言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語290

2008年08月26日 08時21分39秒 | 福田恆存

(承前)

福田恆存は、敬語といふものは封建制度から生まれたものであるのなら、もつと強い封建制度にあつたヨーロッパではどうして日本以上の待遇表現が生まれなかつたのかと書いた。まつたくその通りである。

私自身もこれまで、敬語は「天皇制」との關はりで生まれてきたと考へてきたが、ずゐぶん一面的な考へであつたといふことを知らされた。封建制度といふ生産樣式(下部構造)が敬語體系といふ社會制度(上部構造)を規定した、といふマルクス流の考へ方に、私自身も無意識に捉はれてゐたのでのではないか、そんな自戒をさせられた。私たちの敬語といふ文化は、封建制から生れたものではない。時代の流れを超越したものであり、だからこそ文化=生き方なのである(福田恆存は、敬語の由來を別のところに見出してゐるが、これ以上は觸れない)。

ついでながら、福田が單なる保守主義者ではないのは、次のやうな文章を見ても頷けよう。これは再讀三讀してほしい。

「日本人のばあひ、中世と近世とは、近世と近代とは、それぞれの時代に、全體的觀念の書きかへが必要とされたのであります。そんなところに、傳統や歴史の觀念が生じるわけがありません。歴史的事實はあるが、歴史はない。歴史とか傳統とかいふ觀念は、時間の流れをせきとめ、それを空間化することによつてのみ生じるのです。それをなしうるためには、なんらかの意味で絶對者が必要であります。同時に、その絶對者をどこに置くかによつて、過去と未來とがどこまで取りこめるかが決定するのです。」

(「絶對者の役割」)

決して明瞭な文意ではない。しかしながら、時代の「流れ」が、單に上から下への移動を意味するのではなく、一つの價値の時代ごとの表現、あるいは生き方に一筋の統一感をもたらす文化を意味するものであるならば、保守が守るべき「傳統」とか「歴史」といふものには、單に一時代に生まれ、それが遺制として傳へられたものであるといふこと以上の意味がある。そしてそれがさういふものであると示すためには、絶對者の存在を必要とするといふこの福田恆存の思想は、他の保守派とはまつたく次元を異にする發想である。西部邁氏も、それに似たやうなことを書いてゐるが、彼は絶對者といふ假設を激しく拒否し、例へば、ある事において、何が善で何が惡でといふことを考へるときの平衡感覺が「歴史」であり「傳統」であるといふレトリックで逃げてしまふ。平衡感覺がどうして時代を越えて存在してゐるのか、平衡を測る支點とはいつたい何なのかといふところにまで、思考はいかない。しかし、そこまでいかない傳統論や歴史觀、さらには人間論は、所詮「解釋」の範圍を越え得ないだらう。

保守を語るには、絶對者が必要である。このことは忘れてはならない言葉である。

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楊逸『時が滲む朝』を讀む

2008年08月19日 18時39分03秒 | 文學(文学)

時が滲む朝 時が滲む朝
価格:¥ 1,300(税込)
発売日:2008-07
  第139囘芥川賞受賞作品を讀んだ。芥川賞作品を讀むといふのは、自分に課してゐる義務である。現代小説をあまり讀まない身であるから文學を云云する立場の最低限のマナーのつもりで讀んでゐる。が、オリムピックが北京で行はれて、かういふタイミングで中國人作家を選ぶのかといふことがすぐに頭に思ひ浮んで、いつにもまして本を取る手が伸びなかつた。

  しかし、一讀して惡い印象はなかつた。外國人が書いた日本語の小説で、かういふ作品を芥川賞を與へるといふのはどうかといふ疑問もないではないが、小説としては嫌ひではない。民主化を目指すある中國人の、青年期から二人の子持ちになるまで描いた内容は、銓衡委員の誰かが書いてゐたやうに、果して中篇といふ長さが適切であるかどうかといふ疑問も當然あらうが、これはこれで良いと思ふ。いつもながら池澤夏樹氏の論評は的外れであるが、「タイトルも上手とはいえない」といふのはまつたく見當違ひに思へる。

 日本にゐる主人公・浩遠が故郷の父に電話をする場面でかうあつた。

「父さんっ」浩遠は電話を持つ手が震えだし、じっと我慢していた涙が大きな声とともに溢れ出た。欲しい玩具を買ってもらえないときの民生(主人公の息子)の泣き声とそう変りはなかった。

「よしよし、泣きな、父さんも若い頃に何度泣いただろうか。夜中に布団を被って狼が吠えるように泣いてさ、すっきりしたら、翌朝の朝日が凄くきれいに見えた」

 浩遠の泣き声が次第に弱まり、しまいに笑った。胸に詰まっていたものがスッと抜けていくのをはっきりと感じ取った。

「すっきりした」

「明日早起きして、朝日を見てごらん、虹が見えるかも」

「見る。絶対に見る」浩遠はやけになって涙に濡れた袖で顔中を拭いた。

 かういふ場面は感傷的である。が、「電話を持つ手が震えだし、じっと我慢していた涙が大きな声とともに溢れ出た」のは、異國にゐるものが誰もが經驗する場面でもあつて、滲み出てくる情感がある。ここに「時」を感じるかどうかは私の感性とは違ふが、「浩遠」がこの朝に「時」(「時の流れ」)を感じたといふのは、十分に理解できる。この作品一番の場面であつた。

  日本語に問題があるかどうかといふことを多くの選評が書いてゐたが、私には氣にならなかつた。この作品よりも「ひどい」作品はいくらでもある。さういふ作品にこれまでたんと芥川賞を與へて來た銓衡委員の方方が今更おつしやることではない。

  さて、いつも通り「選評」の評である。

  村上龍氏がかう書いてゐた。「わたしは文化大革命や天安門事件について、自作のために資料を集め読んでいたこともあって、『時が滲む朝』における中国の若者たちの民主化への思いと行動、その挫折というモチーフには関心も興味も持てなかった。」と。まつたく恐るべき文學觀である。自分が知つてゐることには關心も興味もないと書いて平氣なのは、いかにも「おつむのよろしくない勉強家」が書きさうなことである。知的滿足度だけで作品を評價するといふのなら、何かの論文銓衡の委員にでもなつたらいい。私ごときが言ふのはをこがましいが、小説とはさういふものではあるまい。龍氏らしさ全開の文章である。

  小川洋子さんといふ人は、じつにやさしい人柄であらう。この人の選評にはまつたくトゲがない。人徳なのだらうか。政治術なのだらうか。芥川賞の銓衡には、多少の嫉妬があつてもいいと思ふが。この方にはさういふものの蔭も感じなかつた。宮本輝氏は「小説の造りという点においても、あまりに陳腐」。石原氏は「単なる風俗小説の域を出ていない」。これほどストレートに批判する人がゐるといふは、受賞作に汚點となるものではない。

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言葉の救はれ――宿命の國語289

2008年08月18日 15時34分40秒 | 福田恆存

(承前)

ところが、これは何度でも書かなければならないことであるが、國語の問題なんて「どうでもよい」と思ふ人が、一般の國民は言ふまでもなく、本來國語に關心を持ち、私たちの文學がどういふ言葉で書かれてきたのかといふことに深く配慮をすべき作家すら多くゐる時代なのである。いや、もはや言葉に關心を持たうとする作家はほとんどゐないと言つてもよいかもしれない。

  たとへば、『日本語のために』を書いた丸谷才一氏は、戰後しばらく歴史的假名遣ひをやめてゐたが、芥川賞受賞後には、再び歴史的假名遣ひに戻した。確かに、國語の傳統を守らうとしてゐる。しかし、氏の文學が「文化の荒廢」を免れてゐるかと言へば、そんなことはない。『裏声で歌え君が代』などといふ小説を書く作家が、どんな傳統を受け繼がうとしてゐるのか、私にははなはだ疑問である。

あるいは逆に、歴史的假名遣ひで評論を書き、演劇作家でもある氏は、「話し言葉である戲曲こそ書き言葉である歴史的假名遣ひで書くのだ」と言つてゐた山崎正和氏は、今は著述に歴史的假名遣ひを使はない。假名遣ひなど「どうでもよい」ことへと後退してしまつたのである。御二人とも、近々文化勳章をもらふのであらう。さういふ國である。

  さうであれば、先にも引用したが、私が會つた或る文藝評論家が語つたやうに、法律を出して歴史的假名遣ひを使ふべしとしても、「文化の荒廢」は解決しない。文化といふものを意識しない「思想」が蔓延してゐるのである。「どうでもよい」といふ思想が「文化の荒廢」を招いたのである。

當たり前のことであるが、言葉は思想を載せる器であると同時に、思想そのものでもあるから、「制度」を變へても「思想」を變へなければ、問題は解決しない。人人が自覺しない「思想」をこそ撃つ言説が必要なのだ。國語問題を改めて今日提起するとすれば、思想問題として論じることが必要なのだ。

