言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

相對的な世界では

2005年09月25日 10時25分39秒 | 日記・エッセイ・コラム
 「結局、相手を承服させるには、權力、武力、多數決、それしかない。私たちは、そのばあひ前二者によるのをファシズムと考へ、後者によるのをデモクラシーと考へてゐますが、まつたくたわいないことです。そんなものではない。西歐デモクラシーの社會はその三つを自由に操ります。ただ、それらと對立するものとして、暗默のうちに絶對の觀念が人々を支配してゐる。武力を用ゐるから民主主義的でないとか、宗教的でないとかいふたはごとは、西歐を理解してゐないからにすぎません。」昭和三十年「個人と社會」

 絶對を持たない國では、個人主義も生まれない。そしてそれを否定する倫理も相對的なものにならざるをえない。しかし、本來倫理は變はらないものであるはずだ。福田恆存は、『人間・この劇的なるもの』(昭和三十一年)のなかで、次のやうに書いてゐる。

 「社會の推移に應じて倫理感も變るといふやうなあやふやな考へかたに、私は疑問をもつのである。」

 個人の後ろ盾を多數の意見に置く日本人は、單なる臆病なだけだらう。ばれなければ良いといふのは、倫理とは言はない。

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平和論二題――福田恆存と保田與重郎

2005年09月22日 21時34分32秒 | インポート
 今、故あつて平和論を讀んでゐる。近年では、富岡幸一郎さんが『非戰論』を書き、内村鑑三の再評價をなさつてゐるが、私は福田恆存と保田與重郎の平和論を讀み直した。
 時代順に記すと、次のやうになる。
 昭和25年 保田與重郎『絶對平和論』
 昭和30年 福田恆存『戰爭と平和と』
 保田のものは、日本古來の文化である農耕文化には「戰爭」といふ發想がそもそもないのであるから、それに立ち返れば良い。近代文明である「戰爭」を否定するのなら、近代文明自體を否定しなければならない。憲法といふのは近代主義の産物なのだから、その憲法を守ることによつて戰爭抛棄が實現できるといふのは愚かなことだ、といふことを繰り返し繰り返し書いてゐる。極めて原理的であり、それ故に分かりやすい。明確で、妥協がない。しかし現實的な力はない。その主張を出版社から出すと言ふことの近代文明的性格は、どうしたら良いのだらうか。保田自身の生活は、それを裏切つてはゐない。哲學の言葉として重い。
 福田の平和論と言へば、前年(昭和29年)の『平和論に對する疑問』が有名であるが、今囘改めて讀み直して、誤解を恐れずに言へばそのあまりの内容の表面的であるのに驚いた。私は、福田恆存の言説でこれほど皮相な文章をはじめて讀むやうな氣がした。もちろん、それは福田の文章を揶揄したり批難したりして言ふことではない。昭和29年と言へば、今から51年前である。今日ではあまりにも當然のことを赤子を諭すやうに説明する福田の苦心が感じられてならないのである。福田は、この文章ゆゑに論壇から村八分にされたのだと言ふ。といふことは、これだけのことを言ふのに51年前はどれほど大變なことであつたのかといふことである。このことは、全集の「覺書」にも自身が書いてをられるし、福田の愛讀者ならその事情はよく知つてゐるだらう。そのことを改めて感じたのである。福田が感じた風壓のあまりの強さと、その中身の稀薄さとが、時代の變化を傳へてきたのであつた。
 常識に還れといつも言つてゐた福田恆存である。そして、その常識が今現實になつてきた。今日は、國會で「憲法調査會」の發足が決まつた。しかし、私は「常識に還れ」と改めて言ふ必要を感じた。なぜなら、常識が蒸發してしまつたからである。
 福田恆存が感じた風壓を、いま感じるとしたら、どういふことを言はなければならないだらうか。別言すれば、今日の社會において、タブーとなつてゐることとは何だらうか。
 短期的には小泉純一郎批判であらう。しかし、それは直ぐに沙汰止みになる。なぜなら、小泉某も消耗品だからである。
 中期的には何か。北朝鮮救濟策である。松原正先生が講演では話してゐたのに、原稿では修正した(させられた?)拉致問題への見解もさうである。私は、少し前に金正日を亡命させよとあるところで書いたが、これがマスコミならタブーだらう。
 長期的には何か。近代のやり直しである。唯物的な近代化への批判である。憲法・政治・國語・科學・宗教・教育、いづれも唯物的な近代化のなかで歪んでしまつてゐる。以前、テレビで、宮崎哲弥氏がアメリカの五割(だつたかもう少し多かつたか)の人間が進化論を否定してゐることを取上げて、とんでもない國家だと言つてゐた。私に言はせれば、そのコメントがとんでもないものである。氏がラディカルブッディストを自稱するのは勝手であるが、佛陀は唯物的であるかどうかは自省した方が良い。
 かつて福田恆存は、基督者の渡部昇一を批判して、「生と死が向ひ合ひ、心と物とが出遭ふ一人の人間の生き方が全く解つてゐない」と書いたが、現實主義者といふものを批判するのが、長期的な批評の課題である。私は、それを世俗的人本主義批判と名附けたが、最近北村透谷を讀んでゐて、實に有益なことがあつた。いづれどこかで書くことになると思ふ。
 透谷・鑑三・保田・福田、それらは日本精神史骨である。近代の背骨である。この背骨から肉付けをし直すべきだと考へてゐる。



