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由紀草一の一読三陳

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2025年08月05日 | 広告

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 由紀草一の一読三陳

 

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戦後の神学に向けて その2(吉本隆明の「転向」)

2025年08月04日 | 近現代史

メインテキスト①:長谷川三千子『神やぶれたまはず』(中央公論新社平成25年 引用文の後の頁数は本書のもの)

メインテキスト②:『吉本隆明全著作集〈13〉政治思想評論集』(勁草書房昭和44年)

https://bruceosborn.com/yoshimoto_takaaki

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 長谷川氏が「戦後の吉本隆明氏が熱心な反天皇主義者となつた」(P.233)と言ふのはちよつと違和感がある。

 私は吉本にさほど深く親炙した者ではないので、もし知らないことがあつたらご教示願ひたいのだが、彼が、この言葉からすぐに連想されるやうな、天皇制打倒を声高に叫んだといふやうなことは、なかつたと思ふ。もつとも、天皇及び天皇制の擁護者や賛美者には、なほさらならなかつたけれど。

 戦時中の吉本は、混じりつけなし、純度百パーセントの皇国少年で、天皇のために死ぬのは全く当然だと思つてゐた。玉音放送を聞いたときには「名状できない悲しみ」(吉本隆明「高村光太郎」、本書P.138)を感じ、「生きることも死ぬこともできない精神状態に堕ちこんだ」(P.141)と言ふ。これを著者は次のやうに解釈する。

 戦中の吉本は、彼の有名な著作『マチウ書私論』中の言葉を借りれば、「神と己れとの直接性の意識」で生きてゐたのだらう。特攻隊員と同様の、「自分の命を喜んで捧げる」といふ心境は、そこからしか出て来ない。

 しかし、あの日、この「捧げ物」は、当の神によつて拒否された。これ以上残酷なやり方はない。「喜んで死にます」と言つてゐる者に、「生きよ」と言はれても、「すでにいつたん投げ出した命を、もう一度拾ひなほして、いはば廃棄物となつた生を生きること」(P.142)しかできはしないのだから。

 青年吉本隆明からすると、高村光太郎のやうな、戦争中は天皇のための美しい死を称揚し、終戦となると同じく天皇の名のもとに強く生きることを訴へる詩人は、倫理的といふより感覚的に理解し難い者だつた。

 それでも、敗戦後の吉本から、生き神さん=天皇への呪詛の言葉は聞かれなかつた。「神に憤る人間は、その憤怒によつて神にそむくと同時に、その憤怒によつて神へとしばりつけられてゐる…」(P.147)。たぶんこれ以上神に縛り付けられることは耐へ難かつたのだらう、吉本の憤怒は、戦争を引き起こした権力へと向かふ。

 もつともそれは、戦後の一般的な大東亜戦争論のあり方だつたのだが。長谷川氏はそれを、〈神学〉から「戦争のモラル」へと問題をずらし、後者に戦争犯罪のレッテルを貼ることで、詔勅の衝撃から逃れ、信仰を捨て去ることができたのだらう、と評する(P.157)。

 それはさうかな、とも思ふが、吉本についてはもう少し詳細を見ておく必要があるやうに感じる。

 昭和34年4月、上皇陛下の御成婚時の、いはゆる「ミッチーブーム」に触れて書かれた「天皇制をどうみるか」といふ短文がある。

 冒頭で吉本は、「戦後、奇妙なノイローゼが、われわれ一部の年代に流行したことがある」と書く。「天皇とか皇室とかいうコトバを眼にしたり耳にしたりすると、肋間神経のあたりが痛くなってくる」から始まり、もう少し症状がすすむと、君が代を聞いたり日の丸を目にしただけで逃げ出したくなつたり、みぞおちのあたりが冷たくなつてくる、のださうだ。今では減つたやうだが、私も同種のノイローゼを患つてゐさうな人には何度か出会つた覚えがある。

 吉本自身がこのノイローゼに罹り、治療法を医者に聞いたところ(それはウソでせう…)、

積極療法がいちばんだ、ひとつ天皇とか天皇制とかいうのを、徹頭徹尾、論理的に追及してみろ、ということだったので、早速、実行にうつし、どうやら快癒することができた。

 これが、〈神学〉を「戦争のモラル」へとずらして、根底的な憤怒・苦悶から逃れたことになるだらうか。さうだとしても、吉本隆明を特長づけるのは、この場合の「論理的追求」の徹底性のはうにある。それは戦後すぐに彼が陥つた「ノイローゼ状態」の深刻さの裏返しではあるだらうが。

 「天皇制をどうみるか」が発表された『夕刊読売新聞』は、吉本以前に井上清と肥後和男の意見を載せてゐて、この文章は彼らへの批判を骨子としてゐる。

 御成婚パレードを見送る庶民の熱狂を、井上清のやうに危険視する学者もゐて、

 事実、天皇がその歴史的本質に帰って平和と文化の祈とう者として立ってもらいたいなどという肥後和男の空おそろしい発言を読むと、そう考えたくもなる。

 しかし、憲法が改悪されず、憲法を超越する法制が存在しないかぎり、天皇制は墓場から復活できないとおもう。

 このやうに天皇制存否の問題は政治的に「大したことではない」、それは今ではもう墓場に入つてゐるのだから、とする態度を、「生き神様」への感情の残滓から、と見るのは、穿ち過ぎといふものであらう。戦後の吉本が、天皇にある種の神性を、たとへ悪しき神性であつても、認めてゐたといふ証拠はまづ見つからないだらう。

 せつかくだからもう少し。戦争責任といふことになれば、吉本も天皇・天皇制に責任なし、とはしてゐない。御成婚が大騒ぎされたことは「天皇の戦争責任がいまも問われていることのアイロニカルな証拠」だ、などと言つてゐて、これは私には理解し難い。

 吉本隆明の戦後の天皇論の要諦を一番短く述べたものとしては、赤坂憲雄との対談本『天皇制の基層』(講談社学術文庫)中の次の発言になりさうだ。

僕にとっては象徴天皇制は無意識の基盤としては肯定的だ、ということなんです。けれども、理念としていったら全面的に否定します、ということになります。

 これまた理解し難いところがあるが、たぶんかういふことらしい。天皇および天皇制そのものについては、象徴天皇制を含めて、どこまでも反対の立場である。しかし、それを無意識の地盤の一つとして成立してゐる現代日本の市民社会を認める以上、その限りでは現在の天皇制も認めざるを得ない、と。

 確かなことは、吉本は天皇制打倒を喫緊の政治的な課題だとは考へてゐないことで、天皇制は日本の農耕社会の文化がなくなれば自然に消滅するし、産業化が進んだ現在だつて、さほど恐るべき威力を持つてゐるわけではない、といふ見解は、上記二つの文献にも、他にも、記されてゐる。