ところで、あるところでまとまつた評論を書くことになり、今、福田恆存を改めて讀んでゐるが、福田恆存といふ自分は單なる保守派ではくくれない存在であることを知らされた。それはあまりに自明であるし、私もさう思つてゐたが、よほどこの人の思想は深いものであるといふことに驚かされるのである。

敬語について、私は「よく知られてゐるやうに、敬語は天皇を中心とした待遇表現から發達したものである。それと同じやうに、言葉の表記の仕方である假名遣ひも宮中の中で使はれ發達したものである。なぜならば、文字を書いたり讀んだりする必要があるのは、多くは皇族貴族あるいは中央・地方の役人にゐないからである。さうであれば、彼らの中心には天皇がゐたのは歴史的事實であり、假名遣ひは敬語と同じく天皇を中心とした人間關係のなかで築かれたと言つて間違ひはないだらう。」と以前書いた。今もその考へは變はらないが、敬語といふものが上下の人間關係の中で生まれたと考へるだけでは、今日のやうな社會ではいつしか打ち捨てられて良いといふ氣分を生み出しかねない。いや、事實さうなつてきてゐる。さういふことへの配慮が無さ過ぎた。福田恆存は、かう問ひを立てる。

「敬語が縱の身分關係を重視する『封建性』から生れるものなら、ヨーロッパの封建時代はどうして日本語のやうな複雜な敬語を生まなかったのか」

(「西歐精神について」)

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『論座』終刊はなぜ?

2008年08月16日 07時11分58秒 | 日記・エッセイ・コラム

朝日新聞社が發行してゐる月刊誌『論座』が10月號で休刊するといふ。かういふ場合の「休刊」とは「終刊」のことであるが、殘念だといふ思ひがないわけでもない。しかし、今月號を讀むかがり仕方ないなといふ思ひの方が強い。

それは何か。インタビューの録音を活字にして文章構成するのだが、それが何だかなつてゐないのだ。ありていに言へば、文意が明瞭ではないといふこと。インタビューされた本人の校正を經てはゐるのだらうか。しかし、それでも「てにをは」ぐらゐの直しぐらゐしかできてゐないのではないか。具體的に言へば、

大阪大學總長の鷲田清一氏の「哲學の現場は言説が立ち上がる場所」。この方の文章もすこぶる理解しにくいが、この記事の内容も分かりにくい。現場に出て「臨床哲學(鷲田氏の用語)」を實踐すべきといふのが主旨だらうが、哲學と實踐といふことが結びつくといふのもずゐぶん御氣樂な感じがする。また文章添削をすれば、「立ち上がる」といふのも何だか變だ。「立つ」は自動詞、「上げる」は他動詞。それらが複合動詞を作ることができるのか知らん。「立て上げる」か。

評論家の吉本隆明氏と今話題の「ロスジェネ」編輯長で作家の淺尾大輔氏と對談。淺尾氏がインタビューする形式だが、對談と言つても言ひやうな雙方の分量である。長時間のものらしく、文章になつたのはその一部分であることは明瞭で、省略をはつきり感じてしまふほど飛躍がある。吉本氏の淺尾氏評價が前半と後半とで百八十度變化するのであるが(惡→善)、もうすこし詳しく載せてほしい。吉本氏の文章も決して分かりやすいものではないが、會話はほんらいもう少し理解しやすいはずだ。收穫なのは、吉本氏の次の一言。「机の前に原稿用紙を擴げて坐つたけど、何も頭に浮んでこねえから今日はやめたつていふことが、僕もよくありました。だけど、机の前に坐つたといふことが殘るわけで、次の作品に必ず影響があります。(中略)この『無形の蓄積』といふのが重要だといふことだけは、自分の實感を交えて言へる氣がします。」――力のある言葉だ。

最後は、漱石の新發見の講演。滿洲日日新聞主催の講演會記録である。貴重なものであるには違ひないが、漱石自身の手が入つてゐるものではないやうで、十分に推敲されたものとは言ひ難い。研究者ならいろいろなことに氣附くのかも知れないが、これは一般人向けの月刊誌に載せるものとしては不親切である。やはり文意は不明瞭である。しかるべき專門家に見せて註釋づきでの掲載をしてほしかつた。編輯部に註をほどこす力量がないのであれば、さうすべきである。

