言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語146

2007年03月29日 22時44分23秒 | 福田恆存

八 丸谷才一の「日本語」觀を憐れむ

  今囘から數囘に渡つて、丸谷才一の「日本語」觀を論じたい。既に以前にも記したやうに、丸谷氏は私たちが書き話す言葉を「國語」と言はず、「日本語」と言ふ。大野晉氏と取り組んだ全集スタイルのシリーズ物の名稱は『日本語の世界』であつたし、國語問題などについて論じた書物のタイトルも『日本語のために』や『桜もさよならも日本語』であつた。そのことの非は、既に述べたので繰り返さない。

  では改めてなぜ丸谷氏を問題にするのかと言へば、毎年學生たちが夏休みに入る直前に朝日新聞は、自社廣告で前年の大學入試で使用された朝日新聞の數を發表するらしが、今囘その使用された文章中最も多く使はれたのが、この丸谷氏の「考えるための道具としての日本語」といふものであつたと知つたからである。

私は朝日新聞は讀まないからその内容を知らなかつた。ただ、日本の最高學府の先生方が、受驗生に讀ませたい國語の文章として丸谷氏のものが第一に使はれるといふことは、その國語觀に贊意を寄せてゐるといふことであらうから、圖書館に行き、縮刷版を見てみることにした。そして、その國語觀を一瞥しておく必要があると感じた。

作家であり評論家でもある丸谷才一氏といふ人物はかつて、日本國憲法の文章は、大日本帝國憲法の文章より國語としては上等である(正確に言ふと「達意のある文章」と書いたのである)と「暴言」を吐いたことがある。そして、福田恆存に『問ひ質したき事ども』できつぱりと裁斷されてゐる。この程度の文書觀で示される國語觀を、受驗生に讀ませる日本の教授陣の見識はどの程度のものであるのか、傍證ながら示しておかう。いちいち出題大學は擧げないが、國立私立問はず、錚々たる大學である。

まづその長たらしいタイトル自體が、考へるための道具として日本語を使つてゐない證據であると揶揄したくなる衝動にかられる(「思考道具としての國語」あるいは「國語の論理性」とでもすれば良い)。

文章をお讀みになつてゐない方のために御紹介すれば、平成十四年七月三一日の夕刊の頁である。

  これが案の定、ひどい。

「いま日本人はものごとをどう考えたらいいかわからなくなって、途方に暮れている。日本語のことがあれこれ取り沙汰されるのは、そのせいではないか」といふ文章で始まるのだが、

 いま日本人がどう考へたら良いのか分からなくなつたのは、せいぜい經濟のことなのであつて、景氣が良くなれば雲散霧消する程度の惱みや不安なのである。「ものごとをどう考えたらいいかわからなくなって」ゐるなどといふ丸谷氏が暗示するやうな本質的な次元での迷ひではない。もしそれが本當なら、丸谷才一氏自身、自身の小説は今日の市民社會を活寫するものを目指すといふのであるから、今囘發表された『輝く日の宮』にでも、その不安を登場人物たちに語らせなければなるまい。ところが教養小説然として、奧の細道やら源氏物語やらの研究に沒入する人物しか描いてはゐない。書いてゐるものが自説を否定してゐるのである。いかに恣意的な評論であるかが、この一事を見てもうなづけよう。

文春新書 

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価格:¥ 714(税込)
発売日:2002-11

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復刊『國語學原論』

2007年03月27日 22時18分41秒 | 国語学

国語学原論 上 (1) 国語学原論 上 (1)
価格:¥ 735(税込)
発売日:2007-03
  岩波文庫で、時枝誠記の『國語學原論』が復刊された。まことに慶賀すべきことである。時枝誠記のついて、このブログの讀者ならあらためて説明する必要もないので、くどくどと説明はしないが、「言語過程説」といふものを主張し、構成主義的言語觀(橋本進吉によつて提唱され、今日の學校教育の文法の基礎になつてゐるもの)にたいして異論を唱へたものである。

   この本の初版は、昭和16年である。時枝が當時の植民地朝鮮半島の京城帝國大學の教授をしてゐて、想を得たものである。

  上下2卷のうち、今月はその上卷のみの發行。假名遣ひは「現代かなづかい」に、漢字は新字體に改められてゐるが、まあ讀んでもらへればこれにまさることはない。廣く讀まれることを期待する。

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福田恆存の劇團ではないのか。

2007年03月25日 20時07分30秒 | 福田恆存

  先日、三百人劇場閉館を記念して作られたDVD「ありがとう三百人劇場」を見た。内容は、劇場内の樣子を映したものや劇團員のコメントなどを輯録したものであるが(正直あまり覺えてゐない。一ヵ月ぐらゐ前だからかもしれないが、印象は薄いのも事實)、そこにはまつたく福田恆存に觸れられてゐなかつた。「ありがとう」などと書くところに象徴的に表はれてゐる。そして、御子息の福田逸氏についても何も觸れられてゐない。私は單なる贊助會員だから、その内情は知らないが、これはクーデターだな、そんな氣がした。

