中等教育を担ふ中学校高等学校には分掌といふ教員の役割分担がある。生徒達には「生徒指導部の先生」といふのはイメージしやすからうが、教務部や進路指導部といふのはなかなか分かりづらい仕事の割り振りであらう。かく言ふ私も分掌といふ言葉を教員になるまでは知らなかつた。
教員といふのは、教科を教へる仕事がもちろん第一であるが、学校が組織であり、教育が教科の伝達と完全にイコールでないと知るならば、やはり教員の仕事にはそれ以外のことがあるのは当然である。しかも、それは言はば教科を教へる仕事を支へる根つこのやうなものであり、見えない仕事でむしろあるべきとさへ思へる。カリキュラムの熟成やライフキャリアを考へる資質を養ふことは、縁の下の力持ちである。
私の所属してゐる分掌は、そのキャリアデザインの担当である。これまでの学校の歴史では長らく進路指導部と呼ばれてゐた分掌であるが、六年ほど前に私自身再考する機会があつた。指導の主語は教員であるが、デザインの主語は生徒である。教員しか職業経験を持つたことのない存在が進路指導できるのは大学受験ぐらゐである。果たしてそれで良いか、ずゐぶんと考へた。そして本をたくさん読んだ。そこで出会つたのが、法政大学のキャリアデザイン学部の児美川孝一郎先生の『キャリア教育のウソ』(筑摩書房)である。この本のことは以前書いたが、キャリア教育についてこれほど私に影響を与へてくれた本はない。といふより正確に言へば、少々生意気な言ひ方であるが、私のモヤモヤに明瞭な言葉を与へてくれた本はないといふことである。職場体験や職業紹介に終始するイベント中心の俗流キャリア教育に疑問を持つてゐたが、それらの疑問にはつきりと「そんなのはキャリア教育ではない」と答へてくれた。キャリアとはワークキャリアのことではない。職場体験や職業紹介は、キャリアをワークキャリアのことだと思つてゐる極めて人生を見くびつた考へ方である。むしろライフキャリアの中にワークキャリアが含まれるのであつて、「いかに生きるか」の中にこそ「いかに働くか」が含まれてゐるのである。そんなことは当たり前ではないか。しかし、それが分からない人がじつに多いのである。そこでとりあへず「キャリアデザイン部」と名称を変更してもらつた。
さて、本書は「進路指導」といふ名称がついてゐるが、本質は担当教員に「夢なし」といふあだ名がつけられてゐることにある。「夢とは呪ひである」といふ主人公の教員が語る言葉は名言である。そして、そもそも夢とは寝台に乗る人が悪夢にうなされてゐる姿の形象であつてみれば、正統な理解であるとも言へる。
まだ第一巻であるが、大いに勇気づけられた。私も「夢なし先生」でありたいと思ふ。理想と夢を混同するな。夢を目標とするから人生が狂はされるのである。理想は現実にないからこそ、人生の迷ひ道に役立つのである。それは北極星のやうにである。自らの位置を知り、行くべき方向を見出す時に価値を持つ。ところが夢を目標にすれば、その道も方向も確かめることもできず、ひたすら目を瞑つて歩くやうなものである。あとどれぐらゐ歩けばいいのか、この方向でよいのか、現実世界に存在しない夢を現実のものだと思へば、それは何も教へてくれない。その結果人生は破壊されてしまふ。このコミックは、そのことを少々どぎつく描いてゐる。それは悲劇であるが、諦めることを知らない登場人物のひたすら人生を狂はされてゐる姿は夢に取り憑かれた生徒の真実の姿であらう。まさに夢が現実を破壊してゐたのである。「夢」などといふ言葉に価値を与へてはならない。夢とは悪夢の言ひである。悪夢に何か役割があるとすれば、予知であり、戒めである。さう知らせるには「夢なし先生」が必要である。