 ただしそれで終はりかといふとさうでもなくて、『天皇制の基層』では、天皇制で本当に問題にすべきなのは、明治国家によつて作り上げられた近代的なイデオロギー及び社会システムとしてのそれだ、とする赤坂にはつきり反対してゐる。

 あのとき、自分を含めて多くの日本人がそのために死なう、死ぬのが当然だ、と感じた「天皇」といふ存在は、もつと広く深い視点から考究されねばならぬのだ、と。

 吉本隆明の天皇論にこれ以上つきあふことは、本稿が課題とする範囲をはるかに超える。ここではもう一つ、昭和35年に書かれた「日本ファシストの原像」といふ一文を瞥見して終はりにしたい。

 この文の中ほどで吉本は、女性の戦争体験文集である鶴見和子/牧瀬菊枝編『母たちの戦争体験―ひき裂かれて』(筑摩書房昭和34年)を取り上げ、庶民にとつての、戦争に関するイデオロギーはどういふものであつたか、考察してゐる。

 この記録中から抜き書きされてゐる部分は、吉本自身の文より興味深いし、『神やぶれたまはず』の内容とも関連してゐるので、二つばかり孫引きする。

(1)津村しの「無智の責任」

 戦争中人間魚雷に乗って死ぬことを夢としていた弟が、戦後あるとき

たとえ、自分に偽りが全然なくとも、おれたち(わたしをも含めて)の取った態度、また思ったことは、悪いことであった。エゴイズムからでも、戦争に協力しなかったほうが正しかったのだ」と言う。

 主婦はこれにたいして、「いや、わたしはそうは思わない。戦争をはじめから否定し、知性ある節操で消極的にでも反対の姿勢を取り続けた人々に対しては、もちろん心の底から頭を下げるけれども、それとは別の人々の中でも責任をとって自決した軍人のあり方はどうしても立派に見え、戦争悪をはっきりと認識しておりながら、時の政府の前に影をひそめて生きていて、戦後になってからわたしは弱い人間ですなんてひとりごとを言って、傷のつかない程度に自分をあばいて見せるインテリのあり方のほうが不潔でいやだわ」と主張する。

 さらに、この主婦の記録は、弟の死を決定的なものとする出征を、悲しみもせず平然と見送った母親が、死の病床で

いろいろのことがあったけれども、どうしてもいちばん大きなことは、8月15日のことだったよ、一億玉砕しないで生きているということが不思議でね。幾日も幾日も、ご飯がどうしてものどに通らなくてね。廃人というのだろうね。あんな状態を―

と述懐するのを記録している。

(2)田村ゆき子「学徒出陣」

 学徒出陣をひかえた息子と陸軍中将で司令官である叔父とが、この記録の主婦の家で談合し、たまたま戦争観について激しく対立する。天皇に御苦労であったと言われて、ありがたがっている叔父に、息子がいう。

「(前略)こんな意味のないくだらない戦争に、ぼくは大事な命を投げ出そうとは思いませんよ。まるで、どぶに捨てるようなものだ。

 叔父の軍人的庶民はこたえる。「いや、この光輝ある歴史と伝統のある日本に生まれたわれわれは、幸福だよ。国家あっての国民だからな。国の危急存亡の時、一命を捧げることのできるのは、無上の光栄というものだ。

息子「それじゃおじさん、その国を危急存亡の中へ追いやったのはだれですか。

叔父「(前略)わが国の御歴代の天皇は、国民の上に御仁慈をたれ給うて、われわれを赤子と仰せられる。恐れ多いことではないか。(中略)民のかまどの仁徳天皇のお話もよく習ったろう。明治の御代からこのかた、国運は隆々たるものだ。みな御稜威のいたすところだ。

息子「おじさんは『日本書紀』もお読みになったでしょう。武烈天皇はどんなことをしましたか。人民の妊婦の腹をさいて胎児を引きずり出したり、人民を木に登らせて下から弓で射させたり、その他天皇たちの非行はたくさん挙げられているではありませんか。これが御仁慈というものですか。それで『大君の辺にこそ死なめ』か。

 このような叔父と息子の対立には、後日譚がついている。

 やがて、敗戦となり帰京した息子は、家が焼失して、主婦は疎開、夫は近所に間借りの状態で真夜中に帰京し、仕方なくさきの叔父の家の戸を叩いたが、かつての大口論にもかかわらず、ずぶぬれの軍服姿の息子をみて、「おお、帰ってきたか。さあさあ、お入り、御苦労だったな」と、温かく迎えたというのである。

 このうち(2)の弟と叔父については、また吉本特有のわかりづらい言ひ方で、要するに彼らはインテリの口真似をしてゐるに過ぎない、と言はれてゐる。どんなに激しく言ひ争はうと、そこには人を決定的に、根底から動かすやうな力はない。だから時代が変はるにつれて簡単に変はる。

 それくらゐだから、「理屈」よりは肉親の情のはうがたいていは大きいのであり、庶民にとつてはそれでよい、否むしろそのはうがよい。

 しかし、言葉を使ふこと、理屈をこねることが仕事であり存在理由であるはずのインテリまで似たやうなものであり、言葉が羽よりも軽いのだとしたら、それは問題とされずにはすまないだらう。

 これに対して(1)については、「残念なことに、わたしたちの戦争責任論は、心情的な基礎として、ここに記録された主婦と弟と母親の準位を超えることができていない」と吉本は言ふ。

 ここの理路がまた非常にわかりづらいのだが、つまり、「戦争中人間魚雷に乗って死ぬことを夢としていた弟」にしても、「弟の死を決定的なものとする出征を、悲しみもせず平然と見送った母親」も、戦争に対する観念が生活意識のレベルにまで達してをり、その意味でイデオローグたちの言説から「自立」してゐる。戦争で死ぬのは全く当然、それについて彼是の理屈を必要としない程度に、と。

 そして吉本(たち?)には、そのレベルで「戦争」を論理的に扱ふことはまだできない、といふことらしい。

 果たしてさう言へるのかどうか、疑問はある。

 (1)の母親は、(2)の叔父の話を聞けば一も二もなく同意したのではないか。こんな知識やら理屈付けはいらないらしいところは、なるほど強さに見えるが、それこそ吉本たち左翼的なインテリが「ナロード(民衆)」に対して過剰に抱いたロマンチズムにすぎないのではないだらうか。

 ただ、戦後まで生き延びた主婦と弟には、「無智であることそれ自体に責任はあるか」といふ問ひが生まれる。窮極的な問ひの一つではあるが、この問ひもまた、庶民の生活の場で追及されなければならない、と吉本は言ふ。

 さうでなければ、理屈が一見どんなに精緻になつても、本当に人を動かす力は持たないから、「無智ゆゑの間違ひ」は何度でも繰り返されるであらう、と。これは説得力が感じられる。

