講演會にいらしてゐた木村さんが、御自身のブログ(http://kimura39.txt-nifty.com/)に、講演會の要約を書かれてゐる。まつたくうまく要約されるものだと思ふ。私もさう聽いた。
しかし、松原先生はやはり知識人に語り、知識人に書くべきだらうとも思つた。さういふ媒體がない不幸をあらためて感じた。先生の言動には空しさが漂つてゐた。
松原先生を信奉する人人とそんな話をしたが、彼らは、「空しいとは先生自身もおつしやるが、その一方で語り續け書き續けてゐる。空しいと言つてもそれを文字通り受け取つてはいけない」と語つてゐた。そんなことは私でも百も承知である。しかし、その空しさは、福田恆存の言つた「言論の空しさ」とは違ふ。松原先生は、知識人の批判しかしないが、福田恆存は知識人のみには語らない。『私の國語教室』のはじめに書かれてゐるやうに、誰に語つても通用するものを書いた。そして芝居を書いて庶民を相手にした。しかし、松原先生は、知識人しか相手にしない。
知的怠惰を問はれるのは、第一義的には知識人である。しかし、昨日來てゐた人人は市井の人人である。さういう人人に、知識人の欺瞞を言つてどうするのだらうか。漱石の研究者に對して言へば、それは決して空しいものではないだらう。現在の漱石研究の水準を私は知らないが、反論であれ賞讚であれ研究者は反應してくれるだらう。しかし、研究者でも出版社の編輯者でもない私たちに、漱石の誤讀のされやうを批難してもあまり生産的ではない。誠實に生きてゐる人人を勇氣附ける(それは「いやし」などといふ卑しい言葉ではない)言葉があつても良いではないか。「庶民よ胸を張れ」さういふ言葉こそ、保守の言葉だらう。
福田恆存は、庶民に語り、庶民に書いたものが多い。庶民は、「知」だけで生きてゐない。だから、知的誠實よりも、優先するものを持つてゐる。どこかで福田恆存が書いてゐたが、列車の中で、福田が待つてゐる友人のための空席に帽子をおいてゐると、だれかが來て、その席を讓れと言つた。そのとき確か「この民主主義の世の中で」云云と言つたといふ話があつた。まさにインテリかぶれの人間である。それに對して、大學など行つてゐない御婆さんが何氣ない會話をしてゐる姿に教養を感じた、そんな話であつたと思ふ。
庶民は、正しさよりも、愛を求めてゐる。生活の中で悲しみを抱へた人人である。さういふ庶民に福田恆存の言葉は屆いてゐた。もちろん、弟子を紹介する松原正先生の姿は、やはり愛の人であつた。となれば、市井の人人へ語る言葉にも、松原正先生の思想を展開してほしかつた。知的誠實と、正義を、大學教授でもない私たちが、自分の職場や家族に對して展開しても、それは不幸になるだけである。
いみじくも、今囘は漱石の「こゝろ」を論じて、夫婦の愛を道義的に論つてゐた。明治の妻の立場を、平成の夫婦のあり方から語るのは、どうだらうか。
産經新聞の「正論」の筆者は、政治しか論じない。それに對して松原先生は「人は政治のみに生きるにあらず」と批判した。しかし、「人は知的誠實のみに生きるにあらず」でもある。愛によつて生まれ、愛によつて育ち、愛を殘して死んでゆくのである。先生が愛を語ることはないだらうが。
「カエザルの物はカエザルに、神の物は神に」といふ聖句をしばしば松原先生は引用するが、先生の言葉はそのどちらなのだらうか。知的誠實といふのは、カエザルのものなのか。それが明確でないから、結局、自我の芯だけで言論を語り、空しくなつていらつしやるのではないか。松原先生の信奉者に言ひたかつたのは、そのことである。
以上、私の松原正論の註である。