言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

山梨へ 納骨式

2021年07月31日 20時20分18秒 | 日記

 今日は、父の49日の法要と納骨式で、富士吉田市の西念寺に出掛けた。5時間ぐらゐかかるかと思ひ6時には家を出たが、3時間半で到着。富士五湖道路と新東名が繋がつてゐたのが嬉しい誤算。だいぶ早く着いたので、散歩がてら通つてゐた小学校に行つた。と言つても小学校一年生の一年だけだからそんなに深い思ひ出はない。しかも当時の建物は一つも残つてゐない。ただ記憶を頼つて歩いた通学路の、川、橋、道の曲がり具合には濃い懐かしさが込み上げて来た。

 グラウンドでは小学校低学年の子供たちが野球をやつてゐた。運動苦手な私は彼らの姿には重ならないが、冬のある寒い日、50年前の私がグラウンドで佇んでゐたその日の姿が思ひ出された。ここも私の故郷か。

 寺に戻つてしばし親族で談笑。悲しみはもうない。認知症になつた母もここにゐない。父の死をいちばん悲しむはずの母はその通路をふさがれてゐる。それがとてもありがたく感じる。

 今晩は母のホーム近くに一泊し、明日顔を見て帰ることにしてゐる。

 

 

 

 

 

 

 

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『正論』2021年9月号に寄稿

2021年07月30日 09時03分23秒 | 評論・評伝

 8月1日発売の『正論』9月号に寄稿した。

 タイトルは、「戦後最悪の国語改革ー読むことは情報処理にあらず」である。

 ある文部官僚は、一連の高大接続改革の惨状を「インパール作戦」と自称してゐたと聞いた。まつたく無責任極まりないが、まあさう言ふしかないほどの悲惨なのである。

 インパール作戦とは、兵站を無視した精神論優先の無謀な作戦で日本軍の死者は16万人に及んだといふ。指揮官の度し難い無知と裏腹の強い信念とがもたらした大東亜戦争の「罪」である。

 それと比すほどの「教育改革」の一連の結実がこの国語教科書の無惨である。

 詳細は、本稿に譲るが、文章読解が情報処理へと還元されることで、国語といふ名称の意味が蒸発してしまつた。国語は母語である。かつてシオランが、「私たちは、ある国に住むのではない。 ある国語に住むのだ。 祖国とは、国語である」と言つたが、その意味では私たちは祖国を失つたとも言へる状況である。

 震災で家を失ひ、土砂崩れで人を失つたのと同じやうに、教科書で祖国を失つたのである。

 しかし、その惨状に気づく人は少ない。なぜか。教科書は、ある特定の世代にしか関係ないと思はれてゐるからである。それが教科書問題の深刻だが、確実に進んでしまふ原因である。

 気づけよ、国語教師。どれが使ひやすいかは重要であらうが、それよりも私たちの国語を守る意識こそ国語教師が持つべき資質であらう。

 ぜひご一読を願ふ。

 

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時事評論石川 7月号(807号)

2021年07月22日 08時24分19秒 | 告知

今号の紹介です。

 1面に拙論。現在の様々な社会情勢を見て、それをコロナ脳=野党脳=他責脳の三位一体ととらへて批評したもの。その逆の科学的に、主体的に、自他共栄の道を探るといふ心性こそ、私たちが目指すものであるといふことを暗示した。

 感染者数だけでコロナ禍を考へる専門家といふ非科学者たち、与党の失点をことさらに論ふ無責任な野党政治家、何もかもお上のせいと考へて一向に成熟しない在日日本人。彼らはどうかしてゐる。その彼らは遠くにゐるのではなく、すぐ隣にゐる。テレビにも映されてゐるし、職場にもゐるし、ネット上にもたくさんゐる。かういふ事態はかなりまずい。そのうち中国の台湾侵攻でも始まつて挙句の果てには沖縄までが支配下になつてしまつても、それでもまだ対岸の火事と思つてゐさうである。「ゆでガエルの法則」の作用がもう始まつてゐるやうに感じる。

