつた。

   海軍の讚美もなく、陸軍への批難もそこそこにして、戰前の(いや今も續いてゐる)日本といふ國の漂流振りと、軍人の軍人としての意地が辛うじて軍隊を機能させてゐた樣子が表はれてゐたと思ふ。

   無名塾出身の役所広司はどことなくサラリーマン的な風情がしてあまり好きではなかつたけれども、今囘の役は素晴しかつた。それから二、三分の出演であるが宮本信子の演技に魅了された。吉田榮作は以前の粹がりが一切なく一作毎に演技を磨いてゐる。その點ナレーターとしては合格點だが、演技が今一つだつたのが玉木宏である。役者は生き方が表はれてしまふものである。

 23日から公開だから内容を言ふのは憚られるが、五十六が出航を前に家に立ち寄り、家族と共に最後の食事をとるところが素晴しかつた。妻が鯛を取り寄せ煮付けを作つたのだが、父親が手にしない以上他の家族は誰も手にしない。三人の子供もそれに不滿の一言もなく食事を終へる。かういふ家族の光景が、軍人の家のものなのか、それとも戰前の家族の一般なのかは分からない。もちろん、庶民の、それから隨分後の私の幼い頃には全くなかつた。それでも、ああいふ姿は美しいと思ふ。

   試寫會は300名程であらうか、40代以上の、中でも高齡の人が多かつた。青年がかういふ映畫を觀るのも惡くないのでは。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベルリンフィル 3D 

2011年12月10日 07時36分48秒 | 日記・エッセイ・コラム

ベルリン・フィル 3D 音楽の旅 マーラー:交響曲第1番&ラフマニノフ:交響的舞曲(Blu-ray Disc) ベルリン・フィル 3D 音楽の旅 マーラー:交響曲第1番&ラフマニノフ:交響的舞曲(Blu-ray Disc)
価格:¥ 5,800(税込)
発売日:2011-11-23

内容紹介

クラシック国内盤初!サイモンラトル&ベルリンフィルの3Dブルーレイ2枚組をお試し価格で!

昨年の「くるみ割り人形」5.1CH上映に続き、いよいよベルリン・フィルに3D登場!
クラシック国内盤初!「3D」ブルーレイを発売!しかもお手頃なお値段で!
※3D対応でなくても、ブルーレイの機械では、普通に観ることが出来ます。
世界最高峰のオーケストラを最新の3D技術を駆使して撮影した歴史に残る作品。
収録された楽曲は、日本でも人気の高いマーラーの交響曲第1番「巨人」と、ラフマニノフの「交響的舞曲」の2曲。
11月5日より全国映画館にて配給&公開予定。
◆本作品のみどころ
○ 3D 映像の、想像を超えた臨場感!…世界最高峰のオーケストラ、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団が挑む、世界で初めての3D 撮影。その映像の質感と迫力は、体験したことのない興奮に誘います。
○ まるで、オーケストラの一員!…ステージの上から、横から、後ろから、演奏者の間際にまで迫ったカメラアングル。
ベルリンフィルの全面協力のもとで撮影可能となった貴重な映像。
○ 音楽の「動き」が、手に取るように!…たゆたうような、そして激しい音楽の流れ。世界最高のマエストロが織り成す、そのダイナミックな「動き」を、3D の奥行きとともに全身で感じられます。
○ 指揮者と演奏者の、緊迫した呼吸さえも!…無言のコミュニケーションから紡ぎだされる、絶妙のアンサンブル。
誰もが緊張する一瞬の静寂。その透明感さえもがスクリーンに再現されます。
○ マーラー。ラフマニノフ。夢の105 分!…ひと時も飽きることのない105 分。名曲が奏でられる瞬間は、これほどまでに美しかったのか。目と耳と体で感じる、夢のマーラー、ラフマニノフ。
○ 世界最高のオーケストラ!…サー・サイモン・ラトル指揮。ベルリンフィルのプロフェッショナリズムに触れ、陶酔するとき、壇上に分け入る3D カメラは、まさに「神の目」となります。空前絶後の3D オーケストラ!
いまだかつて、誰も経験したことのない、世界最高の体験を!
<収録日時:2010 年11 月22 日~24 日 収録場所:エスプラナード劇場(シンガポール)>

               ☆

               ☆

私の感想

 3年前であつたか、ラトルが来日したとき、朝日新聞の音楽評は酷評も酷評、大酷評だつた。ベルリンフィルは4万円、そんな大金をはたいて聴きに行つて、あれほどの酷評をされたのではたまらない。しかし、一度は聴いてみたいベルリンフィルである。まあその前に下見に行かうかといふ思ひで出掛けた。大阪市内のブルグ7で鑑賞。通常の3D映像よりも高くて3600円。どうしてこんなに高いのかと思ひ、恥ずかしげもなく尋ねると「特別興業なので」とのお答へ。「特別興業? 映画なのに」との疑問があつたが、仕方ない、見たいのだからと思ひ、購入。家内も呼んで一緒に観た。

 3Dの感激は10分ほどでなくなつた。コンサート会場で鑑賞してゐるのなら、アングルが変はつたり、アップがあつたりはしないのだから、やはり映画を観てゐるといふことを越えはなしない。3Dも不自然な感じで、映像が暗くなつてしまふのが残念だつた。音も決していいとは言へなかつた。

 最も残念なのは、二曲とも印象が同じであつたこと。ベルリンフィルの厚みは私はあまり感じず、きれいな音楽だつたといふ印象が大きい。ベートーヴェンかブラームスが聴きたかつたといふのは素人考へだらうか。

 後半はシンガーポールの街の映像を合はせての演出であつたが、コンサートそのものを映すだけでは限界があるといふことを、製作者も感じてゐたといふことか!

 昨日で上映は終はつてしまつたけれど、DVDで観るのなら、一度観てみる価値はある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする