言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『永遠の0』を読んで

2012年06月29日 18時52分15秒 | 日記・エッセイ・コラム

永遠の0 (講談社文庫) 永遠の0 (講談社文庫)
価格:¥ 920(税込)
発売日:2009-07-15
 實は家内から薦められて『永遠の0』といふ小説を読んだ。がらにもなく戦記小説である。零とは大東亜戦争で活躍した戦闘機通称ゼロ戦のことである。

 その操縦士の孫たちが、祖父のことを調べるために戦友たちを訪ねる話である。批判的に思ひ出を語る人。命の恩人のやうに思ひ出を語る人。さまざまである。一人の人物を訪ねてゆく物語の展開のなかで、あの戦争とはどういふものであつたのかを、作者は記してゐる。

 私の父の従兄は鹿児島の知覧から特攻隊として飛び立つた。もちろん、帰還することはなかつた。その方がどういふ思ひで飛び立つたのかは、訊いてみたいことのうちの一つである。したがつて、この小説を読みながら、それを片一方で想像しながら読んでゐた。さういふ意味では、この作家の書いてゐることには、肯ぜないこともある。例へば、天皇陛下万歳と思つて死んだ人はゐないと断言してゐたが、さてさう言へるかどうか疑問である。父母や愛する妻や子のために死ぬといふことはあつただらう。そして、それが多かつたといふことまでは否定はしないが、家族への思ひだけで死ねるほど、私たちは強いだらうかといふ疑問がある。大義なくしては死ねない私たちではないか、さう思ふ。

 祖父は海軍に殺されたと孫の言葉として作者は記してゐる。さうだらうと思ふ。日露戦争以後三十年が経ち、戦争を経験してゐない軍人が年功序列的に組織の長に立つてゐた時代では、軍隊と言へども身体性を失ひ、頭でつかちの官僚軍人が支配し、硬直化してゐたはずだ。事実、特攻隊のやうな兵隊には安易に死を求めたが、命令を下す立場の者が死ぬかもしれない場面では及び腰になるといふことが幾度もあつた。あの戦争に負けたのは、決して物量ではなく、幹部の腐敗ゆゑである。

 そしてそれは今もまた同じである。読んでゐて、切なくなるのは今も身につまされるからであらう。とは言へ私たちは殺されることはない。必ず死ぬといふやうな命令を下されることはない。少なくともさういふ時代を築くために、あの先人達が死んでくださつたといふことを知ることは無駄ではない。

 いい小説であつた。屹立した精神の賜物、さういふ人物に出会へた気がした。

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時事評論 最新號

2012年06月28日 18時08分49秒 | 告知

○時事評論の最新號の目次を以下に記します。どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)

   六月號が発刊された。

 キリスト教について岡田氏が書いてゐることは興味深い。だが、大事なところで異論もある。

  内村鑑三が喝破したやうに、「キリスト教は宗教にあらず」である。この意味は多様であるので、ここではそれを西洋出自のキリスト教だけがキリスト教ではないといふやうに翻訳して説明することとする。

 鑑三がアメリカのキリスト教を見て絶望し、帰国して日本的キリスト教(この言葉も比喩でしかない)を打ち立てたやうに、キリスト教はそれを求める人(鑑三の言葉で言へば「接ぎ木された人」)であればいつでもこの風土に根付くのものである。だから、あたかも西洋の専売特許であるかのやうにキリスト教を見、「洋魂の素晴らしさ」などといふことを言ふのは正鵠を射てはゐまい。

 そもそも絶対者といふ言葉の厳密な意味からすれば「洋の東西を問はない」といふことである。キリスト教の神が絶対者であるとすれば、それは西洋の神と限定できるはずはない。端的に言へば、イエスはヨーロッパ人ではない。イエスの死後何百年か経つて、ヨーロッパと呼ばれる地域に広まつてゐるから、キリスト教が洋魂といふやうに現代人にとらへられるやうになつたのであつて、和魂が絶対者の精神に触れてゐないと断言することの方がむづかしい。 別言すれば、絶対者といふ言葉は、「その人がそれを信じようと信じまいとその人との関係を持つことができる存在」といふ意味であつて、逆に言へば「その人の中に絶対と相渉るものが潜在してゐる」といふ意味でもある。この絶対といふ言葉の驚異的な力を発見したのがキリスト教である。そしてそれを腹の底から知つてゐたのが、内村鑑三である。さうであれば、少なくとも内村鑑三以後の和魂洋魂をキリスト教の有無で論じることはもつと慎重であるべきだ。

