(承前)
國語學の世界では「權威」である金田一京助は、批評家の福田恆存などの「門外漢」による自説の否定を受けると、居丈高になる。前囘まではその「第一の不滿解消」について觸れたが、今囘は「第二の不満解消」についてである。
結論を先に言へば、全くその言語感覺を疑ひたくなる代物である。
例へば、「疑ふ」といふ動詞を例に考へてみよう。「疑ふ」の「活用語尾の変化」を考へてみれば、もともと「はひふへ」の四段に活用してゐたものを、「わいうえお」といふ不可思議な活用にさせてしまつたのが「現代かなづかい」である。これを「ことさらにそういう小さい点」とするのは、いかがなものであらうか。こんな根本的な問題を指摘されても「そんなことは、末梢的なことで、私にしては、あの場合どうでもいいことで、何と言われても、痛くも痒くもないから、言う人に言わしておくだけの所である」と言へるとしたら、もう國語の專門家の看板は降ろした方が良い。もちろん鬼籍に入つた方に申し上げても仕方ないことではあるが、今日までの影響を考へると、やはりその責任は重いと言はざるを得ない。何度も書いたが、「わいうえお」といふのは「わ」と「いうえお」に分かれ、ワ行とア行との二つの行をまたいだ活用をするといふ、國語史上例を見ない非「末梢的な」事件なのである。「どうでもいいことで」あるはずはない。
さて、私から見た金田一批判はこれぐらゐにして、福田恆存の反論を擧げてゆくことにする。
『知性』昭和三十一年二月號に掲載された「再び『國語改良論』に猛省をうながす」がそれである。福田の讀者ならずとも、純粹に論理を樂しむことのできる人ならば、ロジックとレトリックの妙なる運びに覺えず膝をうちたくなるやうな氣持ちにさせてくれる文章である。快哉をあげる。こんな文章家を相手にして金田一は大變な論爭を引き受けたものだと同情の念すら抱くのである。以下には福田恆存の文章をできるだけ引用し、直接その文章の味はひを感じていただきたい。
先に擧げた六つについて、かう書いてゐる。
「その一」については、かうだ。
「今日の英國人が書いてゐる英語を、無條件に近世英語の表記法と速斷することは、『学的論拠』から、私にはできません。」
まつたくその通りである。論據なしに結論を出すことをドグマと言ふのであり、結論をはじめから持つてゐて、都合のいいやうに例を擧げていくといふ論證の仕方は、學問的詐術である。ちなみにいふが、金田一の『知性』發表時の文章では、「英語には、古代英語(アングロサクソン)、中世英語、近世英語とあって、現代人の毎日書いたり読んだりしている実用の英語は、その中の近代英語である」となつてゐた。これを受けて、福田が「近世英語」「近代英語」と同じ文の中での言葉の違ひを指摘してゐるが、しかし、後年の『金田一京助全集』では、いづれも「近代英語」と改變してをり、この變更は誰によるものなのか、あるいはもともと原稿はさうなつてゐたのを、印刷に囘した時に誤植が生じたのかは不明であるが、校正の段階で見つけられないのはあまり「学問的」ではない。