 以上がざつと、戦後の吉本隆明の立脚点であり、それは戦中の皇国少年の立場からすれば「転向」と呼ばれてもよいのではないかと思ふ。

 なぜこんな神を信じたか、と悔やまれたとしても

すぐに自分の神学的思考を切り換へて、もつと別の神をさがしたり、無神論を選択したりすることができるといふものではない。(P.146~147)

と長谷川氏は言ふのだが、「たやすく」ではなかつたにしろ、戦後の吉本は天皇とは別の神を探し出した。

 その御名を尋ねれば、たぶん「科学的社会主義」といふのが一番近いであらう。

 もちろん旧来の社会主義者とは一味違ふ。吉本は、庶民の生活意識の根底(大衆の原像)から軸足を離さず、一方で目は世界全体を鳥瞰する普遍性をあくまで希求する、理念上の巨人であらうとした。

 これはこれで一種の神学と呼んでもよい。吉本隆明のカリスマ性は、そこで何が成し遂げられたか、よりは、そこでの彼の意欲の激しさと逞しさに因る。これまた、宗教指導者の持つカリスマ性に似通つてゐると言へる。

 そしてかういふのもまた、8月15日の衝撃が生み出したものなのである。

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戦後の神学に向けて その1

2025年08月03日 | 近現代史

メインテキスト:長谷川三千子『神やぶれたまはず』(中央公論新社平成25年)

*gooブログのサービス停止にともない、現在当ブログは引っ越し作業中です。これから四回に分けて掲載するのは、美津島明さんのブログに平成25年に掲載していただいたものです。個人的に愛着がある文章なので、まずこちらに再録いたします。

 

 明治維新から大東亜戦争まで、日本といふ国は過酷で巨大な悲劇を演じたやうに観じられる。

 悲劇のヒーローとは世界と戦ふ者である。この劇は、世界のはうが四艘の黒い船の姿をした使者を寄越したところから開幕となる。

「地球は狭くなつちやつたの。あなたにいつまでも引き籠つてゐられると迷惑なのよね」。

 さう言はれて外へ出て行つてみると、そこは「帝国主義」と呼ばれるマナー(作法・様式)で動いてゐる場所のやうだつた。そこで生きるためには、否応なくこのマナー「食ふか食はれるか」に従はなければならない、と感じられた。そこで非常に努力して、幸運にも恵まれ、日本は勝ち残つたが、それは同時に、世界(正確には世界を支配してゐた欧米諸国)を敵に回した戦ひへ通じる道でもあつた。

 最後にこの戦ひには敗れた。その事実はどうしようもないとして、問題は、この後我々日本人にはいかなる物語が残されたか、といふことである。決定的な敗北をした以上、日本のそれまでの歩みは失敗だつたのであり、そんな国・民族にはもういかなる物語も許されない。我々はさう思ひ込んだかのやうである。それでも特に差し支えはない。国はどうでも、仕事や家庭の日常はあり、我々庶民とはもともと、それを第一の関心事にして生きる者だから。

 半年のうちに世相は変つた。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散つたが、同じ彼等が生き残つて闇屋となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送つた女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかづくことも事務的になるばかりであらうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変つたのではない。人間は元来さういふものであり、変つたのは世相の上皮だけのことだ。(坂口安吾「堕落論」昭和21年)

 人間はいかにも、「元来さういふ者」であらう。さうであればこそ、うはつつらの下にある世間、人間同士の世界を保つために、何かが必要なのである。「何か」のうち最大のものは、今のところ国家である。普通の人とは商売に忙殺されたり、色恋にうつつをぬかして、大部分の時を過ごす者ではあるが、一割でも、一パーセント以下の時間でも、「自分は国民だ」といふ意識を持たねば、近代国家は成立しない。

 成立しなくてもかまはない、といふ人もゐるが、それはごく一部に止まる。ならば、我々はどういふ国の、どういふ国民か、最小限の了解がなくてはすまぬはずである。その了解をもたらすものを、私は上で「物語」と呼んだ。ならば、その喪失は、やはり問題にならずにはすまない。

 いや、物語も、了解もあるよ、と言ふ人もゐる。「平和国家日本」といふのがそれだ、と。戦後の日本は自国の交戦権の放棄を謳つた憲法九条を抱き、世界のどの国にも先駆けて、戦争の廃絶といふ人類の理想に足を踏み出した、のだと。これはこれでまた、凄い物語である。あまりにも凄過ぎて、どうも実感がない、といふのが、大方の心持ではないだらうか。

 それはこの物語を、我々が「自ら選んだ」ことが嘘だからではない。物語は、必ず幾分かは、事実ではないといふ意味の、嘘を含む。問題は、我々自身が、この物語を(言ひ方は難しいが)「真実」として生かしてゐるか、少なくとも、生かさうとしてゐるか、にかかつてゐる。

 自民党の議員などが、「戦後、自衛隊は、一人も殺してゐないし、また一人も殺されてゐない。これはたいへんなことだ」と言ふのを、TVで何度か聞いた。本気で言つてゐるのかな、と思つた。それが望ましいことだつたとして、日本はさうなるためにどういふ努力をしてきたのか、考へたことがあるのだらうか。

 例へば、平成2~3(1990~91)年の湾岸戦争に際して、結果として自衛隊を送らず、合計百三十億ドルを「経済援助」として出しただけに止つたことがその「努力」だつたのだらうか。

 これについて私は、TVで見た、田原総一郎氏が当時のアメリカの、アマコスト駐日大使にインタヴューした映像を今でも鮮明に覚えてゐる。田原氏が、「日本の拠出した金が、非軍事物資にのみ使はれるのかどうか、心配する人もゐるのですが」云々と問ふと、大使は急に激高して、次のやうに反問したのだつた。

 非軍事物資だつて? それはいつたいどういふ意味なんだ?