  今朝、2ちゃんねるを見たら、こんなコメントがあつた。

三百人劇場閉館に言及する人が少ないのに驚いた。
劇団昴に言及する人もほとんど理事長氏がらみだし、
昴スレに恆存のことを知らない人がいたし、
昴のファンと福田のファンは今もうほとんど被らない、断絶しているんだね。」

  まつたく同感である。福田恆存と昴のファンは斷絶してしまつたのである。しかし、その生みの親を捨てて、今後があるだらうか。私には疑問である。谷田貝氏に先日お會ひしたときに伺つたことであるが、「福田恆存先生は、劇團なんてゐらないんだ。稽古できる假小屋さへあればいい。さうおつしやつてゐた」と言ふ(私の聞き書きなので、正確ではない)。さうだとすれば、今日の状態は、本來の形になつたといふことであらうか。たとへさうであつたとしても、少なくとも三百人劇場閉館記念に作られたDVDに、福田恆存の名を記すべきである。

「『雲』の殘留組と『欅』とを一緒にして劇團『昴』を作つて現在に至つてゐるが、肝心の私は、四半世紀前『雲』を作つた時の夢をそのまま持ち續けてゐる同じ私である。が、その私はもはや若くはない、このまま一體どれほどの人がついて來てくれるのであらうか。」

  これは、全集の第五卷に書かれた覺書である。さて、これからの昴が、どういふ道をゆくのか。その指針は、劇團「雲」を創立したときの「聲明書」にある。皆、この三百人劇場閉館について書かないから、私は2ちゃんねる子に應へて書く。まあ、何の影響力もないんだけれど。

福田恆存全集〈第5巻〉
価格:¥ 7,560(税込)
発売日:1987-11

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時事評論石川――3月號

2007年03月24日 08時21分16秒 | 告知

○最新號の目次を以下に記します。どうぞ御關心がおありでしたら、御購讀ください。1部200圓です。年間では2000圓です。

南京攻略戰70年  日本軍の不法殺害は本當に在つたのか

    ――對中國軍掃討、殲滅戰は純軍事行動――

                       近現代史研究家     阿羅 健一

北朝鮮・拉致問題に關するQA

       ――拉致は單なる誘拐事件ではない、なぜなら・・・・・・――

    特定失踪者調査會代表・拓殖大學教授      荒木 和博

奔流  河野氏の政治責任を問ふ

       ――謀略には「事實」で迫れ――

                                   (花)

コラム

             魂膽見え見え 民主贔屓の朝日       (蝶)

             續・教育改革論議の忘れ物        (柴田裕三)

             日本「孤立化」論の愚          (菊)

             「内部告發」の是非                        (星)            

  問ひ合せ

076-264-1119          ファックス  076-231-7009

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「早稻田文學」第9號 出來

2007年03月22日 07時57分53秒 | 告知

「早稻田文學」の最新號が出た。早いもので、もう9號である。

   トピックとして、この四月に第10次「早稻田文學」が出るといふ。フリーペイパーではなく、本物のである。樂しみにしてゐる方には朗報であらう。そして、フリーペイパーの方もリニューアルして6月に配布されることになるやうだ。實驗的に始められた文學誌の無料配布、内容形式ともにさらに洗煉されることを願ふ。

  大杉重男氏の「ハイブリッド・クリティック」を讀んでみた。東浩紀(『動物化するポストモダン』の著者)と北田曉大(社會學者だと言ふが知らない)との對談本『東京から考える』(日本放送出版協會)についての批評である。相變らず、かういふ現代思想好きの批評家たちは、「脱構築」といふ言葉が御好きのやうで、デリダやらラカンやらを神樣のやうに思つてゐるのが、鼻につく。何にも信じちゃゐないのに、一人の思想家を「信仰」してゐる言説は、もはや私には滑稽である。「ワセブン」の讀者に次のやうな言葉の意味が分かる人はどれぐらゐゐるのだらうか。

「土地がいくら脱構築されても、誕生は脱構築されない」

  どうして、もつとこなれた日本語で言はないのか。自分の頭で考へてゐないからである。かういふことなのか――「ある土地にかつてはあつた面影が今や無くなりつつあつても、日本人は子供を産み續ける」といふ譯が正しいかどうかはともかく(私には「脱構築」といふ意味が分からない)、自分の頭で考へる努力はしてほしい。大杉重男氏の本も讀んだことはないが、かういふレッテルを貼る仕事ばかりしてゐるのだらうか。

  東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム

東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム
価格:¥ 1,218(税込)
発売日:2007-01

   齋藤美奈子の「舊作異聞」はいつも讀む。今囘は二葉亭の『浮雲』である。主人公の内海文三が靜岡縣出身といふことも發見であつたし、二葉亭が『浮雲』を途中で放り出し、20年も筆を斷つてしまつたといふのも驚きだつた。エッさうだつたか。立身出世といふことが、今の子供達にはあまり關心のないことであり、ましてや文學への憧れなど、無關心どころか意識にものぼるまい。それでも讀んでもらひたい小説である。

浮雲 浮雲
価格:¥ 630(税込)
発売日:2004-10

  編輯部のS君は、今號で「卒業」。御疲さん。

編輯・發行  早稻田文學會  03-3200-7960    wbinfo@bungaku.net

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