言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

松原正先生講演会

2005年05月30日 21時13分55秒 | 日記・エッセイ・コラム
 去る5月29日、大阪で松原正先生の講演會があつた。
 政治主義に陷りやすい、私たち日本人の精神の脆弱さを指摘してゐたものだつたと思ふ。2時間30分の講演は、豫定してゐた原稿のほぼ半分ぐらゐのところで、制限時間終了といふことになつた。西部西尾兩氏への批判は相變らずであるが、そのふりかざした刀をどう降ろすのか、それを聞きたいが今囘もそれはあつたやうななかつたやうな、私の感想ではそのやうになる。

 いづれどこかで松原正論を書きたいと思つてゐるが、その要諦は「政治主義とルサンチマン」といふことになるだらうか。政治主義の呪縛は、さうさう簡單には解けない。ルサンチマンを抱へた人間は、政治主義を引き寄せてしまふのである。したがつて、ルサンチマンをどう克服するのかといふことを示すのが「返す刀で斬るべきもの」なのだと思ふ。その時には、政治と政治主義の峻別も必要であらう。

 「普請中」の日本にあつて、大黒柱は必要ではないかと私が問ふと、松原先生は、さういふものがないのが日本なのです、とおつしやつた。大黒柱のない日本が、近代といふきらびやかな家を作つてしまつた。その悲劇を痛感せよ、とのことだらう。しかし、それで良いとは私は思はない。西洋の大黒柱はもちろん基督教である。しかし、西洋の基督教のみが大黒柱なのではない。石積の家のやうな基督教もあれば、木造の家にも何かがある。大黒柱といふものを「正統」と言ひ換へてみればよい。正統の西洋的表現が「石積の家」であり、正統の日本的表現が「木造の家」である。もちろん、それはメタファーである。木造の家の大黒柱とは何かを言はなければならない。がしかし、私たちにも絶對に大黒柱はある。それを松原先生は「ない」と言ふ。たいへん興味深いすれちがひであつた。福田恆存と松原先生との違ひも、そこにあると思ふ。福田恆存が「絶對者の役割」を書いたことの意味は大きい。私が福田恆存と内村鑑三とを「日本精神史骨」として描くのもそれを考へるからである。私たちの大黒柱とは何か。やはり絶對者である。私たちには分からないから「ない」といふのでは、「分からない」=「ない」といふことになる。しかし、分かる分からないといふ人間の意識を越えてゐるから、絶對者といふのであつて、認識できるから「ある」といふのでは、それは「絶對的相對者」といふことになる。私たちがどう考へようと、絶對者はゐるのである。日本にもゐて、西洋にもゐるから絶對者なのである。「絶對」とは、さういふ意味であらう。
 ところで、西洋人に絶對者は分かるのだらうか。やはり分からないだらう。だからこそ、カトリックの世界には、聖人を祀る教會があれほどたくさんあるのである。日本の神社のやうに、聖人たちを巡禮する信者の數はおびたゞしい。

 講演會で、引用してゐた文獻。

  ジョージ・スタイナー『サンクリストバルへのA・Hの移送』 邦題は『ヒトラーの辨明』三交社

 また、小谷野敦さんの『評論家入門』(平凡社新書)のなかで、松原先生に「畏敬の念を覺える」とあることを傳へると、「批判した相手から、評價を受けるのは初めてだ。」とおつしやつてゐた。

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「昧爽」第八號 論文訂正

2005年05月29日 22時48分19秒 | 本と雑誌
  先日、拙論を御掲載いただいた、「昧爽」第八號の以下のところが誤記されてをりましたので、訂正してください。


 ① 10頁の最後の段落は、次の通り。

先日、支那思想史を專門とする保守派の論客と話をする機會があつた。その人は、ソシュールなどの西洋言語論が構成主義に偏つてゐるのに對して、獨自の言語過程説といふものを作り上げ日本語の理解を深めた時枝誠記を非常に高く評價する方であるが、御自身は(時枝誠記が尊重した)歴史的假名遣ひを使はない。なぜだらうといふ思ひもあつたので、かう訊いてみた。

