言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

時事評論石川 2024年5月20日(第841)号

2024年05月25日 12時05分26秒 | 評論・評伝
今号の紹介です。
 久しぶりに原稿を寄せた。政治について思ふところを書けとの依頼に、まづは川勝静岡県知事について書くしかないと思つた。それは氏の理不尽さではなく、手の平返しの県民への怒りである(私は元静岡県民である)。川勝氏の言説は、もう学者時代から変はらない。早稲田大学を辞めた理由から始まつて、氏は自分の気に入らぬことがあればすぐに駄々をこねるのが常套手段である。習ひ性と言つてもよい。今回も全くその通りであつた。もし県民があんな失言で辞めさせるのではなく、氏の政策について評価を下したいのであれば選挙で落選させるべきである。その評価を下さずに辞任に追ひ込んだといふことは、知事にとつてはむしろ「してやつたり」である。「リニア反対」については一貫して支持をされたといふ認識を持つたまま行はれた今回の辞任会見はどこか誇らしげでさへあつた。県民は、いつたい川勝知事の何を評価し、何故に支へてゐたのか、それが全く分からないままの15年間であつた。
 政治の質の劣化は、そのまま民衆の質の劣化である。その通りだらう。民衆による支配といふのが民主主義の定義なのだから仕方ない。民衆が劣化しても政治はまともになるための手段を、民主主義といふ制度は一般的には持ち合はせてゐない。その意味で三面のコラム「眼光」の言ふ通り、国民は自分たちに迎合的な政策であるか否かによつて政権を支持したり批判したりするものなのだらう。
 ところで、私は岸田政権を否定的に見てゐる。四面のコラム「梓弓」の意見に同意する。しかし、私の怒りはやはり政権以上に大衆に向かふ。「お前も大衆だらう」と言はれれば「全くその通り」と答へるしかないが、大衆である自分の劣化を正当化する気には金輪際なれない。自己肯定感はマイナスである。しかし、さういふ理路を通らなければ日本がよくなる道はないのではないか。さう思ふからだ。「破綻してゐるのに安穏としてゐる我が国の現状」には怒りを抱くし、さういふ国民を𠮟りつける政治家がゐないことを憂いてゐる。決して僭主を待望してゐるわけではない。しかし、大衆(トラ)に迎合するばかりの政治家(キツネ)はコリゴリだ。

 ご関心がありましたら御購讀ください。 
 1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)
            ●   
トラの威を借るキツネ―—破綻してゐても安穏な社会
    文藝評論家  前田嘉則

            ●
コラム 北潮(アラン『幸福論』)
            ●
韓国を通して見た日本と周辺国のこれから
    韓国研究者 荒木信子
            ●
教育隨想  「大東亜戦争」をタブーにしてはいけない(勝)
             ●
台湾政界“獅子身中の虫”
    台湾独立建国連盟日本本部中央委員 林 省吾
            ●
コラム 眼光
   政策は支持率上昇の具か(慶)
        
            ●
コラム
  ジェンダー思想の恐ろしさ(紫)
  「誘爆」ならぬ「誘曝」に御用心(石壁)
  「南京事件」にメスを入れよ(男性)
  嘘つき岸田(梓弓)
           
  ● 問ひ合せ     電   話 076-264-1119    ファックス   076-231-7009
   北国銀行金沢市役所普235247
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏川草介『始まりの木』を読む

