言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『賢者の毒』を讀む。

2018年04月19日 21時53分56秒 | 日記
「賢者の毒」
留守 晴夫
圭書房

 留守晴夫先生の新著である。昨日、帰宅すると書斎の机上に置かれてゐた。丁寧な拵へは、留守先生の本らしい。表紙の絵と扉の絵とは、誰のものかは分からないが、表紙の絵は先生の似顔絵にも見える。グラスチェーンをつけた先生の姿をお孫さんが写しとつたものであらうか。「賢者の毒」といふ言葉の厳しさと、絵のタッチの柔らかさが、この本から伝はる印象そのものである。毒は蜜であり、蜜は毒である。「愚者が与へる蜜は退け、賢者が与へる毒は飲め」とはゴーリキーの『どん底』の言葉らしい。それを留守先生は師である松原正から知らされ、それを本書のタイトルにした。古今東西の名作を並べ、解説し、その「毒」を飲んでゐるのである。

 厳しい言葉を自らに課しながら、さうできてゐない他に対しても厳しいが、それは自分を斬るほどではない。絶望してゐるからなのかもしれないが、どこかに赦しがある。本文と表紙のアイロニーは、さういふ印象を表象してゐるやうに思はれた。

 跋には、先生の御専門であるアメリカの知識人ジェフリー・ハートが引かれてゐる。現代のアメリカに於ける大学カリキュラムの現状は、「文化的破局」の端的な表徴であるが、その一方でヘレニズムとヘブライズムとの緊張関係によつて「再生」する希望をハートは見出してゐると書いてゐるが、日本にはさういふ契機があるだらうかと疑問を呈してゐる。西洋から学ぶものはもはやないと言ひ切る知識人が跋扈するなかで、学ぶものはまだまだ多い。その意味で、留守先生も日本の現状に相当深刻な思ひを抱いてゐるやうではある。しかし、「再生」といふ言葉を引用ではあるが新著の跋文に使はれてゐるのは、少しだけ希望を感じた。たぶん楽観的に過ぎると言はれてしまふだらうが。

 本文は、「時事評論石川」や「文武新論」に連載してゐたものである。共に編集長は中澤茂和氏である。今伝へるべきものを活字にするとの信念で『月曜評論』以来発行を続けてをられる。さうした信念が、かうして一冊、また一冊と本になり、世に出ていく。かうした蓄積が、その国の文化の厚みだらうと思ふ。

 是非とも御一読をと思ふ。

 

 

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「歴史と人間」4(最終回)

2018年04月12日 22時42分20秒 | 日記

承前

 

 矢内原は、講演の最後に「歴史を創る人間とはいかなる存在か」について語る。

「吉田松陰についても、今日に於て松陰の思想は斯うである、松下村塾は斯うであつたと言つて世人は尊敬し賞賛しますけれども、松陰の松陰たる点は、彼が時代に於て容れられなかつたにも拘らず、自分の信念は天地神明に対して背かざるものであるから、どんなに世間の人が自分を容れなくても、排斥しても、自分は正しい松陰の守つて居る道が正しい、その深淵があつたが故に彼はあのやうな生涯を送つて、莞爾として獄吏の刃に消えることが出来た。さういふ所に彼の偉さがある。(中略)今日は日本民族が大きな民族的使命を負担し、それを自覚して行かなければならない時であります。さういふ時代に際会しまして真に必要なのものは、真理を守つて一歩も退かない、さういふ人間が必要だと思ひます。」

 そして、さういふ存在が歴史を創ると言ふ。矢内原にはさういふ覚悟があつたし、その師である内村鑑三にも紛れもなくあつた。歴史の流れをわづかな角度でも変更させるには、さういふ「真理を守つて一歩も退かない」人間の存在なのだらう。さういふことは学者では到底無理であつて、果たして宗教家にもゐるであらうか。自分の学説に固執して、他者の意見を聞かうとしない厚顔無恥の学徒は「教育界」や「学界」にはごまんとゐるが、それで世界は幸せにはならない。異端とは激しい闘争をするが、異教には友愛を唱へる宗教家もあきれるほど多いが、それで人間を救つてはゐない。さういふ今日の日本社会に、歴史を創る人間の誕生をひたすらに願つてゐる。

