前囘見たやうに、日本橋、日本刀、日本畫の「ン」の音は、それぞれ音聲學的には兩脣音、齒莖音、軟口蓋音といふことになる。だが、それを説明しても國語の音節構造を捉へることには役立たない。日本語では、「ン」においてどれが正しい發音なのかといふことを考へる必要がないからである。それはなぜか。福田恆存はかう書いてゐる。
「所詮、文字と音とのずれが免れがたいものであるとすれば、そのずれを無くしたり少くしたりするのは第二義的なことであつて、最も大事なことは、ずれてゐるところは、ずれるべくしてずれてゐるといふことです。一致してゐる面とずれてゐる面との間に必然的關係が保たれてゐて、そこに國語音韻の本質と體系とが顏を覗かせてゐるといふことです。『現代かなづかい』の音韻論的缺陷はそれがないといふことにあります」(『私の國語教室』)。
もちろん、かうした主張を援用して説得を試みても、石川九楊氏には、通用しないだらう。氏はさかさず、音素論的分析法は確かに意味がないのだらうが、筆蝕の構造分析は、日本語の性質をつかまへるのにきはめて重要であると言つてくるはずだからである。日本は、古代支那語の影響のもとに形成された言語であり、その言語の性質が日本語に決定的な影響を持つてゐると信じて疑はないからだ。
「圧倒的な質量の中国語の流入によって形成を促進された日本語は、中国語の解読、翻訳を通して形成されていった言語である」(『二重言語国家・日本』)。
かうした言語形成の影響被影響の關係がたとへ正しいものであるとしても、それが「筆蝕」といふ書字の構造分析のレベルでの考察にどう關係があるのかは別の問題である。
ちなみに言へば、手書きで書かれた樂譜において、その音樂の最大の特徴あるいは最も顯著な性質を表はすのは「手書き」であること(さらにはその筆蝕)にあるのではなく、手書きであらうが印刷物であらうが、その旋律なり和音なりの「音」にあるはずである。どう引かへめに言つても價値を生み出すものは、書く行爲自體のなかにあるのではなく、もつと總合的なものである。
たとへば、モーツアルトの研究者には、確かに直筆の樂譜は意味があるだらう。蒐集者には、萬金に値ひするものであるかもしれない。しかしながら、それに最も本質的な價値があるとすれば、音樂家たちは腕を磨くまへにまづはじめに手書きの樂譜を探さなければならないといふことになる。こんなことは冗談話であることは、瞭然である。直筆の樂譜など演奏のレベルではまつたく關係ないと言つても良いだらう。
そしてこのことの類推で言へば、手で書かれたものであることをより尊重すると思はれる文學作品の價値も手書きであるか活字であるかは、その作品の評價をめぐつて問ふ必要はないと考へられる(もちろん、ワープロの功罪についてもここで言及する必要もあると思はれるが、ここでは觸れずに論を進めることにする)。
石川氏が精讀する吉本隆明氏の『言語にとって美とは何か』でさへ、そんなことは觸れてゐない。それどころか、吉本氏は、別のことを言つてゐる。次囘それを引用する。