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「火火」を觀て

2005年09月20日 17時48分22秒 | 日記・エッセイ・コラム
 田中裕子と窪塚俊介(洋介の弟)主演の映畫「火火(ひび)」を觀た。陶藝家・神山清子とその息子賢一の物語である。信樂の自然釉を再現するために妥協を許さず、夫に逃げられても、二人の子供の教育を放つておいても、陶藝に專念する。その執念や觀てゐて恐ろしいほどである。更に、息子が白血病になるが、心の第一の場所にはやはり陶藝が置かれてゐた。骨髓バンクのない時代である。息子のためにその運動を起こす。しかし、努力の甲斐なく息子は死んでしまふ。病と鬪ふ息子にも決して涙を見せない母の姿は、やはり悲しいものであつた。懍とした姿は、土と火と鬪ひつづけた一人の女性の強さから釀し出されるものでもあるのだらうか。
  田中裕子の好演は、見事である。冷たいものを内に祕めながら、炎に燒きつくされるやうな試煉をするりとすりぬけてゆく、それが傳はつてくるのである。
 あまり目立たない映畫であらう。私も偶然に觀た。美にとりつかれる人の生涯は、過激である。しかし、かういふ人生は現代藝術家にはないだらう。そこには、受け繼ぐ傳統も、傳へるべき技能もないからである。
 傳統とは、あのやうに熱いものである。格鬪する果てに相續できるものである。そのことを思つた。


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渾沌時代の選擧と文學

2005年09月13日 11時05分48秒 | 日記・エッセイ・コラム
「變遷の時代にありては、國民の多數はすべての預言者に聽かざるなり、而して思想の世界に於ける大小の預言者も亦た、國民を動かすに足るべき主義の上に立つこと能はざるなり。これを以て思想界に、若し勢力の尤も大なるものあらば、其は國民に向つて極めて平易なる教理を説く預言者なるべし。再言すれば敢て國民を率ゐて或所にまで達せんとする的の預言者は、斯かる時代に希ふ可からず。巧に國民の趣向に投じ、詳かに其の傾くところに從ひ、或意味より言はゞ國民の機嫌を取ることを主眼とする的の思想家より多くを得る能はず。」