私は、熱心な『論座』の讀者ではなかつたが、終刊は殘念である。版元は朝日新聞社であるから、別の雜誌を企畫してのことだと思ふが、次囘にはもつと本格的な編輯による充實した誌面作りを期待したい。ところで、中央公論から移つてきた「Foreign  Affairs」は今度はどこに行つてしまふのでせうね。

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『新潮日本語漢字辭典』は買ひか

2008年08月13日 13時47分43秒 | 日記・エッセイ・コラム

新潮日本語漢字辞典 新潮日本語漢字辞典
価格:¥ 9,975(税込)
発売日:2007-09
 昨年、『新潮日本語漢字辭典』が出た。日本語の中の漢字は、音讀みのほかに日本獨特の訓讀みがあり、さらには「熟字訓」と言つて、「田舍」「土産」「案山子」などの熟語をひとつの和語としてとらへる漢字まである。したがつて從來の漢文を讀むための『漢和字典』ではあまり役に立たないといふのが、これを編んだ小駒勝美氏の意見である。まつたくその通りである。

 漢字と言ふと、支那の文字とイコールと御思ひになる人は多く、なかには「漢字文化圈」などといふ謬見まで開陳される知識人がゐる。しかし、そのことについてはこの欄でも津田左右吉や山崎正和氏の主張を援用して縷縷反論した。今ここで補足することは何もないが、一つだけ思ひ出してもらふついでに記せば、現中國での文字と臺灣や日本の文字はそれぞれ違つてゐる。簡體字・繁體字といふ違ひの他に、私たちの日本語の正書法は、ひらがな・カタカナ・漢字であり、たとへば「マッカーサー司令部は、漢字の使用を大幅に制限するように文部省に指示した」と書くのが正式である。これを現代中國語にヤフーの飜譯ソフトで譯せば「麦克阿瑟司令部指示教育部大幅度限制?字的使用的事了」となるが、分かつたやうな分からないやうなである。今テレビでやつてゐる北京五輪にしてもそれぞれの竸技名を支那式で書いたものを見れば、外來語を表記できない現中國語の不便さは分からう。カタカナを發明した私たちの日本語をありもしない「漢字文化圈」と一括りするのはやはり愚かなことである。

 したがつて、日本語のなかに占める漢字の役割を理解した國語辭典といふのは必要だらう。しかし、それにしても高過ぎる。定價9975圓といふのは手を出しにくい。中辭典をいきなり作るといふのは大した意氣込みであるが、一般に流通する漢和字典程度に語數を嚴選して3000圓前後の小辭典も作つてほしい。新潮社は見本も送つてくれないから、細かく檢討することもしにくい。果たしてどれぐらゐの圖書館で置いてくれてゐるだらうか。書店で一時間ほど立ち讀みしてといふほど執着もない。新潮社のホームページで藤原正彦氏が推薦の言を書かれてゐるが、そこに擧げられてゐた「木漏れ日(こもれび)、東風(こち)、浴衣(ゆかた)、秋刀魚(さんま)、秋桜(コスモス)、硝子(ガラス)、倫敦(ロンドン)」といふ言葉は、一般的な人なら國語辭典で十分間に合ふ。これを調べるためにこの辭書を使ふといふのは少し費用對效果の面で難點がある。

 そこで編者の小駒氏の『漢字は日本語である』(新潮新書)を讀んで納得したら辭書も購入することにしようと決めて、讀んでみた。が、結論は「買ひではない」だ。新書自體は「買ひである」。戰後の漢字政策の諸問題、ワープロ時代の漢字コードの問題、朝日新聞の活字の問題など興味深い内容は簡にして要である。じつに面白かつた。

 漢字は日本語である (新潮新書 253)

漢字は日本語である (新潮新書 253)
価格:¥ 714(税込)
発売日:2008-03
それにしても新潮社は面白い辭書を作る。國語辭典も愛讀してゐるが、この漢字辭典もはやく小辭典を出してほしい。さうしたらすぐにでも買ひたい。

(餘談  この項目一度書きかけて八割がたのところで消えてしまひました。假名遣ひソフトの「契冲」で書くと突然動かなくなつてしまふことがあります。そして「マイクロソフト社に送信」といふメッセージが出て萬事休す。最初の原稿には、田中角榮が日中友好條約の調印式で署名する時、漢字を書く手が震へたといふ話を書込みましたが、今囘には入らなかつたのでここに記します。漢字コンプレックスはあの大政治家にもあつたといふのは驚きで、漢字文化圈の宗主國支那といふ印象が今も強いといふことなのでせう。)

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