去る5月29日、大阪で松原正先生の講演會があつた。
政治主義に陷りやすい、私たち日本人の精神の脆弱さを指摘してゐたものだつたと思ふ。2時間30分の講演は、豫定してゐた原稿のほぼ半分ぐらゐのところで、制限時間終了といふことになつた。西部西尾兩氏への批判は相變らずであるが、そのふりかざした刀をどう降ろすのか、それを聞きたいが今囘もそれはあつたやうななかつたやうな、私の感想ではそのやうになる。
いづれどこかで松原正論を書きたいと思つてゐるが、その要諦は「政治主義とルサンチマン」といふことになるだらうか。政治主義の呪縛は、さうさう簡單には解けない。ルサンチマンを抱へた人間は、政治主義を引き寄せてしまふのである。したがつて、ルサンチマンをどう克服するのかといふことを示すのが「返す刀で斬るべきもの」なのだと思ふ。その時には、政治と政治主義の峻別も必要であらう。
「普請中」の日本にあつて、大黒柱は必要ではないかと私が問ふと、松原先生は、さういふものがないのが日本なのです、とおつしやつた。大黒柱のない日本が、近代といふきらびやかな家を作つてしまつた。その悲劇を痛感せよ、とのことだらう。しかし、それで良いとは私は思はない。西洋の大黒柱はもちろん基督教である。しかし、西洋の基督教のみが大黒柱なのではない。石積の家のやうな基督教もあれば、木造の家にも何かがある。大黒柱といふものを「正統」と言ひ換へてみればよい。正統の西洋的表現が「石積の家」であり、正統の日本的表現が「木造の家」である。もちろん、それはメタファーである。木造の家の大黒柱とは何かを言はなければならない。がしかし、私たちにも絶對に大黒柱はある。それを松原先生は「ない」と言ふ。たいへん興味深いすれちがひであつた。福田恆存と松原先生との違ひも、そこにあると思ふ。福田恆存が「絶對者の役割」を書いたことの意味は大きい。私が福田恆存と内村鑑三とを「日本精神史骨」として描くのもそれを考へるからである。私たちの大黒柱とは何か。やはり絶對者である。私たちには分からないから「ない」といふのでは、「分からない」=「ない」といふことになる。しかし、分かる分からないといふ人間の意識を越えてゐるから、絶對者といふのであつて、認識できるから「ある」といふのでは、それは「絶對的相對者」といふことになる。私たちがどう考へようと、絶對者はゐるのである。日本にもゐて、西洋にもゐるから絶對者なのである。「絶對」とは、さういふ意味であらう。
ところで、西洋人に絶對者は分かるのだらうか。やはり分からないだらう。だからこそ、カトリックの世界には、聖人を祀る教會があれほどたくさんあるのである。日本の神社のやうに、聖人たちを巡禮する信者の數はおびたゞしい。
講演會で、引用してゐた文獻。
ジョージ・スタイナー『サンクリストバルへのA・Hの移送』 邦題は『ヒトラーの辨明』三交社
また、小谷野敦さんの『評論家入門』(平凡社新書)のなかで、松原先生に「畏敬の念を覺える」とあることを傳へると、「批判した相手から、評價を受けるのは初めてだ。」とおつしやつてゐた。
政治主義に陷りやすい、私たち日本人の精神の脆弱さを指摘してゐたものだつたと思ふ。2時間30分の講演は、豫定してゐた原稿のほぼ半分ぐらゐのところで、制限時間終了といふことになつた。西部西尾兩氏への批判は相變らずであるが、そのふりかざした刀をどう降ろすのか、それを聞きたいが今囘もそれはあつたやうななかつたやうな、私の感想ではそのやうになる。
いづれどこかで松原正論を書きたいと思つてゐるが、その要諦は「政治主義とルサンチマン」といふことになるだらうか。政治主義の呪縛は、さうさう簡單には解けない。ルサンチマンを抱へた人間は、政治主義を引き寄せてしまふのである。したがつて、ルサンチマンをどう克服するのかといふことを示すのが「返す刀で斬るべきもの」なのだと思ふ。その時には、政治と政治主義の峻別も必要であらう。
「普請中」の日本にあつて、大黒柱は必要ではないかと私が問ふと、松原先生は、さういふものがないのが日本なのです、とおつしやつた。大黒柱のない日本が、近代といふきらびやかな家を作つてしまつた。その悲劇を痛感せよ、とのことだらう。しかし、それで良いとは私は思はない。西洋の大黒柱はもちろん基督教である。しかし、西洋の基督教のみが大黒柱なのではない。石積の家のやうな基督教もあれば、木造の家にも何かがある。大黒柱といふものを「正統」と言ひ換へてみればよい。正統の西洋的表現が「石積の家」であり、正統の日本的表現が「木造の家」である。もちろん、それはメタファーである。木造の家の大黒柱とは何かを言はなければならない。がしかし、私たちにも絶對に大黒柱はある。それを松原先生は「ない」と言ふ。たいへん興味深いすれちがひであつた。福田恆存と松原先生との違ひも、そこにあると思ふ。福田恆存が「絶對者の役割」を書いたことの意味は大きい。私が福田恆存と内村鑑三とを「日本精神史骨」として描くのもそれを考へるからである。私たちの大黒柱とは何か。やはり絶對者である。私たちには分からないから「ない」といふのでは、「分からない」=「ない」といふことになる。しかし、分かる分からないといふ人間の意識を越えてゐるから、絶對者といふのであつて、認識できるから「ある」といふのでは、それは「絶對的相對者」といふことになる。私たちがどう考へようと、絶對者はゐるのである。日本にもゐて、西洋にもゐるから絶對者なのである。「絶對」とは、さういふ意味であらう。
ところで、西洋人に絶對者は分かるのだらうか。やはり分からないだらう。だからこそ、カトリックの世界には、聖人を祀る教會があれほどたくさんあるのである。日本の神社のやうに、聖人たちを巡禮する信者の數はおびたゞしい。
講演會で、引用してゐた文獻。
ジョージ・スタイナー『サンクリストバルへのA・Hの移送』 邦題は『ヒトラーの辨明』三交社
また、小谷野敦さんの『評論家入門』(平凡社新書)のなかで、松原先生に「畏敬の念を覺える」とあることを傳へると、「批判した相手から、評價を受けるのは初めてだ。」とおつしやつてゐた。