 北村透谷の「日本文學史骨」の一部である。かうした「渾沌時代」にあつては、假名垣魯文や成島柳北などの「國民に向つて極めて平易なる教理を説く」作家が「勢力の尤も大なるもの」になり、「指揮者をもたざる國民の思想に投合すべきものは、悲しくもかかる種類の文學なることを明言するのみ」といふことになる。
 これが今般の政界のメタファーであるとすれば、魯文や柳北とは誰のことかは、言はずもがなのことであらう。暫くは渾沌時代は續くといふことである。言つてみれば、明治以來、渾沌は續いてゐるてゐるといふことだ。さう思へば、少しは氣が休まる。漱石のやうに發狂しないで濟む。
 さて、文學にしても、魯文や柳北ばかりである。漱石や鴎外はゐない。思想にしても、鑑三や透谷はゐない。福田恆存亡き後の、評論の世界にも今は見つけられない。


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言葉の救はれ――宿命の國語32

2005年09月04日 22時20分04秒 | 日記・エッセイ・コラム
 そのほか、東南アジアの現在の言語と私たちの國語とをくらべれば、その音韻や構造が全く異なることは火を見るよりも明らかである。もつとも大野晋氏のやうにタミール語を日本語の祖語とする學説もあるが、それは學説の域を出ない。母音の對應や文法構造の同一性などから同系統の言語であることを探つてゐるのであるが、「語源」といふ問題は文字が發明された移行でしか頼れないのであれば、ずいぶん頼りない問題でもある。
 それでも、語原を探る方向は、日本語を尊重し、過去と現在と未來とを見通して、日本語の性格を明らかにしたいといふ眞摯な言語學的慾求が根據になつてゐる。
 ところが、上田萬年はさうは考へなかつた。
 日本語などといふものは遲れた非近代的なものなのであつて、ヨーロッパ言語こそが言語であり、それに似せることが國語の近代化なのであると考へるのである。そこには、言語學の對象がインド=ヨーロッパの言語でしかなかつたといふ當時の言語學の水準があり、西洋言語に當てはまる圖式が、世界中の言語に當てはまるはずだとの謬見があつた。
 西洋中心の「近代」を相對的に見ることなど全く想像もできない状況下では、私たちの國語を江戸期の國學者たちが見つめた視點で見ることなど毛頭できないわけである。さうであるからこそ、國語は表音化が望ましいと確信をもつて考へられたのであり、漢字は必要ないと主張しえたのである。
 今日、書家の石川九楊氏は、漢字とは、古代の象形文字(古代宗敎文字)が表音化しないで、その外形意匠を引繼ぎながら脱神話化して今日まで存續してゐるもので、アルファベットとはエジプトなどの聖刻文字(ヒエログリフ)が脱神話化に失敗して象形文字を維持することができず、フェニキアやギリシャなどがそれを換骨奪胎して發音記號にしまつたものであると言つてゐる(『書字が教えてくれる』)。したがつて、漢字は書字を重んじ、アルファベットは音聲を重んじることになつたのだ。
 このやうに、書字中心言語である日本語を、音聲中心言語であるヨーロッパの言語と同じやうにしようと意圖した「國語國字改革」が國語を正道に導くはずがない。
 全く異質な言語であるものを、一つの方に近づけるといふやりかたが性向するはずがない。もちろん、鐵道や電信の技術のやうに、文明に屬するものであるなら、それは可能である。技術は普遍的であり、近代化とは文明の變化であるからである。ところが、言語は文明に屬するものではない。「おぼろづき」といふ言葉を「おぼろずき」とする表音化原理では、日本語は破壞されてしまふのである。ほのかにかすんだ春の月は、「おぼろづき」なのである。言葉は文化つまり生き方に屬してゐるのだ。
 かうした表音化を、當時の最尖端の言語學が追ひかけたといふことはどういふことだらうか。それは、先に述べたやうに、言語とは何か、私たちにとつて國語とは何かといふことを考へる作業をおろそかにしたからである。觀念の輕視、それがいつでも私たちの弱點である。



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