 ② 18頁の最初の一行目は、繰り返しですので、削除を御願ひします。

    以上、よろしく御願ひします。

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言葉の救はれ――宿命の國語19

2005年05月22日 10時44分51秒 | 日記・エッセイ・コラム
(承前)
 言語學者は、いつでも「ことばを客觀的に分析し」などと唱へるが、客觀的などといふことがありうるのだらうか。あるいは科學的といふ言葉もさうであるが、百年前の科學的=客觀的眞理が、簡單に覆されるといふことは、よくある話である。ことに人間を對象にした科學においては、その傾向が強い。スポーツをするときに、水を飮むなといふ「眞理」、脚腰を鍛へるために兔跳びをしろといふ「眞理」、それがどうであらう、今では人權無視として、そんな指導者は訴へられるところまで變はつてしまつたのである。客觀的といふことが、いつでもその時にその場においてのものでしかない、といふ自覺がないから、全面的な眞理として考へられてしまふのである。
 言葉にたいしてもさうである。客觀などといふことがありうるか。どのやうに分析しても言葉は肉聲をともなふものであり、肉聲を通じて現れるものでもあるのだから、書かれた言葉の構造を分析したり、意味の連關を分析したりするだけではつかみきれない多樣な側面を持つてゐるのである。ラングだ、パロールだ、シニフィエ、シニフィアンと言つたところで、それはフランス語といふものに即した言語分析であつて、私たちの國語にあてはまるかどうか、十分な檢討が必要だらう。それを、あたかも萬能の藥のやうに日本語にも當てはめ、分析すようとする態度が「客觀的」だと思つてゐるのが、言語學者たちである。
 田中氏は「國語・國字問題」に「うんざり」してゐるのでも、それにたいして發言するのが「てれくさい」のでもない。それはあくまでも、自分の主張を言ふことがてれくさいだけのことである。自分が眞理だと思つてゐることを客觀的だと考へてゐることを、繰り返すことが陳腐化してゐることに、本心が氣付いてゐるのであらう。だから、かういふ自嘲が生まれるのである。
 しかし、國語問題は、なにも「すり切れ」てはゐない。西洋からの新規輸入の言語理論を國語に當てはめようとする學者――彼らは未だにそれが學問だと思つてゐる――がゐるから、複雜にはなつてゐるが、國語問題は變はらない。國語を保持しようとする人々と、國語を破壞しようとする人々とが、ゐるといふことである。しかし、國語の破壞者たちは、自己の思ひを率直に表明するのではなく、塹壕に身を隱しながら、「てれくさ」さうに言ふから、あるいは自覺なしに破壞するから、問題が複雜になるのである。
 今、試みに隣にゐる人に、「國語は病んでゐないか」と尋ねてほしい。「何を言ひだすのか」といぶかしい顏をされるのが落ちである。國語が日常の話題になるといふことは、それはそれで不幸なことであるが、ただ今の國語の現状を見て、關心を抱く人が少ないといふことも不幸ではあらう。どんなに「てれくさ」くても、大事なことは繰り返し言はなければならない。國語は、學者の學問の對象である前に、私たち國民のものであり、それを論じることは、國民の責任である。



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「國語國字」最新號は福田恆存特輯

2005年05月09日 23時37分47秒 | 国語問題
 最新號の「國語國字」(國語問題協議會機關誌・第183號)は、福田恆存特輯號です。昨年行はれた講演會の内容を輯録。その他、16名の方方の追悼文などが掲載。充實した内容になつてゐる。

  講演會の演題・演者は次のとほり。


   「四十五周年を迎へて」 宇野精一

   「福田恆存と國語問題」 小堀桂一郎

   「福田恆存の思ひ出」 松原正


 御問ひ合せは、國語問題協議會 事務局 03-5908-9356
           0359089356@mail.keikaibox.com

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松原正講演会(詳報・補足)

2005年05月08日 22時42分29秒 | 日記・エッセイ・コラム
松原正先生の講演會の詳細を御傳へします。


 演 題 「何故、政治にばかりに興味をもつのか」

 日 時 5月29日(日) 1:00開場 1:30開演 3:30終演
      ※講演終了後、懇親會があります。
 
 場 所 大阪市中央卸賣市場本場業務管理棟16階 大ホール
     (大阪市福島區野田1-1-86)
      地下鐵千日前線玉川驛下車 徒歩12分
      JR大阪環状線野田驛下車 徒歩12分
      ※常連の方は、御分かりの通り、「いつもの場所」です。

 參加費 2000圓

  詳細は、電話0729-58-7301(森田さんまで)

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