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先日、タデウシ・ルジェヴィッチの「おちる」といふ詩について書いた。その出典が分からいないと記したが、その後それが『北の十字架』といふ詩集として出版され、「おちる」の全文が載つてゐることが分かつた。
訳者は、米川和夫である。米川和夫は、米川正夫の四男で、兄哲夫(ロシア文学者・ロシア史家)、弟良夫(イタリア文学者)ともに外国語文学の翻訳を残してゐる。父正夫は言はずと知れたドストエフスキーの翻訳家で、個人訳全集も出版してゐる。ドストエフスキーと言へば近年は亀山郁夫の訳が評判であるが、米山正夫、原卓也、江川卓といふそれぞれの訳も現役であることは間違ひない。ロシア文学は今もなほ、いろいろな訳読むことができる。
それにたいしてポーランド文学は、あまりなじみがない。1905年にヘンリク・シェンキェヴィチがノーベル文学賞を受賞してゐるが、私は今回調べるまで知らなかつた。そんな中で、この米川和夫は人知れず、ルジェヴィッチをはじめとするポーランドの詩を翻訳してゐた。そして、その死後友人であり、詩人・弁護士でもある中村稔氏によつて出版されることになつた。言はば遺稿集でもある。
さて、「おちる」であるが、私の想像を絶する長いものであつた。頁数にして27頁分。評論のやうな趣もあり、副題には「もしくはまた現代人の生活における垂直と水平の要素について」とある。最後は「むかしはおちて/あがったもの/垂直に/いまでは/おちる/水平に」。キルケゴールに『現代の批判』といふものがあるが、現代社会の根本的な特徴を「水平化」と見てゐたが、それと同じであらう。経験が、それがたとへ過酷なものであつたとしても、横に滑つていくだけである。縦に、垂直に、上昇に、つながらない。私たち現代人の軽佻な言動、生活習慣を哲学者や詩人は「水平化」と呼んでゐたのではなかつたか。
おちながら(落ちてゐるのだから当然抱く)「怖い」といふ思ひを消すことで、おちてゐないことにする。そんな精神のアクロバットを成熟だとか、積極志向(ポジティブシンキング!)だとか言つてごまかしてしまふ。それで本当に私たちの言動の幼稚さ軽薄さは解消されてゐるだらうか。逃げてゐるだけではないか。
現代の人間は
おちていくありとあらゆる方角へ
同時に
下へも上へも横のほうへも
まるでそう風配図のかたちに
「風配図」とは、ある地点のある期間における、各方位の風向および風速の頻度を表した図のことを言ふやうだ。地形や気圧の関係で風の向きはいかやうにも変はる。「現代の人間」とはさういふ存在なのであらう。自然を馴致し、非自然化していくのが文化であり、人間の営みである。ところが、自然のままでよいといふのであれば、それはもはや文化を持たなくてよいといふことになる。サルがよりよく生きることに苦しまないことを自然といふ。人間がよりよく生きることに苦しまないのであれば、それは自然である。それは文化を捨てた人間である。
あらゆる方角へおちていく。その顔は笑顔であるかもしれない。