皇學館大學主催で、昭和44年10月12日に行はれた講演文を入手できた。わづか30頁の薄いパンフレットであるが、興味深い内容である。一部引用する。全集には、「田中卓の依頼により伊勢にて講演。暫くぶりで伊勢神宮に參詣。」とあり、その時の講演であると思はれる。全集未輯録。
文學と歴史といふものが今ほどかけ離れてしまつた時代はない。これは、歴史の研究が皆、科學的になつてきたからだ。 つまり歴史が科學となつてしまつたところに大きな間違ひがある。今の歴史學者が書いたものは、いつかうに感動を覺えな い。私は記紀が好きだからこれを例に取るが、同じ時代のことを今の歴史學者が書いたのと日本書紀の文章とを比べても、書紀で讀んだ方がずつと感動する。實際の知識は、書紀の人たちよりも現在の學者の方がずつと持つてゐるだらう。今の學者は、書紀の或る場所は事實に合つてをり、ある場所は疑はしいといふことを指摘する知識を持つてゐるかも知れない。ところが、その人たちの書かれた物を見ても面白くない。なぜつまらないかといふと、文章に魅力がないからだ。文章、言葉に人を動かす力がない。
文學と歴史といふものが今ほどかけ離れてしまつた時代はない。これは、歴史の研究が皆、科學的になつてきたからだ。 つまり歴史が科學となつてしまつたところに大きな間違ひがある。今の歴史學者が書いたものは、いつかうに感動を覺えな い。私は記紀が好きだからこれを例に取るが、同じ時代のことを今の歴史學者が書いたのと日本書紀の文章とを比べても、書紀で讀んだ方がずつと感動する。實際の知識は、書紀の人たちよりも現在の學者の方がずつと持つてゐるだらう。今の學者は、書紀の或る場所は事實に合つてをり、ある場所は疑はしいといふことを指摘する知識を持つてゐるかも知れない。ところが、その人たちの書かれた物を見ても面白くない。なぜつまらないかといふと、文章に魅力がないからだ。文章、言葉に人を動かす力がない。