言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

沢木耕太郎の片思ひ

2013年09月29日 12時00分22秒 | 日記・エッセイ・コラム

 朝日新聞に、沢木耕太郎氏が映画評をずつと書いてゐる。「銀の街から」といふタイトルだが、私の趣味に合はない映画について書いてゐるときや、プロ好みにすぎて、小劇場でしか上映しないやうな映画について書いてゐるときは讀まない。

 といふことは、ほとんど讀まないといふことで、映画は娯楽と割り切つてゐる私は、この欄の良い読者ではない。しかし、たまたまこの夏に見た宮崎駿の「風立ちぬ」について、先日沢木氏が書いてゐたので、讀んでみた。

 これが実にひどい。一言で言へば、「これは私が理解してきた宮崎駿ではない」といふことである。なぜ、さう思つたのかといふことについては、ここでは触れない。しかし、根本的な疑問は、宮崎駿が沢木氏の願つた通りの映画を作らなかつたからと言つて、「宮崎駿がこれを最後の映画にしていいとは思えない」と書くのは穏当かといふことである。この批評は度を越してゐる。この文の構造もめちゃくちゃで、「宮崎駿が」といふ主語に対する述語がない。「~していい」と「思えなかつ」たのは沢木氏であつて、宮崎駿氏の名前は出てゐるが、じつは沢木氏の強烈な片思ひに過ぎない。「彼女が私を嫌ひになつていいわけがない」と発言する友人には、「お前馬鹿か」「もうあきらめろ」と言つて上げなければならない。さうしないとストーカーになつてしまふかもしれないのだから。

 自分自身の理解のうちに対象を閉ぢ込めてはならない、これは批評の鉄則である。相当に「風立ちぬ」の思想や出来が気に障つたのだらう。

 私は、「風立ちぬ」いい映画だと思ふ。二郎と菜穂子の出会ひと深まり、沢木氏が「物語の階段」がなかつたと書いたが、それはほとんど言ひがかりに近い。病を押して二郎の元に来る。そんな妻を見守るために、妻の手を握りながら仕事を家に持ち込んででも続ける二郎。ここに「成長の物語」や「物語の段差」がないとは、どういふ料簡だらうか。びつくりである。

 

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時事評論 最新号

2013年09月24日 22時45分01秒 | 告知

○時事評論の最新號の目次を以下に記します。どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)

                 ●

   9月號が発刊された。

 一面、山際氏の疑念に私も賛同する。安倍総理が八月十五日に靖国に行かれなかつたのが、中国や韓国に配慮してのことだとしたら、そこが問題である。

 そして、二面に私が書いたことも、靖国参拝についてである。それは専ら、総理の参拝を批判する国民性を問題にしたものだ。

 靖国に安倍総理が行かないことを求めるといふことは、弔ひの行為を否定することである。つまりは戦没者の魂を呪つてゐるといふことである。さういふことが果たして私たちの国の文化を豊かにするだらうか。もちろん、そんなことはない。呪ひの言葉を他者に向けるのが現代日本人の特徴であつてみれば、それは頽廃そのものである。なぜこんなことになつたのか。国民自身が敗戦にショックを受け、そこから立ち直り自信を持つ方法として、他者を貶めることしか見つけられなかつたからである。さういふいびつな心理処理をする人々に対して「皆さんが主権を持つた国民です」などと書いたのが戦後憲法であり、結果的に「あまちゃん」にしてしまつた。それが戦後民主主義である。つまりは、国民といふ名の住民を育て、責任を果たさうとしない卑怯な存在を主権者としてしまつたのである。

 

 四面のコラムについては、「財政を破綻させよ」と威勢はいいが、そのあとどうするのか、それを知りたい。経済について、全く相反する意見がマスコミに登場するが、そのこと自体が経済学への疑問を大きくさせてはゐまいか。

 

              ☆        ☆    ☆

安倍首相は日本を取り戻せるか

歴史認識問題で”らしさ”封印、これでいいのか

            ジャーナリスト  山際 澄夫

● 

なぜ首相の靖国参拝を批判するのか

  ――自信喪失者の呪ひ

               文藝評論家  前田嘉則

教育隨想       

  沖縄戦集団自決――歴史の塗り替へを迫る判決 (勝)

