観念的な営みがとても大事なものだと思つてゐるが、その観念が現実を破壊しようとするとき、私はその観念を信じることを全力で否定する。何度も書いてゐることだが、北極星は私が今いるところを正しく示し、私が行く道を正しく導くものとして十分に意義ある存在である。このことは誰よりも深く信じる。しかしながら、だれかが北極星に行くことを目的として人々を先導しようとするならば、それを私は否定する。私たちの行く道は決して北極星に行く道ではないからである。これは言はば観念の効用であるが、多くの人はその観念(理想)と目標(目指す場所)とを混同してゐる。
自由・博愛・平等のフランス革命が単なる王室の否定で終はつたのは、それがあまりに観念的であつたからである。日本の明治維新が真の近代化を目指せなかつたのは、観念なく倒幕と尊王とに目標を置いたからである。
今朝、小川国夫の対談を読んだ。お相手は当時慶應義塾大学の助教授だつた田中淳一といふ方である(1975年)。その中で、かういふことが小川の口から出た。
「志賀直哉もいってますけれどもね、観念で弥縫したような生活というものは意義が少ないというわけですね。無前提に、ものの持っている感じとか、そういうものを直接感じとろうというそういう行き方があると思うんですがね。」
「もののもっている感じ」を感じとらうといふ感性を持たずに、「観念で弥縫したような生活」をすれば、それは「意義が少ない」どころではなく、小説なら魅力ないものとなり、現実なら生活を失ふといふことである。私は大学生の頃、小川に会ひに行つたことがある。自宅まで伺ひ一時間ほどお話を聞いた。夜型の生活をされてゐるのか、家の中でずつと過ごしてゐられるからか、とてもトーンの低い感じで話しをされてゐたやうに感じる。その時の話は何も覚えてゐない。お家にうかがつたのは、鼎談をお願ひするためで、後日場所を変へてお話を聞いた。その時の話は活字にもなつてゐるし、記憶もある。「岡潔は、最近の人の顔はどんどん悪くなつてゐる。動物的と言つてよいと言つてゐますが、小川先生どう思ひますか」「それなら動物はすべて悪いといふことになつてしまふのでせうか」と言はれた。これには言葉がなかつた。私が観念的であつた。小川さんは岡を批判したのでもない。きとつ22歳の青年が他人の言葉を引用して観念を語るなと言つたのであらう。今の私ならさう思ふ。そして、この1975年の対談から「奥行き」の話を訊いたであらう。
この対談の後ろの方で、小川は自作について訊かれた場面でかう言つてゐる。グルノーブルの小さな広場に木があつた。その時の描写についてである。
田中 そこの飲み屋におりてくると、木が一品ある、と。その木の描写があったあとで、ほかにも木が三本あったと書いてあったんですが、そういう描写は僕非常に不思議な気がするんですね。つまり普通に考えてみると木は四本あったんだと思うんですね。なぜその最初の木がまず描写されて、あとはほかにも三本あったというふうになるのか。
(中略)
小川 はあ。それはちょっと偶然書いっちゃったんですがね。そういうことはあるんじゃないですかね。たとえばあなたがどっかで四人の娘さんと出会われても、まず最初の人がこういう娘がいたと、ほかにも三人いたという、そういう認識のしかたというのはあるわけですね。
小川が言ふやうに、事実は偶然によるのであらう。が、それは無意識の働きがあつたからであらうといふのが田中の見立てである。そして、私もさう思ふ。この対談の最後の方で、小川は「小説の表へ出てこないものが裏にいて、人間の心をしばっているといいますかね、人間を引き裂いたり融合させたりする強い暗示力になっているということは、僕にとっては非常におもしろいことでして、書きたいテーマです。」と言つてゐるのを見ても、小川の描写の仕方が「偶然」ではないと考へる方が自然である。
そして、これこそが観念が身体化して現実に反映してゐる証である。かういふ在り方こそが、観念と生活、理想と現実の正しい形であると考へてゐる。
小川国夫といふ作家は、とてもユニークである。私は愛読者ではないが、都合三時間ほど話してゐてそれは感じた。カトリシアンとして「キリストを慕う気持ちは人語に落ちないつもり」と明言する作家が根つからいい加減なわけはない。しかし、その固い信仰を表面に出すことは謹んでゐるやうでもあつた。先の動物といふ言葉の捉へ方にしても、頭の柔らかさを象徴するエピソードである。キリスト者としてかくあるべしといふ観念をいたづらに振りかざす態度とは明らかに違つてゐた。
観念と生活、理想と現実、その両性を同時に見つめることはとても大事なことだと考へてゐる。