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内田稔氏の逝去を悼む

2018年04月06日 22時38分55秒 | 日記

 私はただ三百人劇場で、内田さんの芝居を観ただけである。しかし、その声は舞台の底に絶えず響いてゐて、次の役者の台詞をしつかりと支へてゐた、そんな感じで芝居を観、聴き続けてゐた。決して派手ではない。『セールスマンの死』も『クリスマス・キャロル』も懐かしく思ひ出す。

 享年91。大往生である。御冥福を祈る。

http://www.theatercompany-subaru.com/

 

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太陽の塔に桜は似合ふか。

2018年04月02日 08時05分03秒 | 日記

  どうといふこともない感想を一つ。

  大阪の夜桜は5年ぶり。この5年ほどは桜の見頃は4月だつたので、3月中にこれほどの開花状況は好機だ。そこで万博記念公園に出かけた。ここは若い人が多かつた。家族連れもゐたが、大学生やら若い男女やらが多く賑はひは独特。大道芸人がさうした人々に囲まれ盛り上がつてゐたし、各地〝美味しい〟ジャンクフードが店を出してゐてさながらグルメ博のやうであつた。

  桜は満開。ライトアップされて夜空に映えて美しい。その美しさはまるつきり人工的なものだが、そもそもソメイヨシノも人工的なもの。小林秀雄は下品と評してゐた。その通りであらう。ソメイヨシノ、ライトアップ、ジャンクフード、まさに人工空間。そこに太陽の塔がそびえる。これはこれでいいと思ふ。

  偽物でしか味はへない春だが、さうと知つて楽しむのも粋である。さううそぶいておく。

 

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歴史と人間 3

2018年04月01日 15時52分49秒 | 日記

 次のやうな言葉を、現代日本人はどう読むだらうか。教条主義として一蹴されてしまふのであらうか。

「このやうな真実の人間を新に生れ出でしめるものは基督教の福音である。罪を赦されて不死の信仰を与へられ絶対にして永遠の善たる神を信ずることによつて、始めて真実の人間、強い正しい人間が出来るのでありまして、かかる人間が真に真理を維持し、国を救ひ、人類の歴史を建設して行く者である。現代の思想的危機に於いて必要とせられる思想も力も、悉く基督教の聖書の中にある。ただ之を現代の必要に応じて再認識すればよいのです。科学的合理主義の思想的圧迫や民族的非合理主義の政治的迫害に屈せず、従来の基督教会とその教とに附着して来た不純物を除き去り、日本人の純粋なる心に基督教の真理の光を新鮮に宿し、溌溂と放てばよいのでありまして、今日基督教を日本に維持するといふことは、基督教の為めにも、日本の為めにも、世界人類の為めにも実に大切な問題であります。」

 

 これが書かれたのが昭和17年。戦時中のことである。日本の何が問題であつたのかを考へながらこれを読めば、矢内原が何を問題にしてゐたのかは明確である。基督教の護教論を述べてゐないのでないことは明らかである。そして、かういふ文章を載せることが生命の危機を意味してゐたことを考へ合はせれば、その切実さは真実である。「民族的非合理主義の政治的迫害に屈せず」といふ言葉はたいへん重いものである。そして、さういふ状況下でも「日本人の純粋なる心」を信じられたのが「真実の人間、強い正しい人間」の「信仰」故であらう。それがあればこそ、「国を救ひ、人類の歴史を建設して行く」ことができるのである。

 この言葉の意味が現実の生活においてどういふ行動に表れるのかといふことまで了解したとは言ひ難いが、かういふ人物がゐたことを誇らしく感じてゐる。

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