あの時”国防軍”が誕生していたら

『秘録・日本国防軍クーデター計画』(講談社)を上梓して

           近現代史研究家  阿羅 健一

この世が舞臺

     「幽霊」イプセン                              

                        圭書房主宰   留守晴夫

コラム

     日本の集団自衛権行使に消極的な米国?  (菊)

     『はだしのゲン』をめぐる保守紙の反応 (石壁)

     富嶽百景(星)

     財政を破綻させよ(騎士)   

   ●      

  問ひ合せ

電話076-264-1119     ファックス  076-231-7009

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石原慎太郎の新作

2013年09月14日 11時23分06秒 | 日記・エッセイ・コラム

 テレビに時々出てくる石原慎太郎を見て、ずゐぶんと年をとつたなと感じる。衆議院議員を辞職するときにあれだけ啖呵を切つたのに、のこのこ選挙に出てくるなんてと思ひ、そして総理大臣に意欲を見せるのも塔が立ちすぎだなと思つて見てゐた。

 でも、小説はいいな。

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 もう十年ほど前かな。「僕は結婚しない」といふ小説をやはり雑誌で読んで、いいなと思つた。何が、どういいのかをいふのが文藝評論だらうが、ここはそんな場ではないので、思ひ切り感想だけを書くと、青年期の切ない思ひが滲みでてゐたやうに思ふ。当時も七十歳ぐらゐだらうが、しかも都知事といふ激務のなかで、瑞々しい感覚を携へてゐられる能力に引き付けられた。

文学界 2013年 10月号 [雑誌] 文学界 2013年 10月号 [雑誌]
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発売日:2013-09-06  そして、今月号の「文學界」の巻頭に「やや暴力的に」といふ小説が載つてゐたので、思はず手にしてそのまま買つて讀んでみた。短編をいくつか書いたものであるが、今度はたいへんな孤独を感じた。海に一人で漂流してしまふ「隔絶」は特にその感が強い。海の嫌ひな私には讀んで背筋がぞくぞくとするやうで、その恐怖が生々しいほどに感じられた。

 芥川賞の詮衡委員を降りて、あの強烈な新人批判を読めなくなつたのは残念だが、かうして御当人の小説を讀んでも、その批評の正確さが分かる。石原慎太郎の小説は

いい。今回もさう思つた。

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近代藝術の終はり? 現代藝術の始まり?

2013年09月08日 11時30分56秒 | 日記・エッセイ・コラム

 福田恆存が始められた現代演劇協会の、創立50周年を記念する公演「夕闇」(ノエル・カワード)を見に、久しぶりに東京に出かけた。120席ほどの客席しかない会場は満員ではあつたが、これが最後の公演とは正直寂しい。つまりは、創立50周年が解散記念の公演になるといふことであつた。一人の男が余命九ケ月を宣告される芝居の内容は、そのまま余命のない協会の最後の舞台といふことであらうか。日本語で話される夫婦の会話は、やはりどこか日本的夫婦の会話のやうで、どことなく湿度のある互ひが浸食しあつてゐる印象が強く、一人の孤独に耐へてゐるといふ干からびたチーズのやう(どこかで聞いたやうな比喩)なものではなく、ワインがしみた古いパンのやうなものであつた。前者ならあきらめるしかないが、後者ならもつたいないなといふ思ひの方が強い。それにしても、これだけの人しか集まらないのであれば仕方ない。床のカーペットも、柱の作りも、舞台の調度品も、壁にかけてある絵も、照明の質感も、じつに四日間の公演だけに用意されたものとは思へない出来である。真面目な取り組みが福田恆存の精神なのであらうが、続けることの意味もそこに加へられて、手を抜くところは手を抜いて、もつと長く続けることを考へても良かつたのではないかと思ふ。

 アサーミラーの『セールスマンの死』は、どこかの舞台で上演されるのであらうが、シェイクスピアの正統な舞台は、もう見られないのであらうか。どうせなら、福田恆存が生きてゐた時代に、自ら幕を引いてほしかつた。

