言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

授業の良し悪し

2016年04月28日 14時41分03秒 | 日記

 よい授業をすれば、学力が身につくのか。あるいは、悪い授業だと学力は身につかないのか。

 学力と授業のよしあしを、日常的には簡単に結びつけて言つてしまふが、はたしてさう簡単に言へるのかどうか。もちろん、ここでも学力とは当面「テスト得点力」のことだと割り切つてのことである。

 その上で、学力と授業のよしあしは、たぶんあまり関係がないだらう。

 学びの発動にとつて、よい授業とは、マラソンのスタート時のピストルぐらゐの意味しかないのではないか。その後の42.195kmは、やはりその人の走る力によるのである。つまりは、授業とはそれだけのものでしかなく、学びを発動させるきつかけである。ではそれはとても小さなことかと言へば、その通りであるともその通りでもないとも言へる。

 つまり、スタートしてゐない生徒とは、言はばピストルの音が聞こえてゐない生徒のことでなのだから、その生徒の耳にピストルの音が聞こえるまで何度も鳴らし続けなければならないのである。

 となれば、授業のよしあしとは、ピストルの音がよく聞こえるかどうかといふことである。眠らせず、興味を抱かせ、学ぶ必要性を感じさせる、それは教師の役割であらう。

 では、学びの発動は、どのやうに維持できるか。今年度は「自学自習」について考へていきたい。

 

 

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「小論文」で何が分かるか。

2016年04月27日 08時32分04秒 | 日記

 大学入試に「小論文」といふ科目がある。慶応大学には、ひさしく「国語」はなく「小論文」を課されてゐる。学部によつてその経緯はさまざまであるやうだが、国語といふ科目で計りたい学力を見出せないといふことなのだらう。国語の問題か、大学の問題かは措くとしても、かつて丸谷才一が批判した「慶応国語問題」(ただしくは「慶応大法学部は試験をやり直せ」)は解消したといふことなのでせう。

 さて、ではその「小論文」なるもので計れる学力とは何か。それは端的に言つて、「学力が無い人を測る試験」である。書かせて書けない人は、やはり学力が無い。断言してよい。小論文講師として有名な樋口先生式の「主張→譲歩(たしかに)逆接(しかし)構文→(根拠や論証→)結論」で、形式的には書けてもそれだけでは内容のお粗末振りは隠せない。

 したがつて、英語や数学が課される入試であれば、その教科で高得点を取つた受験生の小論文の答案だけを採点するといふスタイルにならざるを得ない。入試の得点を開示しない大学であれば、このスタイルで採点してゐる可能性(危険性)は非常に高い。

 では、いつから小論文対策をするかであるが、書き方の手順は高2でひと通り、問題意識を高める読書を継続的に、直前期に過去問をやるといふのが現実的ではないか。国語+英数+理系なら理科、文系なら地歴の三段階で対策をするといふ構へが必要である。

 入試が小論文しかないといふのであれば、高三の一年間、みつちりそれをやればいいが、やはり「学力が無い人を測る試験」であることに変はりはない。やはりセンター試験で平均点は取らないとだめではないかなと思ふ。

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どちらがお菓子を食べてしまふか。

2016年04月26日 08時48分11秒 | 日記

 大阪にゐた時に、もう五年前の話であるが、佐谷力(常盤会学園大学教授)先生のお話を聴く機会があつた。そのことがふと思ひ出されて、あさ昔の手帳を引つ張り出して読んでみた。

 思ひ出してゐたのは次のこと。

「木の上にある鳥の巣から落ちたひな鳥を見て、幼児にどう思うかを訊く。

1 「かわいさう」と叫ぶ。

2 すぐに助けに行く。

 その次に、ある部屋に連れていく。その部屋の真ん中にはテーブルがあり、その上には子どもたちが好きさうなお菓子が置いてある。先生は、その子どもたちに「戻つてくるまで、食べないで待つてゐてね」と言つて部屋を出る。

 さて、1と2との幼児で、どちらの子どもたちがお菓子に手をつけてしまふでせうか。

 考へてみてください。

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 実は、2の子どもたちがお菓子を食べてゐました。」

 この話には驚いた。教員を対象にしたセミナーだつたので、その場にゐた教師に手を挙げさせたが、大半は1の子どもの方が食べてしまふと答へた。私も1だと思つた。

 しかし、答へは「2」。1の幼児は、共感に基づいて行動するから、先生の言葉に「感じて」ゐる。しかし、2の子どもたちは「頭で理解して行動するから、お菓子を食べてはいけない」といふことには共感せず、頭では理解してゐるだけなので、食べてしまふといふことになるらしい。

 さて、教育とは、どちらを優先すべきかといふことである。今では五年前とは違ふ感想をこの話に感じてゐるが、大事な話であるには違ひない。

 

 

 

 

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何冊も同じ本が……

2016年04月25日 20時52分58秒 | 日記

 本の整理の続きである。

 本を片付けてゐて残念だと思ふことがある。それは同じ本が二冊以上あることである。もちろん、故意に同じ本を何冊も買つてゐることがある。たとへば、

内村鑑三『後世への最大遺物』五冊ぐらゐあるかな。来客との話のなかで、この本の話題になつたら渡さうと思つてゐる。

河上徹太郎『日本のアウトサイダー』四冊。絶版になつてゐるので、この本は見つけると購入する。薦めたい本で、誰かに差し上げる予定である。

福田恆存『人間・この劇的なるもの』教へ子のなかで関心がある生徒には買はせるか、上げる。今までに五〇冊は購入したか。今は五冊ほどある。

山崎正和『柔らかい個人主義の誕生』現代社会を知るには、絶好の書である。一九八〇年までの分析であるものの、消費社会の構造は今も変はつてゐない。四冊。これも讀ませる。

