言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

時事評論石川 5月号(805号)

2021年05月23日 20時20分18秒 | 告知

今号の紹介です。

 1面は、中共の台湾侵攻があれば蔡英文総統は闘ふ意志があるといふもの。アメリカのジョン・アキリーノ太平洋艦隊司令官は、その時期を6年以内と見てゐるといふ。尖閣諸島は自国の領地であるといふ台湾に侵攻するなら、中共はまづ尖閣から攻めるのではないか、私はさう思ふ。3面は政治家大野伴睦の評伝の紹介。大野と言へば、新幹線を自分の選挙区である岐阜を通したいために、雪が降る関ヶ原を通すやうになつたといふことは書かれてゐるのかゐないのか。「義理を重んじた政治家」ではあらうが、「道理を引つ込めた政治家」でもあらう。そのことについても記事では書いて欲しかつた。留守先生はエリオットの『老政治家』の紹介。「自分をりつぱにみせようとする自分」との闘ひを描いた作品。大野の紹介ページにこれが載るといふのは皮肉が効いてゐる。

 どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。  1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)
                     ●   

蔡英文総統の台湾を守る決意

  超限戦しかける中国の圧力に対抗

   平成国際大学教授  浅野 和夫

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コラム 北潮   (中国共産党が二度目の岐路に立たされてゐる、といふお話)

            ●
世界は中国に覗かれている〈上〉

  GPS衛星「北斗システム」の恐怖

   元警視庁刑事・通訳捜査官 坂東忠信 
            ●
教育隨想  有識者会議の注目すべき「聴取項目」(勝)

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義理人情に厚い大衆政治家 自民党を作った大野伴睦の生涯を描く

   拓殖大学教授 丹羽文生

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「この世が舞台」
 『老政治家』T・S・エリオット
        早稲田大学元教授 留守晴夫
 
            ●
コラム
  NHKラジオの時間(紫)

  歴史戦、米で再燃か?(石壁)

  「緊急事態宣言」ごつこ(星)

  「専門家」とは何か(梓弓)
           

  ● 問ひ合せ     電   話 076-264-1119 

                               ファックス   076-231-7009

   北国銀行金沢市役所普235247

   発行所 北潮社

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散歩

2021年05月04日 20時55分03秒 | 日記

 家に閉ぢこもつての読書もあまり得意ではない。本を読んでゐて思考が動き出すと、本を机の上に置いてしまふ。そして、思考が典拠を求めて本の頁を繰ることになる。この作業が結構億劫だが、自分の思ひ過ごしや独りよがりを点検するにはどうしても必要な作業だ。だから、私は本を読むのが遅い。

 そして三日目になり、今朝は散歩に出ることに決めた。明日は雨といふので、いまのうちに車を洗つて立体駐車場にしまつておかうと思ひ立ち、昼前に家を出た。一時間ほどでそれも済んだところで家内から電話があり、近くにゐるから昼食をいつものところでといふことになり、お気に入りの街中華に出向いた。ここの麻婆豆腐はまことに美味しい。花山椒といふのを初めて知つたのもこの麻婆豆腐である。大阪に帰る楽しみの一つである。今回も期待通りだつた。ただ、来るたびに値上がりしてゐるやうにも感じる。店内には二酸化炭素濃度を測る機械とアクリル板の仕切りが置かれてゐた。前回来たのは昨年末だつただらうか、その時にはなかつた。いろいろと出費がかさむのだらう。女将さんに話を訊くとやはり大変だとのことだつた。

 目の前には移転してきた大阪大学外国語大学があつた。目新しい建物には、人影がなかつた。大学は閉鎖中とのこと。賑はひが訪れるのはさていつになるだらう。

 今日は晴天の一日。暑いぐらゐだつた。青空の下、一路「為那都比古神社」へ。家内の知り合ひから教へてもらつた神社で、初めて訪れた。以前その知り合ひと一緒に出掛けた家内からは、とてもいいところだつたと聞かされてゐたが、ふうんといふ感じで聞き流してゐたが、今日はお腹もいつぱいになつたし腹ごなしのつもりで出かけてみる気になつた。我ながら勝手なものだ。

 当地は、今から1700年ほど前には「為那国」といふ部族国家であつたらしい。その為那一族の守護神として祀られたのがこの神社であると日本書紀に記されてゐるといふ。

 国道171号線の近くで、目の前には地元の中学校も隣にはサントリーの体育館もあり、これまでに車で近くを何度も通つてきたが、その存在を知らなかつた。境内は静かで周囲とは画然としてゐた。何より拝殿を仰ぐと背景には空しかない。視線を下げると、整然として清潔な境内は天上に真直ぐつながつてゐるやうな雰囲気である。どんよりとした思念は清浄されるたたずまひだつた。

 かういふ場所が近くあるといふのは、いかにも日本古代国家の黎明の地らしい。偶然ではあるが、かういふ地に住んでゐることを喜んだ。

「為那」とは、「いな」と読むが、大阪府と兵庫県の県境には「猪名川」が流れ、この神社の近くには「稲」といふ地名もある。この辺り一帯をこの一族は支配してゐたのだらうが、その名残がかうして神社に残されてゐる。1000年単位の歴史を感じることは日常ではあり得ないが、今日はそのことをわづかに感じることができた。

