言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

石川淳「焼跡のイエス」を読む

2022年05月16日 08時13分25秒 | 文學(文学)

 今週の金曜日、東京大学が主催してゐる「金曜講座」でこの作品を取り上げるといふので読んでみた(今調べたら先週の金曜講座が「焼跡のイエス」でした。間抜けな話でした)。

 石川にイエスを題材としたいといふ思ひがあるのかどうか。そしてあるのなら、それはなにゆゑなのか。それを考へながら読んだが、何も感じなかつた。掌編であるからすぐに読める。昭和21年に発表された作品だ。

 不潔で飢えた少年をイエスに見立てたアナロジーに、切実さを感じなかつた。

 「金曜講座」を聴いて、何か変化があれば、また書かうと思ふ(もうこれ以上のことは書けません)。

 

 一応、福田恆存の石川淳評を引いておく。

「石川淳において解體に瀕した自我の建てなほしといふ近代的なこころみが、新しい小説概念の探求といふ線にそつておこなはれたのであるが、このもつとも近代的なしごとが、もつとも古めかしい封建的色彩を帯びるにいたつたといふことである。」

 この作品は「古めかしい封建的な色彩を帯び」てはゐない。しかし、「解體に瀕した自我の建てなほしといふ近代的なこころみ」として「新しい小説概念の探求といふ線にそつておこなはれた」ものであるかどうか。私には今のところディレッタントにしか見えない。

 

 

 

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今年讀んだ本

2018年12月25日 21時42分47秒 | 文學(文学)

 1 『リズムの哲学ノート』山崎正和 中央公論新社

リズムの哲学ノート (単行本)
山崎 正和
中央公論新社

 2 『批評の魂』前田英樹 新潮社

批評の魂
前田 英樹
新潮社

 

 3 『学級の歴史学』柳 治男 講談社

の歴史学 (講談社選書メチエ)
柳 治男
講談社

 

 山崎は、今年文化勲章をもらつた。「この章をいただいたのは国民からで、国民に感謝する」などといふことをどうして言ふのか、授章した嬉しさに動転したのかもしれないが、あまりに不似合ひな言葉に絶句した。日本の現代文学においてほとんど無視され続けた氏の文業であるが、私は氏の労作を愛読し続けてきた。これから新著が出るのかどうかは分からないが、何度でも読み直したいと思ふ。時評については、その主張がどれぐらゐ現実とずれてゐたのかを知ることも再読する意味の一つである。それは揶揄するためではなく、論理的に考へるといふことがじつは真偽とはほとんど関係ないことであるといふことを知ることは、論理性だとか合理性だとかをとかく強調する時代であるが現代は、さういふことの過ちを極めて博学ですぐれて論理的に考へるのに、山崎の作品はとても貴重である。これもまた非難してゐるのではない。さういふ人物は滅多にゐないといふことである。

 2は、少々古めかしい文藝評論である。小林秀雄を論じることは現代の若手の批評家には興味の対象ではない。したがつて、小林を論じることも古めかしいことである。しかし、批評理論だか現代思想だかの影響を受けて、作品そのものの生命を殺して自分の主張を論ふやうな現代の批評の文章は面白くない。有体に言へば、文學ではなくなつてゐるのである。さういふなかにあつて、前田の文章は文學のそれである。讀み進めるのが惜しくなるやうな、とても幸せな時間だつた。またかういふ作品が出てくることを期待してゐる。

 3は、古いものである。今年、学校が壊れていくとはかういふことかといふことを知ることとなり、学校とは何かを考へることが多かつた。そこでたいへん有益であつたのが本書である。教へるためには教師や制度や組織はどうあるべきか、その単純な目標を実現するために学校の有り様は考へられるべきで、さういふところから出発しない施策は理想主義であり、観念論であり、現実無視である。平和主義が戦争を呼び込むやうに、理想主義は現実を破壊する。不快な一年であつた。

 番外。これも古いものである。森鴎外の「木精」である。少年が成長する上でコダマは必要であつたが、自立するにはコダマによつて突き放されなければならない。そのコダマがいつたい何を意味するのか、そのメタファーは明らかではないが、少年は確かに自立した。極めて短い小説であるが、とてもよいものだつた。

木精
森 鴎外
メーカー情報なし

 

 

 

 

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「無様な理想主義」

2018年09月02日 16時34分05秒 | 文學(文学)
批評の魂
前田 英樹
新潮社

 今、前田英樹の『批評の魂』を読んでゐる。とても面白くて、ゆつくりと時間をかけて読んでゐる。

 今日読んでゐるところに、昨日書いた話題に関連する事柄があつたので引用する。

「自然主義作家らがしたことも、多かれ少なかれ創作に過ぎないが、その創作がもたらす真実味は、彼らを取り巻く現実よりも生き生きとしている。それはなぜか。言うまでもない。『どうかして生きたい』という彼らの烈しく、無様な理想主義が、実在のモデルを現実以上に真実な、名状し難い生き物の姿として引き出してしまうからだろう。」

