言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

インスタントラーメン発明記念館へ行く

2016年07月30日 07時44分43秒 | 日記

 大阪にゐた頃には、行つたことがないところを少しずつ訪ねて行かうと思つてゐる。今夏は、池田市にある「インスタントラーメン発明記念館」を訪ねた。http://www.instantramen-museum.jp/jp/

 前々からその存在は知つてゐたし、オリジナルのカップラーメンを作ることもできるといふことも聞いてゐた。「いつでも行ける」といふ思ひと「カップラーメンなんて」といふ思ひとがあつて、ためらつてゐた。忙しかつたといふこともある。でも気にはなつてゐた。

 ジャンクフードといふものの定義は、「カロリーはあるが栄養のないもの」である。カップヌードルはその典型である。「カロリーと栄養」とがパラレルであつた時代には、かういふ食べ物は存在しなかつた。戦後の社会が生み出した正統な食べ物なのであらう。決して接客時に出される食べ物ではないけれども、市井の私たちには欠かせない食べ物である。さういふものへの評価をきちんとできなければならないとの思ひがあつた。

 カップラーメン作りには予約は必要なかつた。ものすごい人だかりで驚き、そのほとんどが外国からの観光客であるのも驚いた。説明を受ける時も「日本人ですか」と訊かれた。ちょっとポップなシャツを着てゐたからかもしれないが、それほどに外国人が多かつたのである。

 

 

 上は、発明に至るまでに実験を繰り返した部屋の再現。屋根に雀が二羽乗つてゐた。かういふところがいい。一人で孤独に作業を進めてゐた。時間はそれをはお構ひなしに進んでいく。自然と人為。その対比を象徴してゐるやうに思はれた。発明に至るまで家族はどう思つてゐたのであらうか。それをふと感じた。小屋は、完成の目途が立つた1958年3月5日の未明、安藤百福(ももふく)が眠りについた直後の光景を再現したものだと言ふ。

 カップラーメンができるまでを描いたアニメを見る部屋があつた。一つの製品が出来上がるまでには、ベールを一枚一枚はがしていくやうに、試練と克服との連続である。何かを始める前には気づくことができない試練が次々に現れて来、それを時間をかけて(時間がかかって)解決していく。構想が現実化していくまでの工夫が問はれていく。完成すれば、まさに「コロンブスの卵」と思はれるやうなことも、出来上がるまでには全く見えてゐなかつた事柄である。それが現れるまで忍耐し、工夫する。さういふ時間が尊い。物作りに求められることであり、喜びでもある。百福の精神をその後の技術者もまた受け継いでゐるのだらう。

 カップラーメンを作つた。カップ代として300円を払ふ。あとはカップに絵を描いて、入れる具材を選択すれば完成。広い部屋いっぱいに親子が座り、ワイワイ言ひながら絵を描いてゐた。作業であつた。

 二階には、安藤が毎年書いてゐたといふ年頭所感の書が並べられてゐた。その字が素晴らしかつた。書を愛好してゐたのであらう。経営者で字がうまい人。今はゐるのだらうか。

 外国から友人が来たら、一度案内してみたい。東京や地方の友人たちも関心があるなら連れて行つてもいいなとも思つた。製造過程には戦後の日本があつた。

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