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エリオット評論選集 価格:¥ 3,990(税込) 発売日:2001-02 |
福田恆存は、「学校の教師と医者以外は先生とは呼ばない」とおつしやつてゐたといふことで、福田恆存先生とは呼びません、といふ言葉から始められた。「福田さん」と呼ばれるその言ひ方がなんともうらやましい邂逅を果たした人だけが持つ語り口であつた。途中、何かを思ひ出されて声を詰まらせる沈黙の場面もあり、きはめて貴重な時間をいただいたやうな気持ちがした。アメリカ人のその無茶苦茶な発言を福田恆存がひとつひとつ反駁してしていく過程のなかで、顔を赤らめて激昂する福田さんの姿を見たのはそのときが初めてだつたと語られた直後のことである。
もつとお話を聞きたかつたが、時間切れで終はつてしまつたのが残念だつた。
福田恆存の生き方を要約するやうな形で、エリオットの「保守主義と政治」を引用されたが、それはこんな言葉である。
「さほど希望を持たず、目下の情勢の成り行きを変えたいという野心も持たず、そして結果として何も起こらないように思われる時でも意気消沈したり挫けたりすることなく、ひたすら問題の核心を見抜くこと、真理に達しそれを説こうと努めることに専念する数少ない作家が必ずいなければならない」
さういふことをずつと続けてゐたのが、福田恆存であり、「政治に先行する」領域を問ひ続けた批評家であるといふことだ。
もちろん、エリオットにはキリスト教がある。それは保守するべき価値である。しかし、日本には「政治に先行する」領域が果たしてあるのかどうか。そんな中で「政治に先行する」領域が「あるかのやうに」(森鴎外)に演じながら、批評をしていくことが求められる。その点で二重の困難を抱へていかなければならなかつたといふことであらう。消しゴムで字を書くといふ比喩を私は好んで用ゐるが、その困難の性質もさういふものだらうと思ふ。