 

              ☆        ☆    ☆

「自治基本条例」の正体を暴く

民主主義の名の下で民主主義を蹂躙

       ジャーナリスト 須藤 護

● 

”洋魂”の素晴らしさ恐ろしさ

クリスト教を抜きにして欧米主導の国際政治は語れぬ

                早稲田大学准教授 岡田 俊之輔

教育隨想       

      世界で一番高い評価と、世界で一番低い自己評価

     ――データの語る歪な日本 (勝)

この世が舞臺

     「病は気から」モリエール                              

                     圭書房主宰   留守晴夫

コラム

        防衛大臣の資格・資質・覚悟  (菊)

        原発再稼働の是非 (村永次郎)

        歴史を語れぬ人の顔(星)

        右も左も国家主義(騎士)   

   ●      

  問ひ合せ

電話076-264-1119     ファックス  076-231-7009

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宮田大といふソリスト

2012年06月25日 07時56分24秒 | 日記・エッセイ・コラム

 先日、NHKの音楽番組で小沢征爾の指揮による演奏を見た。病に倒れ今は休養中であるが、その直前に久しぶりに水戸室内管弦楽団の指揮をとつたものだ(今年の1月19日)。

 リハーサルの模様から見られたが、痛痛しい。それでも座りながらの指導であるが、気心の知れた仲間に「だめ、だめ、だめ」と言へるのは、さすがである。

 そして、演奏会。一楽章が終はる度に、しばし椅子に座り休憩をとる。楽団員も観客も再び立ち上がる小沢の姿をさりげなく待つてゐる。普通の音楽会とは違つてゐた。言ひ知れぬ緊張感が音の質を高めてゐるやうな気がした。

 テレビでは、次の二曲の演奏が見られた。

モーツァルト:交響曲 第35番 ニ長調 K.385〈ハフナー〉

「ハイドン:チェロ協奏曲 第1番 ハ長調 Hob.VIIb-1
 チェロ独奏:宮田 大

小澤征爾指揮 水戸室内管弦楽団 2012 ~ チェロ独奏 宮田 大 ~ [DVD] 小澤征爾指揮 水戸室内管弦楽団 2012 ~ チェロ独奏 宮田 大 ~ [DVD]
価格:¥ 4,935(税込)
発売日:2012-07-27

 この宮田大といふ青年、若干25歳だと言ふがすばらしかつた。チェロと言へばヨーヨーマの音しから知らない素人には、たいへんな驚きであつた。洗練されたスマートさ、透明感が魅力のヨーヨーマとは違つて、繊細であると同時に膨らみや重厚な感じがして、オーケストラと馴染むといふよりも「競奏」してゐるといつた風情である。演奏の身振りは大仰な感じが出てゐたので、目を瞑るか、CDで聴くのが良いかもしれない(まだこの曲のCDはない)。それでもこの人の演奏会は行つてみたい。

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和解の映画二つ

2012年06月13日 22時32分17秒 | 映画

 先日、録画してあつた映画『シックス・センス』を見た。霊の存在を信じてゐるから、霊が見える話といふのは、とても怖いと感じてしまふ。主人公の少年には、むごたらしい死に方をした人ばかり見えてしまつて可哀さうであるが、それは逆に言へば、さういふ死に方をした人がたくさんゐるといふことであらう。あるいはまた、仏教的に言ふところの成仏できない人だけがこの地上にとどまつてゐて、完全に天界にいつてしまつた人は、少年には見えないといふことなのかもしれない。

シックス・センス [DVD] 

シックス・センス [DVD]
価格:¥ 4,179(税込)
発売日:2000-07-19

 

