言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語140

2007年02月27日 14時47分45秒 | 福田恆存

 前囘見たやうに、日本橋、日本刀、日本畫の「ン」の音は、それぞれ音聲學的には兩脣音、齒莖音、軟口蓋音といふことになる。だが、それを説明しても國語の音節構造を捉へることには役立たない。日本語では、「ン」においてどれが正しい發音なのかといふことを考へる必要がないからである。それはなぜか。福田恆存はかう書いてゐる。

「所詮、文字と音とのずれが免れがたいものであるとすれば、そのずれを無くしたり少くしたりするのは第二義的なことであつて、最も大事なことは、ずれてゐるところは、ずれるべくしてずれてゐるといふことです。一致してゐる面とずれてゐる面との間に必然的關係が保たれてゐて、そこに國語音韻の本質と體系とが顏を覗かせてゐるといふことです。『現代かなづかい』の音韻論的缺陷はそれがないといふことにあります」(『私の國語教室』)。

  もちろん、かうした主張を援用して説得を試みても、石川九楊氏には、通用しないだらう。氏はさかさず、音素論的分析法は確かに意味がないのだらうが、筆蝕の構造分析は、日本語の性質をつかまへるのにきはめて重要であると言つてくるはずだからである。日本は、古代支那語の影響のもとに形成された言語であり、その言語の性質が日本語に決定的な影響を持つてゐると信じて疑はないからだ。
 
「圧倒的な質量の中国語の流入によって形成を促進された日本語は、中国語の解読、翻訳を通して形成されていった言語である」(『二重言語国家・日本』)。

 かうした言語形成の影響被影響の關係がたとへ正しいものであるとしても、それが「筆蝕」といふ書字の構造分析のレベルでの考察にどう關係があるのかは別の問題である。
 ちなみに言へば、手書きで書かれた樂譜において、その音樂の最大の特徴あるいは最も顯著な性質を表はすのは「手書き」であること(さらにはその筆蝕)にあるのではなく、手書きであらうが印刷物であらうが、その旋律なり和音なりの「音」にあるはずである。どう引かへめに言つても價値を生み出すものは、書く行爲自體のなかにあるのではなく、もつと總合的なものである。
 たとへば、モーツアルトの研究者には、確かに直筆の樂譜は意味があるだらう。蒐集者には、萬金に値ひするものであるかもしれない。しかしながら、それに最も本質的な價値があるとすれば、音樂家たちは腕を磨くまへにまづはじめに手書きの樂譜を探さなければならないといふことになる。こんなことは冗談話であることは、瞭然である。直筆の樂譜など演奏のレベルではまつたく關係ないと言つても良いだらう。
  そしてこのことの類推で言へば、手で書かれたものであることをより尊重すると思はれる文學作品の價値も手書きであるか活字であるかは、その作品の評價をめぐつて問ふ必要はないと考へられる(もちろん、ワープロの功罪についてもここで言及する必要もあると思はれるが、ここでは觸れずに論を進めることにする)。
  石川氏が精讀する吉本隆明氏の『言語にとって美とは何か』でさへ、そんなことは觸れてゐない。それどころか、吉本氏は、別のことを言つてゐる。次囘それを引用する。

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「言葉の救はれ」といふタイトルの意味について(改訂)

2007年02月25日 13時41分22秒 | 福田恆存

  昨日、國語問題協議會の事務局長の谷田貝常夫氏に大阪でお會ひした。大阪での講演會についての打ち合せと、『國語國字』の最新號をいただくのが目的であつたが、話は自然福田恆存についてのことになつた。

  どこかで讀んだことでもあるが、「福田さんは、『もう日本人論はいい。これからは人間論を必要とするのだ』と言つてゐた」(私の記憶)といふことを改めてうかがつた。今後の世界情勢を考へると、すべての問題は日本人としてどうあるべきかといふことでは解決しない。否が應でも問題は世界の次元で起きる。さういふときに批評の射程は、外に向つて世界に廣がりつつ、内に向つては人間の本質へと切込むべきだといふ意味ではないかと思つてゐる。もちろん、それは時代状況への對症療法的なものではない。時代を見ながら、いつでも本質を見てゐた福田恆存の視線はそんなところには向けられてゐない。

