言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

時事評論――最新號

2006年03月28日 21時23分11秒 | 告知

3月20日號

民主黨「危機」の本質――拓殖大學客員教授  遠藤浩一

民意は現状維持=統一拒否〈臺灣入門〉――平成國際大學教授  淺野和生

「テロ戰爭」といふ名の石油獲得戰爭――評論家  植田  信

(コラム)

貧困の原因は奈邊に?(菊)

4月から圓安は第三波に(佐中明雄)

「高みの見物」?の朝日(蝶)

遺骨を祀る神社ありや(柴田裕三)

問ひ合せ

電話 076(264)1119    ファックス076(231)7009

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言葉の救はれ――宿命の國語64

2006年03月25日 23時10分47秒 | 福田恆存

福田恆存は、かう記してゐる。これをお讀いただければ、山崎氏と福田とどちらが人間を正確に、そして正統的に見てゐるかは明らかであらう。

演技とは、搖れ動く偶然の諸要素を脚下にふまへて、自己の平衡を保つアクロバティックを意味するものである。たんなる對世間的な處世術に墮するゆゑんだ。ただ偶然に見をゆだねて飛んだり跳ねたり、しかも見つともなく尻もちをつかぬといふおもしろさががあるだけで、ひとつの必然を生きようといふ烈しい意志は、どこにも見られない。本來、演戲とは現實の拒否と自我の確立とのための運動であるはずだが、いはゆる演技説の演技は現實とのつきあひのよさ、自我の妥協しか意味しない。

『人間・この劇的なるもの』

そして、かう結論づける。

 おそらく、私たちの自我といふ觀念そのもののうちに、なにか誤りがあるのであらう。私はかう思ふ。私たち日本人は、自我のうちに自分と他人といふ二つの要素しか見てゐない。他人を見る自分と、他人に見られる自分と。したがつて、自意識といふものが、たんに心理學的平面においてしかとらへられないのだ。それはあくまで相對主義的である。いはゆる演技が他人に見せるためのものに終始するのも當然であらう。(中略)

 しかし、自我は自分と他人といふ相對的平面のほかに、その兩者を含めて、自他を越えた絶對の世界とかかはりをもつてゐるのである。(中略)私のいふ演戲とは、絶對的なものに迫つて、自我の枠を見いだすことだ。自我に行きつくための運動の振幅が演戲を形成する。なんとかして絶對的なものを見いださうとすること、それが演戲なのだ。

『同右』

 

福田が「個人は、全體を、自己を滅ぼすものであるがゆゑに認なければならない」と言ふ時には、個人と全體とを繋ぎとめる「絶對者」の存在を認めてゐるのである。絶對者を認ない平面的世界のなかで個人を全面否定してしまへば、個人は救はれない。すべての關係が斷たれるからである。しかし、絶對者を認める立體的世界のなかで生きてゐるとすれば、全體から否定されても、絶對者との關係は斷たれることがない。「絶對」の言葉本來の意味がさうであるからである。そしてその絶對者が、救濟する主體として表はれるのである。だから、個人は安心して全體から否定されるべきだと言つてゐるのである。そのやうな精神の活動の表出が「演戲」であるといふのである。山崎氏の「演技」が平面的な自意識の表出であることとは、對照的である。

ちなみに、福田の初期の論文に「一匹と九十九匹と」といふものがあるが(もちろん、これは聖書から材をとつたものである)、文學は一匹を救ふものであり、政治は九十九匹を救ふものであるとの意である。そして、このことの底意は、兩者は等しく絶對者によつて救はれるといふことがある。だから、文學は一匹を優先し、政治は九十九匹を優先するといふことなのであつた。