 

 

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高等学校国語教科書の無惨

2021年05月03日 17時02分58秒 | 評論・評伝

 

 

 平成30年に告示された「高等学校学習指導要領」に基づいた国語の教科書が来年から使用される。

 まづは高校1年生を対象としたものからで、今高校には続々とその見本が届いてゐる。科目は、「現代の国語」と「言語文化」である。

 そして、来年の今頃には高校2年生3年生で使用する教科書「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」の見本が届けられる。

 ここには明らかに、現代文と古典といふ、時代区分を超えた分類を作りたいといふ思ひが示されてゐる。1年生の「言語文化」には小説や韻文が入り、2、3年生の「古典探究」には近現代の文語が入つてもよいとされてゐるからだ。文学と論理といふ二分法の「貧しい国語観」については、私も以前書いたし、多くの人が指摘してゐる。だから、ここでは触れない。

 しかし、さうした「貧しい国語観」に基づいて作られた今回の教科書を実際に見ながら感じるのは、教科書会社が「抵抗」をしてくれてゐるといふことであつた。

 このことについては最後に触れるが、一つの参考書として紅野健介氏の『国語教育 混迷する改革』を取り上げてみたい。

 書かれてゐることは至極もつともではあるし、学校の教員の自由を奪ひ、対話的で深い学びと掛け声だけは立派だが、その実画一的で硬直化した教育実践になつてしまふといふ危惧には共感する。だが、かういふ分かり切つた欠陥を持つ「改革」が共通テストを含めて大学入試全体を、引いては日本の学校教育全体を揺り動かしかねないのに、莫大な国家予算をかけて現実に実施されることになつた背景には、「正当」な理由があつたはずである。それはつまり、現在の日本の初等中等教育に大きな問題があるといふ不信を、政治家や経済界の重鎮たちが抱いてゐるといふことである。学級崩壊やら授業崩壊やらが日常化した学校社会にあつては、むしろ「画一的なマニュアル」によつて、どの学校でも最低これぐらゐは教へてほしいといふナショナル・ミニマムの発想があるといふことなのだらう。そもそも日本の学校教育は平等で公平な社会の実現のために整備されたものであり、それが今崩れてきてゐるといふ危惧は「正当」である。その点では、元々麻布中学高校の教員であつた紅野氏には到底思ひも及ばない現状が、現代の学校社会にはあるといふことである。

 しかし、やはりこのたびの「改革」は最悪である。それは、ナショナル・ミニマムを保障するといふ意図をも裏切つてゐる。論理と文学といふ二分法の貧しさは先に触れたが、「読む」といふことを蔑ろにしたことこそ問題の本質がある。

 今回の指導要領では、教へる内容の縛りと共に、教へる時間数も決めてゐる。次の表を見てもらひたい。

「現代の国語」では実にスピーチだとかブレゼンテーションだとかに3分の1を使ひ、小論文やらエントリーシートやらに半分使ふ。残りの4分の1ほどにやうやく「読む」が出てくるが、その内容として想定されてゐるのが実用的文章である。ところが、実際の教科書には、「評論」が多く含まれてゐた。そして特筆すべきものとしては山崎正和の「水の東西」が、私が見た限りの教科書にはいづれのものにも入つてゐた。これは評論とは言ふが実は「随筆」である。本来なら「言語文化」に入るものである。これまでの教科書にも「評論」として取り上げられてゐたが、これを「現代の国語」に入れてきた辺りを、私は教科書会社の「抵抗」であると見てゐる。何とかして、「実用」性を超えたかつたといふことであり、本物の「現代の国語」を「現代の国語」に入れたかつたのだらう。実用とは、非実用の用をも含んでゐるといふ「豊かな国語観」が教科書会社には共有されてゐるといふことである。

 

 さて、紅野氏のこの本であるが、私には反権力的な雰囲気がして、これはこれで違和感があつた。一つだけ挙げるとすれば、かういふくだりである。

「いまどき、『文豪作家だから、名作だから』という理由で定番教材に愛着を抱くような先生はどこにいるのでしょう。」(141頁)

 これは、芥川の「羅生門」を授業で取り上げる時に「それを教材として育成しようとした資質・能力が必ずあるはずである。ところが、(中略)そうした目標意識が薄れ、『羅生門』を取り上げることが前提になっているのではないか」といふ、紅野氏が論難する「改革派の重鎮」大滝一登氏への反論として書かれたものである。 

 しかし、「文豪作家だから、名作だから」読ませるといふのは十分に国語的であると私は考へる。「名作」を読むといふことで、私たちはどうしてこれを「名作」として来たのかといふ問が生まれる。それは改訂の度に消えていく現代小説を取り上げるより数百倍も価値あることだ。紅野氏は、権威に対して何か抵抗感があるのだらう。今回の一連の高大接続改革のキーワードである「主体的・対話的で深い学び」といふ言葉に対して、「社会を構成するすべての人間、個々の人間の『生』の内部にまで浸透させ、完全に訓育の対象としていくことを目的としている」とまで言ふのは、それで十分に政治的な発言に見える。

 私が、今回の改革や教科書改訂の批判をするなら、紅野氏とは別の角度から、有り体に言へば国語の権威の回復といふ視点で行ふことになると思ふ。

 

 

 

 

 

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