  昨日の御話では、それ以上の話にはならなかつたが、今後も考へていかうと思つてゐる。そして、さういふ時代だからこそ、逆説的だが歴史的假名遣ひを用ゐるのである、といふことを書いていければと思ふ(かう書くと「それも、『日本人としてどうあるべきか』といふことではないのか」と言はれさうであるが)。

  さて、谷田貝氏との話の中で、『國語國字』の最新號に私が書いた論文「近代の『ねじれ』解消の可能性――イ・ヨンスク『「國語」という思想』を讀んで」について訊かれたことがあつた。内容についてではなく(もちろん、惡文だから疑問もおありのやうだつたが)、「言葉の救はれ」といふ表現の意味である。論文の最後に私が書いたことであるが、このブログの紹介である。

「救はれ」とはあまり聞かない言葉で、通用しないのではないか――といふ主旨であつた。初めて言はれたことなので、どう答へて良いのか困つたが、かう言つた。

  私の著書のタイトルが『文學の救ひ』で、その聯想で「救はれ」としたんです。福田恆存は「言葉は教師である」と語りましたが、もはや言葉が教師として認められてゐない、ないがしろにされ過ぎてゐる。したがつて、やや傲慢ですが、言葉を救ふといふことも今は必要ではないか。それで受け身の助動詞「れる」をつけて、「言葉の救はれ」としました。「言葉を救へ」ではあまりに不遜ですので、「救はれるべき言葉」といふ意味であり、連用形で止めて餘韻を殘しました。

  書きながら補足した部分もあるので、正確な表現では無いが、概ねかう言つた。谷田貝氏は全然納得はしてゐなかつたが、それは仕方ない。タイトルの好き嫌ひは、個人の問題である。

  けれども、この際もう少し考へておかうと思つた。

  言葉を救ふのは、やはり人間ではない。私は「やや傲慢ですが」と言つたが、どんな言ひ方にせよ、言葉を救ふことは私たちに到底できることではないのだから、不適當である。かう言へば良かつた。つまり「言葉が救はれることを私は願つてゐる、祈つてゐるといふ意味でつけました」と。では言葉を救ふ主體は何か。それは傳統であり、文化である。言葉が文化を作り、文化が言葉を作りだすのであるから、循環してしまふのだが、さうとしか言ひやうがない。

  神社に行つて、生徒の合格を祈願する。祈りの力を絶對視するつもりもないが、かと言つて人間の意志の力だけで決まるとも思はない。それらを超越した力が大きな部分を占めてゐるのだと私は考へる。それと同じで、言葉の救ひを祈る(それが「言葉の救はれ」といふ意味である)――言葉を生み出した日本の文化、日本人の感受性、日本の風土、さうしたものの總體に對して祈るのである。そして、言葉の再生を期待してゐるのだ。「れ」は受け身の助動詞といふのがをかしければ、言葉の本來の力の復活といふ意味で自發の助動詞と考へても良いと思ふ。

  自分でつけた名前に對して、あとからその意味を考へるといふのはをかしなことであるが、これが本當のことであるからしかたない。まあ、ほとんどの方は關心もないことだらうけれども。

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言葉の救はれ――宿命の國語139

2007年02月24日 16時58分18秒 | 福田恆存

 文字は假りのものにすぎない。
 言葉の意味と文字との關係には十分な配慮が必要である。
 この二つのことは、互ひに矛楯する原理によつて動いてゐるやうに見えるが、しかしそこにこそこの兩義的な性格を二つながらに活かしながら實現する方法として「假名遣ひ」といふことが出てくるのである。
 假名遣ひは、發音記號ではない。
 假名遣ひは、意味だけを表すのではない。
 といふのが、その特徴である。單なる意味論でも、單なる音韻論でも、あるいは書記言語としてだけの語用論でもない。文字どほり「假名遣ひ」としてしか表現できない、日本語の特徴のありのままを適切に、しかも自然に表出できる方法なのである。
 このこと故に、石川九楊氏の「筆蝕→畫→文字」といふ分析的言語論は、音素論では私たちの日本語の音韻方式を正確につかめなかつたやうに、假名遣ひによつてしか説明できない國語の文字遣ひを正確にはつかめないのである。

