令和6年の2月が明日で終はる。今月60歳になり還暦を迎へたが、特別な感慨もなくどうしようもない停滞の中を苦々しい顔をしないで(他人様からはいつも笑つてゐますねと言はれる)過ごしてゐる。
今の願望は早く定年を迎へたいといふことである。仕事仲間には申し訳ないことであるが、偽ることでもあるまい。その原因の一つはデジタル社会の生きづらさである。ワードを使つて文章を書くのは当り前。エクセルを使つて表計算するのは当たり前。そこら辺りはまだいい。楽々清算やら、teamsやら、その他さまざまなソフトやアプリを駆使してデジタル社会は人間(私)にその仕様に馴れるやうに求めて来る。現代の人間疎外である。デジタルデバイド(デジタルによる格差)と言はれる事態だが、このことを取り上げる若き社会学者はゐない。日頃、性的マイノリティだの、外国人差別だの、経済的弱者だの、これでもかこれでもかと論じる人は、大概デジタルネイティブである。彼らが言ふ「多様性」とはいつたい何なのだらう。そんな言葉の薄つぺらさは、この一事で分からう。技術上達者が生きやすい社会を作つてゐることには何の配慮も要らないらしい。せいぜい彼らの頭の中にあるのはデジタル技量のグラデーションを指して「多様性」と名付けてゐるのであらう。
しかし、人間の側に必要以上の技量を求める技術は未熟である。今のデジタル技術が日進月歩であるのは、それが未熟であるからだ。しかし、その未熟さを克服するためには、更に人に技量を求める技術を生んでしまふことになる。ここにも人間の逆説がある。自由を求めて、自由とは何かといふ観念を追ひ求め逆に不自由になつてしまふといふやうに。
まあ、還暦ですからね、いきり立たずに待ちますよ、私は。もちろん、私が生きてゐる間には、デジタル技術が人間に追ひつくことはないでせうが、定年さへ迎へ仕事が終はれば、もうローテクで暮らしていける。指折り数へて今年も春を待つことにしませうか。呵々