2024年05月19日 11時40分45秒 | 評論・評伝
 
 夏川草介といふ作家の名前は以前から知つてゐた。『神様のカルテ』といふ作品は映画にもなり、それが人気のある原作に基づいてゐるといふことも何となくは知つてゐた。
 しかし、その映画も原作も見たり読んだりしようとは思はなかつた。主人公を演じてゐるのが櫻井翔といふあまり好きではない俳優だからかもしれないし、医療ドラマといふだけであまり気が乗らなかつたからかもしれない。理由は特にはないが、気が向かなかつたといふことである。
 では、なぜ今回この夏川の小説を読んだのか。これが良くも悪くも日本人的私の生き方であるが、知人に紹介されたからである。
 年若き青年二人から、夏川草介を愛読してゐると言はれ、では読んでみるかと重い腰を上げた次第である。
 読了第一号が、この『始まりの木』である。
 ずゐぶん批評的な小説であつた。漱石の『三四郎』並みの現代日本否定論である。主人公である二人、民俗学者の大学准教授古屋神寺郎とその弟子で修士課程にゐる藤崎千佳とが訪ねる或る寺の住職は「亡びるね」とつぶやく。「金銭的な豊かさと引き換えに、精神はかつてないほど貧しくなっている。私には、この国は、頼るべき指針を失い、守るべき約束事もなく、ただ膨張する自我と抑え込まれた不安の中でもだえているように見える。精神的極貧状態とでも言うべき時代だ」と古屋も語る。柳田國男の民俗学への郷愁やその遺志を受け継がうとの思ひが古屋とそしてそのことに気づき始めた藤崎にはある。それらは師匠の毒舌とそれにもへこたれない弟子の口応へとの軽妙なやり取りから滲み出る。

 先に引用した古屋の発言それだけを、私達の日常にぽつんと置いてみれば、その言葉を受け継いで「さうだ」「さうだ」と相槌が打たれ話題が膨らむといふことはなるまい。きつと白けて、周囲から人は離れ、その言葉だけがそこに残つていくことになる。
 いやいや単行本が売れ、文庫本になるぐらゐ売れてゐるのだから、そんなことはない。日本人は誰もがかういふ現状認識をもつてゐるはずだとの反論が直ちに返つて来さうだが、それは本当だらうか。「精神的極貧」の人が欲しいのは、「金銭的な豊かさ」なのであつて、こんな言葉を求めてはゐない。この言葉を求めてゐる人が多くゐるのであれば、それは日本は大丈夫だといふことになる。
 しかし、もしこの小説のこの言葉が社会的に受け入れられるのであれば、「精神的極貧」であることに気づかない「極貧」といふことであり、もつと深刻な状態なのではないかといふ疑問である。
 果たして日本の現状が奈辺にあるのか、それを知るためには、古屋ばりに日本の現状を憂いて見せればよい。「そんなに卑下する必要はないよ」「大丈夫」「ネガティブな言葉を吐くと暗くなるよ」などと親切ごかしに言つてくる人が多いのであれば、日本の現状は相当に貧しいといふことであらう。
 「始まりの木」は、さういふ絶望を感じた人だけが発見できる木で、柳田國男の覚悟を受け継いだほんの一握りの人だけがその場所を知ることができるのであらう。
 精神的極貧を単純に憂える人、そして無闇にポジティブに生きようとする人、彼らには「始まりの木」は目の前にあつても分からない。そんな気がした。古屋はこの言葉を吐いて問題を克服してはゐない。彼は日常生活に問題を背負ひ込む。しかし気分的絶望家は呟くことで救はれてしまふ。
読者はさてどの位相にゐるか。
 夏川といふ人の日本批評の目がどこにあるのか。この一作では分からなかつた。もう少し読んでみようと思つた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年たけてまたこゆべしと思ひきや命なりけり佐夜の中山  西行法師

2024年05月04日 11時08分28秒 | 評論・評伝
 今日、岡本かの子の小説「蔦の門」を読んだ。
 滋味深い掌編である。
 かの子の実体験であらうか。「書き物」をする「私」は蔦の絡まる門のある家に住むことが多かつたやうだ。その家には年老いた女中がゐた。その女中は性格上の問題もあつて二度も離婚をし、身寄りとも仲たがひをしてゐて孤独である。
 ある日、その蔦を通りかかつた少女たちが切つて遊んでゐた。それを咎める女中と少女たち。犯人と思しき少女もまけじのやり取り、自分と似た性情を感じたのかその少女に怒りと共に親しみも感じることになる。いつしか蔦を切る遊びに関心が失せ、近寄らなくなる少女に寂しさも感じ始める。その少女はお茶屋の娘で、お茶を買ひにその店に行く。その少女もまた父母に先立たれ、伯母夫婦の養女になるかも知れず、気兼ねしながら生活してゐる境遇であることを知る。
 孤独が孤独を引き寄せる。そして、いつしか二人には一定の距離を保つた近しさが生まれる。
 強情な老女中(老婢)の心の中に、「人の子に対する愛」が生まれる。