「現代の國語學が試みてゐるやうに、國語音節を子音と母音との單音に分析して見せることは、あまり意味がないのみか、時に過ちのもとになるといふことであります。國語音節においては、子音と母音とが未分状態にあり、音節即音素、あるいは音節即單音と見なすべきであります。國語音韻は母子音の分ちえない音節としてのみ捉へるべきであつて、それを單音に分ける西洋流の方法は、むしろ單音に分ちえぬことの理解のために役立てるべきであり、その反對に分析の結果として單音のあることを見出すために利用するのは誤りであります。そこから解釋と事實との混同が生じるのです」(『私の國語教室』)。
 
 言語において分析的手法が有效であるのは、英語のやうに「屈折語」(分かち書きしつつも、主語によつて動詞が變化するもの)や中國語といふ名の北京語のやうな「孤立語」(一語一語が獨立してゐて、しかも主語によつて動詞が變化しないもの)である。
 日本語のやうな膠着語(分かち書きせず、助詞が文の意味決定に大きく關はるもの)には、音素に分け音の側面から分析する方法は意味がない。
例へば、「勝つた」と「肩」とを比較して「つ」(促音)も一つの音節であるといふことや、「羽蟻」は「ハアリ」であつて「ハーリ」でないから、「ー」(長音)も一種の音節であると考へる、と言ふことぐらゐまでは妥當だとしても、「菊」と「聞く」との「K」の音聲が違ふのであるといふことを殊更強調してもしかたないのである。
 あるいは日本橋、日本刀、日本畫の「ン」の音が、それぞれ音聲學的には兩脣音、齒莖音、軟口蓋音といふことになるのだが、それを説明しても國語の音節構造を捉へることには役立たない。「ン」においてどれが正しい發音なのかといふことには全く意味がないのである。日本語とはさういふ言語なのである。

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言葉の救はれ――宿命の國語138

2007年02月22日 08時22分09秒 | 福田恆存

前囘御紹介した文章(全集第三卷「覺書」)を、福田恆存が記したのは、昭和六十二年の春頃だらうか。だとすれば、七十六歳である。その年の一月には「東海大學大磯病院に一週間入院」と年譜にある。さう思つて讀むと、國語について思ひをめぐらす福田の感慨が滲み出て來るのを感じる。國語がいろいろな時代のいろいろな人々によつて使はれながら亂れてしまひがちになるが、そのたびに「言葉の法」がそれらを防ぎ、國語の傳統を守つてきた。國語の傳統とは、「言葉は生き物である」などといふ俗耳に入りやすい言葉で表現されるやうな勝手氣ままな人々の生活の果てに出來上がるものではなく、心ある人々の努力と意識と、そして何よりも言葉の法の力とが築き上げたものなのである、そのことを福田恆存は改めて感じ取つてゐるやうに思はれる。

「僕がいかに粗忽といへども、學問の衰頽と漢字の制限とをそのまま同一視しようとするものではない。(中略)また山本有三氏の思ひつきにしたがつて、かなばかりを珍重するにはおよばない。かなが假名でないごとく漢字かならずしも支那の文字ではない。それほど『漢』の一字にこだはらずにゐられぬとならば、――僕はさういふ形式主義者をこころからあはれむものであるが――『肝』とでも『勘』とでもあらためたらよいのである。(中略)文章の世界においてはことばは單なる傳達の具ではないことをくりかへし強調したい。/「水を呉れ」と「水をくれ」と「みづをくれ」ではちがふのである。「山嶺」と書くべきときもあり、『やまのいただき』と書きたいときもある」

