今号の紹介です。
川久保先生の道徳教育についての論考に刺戟を受けた。現在、中学校で「道徳」を高等学校で「公共」が必修教科・科目になつてゐる。そこで「国民のあり方」を教へる場面では「国を愛する態度」といふ表現は使用しない方がよいとの指摘で、主観的な表現である「愛」はこの場合馴染まないといふ趣旨でもある。全くその通りだと思つた。しかし、それ以前に、道徳を学校で教へるといふことに無理はないかといふことも感じた。
例へば、美術といふ科目が中学高校にある。授業では大概絵画を描かせるのだが、果たしてその作品は藝術品だらうか。おままごとよろしく、誰かの見様見真似で製造過程をなぞつていく。以前には写生を中心としたデッサン力を養ふことに主眼が置かれてゐたやうであるが、私が見聞きする限り現在では「思つたことを描きなさい」といふスタイルが多いやうだ。つまりは「創造ごつこ」である。生徒一人一人には構想理想があるといふことが前提で、それが材料の抵抗に合ひながら造形していくプロセスを通じて実体化するといふことを体験することで、美術活動をしたといふことになる。考へてみれば、初等中等教育の学びとはいづれもさういふものであるのかもしれない。数学にしても英語にしても同じことで、すべて「ごつこ」である。だから、そこからは藝術家も数学者も英語学者も生まれない。当たり前だ。なのに、道徳の授業では「徳」が求められてゐる。態度や資質を求められてゐるわけだ。そこがをかしくはないか。私はさう思ふ。道徳といふ授業の何となく強張つた、学ぶ方も教へる方も堅苦しい感じがするのはそのせいである。それならば、いつそのこと「ソーシャルスキルトレーニング(社交技術訓練)」とでも名付けて、いろいろな場面でどういふ対応をしたら良いかを考へ実践させてはどうかと思ふ。
道徳といふものは教へられるとしても、それは国家が担へるものではない。あくまで人である。道徳とは何かを考へ続け身もだえしながら生きてゐる人が無言のうちに伝へるものである。偉人の伝記でもよいし、市井に生きる人かもしれない。あるいは宗教家かもしれない。さういふ人が少なくなつて来たから、学校教育で量産しませうといふ発想が随分非道徳的なのである。「美しい国」はさういふことでは実現しないだらうに。教育を買ひかぶるな。教育を見くびるな。さう思ふ。
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