言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

時事評論石川 2022年6月号(第818号)

2022年06月18日 15時48分05秒 | 告知

今号の紹介です。

 川久保先生の道徳教育についての論考に刺戟を受けた。現在、中学校で「道徳」を高等学校で「公共」が必修教科・科目になつてゐる。そこで「国民のあり方」を教へる場面では「国を愛する態度」といふ表現は使用しない方がよいとの指摘で、主観的な表現である「愛」はこの場合馴染まないといふ趣旨でもある。全くその通りだと思つた。しかし、それ以前に、道徳を学校で教へるといふことに無理はないかといふことも感じた。

 例へば、美術といふ科目が中学高校にある。授業では大概絵画を描かせるのだが、果たしてその作品は藝術品だらうか。おままごとよろしく、誰かの見様見真似で製造過程をなぞつていく。以前には写生を中心としたデッサン力を養ふことに主眼が置かれてゐたやうであるが、私が見聞きする限り現在では「思つたことを描きなさい」といふスタイルが多いやうだ。つまりは「創造ごつこ」である。生徒一人一人には構想理想があるといふことが前提で、それが材料の抵抗に合ひながら造形していくプロセスを通じて実体化するといふことを体験することで、美術活動をしたといふことになる。考へてみれば、初等中等教育の学びとはいづれもさういふものであるのかもしれない。数学にしても英語にしても同じことで、すべて「ごつこ」である。だから、そこからは藝術家も数学者も英語学者も生まれない。当たり前だ。なのに、道徳の授業では「徳」が求められてゐる。態度や資質を求められてゐるわけだ。そこがをかしくはないか。私はさう思ふ。道徳といふ授業の何となく強張つた、学ぶ方も教へる方も堅苦しい感じがするのはそのせいである。それならば、いつそのこと「ソーシャルスキルトレーニング(社交技術訓練)」とでも名付けて、いろいろな場面でどういふ対応をしたら良いかを考へ実践させてはどうかと思ふ。

 道徳といふものは教へられるとしても、それは国家が担へるものではない。あくまで人である。道徳とは何かを考へ続け身もだえしながら生きてゐる人が無言のうちに伝へるものである。偉人の伝記でもよいし、市井に生きる人かもしれない。あるいは宗教家かもしれない。さういふ人が少なくなつて来たから、学校教育で量産しませうといふ発想が随分非道徳的なのである。「美しい国」はさういふことでは実現しないだらうに。教育を買ひかぶるな。教育を見くびるな。さう思ふ。

  どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。  1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)
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祖国を忘れた戦後日本 ウクライナ機器が突きつけることども

        帝京大学教授 井上義和

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コラム 北潮(E・H・カーの新訳が出るのはなぜか)

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「国民のあり方」を教える道徳科に向けて

  麗澤大学大学院教育研究科教授 川久保 剛

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教育隨想  何が広島の教育を狂はせたのか(勝)

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それでも韓国は変わらない―尹大統領の言や良しされど…

  翻訳家・韓国、朝鮮研究者 荒木信子

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コラム 眼光
   甲状腺がん番組の虚構(慶)
        
 
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コラム
  世代を超える(紫)

  ウクライナ戦の今後ー第一次大戦との比較(石壁)

  戦争を語るには教養がいる(星) ← 紙面では「ゐる」となつてゐるが「要る」「いる」である。

  マスメディアの懶惰(梓弓)
           

  ● 問ひ合せ     電   話 076-264-1119    ファックス   076-231-7009

   北国銀行金沢市役所普235247

   発行所 北潮社

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村上陽一郎『エリートと教養』を読む

2022年06月13日 15時25分25秒 | 本と雑誌

 

 

 

 村上陽一郎は、ここぞといふ時に大事なことを書いて指摘してくれる碩学であると思つてゐる。反知性主義といふ言葉の誤用も、コロナ禍の日本の政府の対応の不備も、きちんと指摘してくれてゐた。

 『村上陽一郎全集』なるものがどうして出ないのか不思議であるが、体系だつた文章を書かれないからであらうか。教養人といふものの役割を十分に果たされてゐるかういふ方の文章は、きちんとまとめていくのが出版社の現代的意義であらう。

 本書は、必ずしも一つのことを目指して書かれてゐるものではない。言つてよければ「エリートと教養」といふタイトルをつけることで、逆にさういふ主旨なのかと気づかせてくれる内容である。途中、現代日本語や音楽の話になつたときには、少々タイトルとの齟齬を感じたくらゐである。それよりは、むしろ副題の「ポストコロナの日本考」の方が要領を得てゐる。が、それでは読者は何のことかは分からない。手にして本を読ませるにはその「考」の中身を示さなくてはならないからだ。

 本書は教養人が現代日本を、あるいは現代日本人をどう思つてゐるのかを、結構厳しい筆遣ひで書かれてゐた。孔子は「唯(ただ)女子と小人とは養い難しと為す。之を近づければ則ち不遜なり。之を遠ざくれば則ち怨む」と言つてゐるが、まさにかういふことを直接言はれれば「怨む」こと必至の言である。それでも敢へて村上氏は書くのは、教養人としての使命があると自覚されてゐるからだと思ふ。本物のエリートである。

「自らの規矩はしっかりと定め、守りながら、それ以外の規矩に従って行動する人々を理解するだけの自由度を、自らのなかに持ち続けること、これも『教養ある』ことの一つの局面であります。」

 この一言を以て、氏が世の諸事象についてどのやうに考へ、どのやうに行動し、そして人々にどのやうに語り掛け、話を聴いて来たのかが分かるやうに思へた。厳しい人であると思ふ。学問の師として接すれば、きつと字句の一つ一つにまで赤字を入れられるやうな人であるとは思ふ。が、それでも変はらずに教へ導くことを止めない方のやうに思へた。

 ちなみに、氏は私的な文章は歴史的仮名遣ひで書かれてゐると言ふ。かういふ方が今もゐるといふことが嬉しかつた。

 

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