 そんな中、少年の祖母が少年の母親に伝へてほしいといふことを託した場面が出てきた。母親は、祖母との間にあることをめぐつてしこりを残してゐる。それを祖母は気づいてゐるのだが、娘(少年の母)に話せずに死んでしまつた。そこで、少年が眞實を告げる。母親はそれを聞き、嗚咽する。ずゐぶんと都合のいい話であると思はれるかもしれないが、見てゐて違和感はなかつた。あの『ハムレット』も父親の亡霊から、父の死の理由を聞かされる。起きた不幸のあまりの大きさに心をつぶされさうになつたとき、人は眞實の言葉を必要とするのであらう。それが霊の言葉であるかどうかは、物語の展開のなかの自然であれば問題はない。

  それから、これも十日ほど前に見た井上靖の『わが母の記』の映画にも同じやうな場面があつた。痴呆になつた母が、なぜ息子を置いて行つてしまつたのかを語るのである。息子は捨てられたとずつと思つてゐた。眞實を知り、息子は号泣する。失くしたと思つてゐた詩を母親はずつと大事にしまつてゐた。樹木希林演じる母親の姿が涙を誘つた。痴呆の母の言葉も、霊の言葉であるか。眞實の言葉は、かういふ形でしか語られないのか。ここでも私は自然なものとしてその場面に引き込まれた。

わが母の記 オリジナル・サウンドトラック 

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価格:¥ 2,500(税込)
発売日:2012-04-18

 誤解は人の言葉が生み出すものだが、和解もまた言葉がもたらすものである。俗の思ひがそぎ落とされて、眞實の言葉が明らかになる、その様子を表現するものとしては「霊」といふのは卓抜した比喩のやうに思へた。

  いい映画を見た。さう思ふ。

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第40回北村透谷研究会全国大会

2012年06月11日 07時47分07秒 | 文學(文学)

 今年も全国大会の時期がやつてきた。恥づかしいことだが、一年のうちで透谷のことを考へるのはこの大会に参加して数日だけといふ状況がずつと続いてゐるが、それでも参加してみたいと思へるのがこの学会の良さである。なによりそれは平岡敏夫先生のお人柄にも寄るであらう。今年もお会ひできてよかつた。そのことについてまづは書いてみたい。

 早稲田大学での講義を十二時過ぎまでされてゐて、地下鉄の早稲田の駅まで歩き、東京駅から新幹線に乗り、名古屋で近鉄に乗り換へて四日市まで。到着されたのは最後の講演(三重大学名誉教授の高橋昌子先生)の後半部分。たぶん四時頃だつたかと思ふ。最前列に座つてゐた私には気配でしか分からないが、たぶん来られたのはその頃だらう。82歳のこの大先生は、何をおいてもこの学会を大事にされてゐる。

 終はつた後の懇親会では、恒例の会員諸氏の近況報告をする。最初に平岡先生が話された。話題が多岐にわたつたが、江藤淳の話になつた。『漱石とその時代』を高く評価したり対談をしたりしたといふ話のなかで、『昭和の文人』の堀辰雄論についての異論を書いてから、江藤さんからは本が来なくなつたと言ふのが印象的であつた。「意見が合はなくなると謝絶する」といふのがいかにも江藤淳らしい気がした。

 私を含めてすべての近況報告が終はつたあと、この会の衰退を嘆く古参会員の諸先生にたいして平岡先生が、少々真剣なまなざしで(いつもは笑顔で冗談も言ふやうな感じであるが)、「この会が消滅しても、研究者がだれもゐなくなつても、透谷は残る、さういふものです」とおつしやつた。まつたくその通りであらう。その言葉を聞けただけで今回の大会は成功である、さう感じた。透谷の魅力は北村透谷研究会の成果ゆゑのものではない。透谷の文章自身の持つてゐる魅力である。

 透谷の文章を讀み、讀ませようと思つた。

 来年の大会は、聖学院大学と決まつた。

文学史家の夢

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価格:¥ 12,600(税込)
発売日:2010-05
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