言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

芥川賞『ポトスライムの舟』を讀む

2009年02月22日 22時11分18秒 | 日記・エッセイ・コラム

 福田恆存の國語觀の連載が終はり、これ以上私の福田評によつて福田恆存の名を汚すのも失禮すぎるから、「文學と時代」といふタイトルに變更した。今後もときに福田恆存のことは出てくると思ふが、「信者」の戲れ言から「教祖」を憐れむコメントは減つてくれるとありがたい。

   ポトスライムの舟

ポトスライムの舟
価格:¥ 1,365(税込)
発売日:2009-02-05
 さて、それはともかく、今囘も芥川賞は讀んでみた。關西が舞臺で、春日大社、東大寺、興福寺となんだか今年の初詣のコースと同じところを歩いてゐる主人公に妙に現實感を抱いて、まるで生徒の公開日記でも讀んでゐるやうな感じがした。選評を見れば、どれも高評價である。あれあれ、小説つてこんなものなんですかね、とつぶやいてしまつた。讀み易いのだけれども、何だかな、といふ感じがする。

宮本輝  私たちの周りの大方を占める、つつましく生きている女性たちの、そのときどきのささやかな縁によって揺れ動く心というものが、作為的ではないストーリーによってよく描けている。――だから「日記」だと思つてしまつたのだらう。「作爲的ではないストーリー」とは何なのだらうか。宮本輝さん、作爲がなければ「螢川」のあの美しさも書けなかつたでせうし、川三部作なんてあり得ないのでは。

山田詠美 行間を読ませようなどという洒落臭さはみじんもなく、書かれるべきことが切れ良く正確に書かれている。目新しい風俗など何も描写されていないのに、今の時代を感じさせる。――確かに小説は、時代の風俗を描き出すものでせうが、今の時代にワーキングプアの小説といふのは、時代に添寢し過ぎで、すぐに消費されてしまひませんか。

川上弘美 揺れていない。「このように書こう」としてもちゃんと「このように書いている。具体的な、身近ともいえることを扱っているからこそそれはやりやすい、ということではなく、どんなことを書こうという時も、ごまかさず最後までつめて考え、書き表しているから、だと思います――でも、この選評自體が「ごまかさず最後までつめて考え、書き表している」とは思へません。その意味で「搖れていない」。業務として「ちゃんと」書いてゐる、そんな選評です。

高樹のぶ子 俯瞰せずひたすら地を這って生きる関西の女たちの視線が、切ない生活実感を生み出している。――關西には「切ない生活実感」を持つた女性しかゐないやうです。バリバリ働く女性は、東京にしかゐないのでせうか。

石原慎太郎 無劇性の劇ともいうべき――レトリックですね。だから、日記だと思ひます。

 

   私は、小説を書けないので、以上のやうに勝手なことを言へるのですが、いま小説を書くといふことはほんたうに難しいことなのだらうと感じてゐます。芥川賞といふものが純文學に限定してゐるから難しいのかもしれませんが、最近の日本映畫の方がもつと面白いと思ひます。半年に一囘は多すぎるといふことかもしれませんね。

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時事評論石川 最新號

2009年02月21日 15時48分54秒 | 告知

○今年最初の時事評論石川の目次を以下に記します。どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。1部200圓、年間では2000圓です。

 極東軍事裁判の判決からちょうど60年が經過し、その判決を檢證するイベントが年末に開かれた。第一面はその詳細なレポートである。

    2面3面は、軍事評論家で帝京大學准教授の潮匡人氏の論文。アメリカ新大統領オバマ氏の軍事にたいする常識的な理解を浮き彫りにする。日本の「リベラリスト」が期待する「平和主義者」でないことを直截に語つてゐる。

東京裁判は時事問題だ

    ―置き去りにされる國家、國民の名譽―

                  雜誌編輯者 安藤慶太

善を目指し「戰爭」も躊躇せぬオバマ大統領

 戰後日本に根本的な見直しを迫る

                        帝京大學准教授  潮 匡人

奔流            

自衞官のソマリア沖派遣

  ―方針が決まらない民主黨―

                ジャーナリスト 花岡信昭

コラム

        渡邊喜美氏の「義命」を問ふ  (菊)

