賣れてゐる。第1囘本屋大賞受賞作品とある。來春には映畫にもなるといふ。讀みやすい。
數學の大家は、不幸にも事故でそれ以降の記憶は80分しかもたないことになつた。そこに家政婦が通ふ。息子もそのうちその家に出入りすることになる。博士はなぜか子供に對する愛情だけは、記憶を越えたところで育まれてゐた。阪神タイガースの江夏のファンである博士と、その時代を知らない息子、しかし彼もタイガースファンである。江夏の背番號28は、完全數(自分以外の約數を全部足すとそれ自身になる數のこと)なのであつた。
作者は、この作品を書くにあたり、お茶の水大學の數學の先生である藤原正彦氏を訪ねたといふ。藤原氏は、文庫の「解説」で「數學者としてごく當たり前のことしか言わなかった」と書いてゐる。ただし、作者の意識に相當な刺戟を與へたことは事實のやうで、讀んで數學の魅力をずゐぶん感じることができた。
東京電力の廣報誌に「イリューム」といふ科學情報誌があるが、その最新號の卷頭言に山崎正和が、「完璧な學問世界の内と外」といふエッセイを書いてゐる。點は、位置のみあつて大きさのないものと定義したところで、それでは線はどう説明するのか。點の軌跡であるとすると、線は點の連續であるものの、線は無限に分割できるのであるから、その無限に分割された點を移動する連續運動はどう行はれるのか。これを「無限等比級數」といふ概念で數學者は解決するのださうだが、それでは肩透かしとも言へる、さう山崎氏は書いてゐる。
數學は、そもそも哲學の問題を内包してゐるやうであるが、その不思議さと美しさとが、私たちを長い歴史をかけて魅了してきたことは疑へない。現に私と數學との關係は、高校二年生の時に積分に出會つて「さよなら」を言つたきりであるが、その魅力には今も惹かれ續けてゐる。數學者の岡潔のエッセイはずゐぶん讀んだし、先の藤原氏の文章もよく讀んだ。そして、この小川洋子氏の小説である。魅力的であつた。賣れるのは、なるほどと思ふ。グロテスクな死もエロティックな愛もない。自我の葛藤も家族の不和もない。教養小説でもディレッタントでもない。さらりと甘い感じが殘る味はひがある。
だが、何か物足りないもの事實である。80分しか記憶がもたないといふことの必然性が最後まで感じられなかつたからだらうか。今生きてゐる私たちだつて、せいぜい一日ぐらゐの記憶しかないではないか。一昨日の晝に食べた食事のメニューを直ちに言へる人はゐないだらう。鐵道の脱線事故が何月何日にあつたのかの記憶は絶望的であらうし、ひよつとしたら結婚記念日だつて忘れてゐるかもしれない。更には戰前の記憶を全國民が消されてゐる私たちの戰後においては、等しく記憶喪失者なのではないか――さういふ批評性がまつたく感じられないから物足りなさを感じたのだらう。もちろんこれは望蜀の願ひといふものであらう。そんな野暮な小説を讀みたいのなら、別の作家を當たれば良いのである。ただ、期待が大きかつただけに不滿が殘つたことだけは書いておきたかつた。