 そして、その「まずい空気」を吸つてこちとらも生きてゐるのだから、たぶん相当にまずい状態なのだらう。香港の非民主化にたいしても、先月号の「ウイグル・ジェノサイド」にたいしても、何もできないでゐる。考へることは行動だと、知識人ぶつて強気を見せても、たぶん現状は変はらない。時代の力といふのは強いのだ。

 その自覚をしてゐると書いてゐるだけである。

 

 

 

 どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。  1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)
                     ●   

コロナ脳と化した日本全国テンヤワンヤの大狂想曲

   文藝評論家 前田嘉則

            ●

コラム 北潮   (岡潔の対談集について)

            ●
二階幹事長が牛耳る対中外交

   元東京大学史料編纂所教授 酒井信彦 
            ●
教育隨想  「従軍慰安婦」「強制連行」否定の閣議決定(勝)

             ●

スパイ防止法の制定は急務

   経済安全保障の視点からも必要

   福山市立大学講師 安保克也

            ●

「この世が舞台」
 『モルフィ公爵夫人』ジョン・ウエブスター
        早稲田大学元教授 留守晴夫
 
            ●
コラム
  東京五輪について(紫)

  目先のリスク回避の陥穽(石壁)

  学問の誠実を生きた人(星)

  夫婦別氏推進派の嘘と奸計(梓弓)
           

  ● 問ひ合せ     電   話 076-264-1119 

                               ファックス   076-231-7009

   北国銀行金沢市役所普235247

   発行所 北潮社

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『雲をたがやす男』 栗本鋤雲を描いた戯曲

2021年07月11日 16時22分39秒 | 評論・評伝

 

 

 組織には、それを作り上げた男の営みと共に、それに始末をつけた男の営みもある。もちろん、前者は歴史に名を遺す。征夷大将軍を取り上げても、源頼朝、足利尊氏、そして徳川家康の名を挙げれば、それで十分だ。ところが、いづれの幕府も時代と共に古びて滅んできた。最後の将軍はゐたけれども、それが必ずしも「しんがり」を務めた訳ではあるまい。

 幸か不幸か徳川幕府の終幕は武士の時代の終焉とも重なり、そこには「しんがり」を務める人(人)が必要であつた。慶喜もさうであるし、勝海舟もさうである。天璋院篤姫もその一人であらう。そして勘定方の小栗上野介もさうであるし、慶喜の弟昭武の渡仏に同行した栗本鋤雲もまたさうである。小栗は日本に戻るが、大政奉還の知らせをパリで聞いたのは栗本である。幕府への援軍を打診するフランス政府に、それを断固として固辞したその一事をとつても、栗本の功績は大きい。彼がパリにゐなければ、明治維新はどうなつてゐたであらうか。内乱は拡大し、それを好機に日本はイギリスとフランスの代理戦争の場になつてゐたであらう。

 この戯曲を書いた中村光夫は、だいぶん以前から栗本に興味を持つてゐたといふ。これが書かれたのは1976年6月。9か月かけて書かれたといふ。福田恆存によつて1979年に演出され東京・千石の三百人劇場で上演されてゐる。栗本は、小池朝雄が演じてゐる。

 もう上演されることはないであらうが、戯曲で十分に楽しめる。本は、少し大きな図書館に行けばあるだらう。

 かういふ人物がゐることで、今の日本がある。

 大義を掲げて生きてゐたのではない。栗本にとつては、小栗がゐたからさう生きられたのである。この作品には、かういふ台詞が書かれてゐた。

「わしはあの人からひとことねぎらいの言葉をもらえばいくらでも働けた。」

 この言葉は、同行してゐた渋沢栄一に向けて語つた言葉である。渋沢もまたさういふ生き方をした人物として描かれてゐる。幕末、明治にはかういふ人(人)が日本にはゐたのである。