公演は、本日8日まで。

Pop_art

 さて、この公演を見る前に、いつもながら美術館に行つてきた。今回もまた東京新国立美術館、「American Pop Art」展である。1960年代以降の現代芸術は、このポップアートに代表される。その印象は、広告である。ポスターであり、パッケージであり、商品の意匠である。それが現代を表現してゐる、といふのは確かにその通りであらう。写真の発明が、絵画の意味の再定義をほとんど脅迫状のやうに近代美術に求め、印象派、抽象表現主義を経て、意味そのものを拭ひ取るといふ方向で美術が変化してきた。アンディ・ウォーホル、ラウシェンバーグ、ジョーンズ、リキテンスタイン、オルデンバーグ、ローゼンクイスト、ウェッセルマン、私には未知の人もゐるが、かういふ人々が輩出され続けたといふことは、現代藝術にさういふものが求められたといふことであらう。

 今回の作品は、そのほとんどがジョン・アンド・キミコ・パワーズ夫妻のコレクションである。まだほとんど無名であつた作者による作品群を当時から買ひ集めた「卓見」は鋭角的だ。時代がどういふ性質のものであるのかを知つてゐたといふことは、絵画蒐集家として卓越してゐる。

 では、さうしたものが、果たして現代藝術の始まりを意味するのかと言へば、私にはどうにも近代藝術の終焉にしか感じられなかつた。その価値を否定してゐるのではない。私は感動して見てゐた。どう見たつて美術ぢやないといふ内心の声を聴きながら、これしかなかつたんだといふ声を同時につぶやいてゐた。きちんと終はらせるには、彼らの藝術をきちんと社会に受け入れさせることが不可欠なのである。ひつそりと終はつてはいけない。徒花であつても咲かせなければならない、さういふ気概をそれらから感じた。当時においては相当に活きがいいものであつたはずである。もちろん、かうしたものが五百年経つて、修復作業を加へるに値するものになるかどうかは分からない。しかし、20世紀後半とはかういふものが求められてゐた時代であつたといふことを示すには、恰好の資源とならう。そのとき、美術史の教科書に現代藝術の始まりと書かれてゐるのか、あるいは近代藝術の終焉と書かれてゐるのかは分からないが、そのキッチュな感触は、確かに私たちのものであるとは言へる。岡本太郎に対しても私は同じ思ひであるが、皮相で偽物であるがゆゑに現代であると感じる。そして、私はそこに惹かれてしまふ。単なる好事家として、これら現代藝術に切ない思ひを抱き続けてゐる。

10月21日まで。

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福田恆存と朴槿惠韓國大統領

2013年09月02日 21時00分32秒 | 日記・エッセイ・コラム

 韓國の朴正煕元大統領と福田恆存とは、旧知の間柄であつたから、その夫人が亡くなつた後、ファーストレディとして同伴した娘の朴槿惠氏とは面識があつたはずである。私の記憶では、「孤独の人、朴正煕」に一回だけ出てきたと思ひ、讀み返すと、こんな言葉があつた。

「父を日夜、見るごとに、その肩にどれほどの重荷を背負つて苦しんでゐるのか、それを想ふとたまらなくなります。」

 日本語で話すはずはないので、通訳を交へての韓国語か、あるいは英語か。そのニュアンスは、その場にゐた者しか分からないが、38度線で対峙した緊張時代の空気が今も伝はつてくる。そして、その緊張感は、現在の朴大統領、つまりはその娘の肩にも重荷として乗つかつてゐるのだらう。日本では批判ばかりのこの大統領であるが、私はあの朴正煕の娘であるといふことにおいて、信じたい思ひを否定しきれないでゐる。

 韓流ブームが去つたといふ。田舎に引き込んでしまつたので、それがどの程度のものであるかは分からないが、さう言へばファンをウナギと呼ぶ下劣な韓国人青年も画面からは消えてしまつたやうにも思ふ。それはそれで一向に構はないが、日本と韓国との関係が強いものであるべきとの思ひは消えない。私が最も恐れるのは、中国の動きである。拝金主義や軍国主義や唯物主義や中華思想など、警戒すべき生活習慣をすべて持ち合はせてゐる彼の国は危険である。その警戒心を緩めてはならないものと思ふ。そのことに、韓国政府や韓国民は気づいてほしいと思ふ。

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