 これ以上は言はなかつたと思ふが、私は彼の言ひたいことがすぐにわかつた。「同じぢやないか」つてことだらう。「武器弾薬を買はうが、食料や医薬品を買はうが、要するに戦争の遂行のために使ふんだから。日本はそんなことにこだはつて、何を示さうとしてるんだ?」と、言はれてしまつたら、まさにその通り。抗弁はできない、とも感じた。

 以上は拙著『軟弱者の戦争論』に書いた。この本はこのやうに、戦後日本の「平和主義」を問ひ直すのが主眼だつたのだが、どうも驚いたのは、「お前はアメリカの基準に合はせろと言ひたいのだな」といふ批判に何度か出会つたことである。

 私はむしろ、「アメリカにどう思はれたつてかまはないぢやないか」といふはうに賛成する。ついでに、「中韓からどう思はれてもかまはない」とも言つてくれるなら、ますます賛成する。自らのプリンシプル(原理・原則)を貫いた結果さうなるのだとしたら、けつかう至極。

 本当に身に付いたプリンシプルならば、だ。「平和主義」は、我々にとって、さう言へるものかどうか、一度じつくり考へていただきたい。それが私の一番言ひたいことだつた。

 いや、そんな御大層な「げんりげんそく」なんてものこそ、我々日本人には身に合はぬもの、現状に合はせた変はり身の速さこそ身上、と言ふ人もゐるが、それなら、平和主義も、今後の国際情勢次第でどうにでもなるわけだ。そんなものでよいものか。

 ついでに言つておかう。戦後の日本にも戦死者はゐる。昭和20年以後、日本軍は解体されたが、掃海艇の乗組員だけは「日本掃海部隊」の名で再編成され、日本近海の、日米両軍によつてばらまかれた機雷の除去に従事した。これは現在でも非常に危険な仕事で、25年までの5年間で殉職者は七十七名に達した。

 それだけではない。この年に朝鮮戦争が勃発すると、この部隊はアメリカ占領軍の命令で、朝鮮半島の元山・仁川方面に送られて、掃海作業をしてゐる。作業中、一隻が機雷に触れて沈没、乗組員のうち炊事係の中谷坂太郎が死亡した。当時は占領中であり、自衛隊の名前すらなかつた時代だから、「自衛隊は戦争で一人も殺してゐないし、殺されてもゐない」は、まあ嘘ではないけれど。

 この事件は当時は秘密とされ、政府がようやく中谷などの功績を認めて勲章を贈つたのは昭和54年になつてからだつた。それでも、現在でもよく知られた事実とは言ひ難いだらう。

 そればかりではない。湾岸戦争のとき金を出したことも、平成13年にはアメリカ軍の後方支援のためにイージス艦をインド洋に派遣したことも、それより先、ヴェトナム戦争時には、日本の基地から米軍爆撃機が飛び立つて行つたことも(すべて広義の戦争協力と見られる)、当初こそ賑やかに議論されるが、すぐに忘れられ、なにごとも無かつたかのやうに時が流れる。大東亜戦争時の悲惨は、8月になる度に繰り返し語られるのに、それ以後の戦争関連事はあまり注目しないことが、戦後といふ時代が成り立つ要件ででもあるかのやうだ。

 冒頭に掲げた坂口安吾のやうに、戦後の日本人のあり方を「堕落」と見、しかし堕落こそが人間本来のあり方だからよいのだ、とする立場もあり得るだらう。しかし、我々はいつから堕落したと言ふのか。その記憶すらないなら、人間にとつて、時間はないのと同じ。即ち、歴史がなくなる。歴史のない民族には、顔がない。戦後の日本は、何か得体の知れない、薄気味の悪い国になつた。他国の人がどう思ふかではなく、我々自身がさう感じはしないだらうか。この不安は、オリンピックを招致したぐらゐで根本的に解消されるやうなものではないのだ。

 前置きが長くなつたが、長谷川三千子『神やぶれたまはず』は、昭和20年8月15日、日本民族が体験した稀有の感情を忘却の底から掘り起こし、もつて日本人の歴史を、顔を取り戻す第一歩としようとした試みである。その志をまづ壮としたい。

 8月15日が日本人にとつて特別な日であることを否定する人はゐないだらう。ただし、大東亜戦争が終つた日といふなら、重光葵と梅津美治郎が降伏文書にサインした9月2日とか、サンフランシスコ講和条約が発効して日本が独立した昭和27年4月28日とかのはうが相応しいと言ふ人はゐる。本書で取り上げられてゐる佐藤卓己氏は、8月15日を「終戦記念日」とするのはマスコミによる刷り込みであると言つてゐるさうだ(P.51)。この日は新暦では全国的にお盆の期間中にもなつたので、戦死者の慰霊の日としても相応しいやうに感じられるし、といふわけだ。

 さういふ主張は法的にはいかにも正しい。しかし、日本人のこころ、あるいは精神、の問題として考へたときには、8月15日、玉音放送が流れたことには、誰もが無視できない重さがある。

 重さとは、具体的にはどういふものだつたか。著者はまづ、書き残されたいくつかの体験を検討して、この日の意味に迫らうとする。

 例へば折口信夫は、玉音放送を聞いて悲嘆にくれる。彼の愛弟子で、養子で、おそらく愛人でもあつた春洋は、硫黄島で戦死した。もちろん日本人の多くが、この戦争でかけがへのない人を亡くしたのだ。その多大な犠牲にもかかはらず、日本はつひに勝利することはなかつた。

 なぜか。日本を守るはずの神々は、どこへ行つてしまはれたのか。否むしろ、我々が神助に相応しくない者に成り果てたことを思ひ知るべきなのだらうか。

 このやうに問ふとき、戦争はのつぴきならない絶対の相を帯びる。悲嘆がないところでは、戦争に格別の意味はない。これを長谷川氏は「すべての戦争は「普通の戦争」なのだと言つてもよい」(P.29)といふ言葉にしてゐる。

 普通の戦争としての大東亜戦争で日本はなぜ負けたのかと言へば、アメリカに比べて経済力軍事力すべてひつくるめた物理的な国力が劣つてゐたからだ。それ以外にはない。そんなことは最初からわかつてゐたはずなのに戦争を始め、大きな犠牲を出すまで止められなかつた愚かさ、即ち日本の首脳陣の無能、これに、多くの人と同様、折口も怒つた。

 怒りに対応する形での、日本及び日本軍の作戦行動の批判的な分析は、現在まで数多い。「歴史から学ぶ」とは、普通にはさういふことであり、それは今後のために必要である。

 問題は、悲嘆と怒り、本書で取り上げられた河上徹太郎の言葉では「絶望と憤怒」(P.53)だけが戦後の、大東亜戦争に対するいはば公的な感情とされたところにある。特攻隊員の遺書にしばしば見られる、絶望も気負ひもない清澄な感情などは、無視されるか、せいぜい、軍国主義教育による「刷り込み」の結果とされるぐらゐだつた。

 折口信夫の目は、さすがに深いところまで届いてゐたらう。しかし、おそらく、「絶望と憤怒」が大きすぎたせゐだらう、翌21年には「神こゝに 敗れたまひぬ―」と歌ひ、せつかく志した「新しい神学」の樹立、「神道の宗教化」も見るべき形を取る前に雲散霧消してしまふ。

 いつたい、絶望と憤怒の向かう側に、「八月十五日の御放送の直後の、あのシーンとした国民の心の一瞬」(河上徹太郎「ジャーナリズムと国民の心」、本書P.50の引用文より)をもう一度みることはできないものだらうか。それができれば、「新しい神学」の立ち上げも可能であらう。