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改革といふ名のテロリズム

2021年07月08日 21時15分19秒 | 評論・評伝

 文部科学省が推進してきた大学入試改革が、完全に頓挫した。

 共通テストは、英語外部検定の利用と、数学と国語の記述問題を断念することとなつた。さんざん振り回すだけ振り回して結果的には、さらにひどいものになつた。

 英語の四技能(聴く・読む・話す・書く)を目指すとしてゐたのが、二技能(聴く・読む)といふ従来型にとどまつたといふのではない。聴くが100点、読むが100点となり、従来の聴くが50点、読むが200点から、「読む」の比率を下げる結果となつた。大学生が必要とする英語力は本当に聴く力なのであらうか。読むことの方が大切であるといふのが私の実感である。

 国語には、実用性が求められるやうになつた。格調ある日本語の文章をじつくりと読ませるのではなく、誰が書いたか分からない架空の学校の校則やら、誰の記録したか分からない生徒のノートやらを読ませて、それら資料同士を比較したり参照したりして解答する、それが国語なのだといふ主張は生き残つた。

 数学も架空の現実の場面を、わざとノイズの多い(不要な情報を含んだ)文章を読ませて、使用すべき数式を考えさせるといふスタイルが残つた。数学とは演繹的な思考法であると思ふが、どうであらうか。

 改革とは、いつも一部の人間が考へた設計主義である。かつてのソ連の五か年計画や中共の文化大革命はその典型であらうが、理想が現実を破壊していく姿をこれまで何度も見てきた。そして、今回の教育改革もまたしかりである。どうしてこれほど私たちは改革が好きなのであらうか。

 改革で、うまく行つた例があるのだらうか。特に教育行政でその例を知らない。かつてのゆとり教育もまた失敗に終はつた。

 ちなみに言へば、先日「大学通信」といふところからアンケートを受けた。どういふ大学を評価できるかと、どういふ大学を勧めるかといふことであつた。

 私の回答は、はつきりしてゐる。

 改革を必要としてゐない大学こそ評価でき、改革をせずに日々改善をはかつてゐる大学を勧めるといふことである。

 それ以外あるまい。

 今日、政治もこの改革好きが支配してゐるやうだ。またぞろ「緊急事態宣言」だと言ふ。それで何が変はるといふのだらうか。政治ができるのは、ワクチン接種を急ぐだけだ。そのための改善こそ仕事の中の仕事である。宣言は、所詮心掛けにすぎない。平和憲法を持ち続ければ、敵から攻められないといふことがバカバカしいと思ふなら、この宣言もバカバカしいと分かるはずだ。言はば、あの分科会とは戦時中の大本営と同じである。事実ではなく、理想を語つてゐるにすぎない。科学者が真実を言つてゐるといふ信憑は、国民の不安を煽るといふ戦術によつて築かれてゐる。だから、感染者数の増加が医療の逼迫も重症者数の拡大も招いてゐないといふ事実を冷静に見れば、宣言が不要であることは分かる。しかし、個人的な不安を抱へてゐる人は一人でも多くの人が同じ不安を抱へてくれることによつて安心を得るから、社会不安を煽る過剰な言葉を待つてゐる。したがつて、事実を見ようとはしない。落ち着いて、日々個人において感染対策に徹するといふことではなく、社会全体が不安を感じ改革を求める。その思ひが「緊急事態宣言」となるのである。緊急事態なのは、不安でたまらない人の事態にすぎない。

 改革も同じなのであらう。現状に不安を抱へてゐる人が、一人でも多く同じ不安を抱へてほしいから、組織や社会全体が不安を感じてもらへるやうに改革を起こすのである。もはやそれはテロリズムである。それまでにあつた人間関係や社会のあり方などまつたく無視して、暴力的に破壊する。さういふ性質のものである。

 改革などといふことを売りにしてゐる組織があれば、近寄らない方がよい。私はさう確信してゐる。

 

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