八 丸谷才一の「日本語」觀を憐れむ
今囘から數囘に渡つて、丸谷才一の「日本語」觀を論じたい。既に以前にも記したやうに、丸谷氏は私たちが書き話す言葉を「國語」と言はず、「日本語」と言ふ。大野晉氏と取り組んだ全集スタイルのシリーズ物の名稱は『日本語の世界』であつたし、國語問題などについて論じた書物のタイトルも『日本語のために』や『桜もさよならも日本語』であつた。そのことの非は、既に述べたので繰り返さない。
では改めてなぜ丸谷氏を問題にするのかと言へば、毎年學生たちが夏休みに入る直前に朝日新聞は、自社廣告で前年の大學入試で使用された朝日新聞の數を發表するらしが、今囘その使用された文章中最も多く使はれたのが、この丸谷氏の「考えるための道具としての日本語」といふものであつたと知つたからである。
私は朝日新聞は讀まないからその内容を知らなかつた。ただ、日本の最高學府の先生方が、受驗生に讀ませたい國語の文章として丸谷氏のものが第一に使はれるといふことは、その國語觀に贊意を寄せてゐるといふことであらうから、圖書館に行き、縮刷版を見てみることにした。そして、その國語觀を一瞥しておく必要があると感じた。
作家であり評論家でもある丸谷才一氏といふ人物はかつて、日本國憲法の文章は、大日本帝國憲法の文章より國語としては上等である(正確に言ふと「達意のある文章」と書いたのである)と「暴言」を吐いたことがある。そして、福田恆存に『問ひ質したき事ども』できつぱりと裁斷されてゐる。この程度の文書觀で示される國語觀を、受驗生に讀ませる日本の教授陣の見識はどの程度のものであるのか、傍證ながら示しておかう。いちいち出題大學は擧げないが、國立私立問はず、錚々たる大學である。
まづその長たらしいタイトル自體が、考へるための道具として日本語を使つてゐない證據であると揶揄したくなる衝動にかられる(「思考道具としての國語」あるいは「國語の論理性」とでもすれば良い)。
文章をお讀みになつてゐない方のために御紹介すれば、平成十四年七月三一日の夕刊の頁である。
これが案の定、ひどい。
「いま日本人はものごとをどう考えたらいいかわからなくなって、途方に暮れている。日本語のことがあれこれ取り沙汰されるのは、そのせいではないか」といふ文章で始まるのだが、
いま日本人がどう考へたら良いのか分からなくなつたのは、せいぜい經濟のことなのであつて、景氣が良くなれば雲散霧消する程度の惱みや不安なのである。「ものごとをどう考えたらいいかわからなくなって」ゐるなどといふ丸谷氏が暗示するやうな本質的な次元での迷ひではない。もしそれが本當なら、丸谷才一氏自身、自身の小説は今日の市民社會を活寫するものを目指すといふのであるから、今囘發表された『輝く日の宮』にでも、その不安を登場人物たちに語らせなければなるまい。ところが教養小説然として、奧の細道やら源氏物語やらの研究に沒入する人物しか描いてはゐない。書いてゐるものが自説を否定してゐるのである。いかに恣意的な評論であるかが、この一事を見てもうなづけよう。
文春新書
価格:¥ 714(税込)
発売日:2002-11