イエスの死がたんに歴史的事実過程であるのではなく、同時に、超越的原理過程を意味したと同じ意味で、太平洋戦争は、たんに年表上の歴史過程ではなく、われわれにとっての啓示の過程として把握」(橋川文三「『戦争体験』論の意味」、本書P.35の引用文より孫引き)できるのであれば。

 河上や橋川の言葉に垣間見える、「あの戦争の、とりわけ敗戦の、本当の意味」の探求を根底に置いた数少ない文業の一つに、桶谷秀昭『昭和精神史』がある。これに触発された著者が、改めて、「啓示」とはなんだつたのか、正面から取り組んだ姿が本書『神やぶれたまはず』には刻まれてゐる。

 桶谷氏の大著は、むしろこれを語ることの絶望的な困難に呻吟してゐる部分が多いのだが、ここで長谷川氏は、驚くほど闊達で真率である。

 ただ、これに単純に「共感する」と言ふにしては、現代に生きる我々は、残念ながら余分なものを抱へ過ぎてゐるやうに思ふ。本書の読後感は、「すつきりし過ぎてゐる」ところがあるのだ。

 たぶん、これまで述べたこと以外にも、小さな躓きの石はある。それを無視しては、一歩以上を進める障碍になるのではないかと案じられる石が。私が本書を読みながら抱いた小さな違和感が、その在り処を指摘できるものであればよいと願つて、今後の記事にまたがる一文を草する。

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三島由紀夫という迷宮 その1(死の謎)

2025年07月27日 | 文学

メインテキスト:保阪正康『三島由紀夫と楯の会事件』(初稿は昭和55年講談社刊『憂国の論理 三島由紀夫と楯の会事件』、角川文庫版平成13年)
       

 今年は昭和百年なので、大正14年生まれの三島由紀夫の生誕百年に当るそうだ。これを知ったのは割合と最近のことで、特になんの感慨もない。

 私は三島の愛読者ではない。由紀草一の由紀は三島から採ったのだろうと何回か言われ、迷惑に感じたので、このペンネームは変えようかな、と思いながら、つい面倒臭くて今まで来てしまった。それでも、「豊饒の海」の前半の二巻や、戯曲では「朱雀家の滅亡」などなどはすごい傑作だとは思うけれど。

 一つには、アフォリズムが好きではない。「思想は電信柱にぶつかつた盲人の怪我を治しはしないが、少なくとも怪我の原因を盲目のせゐではなく電信柱のせゐにする力をもつてゐる」など、内容はまだしもだが、断定調に鼻白む。それで、アフォリズムの綴れ織りのような「禁色」などは読み通すのに難渋した。

 以上は私個人の好みと都合の話で、どうでもいいわけだが、彼が近代日本の小説家中、海外でも最も知られているのは、作品より、あの壮烈な最期によるところが多いだろう。悪いことではない。作家と雖も、人中で生活もしているのであれば、人目に触れる常住坐臥すべてが、表現である。そこで見られたことは、他者の眼差しをどれくらい意識しているかも別として(三島という人はその意識がかなり強かったようだが)、特異な言行になればそれだけ、これをどう受け取ればいいか、気になりがちなものだ。

 つまり、言説と同様、死とそこに至る過程まで含めて、「三島由紀夫」として表現された存在なのである。別言すると、あの死もまた、三島の作品の一つなのである。

 しかしこの作品はまた、派手派手しい割に、ずいぶん難解ではないですか? 個人的には、文学少年だった高一の歳、教師から三島の自刃、という言葉を聞いて、それ以後も滅多にないぐらいの衝撃を受けた。その後TVやラジオで文化人の話を聞き、父が買ってきた雑誌の臨時増刊特集号を隅から隅まで読んだ。それで、しまいには飽きてしまった。こういうのもまた、現代の発達したメディアの力なんだと初めて実感した。

 その後も、55年を経た現在まで、何しろ有名な事件なのだから、さまざまな言説に触れる機会はあったが、いつも「腑に落ちる」ところまでは行かなかった。この事件で表現されたものはなんなのか、自分なりにでも納得している人はどれくらいいるのだろう? それが第一、不思議である。

 ただ最近、生誕百年とは無関係に、個人的に機会を与えられたので、素朴に不思議に思うポイントだけでも書き付け、三島由紀夫という迷宮の中を少しばかりたどる第一歩にしたい。

 ポイントは大別して三つある。

(1)三島と配下の、楯の會選りすぐりの若者四人は何を目指したのか。日本国憲法を改正して自衛隊を正式な軍隊・国軍、そして皇軍とすること。言うところの、日本の再武装である。戦後の平和主義という名の欺瞞 ― 軍事面は完全にアメリカに預けて見ない振りをすること ― に浸っている限り、我が国は、経済的に豊かでも、精神は空白状態に陥るしかない。まずもって自衛隊が健軍の本義に目覚めるのでなければ、日本の再生は期しがたい、と。

 当初「祖國防衞隊󠄁」として昭和43年に発足した楯の會は、当初、民族派とか新右翼と呼ばれた学生たちから成る民兵組織を目指したものだった。欧米ではさまざまな形態はあるが、珍しくない。しかし、経費のほとんどを個人(三島)が出した私兵であって、国防を目的とするのは、おそらくあまりない。

 具体的な行動としては、次のことが考えられていた。この年、1968年は、60年安保闘争と並んで、日本の学生運動が空前の盛り上がりを見せた時だった。10月21日の国際反戦デイでは、新宿を中心にした各所で、ゲバ棒を手にした新左翼の過激派学生約二千人が機動隊と衝突、後に新宿騒乱事件と呼ばれる動乱を惹き起す。三島はこれを交番の屋根によじ登って見ていたという。

 彼は、70年の日米安保条約見直し(日米双方に異論がなければ自動延長)までにいよいよ反対運動が激化し、警察だけでは抑えきれなくなって、自衛隊の治安出動、その功によって正式な国軍となる、というストーリーを考えていた(今となっては最初から最後までまるで現実感がないが、それはしばらく措きましょう)。そして楯の會は、自衛隊が出動するまでの間の反革命闘争、特に左翼勢力が皇居を襲った場合には捨て身で防御にあたる、としていた。

 しかし、結局、それはなかった。44年の国際反戦デーの新左翼闘争は、機動隊に簡単に押さえ込まれ、憲法九条の改正の必要などは誰にも感じられなかった。ならば自分たちが主体になってクーデターを起すしかない。こうして、昭和45年11月25日を迎える。

 この日の正午、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で東部方面総監を拘束して人質にした上で、総監室のバルコニーから中庭に集まった隊員に蹶起を呼びかける。これ以前に三島と楯の會会員は何回か自衛隊に体験入隊して軍事訓練を受けており、当然顔見知りの自衛隊員もいたろうに、そのうちの何人かを個別にオルグする(仲間に引き入れる)等の活動は一切していない。だからこの出来事は、隊員にとっては寝耳に水以外の何ものでもなかった。暴徒であり犯罪者であるとしか見えない三島の言葉に耳を貸そうとする者は殆どおらず、「ばかやろう!」「総監を解放しろ!」などの罵声を浴びせ続けた。三島は10分ほどで演説を切り上げ、天皇陛下萬歳を三唱してから、総監室に戻って、切腹した。