 藤村、花袋、秋声、泡鳴の小説にたいする正宗白鳥の評論『自然主義盛衰史』について、前田が丁寧に論じてゐる部分である。

 いはゆる自然主義作家たちが、その理想主義通りに生きられない姿を「赤裸々」に書き、それを「自然」として描いてゐるといふ自尊心を彼ら自身はうまく隠してゐると思つてゐるやうだが、じつはさういふ自尊心、自負心はしつかり白鳥の目には捉へられてゐる。「実在のモデルを現実以上に真実な、名状し難い生き物の姿として引き出」すとは、さういふ意味であらう。「生き物」といふ名称も、その真実の姿を「引き出し」てしまふといふ書き方も、それが作家の仕組んだ意図を超えて生まれてしまふ不可思議な事柄であるといふことを巧妙に書き表はしてゐる。それは彼らの掲げる理想主義(=自然主義)が極めて「無様な」ものであるからだ。

 自然主義を通して生まれた私たちの近代文学であるとすれば、かういふ無様な姿もまた私たちのものである。そのことは肝に銘じなければならないが、この近代文学の始まりの自然主義作家たちには、それが決して無様なものであるとの自覚はない。それは丸つきり他人事であると言へるだらうか。さう言へないところに、私たちの近代の問題がある。そのことを踏まへると、理想を理想として掲げながら、現実は現実として受け入れるといふ二重生活に我慢できず、すぐに理想を現実化しようとしてしまふ愚を犯すのも、理想を理想として掲げることで、現実は直ちに理想化したものだと思ひ込んでしまふ愚を犯すのも、まつたく「無様な理想主義」であることに違ひはない。私たちは未だ明治の子であるのだ。

 

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「ものの奥行き」

2018年09月01日 09時28分19秒 | 文學(文学)

 観念的な営みがとても大事なものだと思つてゐるが、その観念が現実を破壊しようとするとき、私はその観念を信じることを全力で否定する。何度も書いてゐることだが、北極星は私が今いるところを正しく示し、私が行く道を正しく導くものとして十分に意義ある存在である。このことは誰よりも深く信じる。しかしながら、だれかが北極星に行くことを目的として人々を先導しようとするならば、それを私は否定する。私たちの行く道は決して北極星に行く道ではないからである。これは言はば観念の効用であるが、多くの人はその観念(理想)と目標(目指す場所)とを混同してゐる。

 自由・博愛・平等のフランス革命が単なる王室の否定で終はつたのは、それがあまりに観念的であつたからである。日本の明治維新が真の近代化を目指せなかつたのは、観念なく倒幕と尊王とに目標を置いたからである。

 今朝、小川国夫の対談を読んだ。お相手は当時慶應義塾大学の助教授だつた田中淳一といふ方である(1975年)。その中で、かういふことが小川の口から出た。

「志賀直哉もいってますけれどもね、観念で弥縫したような生活というものは意義が少ないというわけですね。無前提に、ものの持っている感じとか、そういうものを直接感じとろうというそういう行き方があると思うんですがね。」

「もののもっている感じ」を感じとらうといふ感性を持たずに、「観念で弥縫したような生活」をすれば、それは「意義が少ない」どころではなく、小説なら魅力ないものとなり、現実なら生活を失ふといふことである。私は大学生の頃、小川に会ひに行つたことがある。自宅まで伺ひ一時間ほどお話を聞いた。夜型の生活をされてゐるのか、家の中でずつと過ごしてゐられるからか、とてもトーンの低い感じで話しをされてゐたやうに感じる。その時の話は何も覚えてゐない。お家にうかがつたのは、鼎談をお願ひするためで、後日場所を変へてお話を聞いた。その時の話は活字にもなつてゐるし、記憶もある。「岡潔は、最近の人の顔はどんどん悪くなつてゐる。動物的と言つてよいと言つてゐますが、小川先生どう思ひますか」「それなら動物はすべて悪いといふことになつてしまふのでせうか」と言はれた。これには言葉がなかつた。私が観念的であつた。小川さんは岡を批判したのでもない。きとつ22歳の青年が他人の言葉を引用して観念を語るなと言つたのであらう。今の私ならさう思ふ。そして、この1975年の対談から「奥行き」の話を訊いたであらう。

 この対談の後ろの方で、小川は自作について訊かれた場面でかう言つてゐる。グルノーブルの小さな広場に木があつた。その時の描写についてである。

田中 そこの飲み屋におりてくると、木が一品ある、と。その木の描写があったあとで、ほかにも木が三本あったと書いてあったんですが、そういう描写は僕非常に不思議な気がするんですね。つまり普通に考えてみると木は四本あったんだと思うんですね。なぜその最初の木がまず描写されて、あとはほかにも三本あったというふうになるのか。

(中略)

小川 はあ。それはちょっと偶然書いっちゃったんですがね。そういうことはあるんじゃないですかね。たとえばあなたがどっかで四人の娘さんと出会われても、まず最初の人がこういう娘がいたと、ほかにも三人いたという、そういう認識のしかたというのはあるわけですね。

