吉田秀和が亡くなつた。98歳の大往生である。
福田恆存のエッセイの中に、一緒にニューヨークで「辛くないカレー(本当は辛いのだけれど、辛くないと意地を張つたといふ内容だつたやうな)」を食つたといふ内容があつたが、まさに小林秀雄、大岡昇平、中村光夫、そして福田恆存などの世代の大批評家である。その人が亡くなつたのであるから、「一つの時代」の本当の終はりである。寂しくないわけがない。
ただ、私は吉田の良き読者でも良きリスナーでもなかつたので、大批評家の死ににじみ出てくる痛切さがない。毎週土曜日九時にやつてゐたNHKFMの「音楽の楽しみ」(さえき君の指摘で「名曲のたのしみ」に訂正いたします。)
もしばしば聴いてゐたし、少しの文章は読んだ。しかし、そのだらだらとした文章にどうにもなじみがなかつた。
今、『音楽紀行』を取り出して讀まうとしたら、その冒頭に福田恆存の「吉田さんのこと」といふエッセイがあつた。讀んだ形跡があるが、まつたく覚えてゐない。それで讀んでみた。
吉田秀和全集〈8〉音楽と旅 価格:¥ 3,990(税込) 発売日:1999-06 |
・・・・・(上の本には上記の「音楽紀行」は収録されてゐません)
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「ひとりごと」を吉田さんはよくいふ。きつと、なにかに我慢して生きてゐるのであらう。いふまでもなく、かれの人生に、あるいは神罰をおそれぬ怪物に。
と福田は書いてゐた。「なにかに我慢して生きてゐる」批評家に、大岡は「音楽坊主」と名付け、それを福田は「中世の僧侶のやうに、美神の前に礼拝し、勤行する」と書いた。近代を作り上げてきた一流の文学者たちには、「なにかに我慢して生きてゐる」ところがあつたのであらう。私は今少しずつ中村光夫の『二葉亭四迷』を讀んでゐるが、二葉亭にもさういふところがある。そして漱石や鷗外にもさういふところは大きい。
それに引き替へ、現代の私たちはどうであらう。「私たち」とは言ふまい。私個人を見て、「なにかに我慢して生きてゐる」だらうか。現代の私は欲望を果たすことが人生であるとしか考へてゐない。成熟できないのはそれゆゑであらう。
吉田が最期に聴いた曲はなんだつただらうか。今、私はモーツァルトのピアノソナタ第11番の第一楽章を聴いてゐる。長調である。
御冥福をお祈りする。合掌。