 そして、翻訳の場合には、訳者が変はれば購入することになる。『ハムレット』は四種類はある。ドストエフスキーも作品によつては三種類ほど。変はつたところでは、ギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』は二種類。岩波の方がいいかな。

 あるいは、単行本と文庫本で二冊買ふこともある。改変があることもあるし、解説が良い場合には、そのためにも買ふ。福田恆存は何冊も持つてゐる。

 残念なのは、一冊あれば十分なのに、買つてしまつた本である。

安達忠夫『素読のすすめ』講談社現代新書 素読については関心が強い。低学年では覚えさせることにもつと注力してよい。アクティブラーニングと言へば、これほどアクティブなことはない。

テリー・イーグルトン『アフター・セオリー』筑摩書房 一回も讀まずに二冊目を購入してゐた。買ひたいだけの本だつたか。

中島義道『私の嫌いな10の人びと』新潮社 なぜ二冊買つたのか分からない。この人の本は好きだが、印象の差が激しい。

丸山真男・加藤周一『翻訳と日本の近代』岩波新書 急に丸山真男を讀みたくなることがあつて、その時に古本屋で買つてしまつたらしい。

小林公夫『「勉強しろ」と言わずに子供を勉強させる法』PHP新書 丁寧に讀んだはずで、付箋も十四ヶ所も付けてゐるのに、再び買つてしまつた。記憶に残つてゐないといふことか。とても悔しい。

竹内整一『日本人は「やさしい」のか』ちくま新書 ところどころ讀んだだけで通読してゐない。それ故か。

 仮に一万冊の本が我が家にあるとして、最後の種類の本が十に満たないとすれば、良しとすべきか。それでも一冊千円とすれば、一万円は無駄使ひをしてゐることになる。

 ああ、本が買へたのに!

 

 

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本が好き、本を買ふのはもつと好き(高島さん風)

2016年04月24日 20時35分44秒 | 日記

 愛知県の家の本の整理を昨日、今日と二日かけてやつた。小さい段ボールに三箱と、大きな紙袋二つ処分した。だが、まだすつきりといふやうにはならなかつた。それでも、平積みにしてあつた本を何とか書棚に収めることができたので、良しとしておかう。全部読み切ることはできないだらうが、どうしても捨てられない本がある。資料としての本もある。その上、また本屋に行けば買つてしまふのである。本が好きなのか、本を買ふことが好きなのか、やれやれである。

 (パソコンの調子が悪く、ここで中断)

 本の整理がなかなか進まないのには、少少理由がある。本を買ふのが好きだとしても、やはり本好きには変はりなく、しかもその本は自分にとつて大切なものであるから、処分する前にやはり一瞥してしまふ。ちらりと見る⇒ある頁に目が留まる⇒手が止まる⇒読み始める、これをしてしまふから、遅々として進まない。

 昨日は、体の調子も悪くて散らかしほうだいで整理もままならず、終了。今朝は昨日の分までしなければと焦るが、高いところに手を伸ばすと頭がくらくら。踏み台の上でしばしたたずむ。それでもやうやく夕方には一応のめどがついて、もう少しで終了といふところで、池田晶子の『メタフィジカル・パンチ』を手にした。本棚の下の方に埋まつてゐたのを引つ張り出して、「よし、これは捨て!」と思つたが、中を見たら思想家へのコメント集だつた。福田恆存の項目があり、「これは捨てられないかも」と思ひ始めた。もう遅い、讀んでゐた。

「私はすべての問題をあまりに本質的に考へすぎる。自分でもさう思ひます。人が私のことを「反動的」だといふのも、そのことのため、すなはち提出されてゐる問題を本質的にのみ考へようとするからでせう。本質的思考においては、歴史を背景とする現象論は当然、影がうすくなります。そこでは「前向き」とか「後向き」とかいふ考へ方が成り立たない。過去・現在・未来といふ形で整然と進んでいく歴史といふ観念が希薄だからです。」

 これは、福田恆存の「戦争責任といふこと」といふ文章の冒頭である。池田は、福田恆存を初めて讀んだといふが、この文章は全集にしか当時なかつた。初めて讀むのに、これだけ福田の思想の「本質」を取り上げるといふのは驚きである。いぶかしくさへある。だれか指南役があつたのではないか、さう思ふ。『メタフィジカル・パンチ』は文藝春秋から出てゐるから、たぶん間違ひないだらう。

 それはどうでもよい話であるが、どうでもよくないのは、問題の福田のこの文章である。じつは、私はこの文章を十年ほど前から探してゐたのである。「私はすべての問題をあまりに本質的に考へすぎる。」この文言をどこかで讀んだ記憶はあるが、さてどこであつたか。ずつと気になつてゐた。引用したいことがしばしばあつたが、出典が分からずに、使へずにゐた。ところが、思はぬところで「大発見」である。「戦争責任といふこと」であつたか! どほりで見つからなかつたわけだ。嬉しかつた。この二日間の収穫である。そして、池田さんの『メタフィジカル・パンチ』も今度は、机の正面の棚に置くこととした。

 ことほどさやうに、本の処分は難しい。

 

 

 

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