 小川が言ふやうに、事実は偶然によるのであらう。が、それは無意識の働きがあつたからであらうといふのが田中の見立てである。そして、私もさう思ふ。この対談の最後の方で、小川は「小説の表へ出てこないものが裏にいて、人間の心をしばっているといいますかね、人間を引き裂いたり融合させたりする強い暗示力になっているということは、僕にとっては非常におもしろいことでして、書きたいテーマです。」と言つてゐるのを見ても、小川の描写の仕方が「偶然」ではないと考へる方が自然である。

 そして、これこそが観念が身体化して現実に反映してゐる証である。かういふ在り方こそが、観念と生活、理想と現実の正しい形であると考へてゐる。

 小川国夫といふ作家は、とてもユニークである。私は愛読者ではないが、都合三時間ほど話してゐてそれは感じた。カトリシアンとして「キリストを慕う気持ちは人語に落ちないつもり」と明言する作家が根つからいい加減なわけはない。しかし、その固い信仰を表面に出すことは謹んでゐるやうでもあつた。先の動物といふ言葉の捉へ方にしても、頭の柔らかさを象徴するエピソードである。キリスト者としてかくあるべしといふ観念をいたづらに振りかざす態度とは明らかに違つてゐた。

 観念と生活、理想と現実、その両性を同時に見つめることはとても大事なことだと考へてゐる。

 

試みの岸 (講談社文芸文庫)
小川国夫
講談社

 

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『個人主義の運命』を読む。

2017年02月06日 21時51分20秒 | 文學(文学)

 当ブログのタイトルは、「言葉の救はれ・時代と文學」である。言葉を蔑ろにしてゐる風潮を批判しつつ、その上で近代や現代の文學からどいふ時代像が読み取れるのかといふことを意図してゐる。言葉が存在のすみかであるなら、言葉をいい加減に使へば、存在自体もいい加減になる。さういふ人たちの作り出す時代において文學は、どういふ造形を結ぶのか(作品を生み出すのか)。悲観的にならざるを得まいが、現代文学を見続けることを放棄しないやうにしようと自戒してゐる。

 ただし、続けてお読みいただいてゐる方はよく分かると思ふが、ここのところ小説を読んでゐない。文藝雑誌は毎月目を通す。しかし、最後まで読む気がしない。それよりは古典や現代批評を読んだ方が面白い。さういふことが続いてゐる。もちろん、このことは私の小説読みの下手さにも原因があるだらうから、全面的に現代小説を否定することはできない。だが、やはり根本的な原因は言葉を大事にしないといふ風潮にあるだらう。言葉で生きる。言葉を杖にして生きていく。さういふ意識があるとは思へない。道具の使ひ方も不十分なままに、勝手に何かを作らうとするから、不細工なものしかできないといふことがあるのではないか。そんな懸念を払拭することができない。

 標題に上げた本は、社会学者の作田啓一氏の本である。1981年初版。岩波新書黄色版。高校三年生の時に出たものである。もちろん、当時はその存在を知らなかつた。一所懸命、亀井勝一郎や小林秀雄を受験勉強の合間に読んでゐた。漱石の『こころ』に感動し、良心の呵責で人は死ぬことがあるののだといふことを体の芯に埋め込まれた。さうだ、さうだ、さういふことがあるのだと感じてゐた。近代文學が豊かに含んでゐた近代人の孤独を、漱石は言ふに及ばず小林も亀井も凝視してゐた。そして、それが成熟の道だと思つてゐた。

 作田啓一もまた、さういふ意識で近代小説を読んでおり、それを社会学的にとらへたのが本書である。とても面白い。漱石の『こころ』についても触れられてゐる。「先生」の自殺について、そのきつかけが乃木大将の殉死であり、「明治の精神に殉死する」と記されてゐるが、それは漱石が近代人の「欲望の個人主義」によつて「個性の個人主義」が滅びることを予感し、その危機感ゆゑであるといふ見立てを書いてゐる。作田のこの理路はにはかには分からないが、漱石の「自己本位」が、作田の「個性の個人主義」といふことを意味するのだらうか。こちらの思考が刺戟されて痛快である。

 『こころ』は上中下となつてをり、下の「先生の遺書」が最も大きな分量を占めてゐる。先生と青年との関係なら上と中はいらないといふことにもなりかねないが、さうではない。漱石の中にはある必然があつて、上と中があつたのである。先生とK。先生と両親。そして青年と両親。いづれの関係も敬意と怨恨とを孕んでゐる。行動には意志がある。さう思はれてゐる。近代人は自我が中心にあると思つてゐる。しかし、関係が意志も行動も生み出してゐるとは考へられないか。漱石は近代人の自我に焦点を当てて「孤独」を描き出しつつ、そのすぐ横にその「孤独」を生み出した自我といふもののはかなさをも描き出してゐるやうでさへある。自我もまた関係の生み出した「音」、衝突音であつたり、軋み音であつたり、美しい響きであつたりするのではないか、さう思ふ。「こころ」といふタイトルの現代的な意味は、さういふ理解を可能としてゐる。

 小説から時代を読み取れる可能性はまだあると思ふ。

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