「漢字恐怖症を排す」と題された論文の一節である。昭和十七年の「新文學」八月號に書かれた本文は、全集にして七頁ほど(二段組であるが)のものである。福田の初期の文章は、氏自身も囘想するやうに、どうにも論理が複雜言ふ必要をあまり感じない展開が記されてゐてかへつて主張がぼやけてしまふきらひがある。いろいろと言ひたいことがあつて、それらをすべて書くには紙幅が足りず、かと言つて書きたい事柄を減らすこともできず、あちこちと寄り道しながら、目的を目指すといつた感じである。
 いま引用した文章の「中略」のところは、私には「味はひ」があるが、それを省いたのは以上のやうな理由である。もちろん急いで附言するが、私の讀解力を棚にあげたうへでの話である。
  ところで、「かなが假名でない」と福田が書いてゐることについては捕捉しておかう。福田が歴史的假名遣ひとは書かず歴史的かなづかひと書くことについてである。
「かな」は私たちの固有の言語であつて、決してそれは假の文字といふやうな意味でも漢字に藉りた文字といふ意味でもないといふことである。「かな」と言はれてゐるものがあつて、それを「かな」と呼んでゐるにすぎない。それは支那の字といふ意味を假に「漢字」と呼んでゐるのと同じことである。たとへて言へば、きれいに咲いてゐる植物の生殖器を「はな」と言ふのであるから「花」と書いても「葉菜」と書いても實體に變化がない、したがつて文字は適當で良いといふふうにはなりますまい、それが福田恆存の主張である。
  所詮、文字は假りのものであるのだから、だからこそその意味と用法とに十分な配慮と工夫とが必要だと言つてゐるのである。

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誰かさんの「知的怠惰」

2007年02月20日 10時00分43秒 | 日記・エッセイ・コラム

 加地伸行氏は、「道徳と法とを峻別せよ」と語つた。そして教育基本法に「先祖を敬愛せよ」との文言がないことを批判した。先日、書いた通りである。
 このことにたいして、道徳と法とを峻別せよと言ふ人間が、教育基本法には道徳的價値を盛込めとは何事か、「加地氏は馬鹿だ」といふことを自身のブログで書いた御仁がゐる。私はさういふ言ふ方をする人を好きではないが、「馬鹿だ」とは書かない。その御仁の好きな「知的怠惰」といふ言葉を使はうと思ふ。その人は、自身のロジックに醉つてゐるのである。醉つ拂ひに「知」を求めてもしかたないけれども、「知的怠惰」に違ひはない。その人が敬愛する松原正先生も、多分相手にしまい。

  加地氏は、民法の次のやうな規定を使つて説明してゐた。

民法第3章  相続の効力   第1節総則
■第896条[相続の一般的効力]
 相続人は、相続開始の時から、被相続人の財産に属した一切の権利義務を承継する。但し、被相続人の一身に専属したものは、この限りでない。
■第897条[祭祀供用物の承継]
(1) 系譜、祭具及び墳墓の所有権は、前条の規定にかかわらず、慣習に従って祖先の祭祀を主宰すべき者がこれを承継する。但し、被相続人の指定に従って祖先の祭祀を主宰すべき者があるときは、その者が、これを承継する。
 前項本文の場合において慣習が明らかでないときは、前項の権利を承継すべき者は、家庭裁判所がこれを定める。

  ここからは、私の考へ。
  祖先の祭祀を主宰する行爲とは、道徳といふ次元でもなく宗教的行爲である。無神論者なら、内心の自由を侵すものである、などと文句を言はれかねない行爲である。それに對して、民法はそんな個人的な考へとは關係なく、最終的には家庭裁判所がこれを定めるとまで言ふ。もちろん、憲法の定める信教の自由の範圍内においてではあるものの、祭祀といふものの繼承をこれだけ嚴格に決めることができたといふことは、日本人の價値の中にすでにかういふ先祖への畏敬は十二分に滲透してゐるといふことを示してゐる。したがつて、新教育基本法に先祖への畏敬を盛込まなかつたといふことは、法律と道徳とを峻別したからではなく、核となる價値を内包できなかつた腑拔けの改正にすぎないといふことを意味してゐるのだ。國家は、日本人を作るために教育基本法を定めるのである。その際、日本人がどう生きて來たかが一番大事なことである。
  さうであれば、堂堂、教育基本法に道徳的價値觀を盛込めといふのが、知的誠實といふものであらう。

「それぞれの組織、團體には、それを一つの共同體として成り立たしめる爲の教育が必要である。」福田恆存

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