言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

福田恆存生誕百年記念公演

2011年09月29日 21時43分13秒 | 福田恆存

11月16日から上演。東京のみの公演。じつに残念である。

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部分と全體――福田恆存の演劇觀・人生觀

2011年08月15日 07時54分51秒 | 福田恆存

   福田恆存の「演劇と文學」より。

   私は、最初から部分のうちに全體が含まれてゐなければ、いくら部分を集めても全體を構成しないと考へるものです。椀とその蓋とは、それぞれ部分ですが、椀はすでに蓋を豫想し、蓋は椀を豫想してゐるといふ意味で、はじめから全體の構想をそれぞれのうちにもつてゐるものです。夫と妻も同樣です。それぞれ獨立しながら、同時に他を必要とする。そのアイロニーによつて、人間の生は成りたつてゐるのです。

  私は殘念ながら、福田恆存が演出した芝居を觀たことがない。地方の住人(貧乏學生であればなほさら)にとつては當り前のことであるが、何をおいても見に行きたいと思ふほど新劇とは馴染のある存在ではなかつた。じつに殘念なことであるが、今となつてはどうしやうもない。ただ、昨年、早稻田大學の演劇資料館に保存されてゐた福田恆存が演出してゐる場面を撮影したビデオを觀たのが面白かつた。小池朝雄などの姿も若若しかつた。福田恆存が評論に書かれてゐるやうな言葉で役者に話し、それを眞劍に聽いてゐる(やうに演じてゐた?)のが清清しかつた。

   福田恆存の演出舞臺を觀たことがない私が、以上の言葉を福田恆存の實際の舞臺の印象として言ふことはできない。また、福田恆存の人生を評言する材料を持ち合せてゐないのであるから、實際にどう生きたのかは分からない。ただ、福田恆存が芝居とはどういふものであるべきかと考へ、人生とはどうあるべきかと考へたかは分かる。上の言葉は、さういふことを示してくれてゐる。このやうな觀念的な視點がなく、場當り的で思ひつきな言動が多い私たちには、これだけで十分魅力的である。

   これから、またトランクルームに片付に行く。今日は、新聞の切拔きの整理である。もうかれこれ十年分はあるだらうか。

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福田恆存の對談・座談集

2011年08月13日 11時15分33秒 | 福田恆存

   この夏、地方の名門高校の校長先生になられた知人と會ふことがあつた。七年半振りですねと久闊を敍したが、すぐに以前のやうに話せた。勉強會を年に三四囘してゐた間柄で、御酒に強いその先生は、醉つても決して亂れることなく、こちらの戲れ言を御聞になりながら、たしなめるやうに「それはどうですかね」といふ形で話される。決して多辯ではなく、話をしてゐるこちらはいつも口頭試問を受けてゐるやうな感じであつた。そして、この度もさうであつた。

「福田恆存の對談集讀んでゐますか」と訊かれ「まあ、ぼちぼち」と。「何か新しい發見はありましたか。まあ、あなたのことだからもうすでにどこかで讀んだものばかりだらうけれど」と言はれて沈默された。確かに讀んでゐるものが多いが、最近福田恆存をあまり讀んでゐないので、それ以上に私の方も言葉がなかつた。

  そして、今日になつて第二卷を讀んでみた。すぐに讀めた。とは言へ、福田恆存のところしか讀まない。それで内容に通じないところがあれば、對談者の發言を讀むといふ程度の讀み方であるから、すぐに讀めた。以前と同じやうに竹内好との對談がいちばん良かつた。これは福田恆存の六十歳ぐらゐまでの思想がよく語られてゐると思ふ。晩年の福田恆存について、松原正氏は「福田恆存は神道だ」と語つてゐたが、ここでは「カトリシズム」と自ら語つてゐる。確かに、そこから變更があつたやうにも思ふが、芯のところでは、絶對者からの視線を意識してゐる像を福田恆存は最後まで捨ててゐなかつたと私は見てゐる。谷田貝常夫氏も、それに似たやうなことを語つてくれたことがあつた。

  今囘初めて讀んだのは、吉田秀和氏との對談。短いものだが、面白かつた。

「日本はすべて問題が未來から來る。未來があるかないか、未來のある方をとることを考へてゐる。」

しかしである。

「古いものが消えるといふ形で新しいものは出て來てゐない。日本の新といふ觀念は古いものを滅した上にでなければ成立たないやうな觀念だから駄目なんだよ。」

   昭和30年の發言である。福田恆存四十四歳、あの「平和論の進め方についての疑問」を書かれた直後のことである。

   以上の發言を、日本人は損得感情でしか考へない、勝ち馬に乘らうとする、傳統を作らうとする意識がない、と私なりに飜譯すれば、それは今もまだ現役の日本人にたいする批評となる。

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『福田恆存対談・座談集』刊行開始

2011年06月15日 22時01分19秒 | 福田恆存

福田恆存対談・座談集 第一巻 新しき文学への道 (福田恆存対談・座談集) 福田恆存対談・座談集 第一巻 新しき文学への道 (福田恆存対談・座談集)
価格:¥ 3,150(税込)
発売日:2011-04-23