 それでつまり、三島は自衛隊に何をさせようとしたのか? 演説原稿でもある「檄」には「(前略)憲法に體をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう」とあるだけで、具体的なことは何も言われていない。例えば、国会議事堂なり皇居なりに突入・占拠して訴える? 二・二六を上回る規模の叛乱である。それとも、言葉だけで、ただし聞き届けられない場合には三島と一緒に死んでみせる、と宣言するのは? よほど大人数でないと、「勝手に死ね」と言われてお仕舞いになりそうだ。

 土台を考えても、憲法を変えるなんぞという大仕事を、そのきっかけであっても、自衛隊員にのみやらせようとするのはどうなのか、という疑念が浮かぶ。もちろん私を含めて、戦後の欺瞞の中でぬくぬくと生きてきたのは、すべての日本国民ではないか。このとき人質になった東部方面総監は元大日本帝国陸軍軍人だが、昼食時に急遽呼び集められた隊員は全員が、最初から今の体制の自衛隊に入った者たちだったろう。お前たちこそ現代の武士だなんぞと、さらには国を根本から変えるための尖兵となれ、などと言われても、迷惑なだけだ、と感じるのも無理はない。

 いや、三島は実効を期待したわけではない、という見方はある。自衛隊が動くなんて筈がないことは百も承知で、訴え、拒否されるのを確認してから、自決してみせる。重要なのは訴えであって、死はその手段だ。相手に猛省を促すための、過去には日本のみならずチャイナにも珍しくなかったいわゆる諌死であり、ただ、訴える相手は、君主などの個人ではなく、自衛隊員の全員、さらにそれをも超えて日本国民すべてに及ぶ。誰にも何も伝わっていない、とは言い切れないだろう、と言われれば、否定し去るのは難しい。

(2)しかし残念ながら、三島にとって、自死は本当に手段だったのか、それこそがむしろ最初からの目的であって、憲法改正の訴えこそそのための手段ではなかったのか、という疑念にも充分な根拠がある。

 彼が、死よりもずっと強く、醜く老いさらばえることを嫌悪し恐怖していたことは、いくつかの作品に直接出ているし、また証言も多い。最も望ましいのは、若く美しい年代で、しかも、できれば惨たらしい最期を迎えることだ。

 三島の読者なら誰でも、「仮面の告白」で語られたグイド・レイニの絵画「聖ゼバスチャン(の殉教)」を知っているだろう。上半身裸で、下履きもギリギリまでずり下げられた逞しい青年が、両手を頭の上に引き上げられ手首を交差させられた状態で縛られ、右の脇の下と下腹には矢が刺さっている。自らの上腕に挟まれた顔は、苦悶というよりは恍惚の表情で天を仰いでいる。父の書棚の画集からこれを見つけた十三歳の三島は、激しく興奮して、初めての射精を経験する。

 私にはこういう性向は全く理解できない上に、「仮面の告白」の前半で語られている三島の欲望は非常に複雑で(実は子細に分析すれば誰の欲望もそうなのかも知れないが)、マゾともゲイとも、簡単なラベリングですまされるようなものではない。

 ただ最近発達心理学の専門家と話をする機会があり、その際、サディスムとマゾヒズムは表裏一体の関係にあり、三島の場合、逞しい肉体を傷つける欲望が直ちにその傷つける肉体と同一化する欲求に繋がったのだ、というのを聞いて、少しく疑問を感じたので一言書き付けておきたい。

 私はジョン・K・ノイズ「マゾヒズムの発明」やジル・ドゥルーズ「マゾッホとサド」のようにこの二つは全く別の範疇に属する、という説に賛同する者だが、今はこのテーマを詳しく論じる時間も力量もない。ただ、三島の場合、他者に苦痛を与える嗜好は乏しかったように思える。「仮面の告白」中の、同級生を食べてしまう残酷童話のような夢想は、この食べられる少年は語り手の「初恋」の相手であるらしきところからすると、むしろ彼と同化したい願望のほうが強く出ているように思う。「午後の曳航」の、元水夫を殺して解剖する少年たちは当然その延長。

 そして彼は実生活では誰かを殴ったこともなかったのではないか。最後の日、三島たちが総監室にバリケードを築いて占拠しようとした時、これを阻止しようとした自衛官八名に怪我をさせている。中で一番の重傷者は、日本刀・関の孫六で右肘と左手の甲を斬られて全治3ヶ月、他に左手の握力を失った人もいる。しかしその後誰も三島を恨んでおらず、「腕をやられた時は手心を感じました」などと述べている。だからいい、というわけではもちろんないが、これは計画遂行のための、主観的にはあくまで「やむを得ない」行為であって、いわゆる快楽殺人などとは全然別のものある。

 要するに三島の欲望は誰かを傷つけるより傷つけられるほうをずっと向いていた。貧弱な肉体に対するコンプレックスは三十歳になってからのボディビルで改造することに成功すると、昭和40年代に撮影された篠山紀信の写真集「男の死」の中で、そっくりそのままのポーズでゼバスチャンに扮しているのを見ることができる。

 そして、後に自らの監督で映画化し、主演まで勤めた「憂國」(小説は昭和36年、映画は41年)。これまた私の嗜好には全くないのだが、死とエロスの相乗りを凄惨に生々しく描いた稀有の作品であることはさすがにわかる。しかし、題名になっている国を憂うる情は? そんなものは一行たりとも書かれていない。

 主人公は青年将校で、同僚たちとともに堕落した世を憂い、武力で新たな維新=革命を断行する盟約を結んでいた。しかし仲間達が蹶起したとき、彼には声がかからなかった。それは新婚の彼に対する思い遣りからだったろう。事は成らず、彼らは叛乱軍とされ、彼には討伐軍に加わるように命令が下る。そうなればやることはただ一つ。その夜のうちに切腹して果てる決意を新妻に告げる。彼女のほうでは、夫を全く止めず、たた、お供させて下さいとのみ頼む。彼は笑って快諾する。

 「憂國」のプロットはこれだけ。つまり一作の中心となる行為の動機としては、仲間への義理立てと友情があるのみなのだ。後は若夫婦の媾合、それから切腹の事細かな描写が、この小説のボディとなる。

 三島は切腹マニアだったのか? 美しい肉体の、惨たらしい死、という幼いときに取り憑かれた欲望がそこに結晶したというのは、無理のない筋道に見える。映画化した「憂国」には科白はなく、行為の動機付けなど無視されている中で、三島の切腹シーンが入念に描写される。そして昭和44年、つまり死の前年には、彼は五社英雄監督「人斬り」に出演し、同じく、グロさこそないが、壮烈な切腹を演じている。後にはこれは予行演習だったか、などと言われた。

 それは不謹慎にはならないのだろうか? 切腹するに決まっている、というのは、ド派手な、主観的には名誉の死こそ最終目的であって、その余はすべてそのための道具立てだったことになるのか? すると、それに心を動かされて、戦後日本人の欺瞞は、なんぞと反省するのも、ただ乗せられただけの、愚かなことになってしまわないだろうか?

