第132回芥川賞受賞作を讀んだ。讀ませる力量はずゐぶんあると思つたが、それしかなかつた。最後の終はり方は、何か不自然で、ビデオテープがぷつりと切られてしまつたやうな印象がある。小説の終はり方は、確かにむづかしいのだらう。大團圓の終末を期待出來る程、現代人の生活は劇的でもないし、劇的な生活を期待する程、今日の小説の讀者の生活に活力はない。したがつて、かういふ「ぷつり」といふ終はり方がふさはしいのだらうとも思ふ。
だが、どうにも好きになれないのは、文章に味はひがないことである。それは、別に自分の娘に「少女愛」を感じてしまふ變態性への違和によるのではない。いつたいに譬喩が下手なのである。
「自分の兩腕に、小鳥の餌にする粟玉でも附着させたみたいに鳥肌が立っているのが判った。」
「とうとう咳をするたびに、躰中のあちこちをミシン針で突っつかれたみたいな鋭利な惡寒が走るようになり、とても辛くてならなかったが、かといって立上がりたくもなかったから、ソファに身を預けたままわたしはただぐったりしていた。」
「わたしは迷わずモスコミュールを指差した――目の前にいる、自分より一〇歳ちかくも年下の友人たちを天使みたいに感じながら。」
もういくらでも見つけることができる。阿部氏は、「みたいに」といふ言葉がずゐぶんと御好きらしい。そして、この言ひ種は、今日の若者の言葉「○○みたいな」と一脈も二脈も通じてゐるのだらう。安易なこの種の譬喩を、私は良い文章とは思はない。
選評のなかで、村上龍は「大事な部分が書かれていない中途半端な小説」としつつも評價してゐたが、それ以前にこの種の書き方では「大事な部分」に至れないといふことをこそ言ふべきだらう。わたしは石原愼太郎氏とは別の意味で「全く評價出來なかった」。
芥川賞とはかういふ賞であると諦めれば良いのであるが、では他の現代文學には讀むべきものがあるのかと言へば、ただちに「ある」と斷言できないところに、私たちの現代の不幸を思ふのである。
意識的か無意識的には知らないが、こんなにも虚しい文學を赤裸裸に表現することによつて、不毛な現代を表現するしかない作家たちに、同情はしなければなるまい。
私には、それに附合はうといふ氣持が未だあるやうだ。
だが、どうにも好きになれないのは、文章に味はひがないことである。それは、別に自分の娘に「少女愛」を感じてしまふ變態性への違和によるのではない。いつたいに譬喩が下手なのである。
「自分の兩腕に、小鳥の餌にする粟玉でも附着させたみたいに鳥肌が立っているのが判った。」
「とうとう咳をするたびに、躰中のあちこちをミシン針で突っつかれたみたいな鋭利な惡寒が走るようになり、とても辛くてならなかったが、かといって立上がりたくもなかったから、ソファに身を預けたままわたしはただぐったりしていた。」
「わたしは迷わずモスコミュールを指差した――目の前にいる、自分より一〇歳ちかくも年下の友人たちを天使みたいに感じながら。」
もういくらでも見つけることができる。阿部氏は、「みたいに」といふ言葉がずゐぶんと御好きらしい。そして、この言ひ種は、今日の若者の言葉「○○みたいな」と一脈も二脈も通じてゐるのだらう。安易なこの種の譬喩を、私は良い文章とは思はない。
選評のなかで、村上龍は「大事な部分が書かれていない中途半端な小説」としつつも評價してゐたが、それ以前にこの種の書き方では「大事な部分」に至れないといふことをこそ言ふべきだらう。わたしは石原愼太郎氏とは別の意味で「全く評價出來なかった」。
芥川賞とはかういふ賞であると諦めれば良いのであるが、では他の現代文學には讀むべきものがあるのかと言へば、ただちに「ある」と斷言できないところに、私たちの現代の不幸を思ふのである。
意識的か無意識的には知らないが、こんなにも虚しい文學を赤裸裸に表現することによつて、不毛な現代を表現するしかない作家たちに、同情はしなければなるまい。
私には、それに附合はうといふ氣持が未だあるやうだ。