福田恆存対談・座談集 第二巻 現代的状況と知識人 (福田恆存対談・座談集) 福田恆存対談・座談集 第二巻 現代的状況と知識人 (福田恆存対談・座談集)
価格:¥ 3,150(税込)
発売日:2011-07-11

 今年四月から『福田恆存對談・座談集』の刊行が始まつた。出版社は玉川大學出版部。3150圓といふ値段は決して安くはないが、福田恆存の「聲」を聽きたい人にはその價値は値段以上のものがあると思へるはずだ。第1卷は、「新しき文學への道」と題されたもので、後期の福田恆存があまり觸れなかつた文學にたいする發言が興味を引く。まだ最後まで讀んでゐるわけではないが、今までのところではチェーホフにたいして「合理主義者」と名附けるところが面白かつた。なるほどといふ驚きがあつた。

  時事評論の中澤編輯長から「週刊讀書人」に今囘のシリーズの編輯をされた福田恆存の御次男の福田逸さんのインタビューが載つてゐると教へてもらひ、早速「讀書人」に電話をして送つてもらつた。3月25日號である。一部280圓。一面をまるまる使つてのもので、讀應へがあつた。中に、今囘のシリーズの刊行を始めたきつかけに「インターネットのサイトに福田恆存の對談や座談を全部載せてゐるファンがいらして、それにずいぶん助けられました」と書かれてゐるが、自畫自讚であるが嬉しかつた。書誌作りを志してはゐたが、金子一彦さんのやうな精密さはなく、對談・座談を集めることにのみ執着した。それだけに、この言葉は嬉しかつた。逸氏にも直接御傳したことがあるが、福田恆存が御亡くなりになつた後、對談や座談は、その肉聲を聽ける唯一のもので(もちろん出版時には校正されてゐるわけで、嚴密には聲そのもではないが)、國會圖書館その他で探しては讀むのを樂しみにしてゐる。だから、かういふ出版はありがたいのである。

   このインタビューの後段では、「福田を必要以上に神格化してしまう」と「『ただの人』としての福田恆存を見失いかねない」と警鐘をならされてゐるが、もしさういふ福田恆存ファンがゐれば、それは福田恆存讀みの福田恆存知らずといふことである。確かにさういふ人はゐるが、さういふ人物に鼻がきくのも福田恆存の讀者であるはずだ。自省の力を福田恆存の文章は求めてゐると私は讀んだ。ただ、福田恆存も書いてゐるが、若いときにはある思想家に打ちのめされるといふ經驗が必要なのも事實で、若いときに福田恆存を神格化した體驗を持つてゐる人も私には十分に魅力ある人物に思へる。

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福田恆存についての新刊

2010年11月01日 10時55分11秒 | 福田恆存

証言 三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決 証言 三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決
価格:¥ 1,700(税込)
発売日:2010-10
   この11月25日で、三島由紀夫が市ヶ谷で自裁してから丸40年になる。そんなこともあつて、書店では三島由紀夫についての本を見かけることが多くなつた。今日、ここで紹介する本も、一般の書店の店員には「關聯本」としか映らないものであらう。出版社にしたところで、市ヶ谷の自衞隊のバルコニーで演説する三島の寫眞を表紙に載せるのであつてみれば、さういふことを願つてゐるのは間違ひない。しかし、その中身と言へば、「關聯本」とは一線を畫す一級の評論である。以前ここで紹介した遠藤浩一氏の『福田恆存と三島由紀夫』が扱つたのは、文明論としての二人の思想の對比であつたが、こちらの方は、二人の身近にゐた者が、その師をどう見たかといふところから書かれた月旦評である。月旦評と言ふと、本書の價値を低めたことになると勘繰られさうだが、それは違ふ。近くにゐた人だけが知り得る、その對象者の本質を掴んだ端的な批評なのである。

   それを要約すれば、

三島由紀夫――天皇の日本國における位置附けは他の追隨を許さない論理的緻密性を持つてゐるが、昭和天皇にたいする思ひは、臣下の道としては違和感がある。(持丸氏)

福田恆存――個人と國家とのエゴイズムを共に否定する媒介を持たない日本が、近代國家として西洋に伍していけるのかといふ疑問を絶えず持つてゐたといふことが、今日の保守主義者には理解されてゐない。(佐藤氏)

  いづれも、私には納得出來るものであつた。三島のよき讀者ではない私は持丸氏の意見には頷くしかないが、佐藤氏の主張は、まさに我が意を得たりといふ氣持だつた。福田恆存が絶對者を求めてゐたといふ主旨は拙著『文學の救ひ』で縷縷述べたところだ。ただ、望蜀の願ひを一つ言へば、ロレンスの自然とエリオットのクリスト教の神との關係をもう少し突つ込んで評言してほしかつた。私見によれば、ロレンスからエリオットへといふ内心の變化があつたといふのが、私の理解である。11月20日福田恆存の命日に毎年開催される現代文化會議主催の講演會は、今年は主催者である佐藤松男氏御本人がされるやうだが、もし行けたらその邊りを訊いてみたい。

   それにしても良い本だ。裝幀が安つぽいのが珠に傷。

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