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おめでたう。王NIPPON世界一――今日は輕めに

2006年03月21日 19時53分05秒 | 日記・エッセイ・コラム

 WBCで日本が見事世界一になつた。荒川靜香の金メダルと福井日銀總裁による量的緩和解除と共に、慶賀すべき話題である。

 何よりも讚へたいのが、王監督の采配である。見事といふ他はない。私は野球について詳しい説明をできる力はないが、人はどうしたら動くかといふことについては多少分かる。無口でゐながら、それでゐて選手の心を掴む力量を感動をもつて見てゐた。上原などがなにやら口に入れてゐたものを地面に吐く姿や、金メダルをもらふ場面でガムを噛んでゐた西岡の姿には、正直「哀しく」思つた。が、王監督だけは、そんな不細工な姿とは無縁であり、試合終了後の相手の選手との握手に際しても脱帽して對してゐた。

 思へば、アメリカ戰での誤審の時にも、王監督は記者會見で「野球がスタートした國でかういふことがあつてはならない」と語つた指摘は、十分に批評的であつた。それはアメリカの良心に訴へるものであり、事實良識ある媒體では、アメリカの非を認めてゐた。なるほど、王監督といふ人は、人を見てゐるのではなく歴史を見てゐるのであり、天を見てゐるのである。大仰な言ひ方ではあるが、私にはさう思はれる。もちろん、王さん自身が自覺的であるとは思はない。しかし、それは體現されたものであり、所作に現れてゐる。ガムは食べないし、勝利を前にして浮かれないし、ましてやグラウンドに口の中の物を吐きはしないのである。

 日本の野球を見せようとしてゐたのである。そして、その精神を辛うじて自覺してゐるのが、イチローなのであらう。

 精神論的な解釋は意味のないことかもしれない。しかし、勝つた時こそ、その内實を省察し戒めることは必要であらう。私たちは、日本人である。日本人としての野球をしてほしいし、見たいのである。アメリカナイズした仕種は、もう見飽きてしまつたのである。そろそろ日本野球に戻つて良いのではなからうか。

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言葉の救はれ――宿命の國語63

2006年03月21日 12時02分14秒 | 福田恆存

原理的に言つても、社交はせいぜい目の前にゐる知人との間の美學でしかない。意識はたえず目の前にゐる人からどう見られるかに集中するから、その人との關係が壞れれば美學はなくなる。ましてや社會は、目の前にはゐない他人の集合である。そこでどうやつて美學を作りだすのか、言ひ返れば互ひの自我をどうやつて否定するものを假設できるのか、この問題こそを今は考へなければならないのである。それが知識人ごときにできるとは思へないが、知識人がやるとすればそれを考へることであるはずだ。

もう山崎氏には、さうした新しいことを考へることはできないのだらう。議論にはますます冱えがなくなつてしまつてゐる。いささか禮を缺くかもしれないが、喩へれば、コーヒーが足りなくなつたからお湯を加へてアメリカンコーヒーですと僞つて出すやうな感じである。かつて出した『演戲する精神』を『社交する人間』と題を變へただけで、中身は變はつてゐない。それどころか、以前より精緻さも現状分析力も劣つてゐる。それでも知識人としての責任感だけは強いから、大衆消費社會を良い方向に持つていく手立てを、手持ちの古びた思考道具で作りださうとしてゐる。氏獨特の文體の持つ魅力は健在であるが、やはり「薄いコーヒー」のやうな印象は拭へない。

山崎氏の論考は、「アステイオン」誌上で「社交する人間」としてまとめられ現在、連載の二囘目が終はつたところである。その主旨は、まだ途中であるから正確につかんでゐるとは言はないが、これまでを見て新たに提出された論據はない。ゲオルク・ジンメルの『社會學の根本問題――個人と社會』、ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』、R・G・コリングウッドの『藝術の原理』を丁寧に檢討・考察していくが、いづれも山崎氏が古くから援用してきた「手持ち駒」である。

簡單に要約してしまへば、それは、「社交する人間」のタイトルが示すとほり、自我の擴張は他者の目を意識する社交を通じて制御されるため、人間は自己顯示だけでも他者依存だけでも個人として存在できない兩義的なものであるといふのだ。これはいつもの氏の人間觀である。