 このへんは、敢えてあまりこと分けをせず、何しろ三島は凄いんだという感嘆のみで語られるのが一般であるようだ。それはもちろん、どちらが主にしても従にしても、凡人には到底真似できない、どころか、思いつきもしない行動ではある。なんらかの意味で三島に心酔している人はそれでいいのだろうが、生憎私はそうではないので、こだわりが捨てられない。

(3)以下は私にとってとても重大に思えるのだが、他の人にはそうでもないだろうか。

 その日の午前10時頃、三島は『新潮』の編集者に「豊饒の海第四巻 天人五衰」最終回を渡してから、楯の會の制服姿で、会員の運転する車に乗って市ヶ谷へ赴いた。律儀なことだ。

 私はかなり経ってから読んだのだが、この最後の小説のラストには、事件そのものと同じぐらいの衝撃を受けた。

 連載開始時点からライフワークと銘打たれた「豊饒の海」は、最初の二巻までは、二十歳前に死ぬ主人公たちが、どうやら輪廻転生を繰り返しているらしいという観察者の思いでつながれている。それはなくても、一巻目の「春の雪」は典雅な恋愛小説として、二巻目の「奔馬」は行動派右翼少年の悲劇として、非常に感銘深く、私としても脱帽せざるを得ない。

 しかし三巻目「暁の寺」は、あれ? だった。これまでは悲運の若者の傍らで見守る役割だった観察者が前面に出てきて、主役といっていい位置を占める。これだけでも物語世界の印象は一変する。文章も荒れてきたような感じがした

 そして四巻目。老いた観察者は、第一巻のヒロインで、現在は奈良の寺院の門跡となった老尼を訪う。かつて同じこの寺で、彼女が会うことを頑なに拒んだために、観察者の友人で「春の雪」の主人公の貴公子は死病に倒れたのだ。なんとか取りなそうとして面会を求めた観察者自身が、同じく拒絶された。

 今回は会えた。相対した彼女には、六十年前に得度する以前の、美貌の令嬢の面影は認められた。しかし彼女のほうでは、彼も、恋人であった貴公子もまるで知らぬ、と言う。ごまかしているのか? どうやらそうではない。あなたが覚えているというその男は本当に実在し、恋愛沙汰は本当にあったのか? と反問されると、自信がなくなる。「記憶と言ふてもな……幻の眼鏡のやうなものやさかいに」と老尼は言う。

 そんな……。最初の彼もいないとしたら、もちろん輪廻転生も何もなく、その後に出会った生まれ変わりと思えた若者たちも、いなかったことになる。そして、かくいう自分自身も……。

 もちろんフィクション内の話である。しかし五年の歳月をかけて、ここまで営々と築いてきた物語世界を、最後に「みんな幻だよ」で全巻読み切りにしていいものだろうか。そこには非常な悪意さえ感じられないだろうか?

 伝記資料によると、当初「豊饒の海」は昭和46年の末頃に完結する予定だったらしい。それが一年早まったのは、現実の三島の軍事的な行動予定に合わせたのだろう。そして最後の最後に、政治的な主張を認めた檄文と、この小説の結末を同時に遺した。どう考えるべきか? すべてが幻なら、憲法がどうでも、日本がどうなろうと、気に懸ける値打ちもないではないか? すると?

 ここで主に三巻目の「暁の寺」前半であきれるくらい詳説されている仏教哲学を勘考しないのは、明らかに不当だと思えるだろう。私はそれを充分に理解できたと主張するわけではないが、この結末はそれにも無効を宣言したもののように思える。

 唯識論で最も根本因をなすと考えられる阿頼耶識(あらやしき)とは絶えず世界を生成すると同時に消滅させる力だが、「しかし世界は存在しなければならないのだ!」。我々が世界と呼ぶ迷妄を脱して悟達に到達するために。

 一番簡単に言えばこれが「豊饒の海」の観察者が学んだ唯識の結論である。そして彼が観ることに生涯を捧げた輪廻転生もまた、この世界の生々流転の一態に他ならないだろう。しかしそれが元々なかったとすれば? 新たな段階に至る契機もまた、ない。

 以上はいくらなんでも単純化し過ぎると言われるかも知れない。諸賢のご叱正はいつでも有難く承る。しかしここは私にとって、三島由紀夫という巨大な謎のうち、今のところ特に心惹かれる部分ではない。

 最近改めて興味が持たれるたのは、満年齢では彼と同年になる昭和という時代と三島との独特の絡み合いである。これからしばらくの間、これについて漫然と愚考を巡らしていきたい

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西尾幹二先生のこと

2025年07月07日 | 教育

メインテキスト:西尾幹二『日本の教育 ドイツの教育』新潮選書昭和57年

同『日本の教育 智恵と矛盾』(中公叢書昭和60年)

同『教育と自由 中教審報告から大学改革へ』(新潮選書平成4年)

 

【以下の文章は佐藤幹夫さんの個人誌『飢餓陣営』vol.60(終刊号)に掲載させていただいたものに加筆訂正したものです。このブログへの転載を許可して頂いた佐藤氏には感謝申し上げます。】

 昨年の十一月一日に西尾幹二先生が亡くなり、今年の二月一日にお別れの会があった。三百人ほどの出席者数だったろうか、たいへんな盛況で、それだけで故人の人気のほどが偲ばれた。

 会場に入るとまず大きな花輪が目に入り、それには「石破茂」と名前が大書きされていた。内閣総理大臣の肩書きが書かれていなかったのは、好感度アップポイントだろう。石破氏のメッセージは会の途中でも読み上げられた。それで思い出したが、氏と西尾幹二先生とは対談本を出していたのだった。『座シテ死セズ』(恒文社平成15年)。当時石破氏は、第一次小泉内閣の防衛庁長官として初入閣した直後だった。西尾先生は憲法改正などのセンシティヴな話題は慎重に避けながら、自民党の若手防衛族を温かく見守ろうとする態度が印象的で、これは先生の最も魅力的な美質の現われだ。

 その後先生は、政治家の中では高市早苗氏との仲を深めた。会は追悼演説の連続で進行したのだが、高市氏は藤岡信勝氏の次に登壇して話をした。石破氏も来席すれば、ついこの間自民党総理総裁選を争った両雄の、呉越同舟の図が見られたわけだが。まあこれは余計な話。

