ジョージ・スタイナーが亡くなつた。当代の最高の知性であつたこの文藝評論家は、毒舌家でもあつた。私は原文で読めないから、専ら日本語でそれを読んで来たが、それでもその毒舌ぶりは印象に残る。そしてその鋭い毒舌(分析)は、きつと自分自身にも向けられてゐたであらうから、学問の厳しさを自づから追究する姿勢を体現することになつたのではないかと思ふ。
博覧強記ぶりはつとに有名であるが、それがディレッタント(衒学的=ひけらかし)でないのは、これ以上ないほどの的確な場面や分量で記されるからである。
例へば、「建国神話を盛る叙事詩文学は、書記化の『進歩』とともに衰退に向かった。これらの事柄すべてを考慮するならば、今日の学校教育における記憶の無視と排除は、野蛮な蛮行と言わざるをえない。」(46頁)
これなどは、各国の建国神話を巡つて論じてきた後に記される「箴言」のやうでさへある。書記化の進歩の極致とも思へるディジタル文明、直近の話題で言へば「オンライン授業」などは、ますます「記憶の無視と排除」へと向かつてゐるやうに見える。もはや「野蛮な蛮行」と発言することなど、このブログのやうな極めて少数者の読者しかゐない言語空間の中だけでしか許されない「毒舌」であらう。「書く」は想起と共に行はれてきたが(漢字テストをイメージしてもらへばよい)、それがもはや必要なく「写す」か「見る」かになつてしまふ。さらには「映る」で学習が成立してゐるやに思はれるほど学びは後退してゐるのである(現今の話題を再び引けば、オンライン授業を見てゐて、ときどきそれをメモしたり、あるいは見てゐるだけで、授業を受けたことになつてしまふのである)。「放送」で学びが成立するのは、せいぜい「大学」であらうが、今や小学校からそれでよい。もはや学校といふ空間すらいらないとまで言はれてゐる。これが「野蛮な蛮行」と言はずしてなんであらう。随分アナクロニズム(時代錯誤)を言ふなといぶかしがる人もゐるかもしれないが、遠慮なく書かせてもらふ。
さて、本書はソクラテスやそれ以前の思想家の時代から「師匠と弟子」との交はりについて述べたものである。一言で言つてそれらの間にあるものは決して美しい物語ではない。反逆や猜疑心や嫉妬や裏切りが渦巻いてゐるのである。改めて詳細を知ると、なるほどと思はれた。もちろん、それは師弟関係のみに現れる現象でもない。
「それは世代間に生起せざるをえない人間存在の様態であると言ってもよく、美術、音楽、工芸、科学、スポーツ、軍事教練、これらすべてに共通して求められる訓練や技能伝達と切り離すことができない。」(192頁)
そんな中で唯一例外としてスタイーナーが言及するのが、バアル・シェム・トーブとその弟子たちとの関係です。ユダヤ教の「ハシディズム」と呼ばれる宗教運動で、18世紀のポーランドにおいて設立された。マルティン・ブーバーやレヴィナスと言はれれば、私にもその傾向は多少は分かるが、トーブその人自身は初めて知つた。しかし、その思想は現代思想やポスト構造主義にも影響を与へてゐると言ふ。
「バアル・シェム・トーブの弟子のなかで、師の精神と生き方に最も忠実であったラビはといえば、ピンハスであった。同時代の人々から畏敬され、『この世の頭脳』と彼は呼ばれた。彼とその弟子のベル斜度のラファエルとの関係は、個人的にも教義のうえでも、相互信頼に立つ美しいものであった。歴史の流れにあって、師弟関係はしばしば荒れ模様を示すが、彼らのそれはつねに快晴の下にあるといった、稀有な例であった。」(223頁)
スタイナーの狩猟する範囲は、これを見ても分かるやうに広い。それらすべての内容について「了解」することは私にできることではない。しかし、読書の幅を広げ未知の世界を知らせてくれることは、文藝評論家のなすべき最良の仕事であり、読者としては感謝を述べればよい。もちろん、スタイナーの弟子でもない私は、彼の思索を遠巻きに眺めるだけであるから、そこには反逆や猜疑心や嫉妬や裏切りはない。読書の幸福を味はへば良い。スターナーには弟子がゐるのかゐないのか、それすら私には分からない。
本書のなかで最も魅力ある師であつたのは、アランであつた。スタイーナーは「大思想家の古典を二読、三読しなければならない。」(158頁)として挙げたのは、プラトン、アリストテレス、モンテーニュ、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、ヘーゲル、コント、そしてマルクスである。前の二つはともかく、私ににはそれら以上にアランである。「アランにとって、生きることはすなわち考えることであった」(152頁)人の姿勢を求めたい。アランの「意識の唯物論」とは、生き方の血肉化のことであつたのだらう。