記述は念入りで、文體も魅力的であり、全く非の打ち所のない論説であるやうに見える。が、やはり山崎人間論の缺點は今囘もまた温存されたままである。

私は、人間が氏の言ふやうに兩儀的な存在であるといふことに問題を感じてゐるのではない。自我とその否定要因(他者)との關係を、より注意深く考察する必要があると言ひたいのである。相手の目に映る自我が本當の自我であり、その目に映る自我を、うまく自分の意識の下に制御しようと演戲する精神を、社交の精神とし、それが人間の意識行動の本質であるとする人間觀だけでは、分からないものがあるのだ。

これでは、きはめて平板な精神の活動でしかない。福田恆存が人間の意識行動を「演技」と「演戲」とに分けたが、山崎氏のそれは「演技」でしかない。

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言葉の救はれ――宿命の國語62

2006年03月16日 22時31分02秒 | 福田恆存

個人主義が、柔らかい方向に進むといふことを強調する山崎氏の主張は、前回見たやうにドイツの知識人からはまつたく相手にされなかつた。

しかしながら、「柔らかい個人主義」者の山崎氏はそんなことにはいつかうに意に介さない。意見の擦れ違ひは、ドイツの研究者の日本分析が未熟であると言はんばかりであり、自信滿々に受け答へしてゐた。そして、今日までその考へを修正してゐない。少なくとも意識して修正してゐるといふ素振りは見せない。

しかしながら、仔細に見れば微妙に現代社會にたいする評價に違ひを見せてゐる。

現在、山崎氏は、個人主義化していく個人が社会との關はりを求めていく場所として、大衆社會はふさはしくないとし、個人と個人との間に注目し、そのありかたを「社交」として見つめて考へを進めてゐる。新しい個人主義の誕生の舞臺を「消費社會」であり、「大衆社會」であると見てゐたその人が、「社交」といふのである。社交と言ふのなら近代以前もあるし、それこそ歌合はせや茶の湯の傳統は社交の粹であり、古來からある日本の文化である。消費社會になつて生まれたものではないはずだ。

一方では消費社會を讚美し、他方ではその蔭で衰退してしまつた社交の復活を言ふ。それが知識人の責任であると言ひたいのであらう。しかし、それは口實である。消費社會からは「美學」が生まれないことを感じたから、社交といふものに注目したのである。

電車のなかで、注意した人が、注意された人によつて殺されるといふのが大衆社會である。それはすべてが他人だからである。私も經驗がある。中央線の荻窪驛邊りで、大きな音を鳴らして音樂を聞いてゐる青年に「少し音を小さくしてくれませんか」と言つたら、なんと「お前の電車ではない」といふ返事である。とつさに「あなたの電車でもない」と答へたら、「俺は自分で切符を買つて乘つてゐる。自分の座つた場所で何をしようと勝手だ」と用意してあつたかのやうな迷答が返つてきた。アツケにとられたが氣をとりなほして、「君、乘車券とはなにか知つてゐるか、そしてそれが乘車權とどう違ふか知つてゐるか」と言つてやらうと思つたが、その青年の顏をあらためてじつくりと見て、ばかばかしくなつてしまひ、晝前の空いてゐる時間であつたから隣の車兩に移つていくことにした。それで、終はつた。もちろん、二三時間は不愉快な氣分であつた。その外にもいろいろとその種の「不愉快な出來事」には遭遇してゐる。

大衆社會とは、「柔らかい個人主義」よりも、かういふ「硬い個人主義」――それは「自己中心主義」の別稱であらう――を多く生みだすといふ見方の方が正しいのではないか。それなら、さうした硬い個人(強いエゴ)を否定するなにかを社會にやはり假設しておく必要があるのではないだらうか。神のゐない國にあつて自己を否定することの難しさ、それを感じるのが正統である。それをどういふことからなのだらうか。いまさら社交などと言ふのである。そのズレぐあひは可笑しい。

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