 かう粗筋を書くと、味気ない身辺記になつてしまふが、かの子の文学には味はひがある。青空文庫にあるのですぐに読める。

 「私」がさうした老婢の変化を見て胸に浮かんできたのが、西行法師の歌である。

 年たけてまたこゆべしと思ひきや命なりけり小夜(さよ)の中山 
(年老いて、ここを再び越えられるとは思つてもみなかつた。命があればこそなのだなあ。 小夜の中山よ)

 来週、掛川に行く。偶然であるが、いい小説がいい出会ひを引き寄せてくれたやうにも感じた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「オッペンハイマー」を観る

2024年05月02日 21時50分09秒 | 評論・評伝
 これは面白かつた。けれど、内容が難しくて了解出来たかと訊かれれば、それは無理でしたとしか答へられない。観て損はないとは言へるけれども、もう一度観たいとは言へない。さういふ映画だつた。
 広島と長崎とが最後の方で言及されるが、確かに不快ではあつたが、戦争とはさういふものであらう。敗戦国の語る戦争観が正しい訳ではない。
 良心の呵責に悩む主人公にも、従つて同情もしない。科学者とはさういふものとの自覚があればその呵責は引き受けるべきものだらう。それと同じぐらゐの栄光も受けたはずである。

 3時間は確かに長いが、十分惹きつけられる時間であつた。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白石一文『見えないドアと鶴の空』を読む

2024年05月01日 16時39分39秒 | 評論・評伝
 
 
 
 小説には珍しく「あとがき」が添えられてゐる。読み終へて、それを読むと、この小説が本当のデビュー作であると知つた。てつきり『一瞬の光』がそれだと思つてゐたので驚いた。最新作と言つても良いほどの完成度だと私には思はれたからだ。
 ある文学賞の佳作に入選したものの本になることはなく、鳴かず飛ばずの十数年を過ごしてゐたらしい。作家とは大変な職業なんだとつくづく思はれた。「あとがき」にはその他の作品への編集者たちの酷評が書かれてゐたが、私には理解できなかつた。世の中にはそんな名作ばかりがあるのだらうか。それが私の率直な感想である。もちろんそんなに読んでゐる訳ではないが!

 編集者たちの白石作品評は、とにかく「奇跡」を使ふことへの違和感であるらしい。都合のいいところで異界の力が動き出す。そこに現実味がなく、御都合主義的に映るのであらう。
 しかし、私はさうは思はない。いや数年前ならさう思つたかもしれないが、今はさう思はなくなつた。両親がこの世の生を終へたからかも知れないし、現代の物理学の知見が11次元の話をしてゐるのを今更ながら知つたからかも知れない。いづれにせよ、私たちの見えてゐる世界は、世界の一部でしかないのである。
 本書のタイトルである「見えないドア」とはさういふ世界に繋がる入口のことである。

「あとがき」ではもつとはつきり書かれてゐる。
「本書で主人公の種本由香里が繰り出すさまざまな超能力それ自体は荒唐無稽西部見えるとしても、彼女の使う特殊な能力に表象される人間個々の潜在的な力は、間違いなくこの世界に存在していると私は信じているのである」。
 主人公昴一はかう語る。

「死など、やはりどこにもないのだ……。(中略)生まれること、そして生きること、永遠に生きつづけること、それだけが真実であり、真実の奇跡なのだろう」。

 あらすじについて全く触れてゐないので、何のことかはさつぱり分からないと思ふが、白石文学に触れたことのある人は騙されたと思つて読んで損はない。また引用した部分に何か惹かれることがある方もご一読を薦める。
 私には良書であつた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする