平成30年に告示された「高等学校学習指導要領」に基づいた国語の教科書が来年から使用される。
まづは高校1年生を対象としたものからで、今高校には続々とその見本が届いてゐる。科目は、「現代の国語」と「言語文化」である。
そして、来年の今頃には高校2年生3年生で使用する教科書「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」の見本が届けられる。
ここには明らかに、現代文と古典といふ、時代区分を超えた分類を作りたいといふ思ひが示されてゐる。1年生の「言語文化」には小説や韻文が入り、2、3年生の「古典探究」には近現代の文語が入つてもよいとされてゐるからだ。文学と論理といふ二分法の「貧しい国語観」については、私も以前書いたし、多くの人が指摘してゐる。だから、ここでは触れない。
しかし、さうした「貧しい国語観」に基づいて作られた今回の教科書を実際に見ながら感じるのは、教科書会社が「抵抗」をしてくれてゐるといふことであつた。
このことについては最後に触れるが、一つの参考書として紅野健介氏の『国語教育 混迷する改革』を取り上げてみたい。
書かれてゐることは至極もつともではあるし、学校の教員の自由を奪ひ、対話的で深い学びと掛け声だけは立派だが、その実画一的で硬直化した教育実践になつてしまふといふ危惧には共感する。だが、かういふ分かり切つた欠陥を持つ「改革」が共通テストを含めて大学入試全体を、引いては日本の学校教育全体を揺り動かしかねないのに、莫大な国家予算をかけて現実に実施されることになつた背景には、「正当」な理由があつたはずである。それはつまり、現在の日本の初等中等教育に大きな問題があるといふ不信を、政治家や経済界の重鎮たちが抱いてゐるといふことである。学級崩壊やら授業崩壊やらが日常化した学校社会にあつては、むしろ「画一的なマニュアル」によつて、どの学校でも最低これぐらゐは教へてほしいといふナショナル・ミニマムの発想があるといふことなのだらう。そもそも日本の学校教育は平等で公平な社会の実現のために整備されたものであり、それが今崩れてきてゐるといふ危惧は「正当」である。その点では、元々麻布中学高校の教員であつた紅野氏には到底思ひも及ばない現状が、現代の学校社会にはあるといふことである。
しかし、やはりこのたびの「改革」は最悪である。それは、ナショナル・ミニマムを保障するといふ意図をも裏切つてゐる。論理と文学といふ二分法の貧しさは先に触れたが、「読む」といふことを蔑ろにしたことこそ問題の本質がある。
今回の指導要領では、教へる内容の縛りと共に、教へる時間数も決めてゐる。次の表を見てもらひたい。
「現代の国語」では実にスピーチだとかブレゼンテーションだとかに3分の1を使ひ、小論文やらエントリーシートやらに半分使ふ。残りの4分の1ほどにやうやく「読む」が出てくるが、その内容として想定されてゐるのが実用的文章である。ところが、実際の教科書には、「評論」が多く含まれてゐた。そして特筆すべきものとしては山崎正和の「水の東西」が、私が見た限りの教科書にはいづれのものにも入つてゐた。これは評論とは言ふが実は「随筆」である。本来なら「言語文化」に入るものである。これまでの教科書にも「評論」として取り上げられてゐたが、これを「現代の国語」に入れてきた辺りを、私は教科書会社の「抵抗」であると見てゐる。何とかして、「実用」性を超えたかつたといふことであり、本物の「現代の国語」を「現代の国語」に入れたかつたのだらう。実用とは、非実用の用をも含んでゐるといふ「豊かな国語観」が教科書会社には共有されてゐるといふことである。
さて、紅野氏のこの本であるが、私には反権力的な雰囲気がして、これはこれで違和感があつた。一つだけ挙げるとすれば、かういふくだりである。
「いまどき、『文豪作家だから、名作だから』という理由で定番教材に愛着を抱くような先生はどこにいるのでしょう。」(141頁)
これは、芥川の「羅生門」を授業で取り上げる時に「それを教材として育成しようとした資質・能力が必ずあるはずである。ところが、(中略)そうした目標意識が薄れ、『羅生門』を取り上げることが前提になっているのではないか」といふ、紅野氏が論難する「改革派の重鎮」大滝一登氏への反論として書かれたものである。
しかし、「文豪作家だから、名作だから」読ませるといふのは十分に国語的であると私は考へる。「名作」を読むといふことで、私たちはどうしてこれを「名作」として来たのかといふ問が生まれる。それは改訂の度に消えていく現代小説を取り上げるより数百倍も価値あることだ。紅野氏は、権威に対して何か抵抗感があるのだらう。今回の一連の高大接続改革のキーワードである「主体的・対話的で深い学び」といふ言葉に対して、「社会を構成するすべての人間、個々の人間の『生』の内部にまで浸透させ、完全に訓育の対象としていくことを目的としている」とまで言ふのは、それで十分に政治的な発言に見える。
私が、今回の改革や教科書改訂の批判をするなら、紅野氏とは別の角度から、有り体に言へば国語の権威の回復といふ視点で行ふことになると思ふ。