文部科学省が推進してきた大学入試改革が、完全に頓挫した。
共通テストは、英語外部検定の利用と、数学と国語の記述問題を断念することとなつた。さんざん振り回すだけ振り回して結果的には、さらにひどいものになつた。
英語の四技能(聴く・読む・話す・書く)を目指すとしてゐたのが、二技能(聴く・読む)といふ従来型にとどまつたといふのではない。聴くが100点、読むが100点となり、従来の聴くが50点、読むが200点から、「読む」の比率を下げる結果となつた。大学生が必要とする英語力は本当に聴く力なのであらうか。読むことの方が大切であるといふのが私の実感である。
国語には、実用性が求められるやうになつた。格調ある日本語の文章をじつくりと読ませるのではなく、誰が書いたか分からない架空の学校の校則やら、誰の記録したか分からない生徒のノートやらを読ませて、それら資料同士を比較したり参照したりして解答する、それが国語なのだといふ主張は生き残つた。
数学も架空の現実の場面を、わざとノイズの多い(不要な情報を含んだ)文章を読ませて、使用すべき数式を考えさせるといふスタイルが残つた。数学とは演繹的な思考法であると思ふが、どうであらうか。
改革とは、いつも一部の人間が考へた設計主義である。かつてのソ連の五か年計画や中共の文化大革命はその典型であらうが、理想が現実を破壊していく姿をこれまで何度も見てきた。そして、今回の教育改革もまたしかりである。どうしてこれほど私たちは改革が好きなのであらうか。
改革で、うまく行つた例があるのだらうか。特に教育行政でその例を知らない。かつてのゆとり教育もまた失敗に終はつた。
ちなみに言へば、先日「大学通信」といふところからアンケートを受けた。どういふ大学を評価できるかと、どういふ大学を勧めるかといふことであつた。
私の回答は、はつきりしてゐる。
改革を必要としてゐない大学こそ評価でき、改革をせずに日々改善をはかつてゐる大学を勧めるといふことである。
それ以外あるまい。
今日、政治もこの改革好きが支配してゐるやうだ。またぞろ「緊急事態宣言」だと言ふ。それで何が変はるといふのだらうか。政治ができるのは、ワクチン接種を急ぐだけだ。そのための改善こそ仕事の中の仕事である。宣言は、所詮心掛けにすぎない。平和憲法を持ち続ければ、敵から攻められないといふことがバカバカしいと思ふなら、この宣言もバカバカしいと分かるはずだ。言はば、あの分科会とは戦時中の大本営と同じである。事実ではなく、理想を語つてゐるにすぎない。科学者が真実を言つてゐるといふ信憑は、国民の不安を煽るといふ戦術によつて築かれてゐる。だから、感染者数の増加が医療の逼迫も重症者数の拡大も招いてゐないといふ事実を冷静に見れば、宣言が不要であることは分かる。しかし、個人的な不安を抱へてゐる人は一人でも多くの人が同じ不安を抱へてくれることによつて安心を得るから、社会不安を煽る過剰な言葉を待つてゐる。したがつて、事実を見ようとはしない。落ち着いて、日々個人において感染対策に徹するといふことではなく、社会全体が不安を感じ改革を求める。その思ひが「緊急事態宣言」となるのである。緊急事態なのは、不安でたまらない人の事態にすぎない。
改革も同じなのであらう。現状に不安を抱へてゐる人が、一人でも多く同じ不安を抱へてほしいから、組織や社会全体が不安を感じてもらへるやうに改革を起こすのである。もはやそれはテロリズムである。それまでにあつた人間関係や社会のあり方などまつたく無視して、暴力的に破壊する。さういふ性質のものである。
改革などといふことを売りにしてゐる組織があれば、近寄らない方がよい。私はさう確信してゐる。