        政治報道の水準は (柴田裕三)

          地震に備へるために(星)

        朝日新聞創刊記念特輯の??(蝶)            

  問ひ合せ

電話076-264-1119    ファックス  076-231-7009

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讀者の質問に御答へする。2

2009年02月12日 22時27分42秒 | 福田恆存

(承前)

  相手は 桑原や金田一に限らない。福田恆存が關はつた「國語問題論爭」の歴史を、ただ事件として書くのではなく、當事者の人間論にまで觸れるために、彼等が書いた文章をなるべく多く引用し、讀んでもらふ必要を感じたのである。「祖述」とは、先人の説をそのまま受け繼いで述べることである。しかし、そのこと以外にどんな方法が思想の受け繼ぎ方としてあるだらうか。私の書きたかつたのは、福田恆存の言語觀である。誰かを何かの方に向かせることでも、國の衰滅を阻止することでもない。皮肉に言へば、さういふ大言壯語が、國語を改惡し、假名遣ひを變更させたといふ歴史を書いたのである。

  假名遣ひで國の命運を決められると思つてゐる人は、歴史的假名遣ひの啓蒙運動を始めればよい。どうぞすゝめてもらひたい。しかし、私はさういふ必要性も感じないし、さういふ意圖をもつて書いて來たのでもない。「啓蒙」とは、知識や道理に暗い人人を教へ導くことである。さういふ似非近代主義が桑原や金田一の思想である。さういふことを何度も何度も書いてきたし、福田恆存はそれと鬪つてきたといふこともこれまで縷縷書いて書いてきた。

  この質問子は、たぶん熱心な福田恆存の讀者なのであらう。しかし、大きな誤解があるやうだ。福田恆存は、決して「啓蒙家」ではなかつた。憂色は濃いが、憂國の士ではなかつた。國運を信じてゐたが、それを言論人のペンで變へられるとも考へてはゐなかつた。祈りにも似た精神の垂直性を文章からは感じるが、讀者に信仰を迫るやうなドグマ臭はまつたく感じなかつた。論敵を徹底的に論破し得る精緻な論理と巧みな修辭とを持ち合せてゐたが、その背後には、いつでも問題の本質にある人間論に道が通じてゐたから、時代を經ても讀むに値する卓越した國語の文章になつてゐた。

  私が書きたいのは、さういふ文章である。しかし當然ながら、私自身にはそれが無理だから、祖述したのである。「過去に福田がやったことの二番煎じはあまり意味がないと思ひます」とおつしやるのなら、冗談ではなく、「三番煎じ」をするしかない。私が出來ることはせいぜいそれぐらゐのことである。

幸ひなことに、今は福田恆存の評論集が全十三卷で麗澤大學出版會から刊行されてゐる。また文藝春秋からは戲曲全集も出始めた。新潮社の著作集も評論集も、文藝春秋の全集でも讀んだ人が、この機會にまた改めて讀み直すといふことになつても良いはずである。良い文章は何度も讀めば良い。本物は「番茶」でも「番茶の出がらし」でもない。正眞正銘「玉露」である。

  理屈はどうにでもつく。山本七平ではないが、この國は「空氣」が支配してゐる。まつたくその通りである。しかしながら、「現代かなづかい」の空氣の中で育つた私が、今歴史的假名遣ひを使つてゐるのはなぜか。この質問子が御幾つの方かは存じ上げないが、御本人もたぶん戰後の「空氣」の中で育つた方であらう。その方がいま歴史的假名遣ひを使つてをられる、それはなぜか。それは福田恆存の文章を讀んだからであらう。自身の體驗がさうならば、國の行く末を憂ふ以上に必要なことを見極めた方が良い。福田恆存の文章を讀むに如くはない。いい文章を讀むこと、それにまさるものはない。

  新たな意見を提出しなければ、媒體に書くべきではない、とは一見正論のやうに思へるが、その結果どうなつたであらう。私の數少ない學會での經驗でも愚にもつかない「新見解」が研究を停滯させてゐるのを實感する。それよりも、さうした「新見解」にたいして、七十歳を過ぎた老大家がわづか數分の時間を使つて寄せるコメントのじつに魅力的なこと。徹底的に讀込み、咀嚼したうへで紡ぎ出される知見は、壓倒的である。私たちに足りないのは、讀込である。論ではなく、提示である。祖述とは、その試みである。

