「結局、相手を承服させるには、權力、武力、多數決、それしかない。私たちは、そのばあひ前二者によるのをファシズムと考へ、後者によるのをデモクラシーと考へてゐますが、まつたくたわいないことです。そんなものではない。西歐デモクラシーの社會はその三つを自由に操ります。ただ、それらと對立するものとして、暗默のうちに絶對の觀念が人々を支配してゐる。武力を用ゐるから民主主義的でないとか、宗教的でないとかいふたはごとは、西歐を理解してゐないからにすぎません。」昭和三十年「個人と社會」
絶對を持たない國では、個人主義も生まれない。そしてそれを否定する倫理も相對的なものにならざるをえない。しかし、本來倫理は變はらないものであるはずだ。福田恆存は、『人間・この劇的なるもの』(昭和三十一年)のなかで、次のやうに書いてゐる。
「社會の推移に應じて倫理感も變るといふやうなあやふやな考へかたに、私は疑問をもつのである。」
個人の後ろ盾を多數の意見に置く日本人は、單なる臆病なだけだらう。ばれなければ良いといふのは、倫理とは言はない。
絶對を持たない國では、個人主義も生まれない。そしてそれを否定する倫理も相對的なものにならざるをえない。しかし、本來倫理は變はらないものであるはずだ。福田恆存は、『人間・この劇的なるもの』(昭和三十一年)のなかで、次のやうに書いてゐる。
「社會の推移に應じて倫理感も變るといふやうなあやふやな考へかたに、私は疑問をもつのである。」
個人の後ろ盾を多數の意見に置く日本人は、單なる臆病なだけだらう。ばれなければ良いといふのは、倫理とは言はない。