言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『正論』3月号に投稿

2020年01月30日 13時19分15秒 | 日記

 昨日、文部科学省から共通テストの概要が発表された。国語は80分のまま、数学ⅠAは70分といふことになった。が、まだ不明のこともある。

 一年を切つたこの期に新情報を出し、しかもそれが不十分であるにもかかはらず、当初の予定通り行ふといふのは、もはや意地になつてゐるといふことだらう。

 これまでの経緯とそこにある問題を民主党政権に遡つて書いたのが拙稿である。ご高覧いただければ幸ひです。

 

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石が出来た。

2020年01月26日 22時08分49秒 | 悩み

 どうやらまた石が出来たらしい。

 あの苦しみがやつて来る。不穏な鈍痛が脇腹にある。困つた。

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『人を伸ばす力』

2020年01月19日 11時59分18秒 | 本と雑誌

 小テストの意味を考へてゐる。範囲を区切つて小テストを行ひ、ある期間が過ぎたらそれまでのところを総ざらひするためのテストを行ふ。小テストで本当に力がついてゐれば、そのまとめテストでも高得点が望める、と期待するが、実際さうはうまくは行かない。

 では、小テストをする意味とはどこにあるのか。「(短期記憶に強い)学生を激励するためである」といふことだらうか。

 入学してからの学習内容の修得状況を把握するには、卒業直前に一発勝負のテストをすればいい。これが理想である。実際、上級学校の入学試験とは、それをしてゐる。

 しかし、それではまずからうといふことで(3年間通つてゐて、その卒業テストに合格できなければもう一度三年間をやり直すのかといふことになつてしまふ)、学年に区切り、学期に区切り、さらにその学期を二つに区切つたのである。それが「定期試験」といふものの根拠であらう。では、小テストはさらにそれを細分化したのだから、その積み上げだけでいいではないかといふとさうでもない。やはりある「一定の期間」は必要だ。短期記憶が記憶の全てなら仕方ないが、私たちには長期記憶といふ能力があるのだがら、その長期記憶を測るには「定期試験」が必要になる。

 では、小テストをする意味はどこにあるか。

 それは、復習の機会を増やすためだらう。

 じつは、以上の話は職場の同僚と話した内容だ。小テストを学期の成績に入れることの是非についても話をした。

 そんな時にある教員が持ち出してきたのが、件の書籍である。まだ読み始めたばかりだが、「自律した個人」といふものを理想としながらいかにしたら「動機付け」が可能となるかを探つた本だ。学習には動機付けが必要である。しかし、それは「促し」だけで可能であるか、今の私には疑問もあるが、さて持論に変更が起きるかどうか。

 読後に何か変化があれば、書かうと思ふ。

人を伸ばす力―内発と自律のすすめ
桜井 茂男
新曜社

 

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『北の十字架』

2020年01月11日 09時53分31秒 | 評論・評伝

 先日、タデウシ・ルジェヴィッチの「おちる」といふ詩について書いた。その出典が分からいないと記したが、その後それが『北の十字架』といふ詩集として出版され、「おちる」の全文が載つてゐることが分かつた。

 訳者は、米川和夫である。米川和夫は、米川正夫の四男で、兄哲夫(ロシア文学者・ロシア史家)、弟良夫(イタリア文学者)ともに外国語文学の翻訳を残してゐる。父正夫は言はずと知れたドストエフスキーの翻訳家で、個人訳全集も出版してゐる。ドストエフスキーと言へば近年は亀山郁夫の訳が評判であるが、米山正夫、原卓也、江川卓といふそれぞれの訳も現役であることは間違ひない。ロシア文学は今もなほ、いろいろな訳読むことができる。

 それにたいしてポーランド文学は、あまりなじみがない。1905年にヘンリク・シェンキェヴィチがノーベル文学賞を受賞してゐるが、私は今回調べるまで知らなかつた。そんな中で、この米川和夫は人知れず、ルジェヴィッチをはじめとするポーランドの詩を翻訳してゐた。そして、その死後友人であり、詩人・弁護士でもある中村稔氏によつて出版されることになつた。言はば遺稿集でもある。

 

 さて、「おちる」であるが、私の想像を絶する長いものであつた。頁数にして27頁分。評論のやうな趣もあり、副題には「もしくはまた現代人の生活における垂直と水平の要素について」とある。最後は「むかしはおちて/あがったもの/垂直に/いまでは/おちる/水平に」。キルケゴールに『現代の批判』といふものがあるが、現代社会の根本的な特徴を「水平化」と見てゐたが、それと同じであらう。経験が、それがたとへ過酷なものであつたとしても、横に滑つていくだけである。縦に、垂直に、上昇に、つながらない。私たち現代人の軽佻な言動、生活習慣を哲学者や詩人は「水平化」と呼んでゐたのではなかつたか。

 おちながら(落ちてゐるのだから当然抱く)「怖い」といふ思ひを消すことで、おちてゐないことにする。そんな精神のアクロバットを成熟だとか、積極志向(ポジティブシンキング!)だとか言つてごまかしてしまふ。それで本当に私たちの言動の幼稚さ軽薄さは解消されてゐるだらうか。逃げてゐるだけではないか。

 

  現代の人間は

  おちていくありとあらゆる方角へ

  同時に

  下へも上へも横のほうへも

  まるでそう風配図のかたちに

 

「風配図」とは、ある地点のある期間における、各方位の風向および風速の頻度を表した図のことを言ふやうだ。地形や気圧の関係で風の向きはいかやうにも変はる。「現代の人間」とはさういふ存在なのであらう。自然を馴致し、非自然化していくのが文化であり、人間の営みである。ところが、自然のままでよいといふのであれば、それはもはや文化を持たなくてよいといふことになる。サルがよりよく生きることに苦しまないことを自然といふ。人間がよりよく生きることに苦しまないのであれば、それは自然である。それは文化を捨てた人間である。

 あらゆる方角へおちていく。その顔は笑顔であるかもしれない。

 

 

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『良き社会のための経済学』

2020年01月05日 14時06分59秒 | 本と雑誌
良き社会のための経済学
村井 章子
日本経済新聞出版社

 正月に会つた若き友人に教へてもらつた本である。  

「今、何を読んでゐるか」と訊くと、おもむろに鞄からこの大部の書を出した。タイトルに驚いた。かういふ本があることも知らなかつたし、さういふ本をその青年が読んでゐることも分からなかつた。男子三日会はずば刮目して見よの通り自分の迂闊を恥じた。

 ざつと内容を説明してもらひ、フランス人でありアメリカのMITで博士号をとりながら再びフランスに帰つて経済を講ずる学者だと聞いた。ノーベル経済学賞はアメリカ人かイギリス人と思つてゐたが、かういふ学者がゐることを知つた。新自由主義やら古典派経済学やら、経済は物事を単純化して捉へ過ぎる。そしてその結果、社会を破壊するといふやうにしか考へてゐなかつたが、その考へが修正されるかもしれない。理論や技術を学んで母国に帰るといふ学者の生き方は、不経済であるだらう。それでも母国に帰るといふのは愛郷心が基底にあると感じた。

 「この分厚い本をどれぐらゐで読むのか」と訊くと、「今は休みに入つたので二週間ぐらゐですね。普段なら土日しか読めないので一か月ぐらゐです」と言つてゐた。読んでゐる姿を想像した。なるほど集中力はすごかつたなと学生時代の彼を思ひ出した。

 

 さて、私には読めるか。

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