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讀者の質問に御答へする。

2009年02月09日 20時55分46秒 | 福田恆存

  漢字についての福田恆存の考へをまとめることができなかつたことに觸れ、前囘は、つい「いつの日かまとめてみようと思ふ」などと大言壯語してしまつたが、それはたぶん無理であらう。すべては讀書量で決まる。私の力は及ばない。

  それはさておき、つい先日ある質問が寄せられた。これについては、大事な論點もあるので、二囘に亙つて書くことにする。

  質問は一部省略したが、主旨はそのままに載せる。

     ここのところ桑原武夫、金田一京助などを俎上に載せた假名遣論が続いてゐます。仰ってゐることには1%も異存はないのですが、このやうな論議を長々と続けること自体に違和感を感じます。桑原、金田一の言ひ分とそれに対する福田恆存の批判は福田の著書や土屋道雄氏の『国語問題論争史』などに少なくともそのエッセンスは書かれてをり、今更それを蒸し返して何をされやうとしてゐるのか、よく解りません。過去に福田がやったことの二番煎じはあまり意味がないと思ひます。他の読者も同じ気持ではないでせうか。愚生にとっては、福田恆存があれだけ理路整然と、かつ心をこめて正假名遣の正当性を訴へたにも拘らず、しかも多くの人が福田の言ひ分を正しいと認めたにも拘らず、その努力や思ひが今や新假名の奔流に呑み込まれてしまったことが一番の問題なのです。

  先日の沖縄における集団自決の問題にも見られますが、理屈が通じず、妙な情緒に押し流されてしまふこの国の精神構造に斬り込まない限り、国語表記の問題が正しい方向を向くこともないでせうし、この国が次第に衰滅に向かって行くのを阻止することもできないのではないかと思ひます。

 正直、痛いところを突かれたといふ思ひもある。が、「他の読者も同じ気持ではないでせうか」といふのは、必ずしも當たつてゐるとは思はない。なぜならそれほどの讀者がゐるわけではないからである。そもそもこの連載(初出時)は、編輯者の本當に心意氣だけで載せていただいた文章であるからである。そして、わづかな讀者であるけれども、彼らが直接間接にこれまでに私のところに寄せて來られたメールや手紙は概ね良い感觸のものが多かつた。だから、この質問子のやうに、熱心に讀んでいただいてゐる讀者でありながら不滿な人がいらつしやるといふのはあまり想像できない(ただ、ブログに載せてからはどうやら反撥する人も讀まれてゐるやうで、あちらこちらで拙論への搦手からの批難をされてゐるやうである。だいたいそれほど反撥するのなら讀まなければよいだけだ。直接批判もできないで、別のところに匿名で「批難」するとは愚の骨頂である。文筆業へのルサンチマンがあるのは、むしろさういふ人人だらう。言葉は鏡である)。熱心に讀んでくださる方は、はじめつから拙論の主旨に贊成してゐる人である。

  それを申上げたうへで、質問子がおつしやる通り、拙論には歴史的假名遣ひについて新しい知見がないといふことは認める。

  そして、じつはここにこそ問題の本質があつて、私が「痛いところを突かれた」と思つたのもそこに理由がある。

  今改めて、この質問子の文章を要約すれば、かうなる。

  歴史的假名遣ひは正しい假名遣ひであるのに、どうして今の日本人は使はないのか。今書かれるべきは、現代に生きる人人に歴史的假名遣ひを獎勵する文章であり、「国語表記の問題が正しい方向を向く」やうにさせ、「この国が次第に衰滅に向かって行くのを阻止する」やうにさせる文章なのだ。しかし、御前の文章はさうなつてゐないではないか。

  私が書きたかつたのは、「祖述」であつて、「啓蒙」ではない。そのことが熱心な讀者にも分かつてもらへなかつたといふことをぐさりと言はれたやうで「痛いところを突かれた」と思つたのである。「祖述」をしてきたのに、「啓蒙」を求められてゐたといふギャップにひどく驚いたのだ。

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言葉の救はれ――宿命の國語 番外篇8

2009年02月03日 20時37分42秒 | 福田恆存

「理念が理念たり得るためには、その理念が自己を否定してでも貫くべきものであるといふことが必要になります。例へば、『社會貢獻』がその企業の理念だとして、自分の會社の製品にもし重大な缺陷が見附かれば、自社をつぶしてもよいと言へるほどに煮詰められたものであれば理念と言つても良いでせうが、所詮金儲けにすぎない企業がそれを隱すために『社會貢獻』などと言つて自己欺瞞を平氣で出來るのは、そのこと自身が企業における理念の脆弱さを證明してゐます。それが實情ではないでせうか」と。

「白い戀人」やら「赤福」やら「吉兆」やらが問題になる前の話である。「社會貢獻」などといふ美名をかざしてできることは、寄附や冠講座、最近なら學生のインターンシップ程度のことであらう。そんなものは、景氣が惡くなればすぐに止めてしまふ(これを書いたのは一年前だが、今の不正規勞働者の解雇の問題を考へるとなほさらその思ひは強くなる)。そのことを指して「理念」といふのであれば、それは「理念」といふ言葉の誤用である(經營者が責任を取つて辭任するか、それができずばまづは自身の報酬をカットしてから勞働者の首を切るといふのが、彼等がこれまで誇らしげに語つてゐた「日本的經營」ではないのか。「社會貢獻」などといふことを言ふのなら、まづは會社に貢獻して然るべきである)。

ここまで言つても、その知人は理解を示さなかつた。「どう言はれようと理念は必要だ」と言ふのだ。まつたく言葉が通じなかつた。私も理念は必要だと思つてゐるが、その「理念」の意味を曖昧にしたままで、「理念が必要だ」と言つても事態は改善しないといふことを言つてゐるのに、まつたく通じないのである。この壁がまさしく近代知識人に共通する壁であらう。

「私たちはもう少し自分の身についた言葉で喋るやうになれないものか」――かういふ問題意識から、私はこの連載を始めたと先にも書いた。しかし、それはいつかうに變はる氣配を見せない。もちろん、私は變へようといふ意志と意圖とを持つて書き始めたのではない。一握りの人でも假名遣ひに關心を寄せる人が生まれ、國語の正統性とは何かに思ひを寄せて下さる人が出てくれば良い。もとより、私は人人を説得するだけの國語學の知識も、讀ませるだけの文章を書く力量もない。謙遜してゐるのではない。多くの人から「分りにくい」といふ御批判をいただいた。それゆゑに、これほど長く連載を續けさせてくださつた編輯部の御厚意には深く感謝してゐる(この文章はそもそも新聞連載されたものである)。また、教へ子の一人が最近歴史的假名遣ひを使ひ始めたことは、嬉しいことであつた(またブログに載せるやうになつてからは、これを讀まれた保護者の方の手紙が歴史的假名遣ひになられたのも、まことに喜びの一事であつた)。連載を終へるに當つての最高のお襃めを頂戴したやうである。

   宣長は、診療を續けながらその一方で文章を書き續けた。この連載は、所詮その眞似事にすぎまいが、眞似事をしようと努力はしてきたつもりである。先人の道を迷ひなく歩めたのは、假名遣ひこそが日本であるといふ思ひがあつたからである。

   福田恆存の漢字にたいする考へについては、今後の宿題である。殘念ながら、それは間に合はなかつた。白川靜をもう少し讀んでから、まとめてみようと思ふ。

   最後に、福田恆存が田中美知太郎と共に創設した「日本文化會議」に寄せた言葉を引用して、終はらうと思ふ。

      まともな仕事のやりにくい世の中だが、何としてでもそれをやつて行きたいといふ極く單純な願ひから發したものだといふ事である。大それた事は考へてゐない、大それた事を考へる人間が世の中を歪めてしまつたといふのが私達の考への出發點だからである。

(「僞善と感傷の國」もともとの題は「若者に引掻き廻されてたまるか」であつた。)

   次囘は、「質問に應へる」を載せるつもりです。

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