 会はこのように、二十人近い保守系の著名人が、それぞれ自分と西尾先生の関わりや、その人なりの西尾論を語った。全体として、(エアコンの効きが悪くて少し寒かったが)とてもよい会だった。

 が、以下はどうしても黙っている気になれない。

 それは小川榮太郞氏のお話。その部分の前後関係をできるだけ詳細に記す。

 第二次安倍政権ができたとき、小川氏は何かの集まりで、この内閣に関しては「是々非々」ではなくて、「是々是々」で支えなくてはいけない、と発言したら、後のかほうから「政事について是々是々でいくなんてことがあるものか」と怒鳴られた。それが西尾先生だった。先生とお会いするのはこれが初めてだったが、「私は福田恆存の最後の弟子なので」それが誰なのかはすぐにわかった。

 その後小川氏は、西尾先生からとても優しい電話をいただき、懇意にさせていただいたのだと言う。その関係性については私は何も知らない。問題は。小川氏はいつどんな形で福田恆存先生の弟子になったのか、だ。

 第二次安倍政権発足時と言えば平成24年で、福田先生はとうにお亡くなりになられている。またそれ以前から福田先生自身からも、周囲の人々からも、小川榮太郞氏の名を聞いたことはない。小川氏は、福田先生とも面識はなかったのではないかと思う(違っていたら訂正しますから、ご教示下さい)。

 たぶんこんなところか。西尾幹二先生が評論家としては福田恆存先生の一番弟子(最初の弟子とは言えない)だったことは、知っている人は知っている。そこで初めて顔を合わせた西尾先生に怒鳴られた話に、実は自分は福田先生の最後の弟子であった、という因縁話見たいのを盛り込み、かつ自分を大きく見せようとしたのではないか。

 私淑ということはある。その人の生前に会ったことはなくても、著作を通じて思想やものの考え方に感銘を受け、自分一人の師とすることに決めた、と。かくいう私もそれに近い。しかしそれなら、「最後の」はおかしい。今後も福田思想を受け継ごうとする人がいないと、どうして言えるのか。

 以上は福田恆存先生に思い入れのない人にとっては、なんということもない話である。個人的に、近ごろ保守界隈にも駄法螺が横行するようになったのだな、とちょっとため息が出てしまうだけだ。

 ただここで、西尾先生の「人づきあい」のありかたが改めて頭に浮かんだ。先生はとても優しくて、私のような者に対しても決して偉ぶらず、気さくにお話して下さった。開けっぴろげで、懐が深かった。もちろんそれは一面であって、かなり辛辣な人物評を下すこともあったのだが、それをもあまり隠さないのは、やっぱり根本的な人の良さ、というしかない。

 このような性格がよい方向にだけ働くとは限らない。特に、多くの人といっしょに、何事かをやろうとするとき。先生は昔から、書斎で思索に耽るだけではだめだと、実際に世の中を変えんとする「実行の世界」に憧れるところがあった。それはつまり広義の政治であって、好むと好まざるとにかかわらず、集団の毒に身を浸すことである。失礼ながら、先生には、あれほどの知識と知力がありながら、その見通しには足りないところがあったようにお見受けする。

 ここでは、追悼にはあまり相応しくないが、私自身が関わりを持つことになった教育の分野について書いておく。以下、敬称は略す。

 平成2(1990)年西尾は第十四期中央教育審議会の委員となり、翌3年の1月に出た『中央教育審議会審議経過報告』(以下『報告』と略記する)の大部分を執筆した。それを知った私が、一読の上で批判文(「第二章 公的な教育言語」拙著『学校はいかに語られたか』JICC出版局平成四年刊所収)を書き、それが縁で西尾幹二の知遇を得ることになった。

 まず『報告』が出た直後にあったことについて、西尾自身が著書『教育と自由 中教審報告から大学改革へ』で簡潔に書いている。『報告』中の「大人の競争を肩代わりする子どもたち」という小見出しで始まる部分は、彼の旧著『日本の教育 智恵と矛盾』中に収録された文章と、題名からしてほぼそのままだった。どこかのマスコミが、これを暴露(というのは大げさだが、西尾自身がそう書いている)すると、彼一人に執筆を任せた他の『報告』の起草委員が騒ぎ出した。騒ぎを収拾したのは元文部事務次官の佐野文一郎で、「審議会の文章は委員のうちの誰かが書くものであれば、委員の一人の著書と内容が似ていても別に問題はあるまい」と言って皆を窘めたという。

 いかにも、「報告」の執筆を起草委員中の一人に任せたのは別に問題ないだろう。にしても、中教審のお歴々は、その任せた人物の、教育に関する著作ぐらい、事前に目を通しておいてもよかったのではないかな、とは思う。しかし中教審とは、元来その程度の集まりなのである。

 現在の日本の学校には問題がある。(当時)文部省はそれをなんとかする責任がある。だから、有識者と言われる人々を集め、なんとかする方策を求めて話し合ってもらう。しかし一方で、「社会的な成功」についての人々の欲望が密接に絡み合っている制度が、そう簡単にどうにかなるものではない。それでも教育に関する言説は、特に公のものは、そのような生々しい浮世(憂き世)の性(さが)とは別次元の、「理想の教育・学校」があり得る、という思い込みを決して離れてはならない。これを大前提として交わされる。

 そういう言説の大元を作るべきとされている場が審議会であろう。特に中教審を初めとする文部省・文科省関係のものは、下の方で実際の教育行政や教育そのものに携わっている者たちから見たら、何やら偉そうな人たちが、雲の上で、実際にはどこにもない「すばらしい教育」に関する美しい言葉を並べているだけ、地上の一般庶民にはなんの関係もない、という感覚に自然になる。事実、大半の教師は、中教審の報告も答申も読んでいない。私にしても、これに西尾幹二が密接に関わっていると知らなかったら、決して目を通すことはなかったろう。

 文部官僚、今の文科官僚は、実務もしているのだから、現場の実情を少しは知っている。その上で、教育の理想論は保持することを使命としている。それだけに、その理想論を机上で並べるだけの先生方は、尊敬するより、むしろ滑稽に見えることが多いのではないだろうか。名誉職として、官僚たちと調子を合わせるだけの先生より、真剣に何かをやろうとする真面目な人ほど、ピエロになる。西尾幹二のこのときの立ち位置は、ほぼそんなものであった。

 そのような場所で活動した後の感想は、やはり『教育と自由』に採録されている中教審委員としての最後のスピーチに率直に出ている。時期的には、『報告』が出る少し前から、中教審の最後の成果である答申(『新しい時代に対応する教育の諸制度の改革』平成三年四月十九日)が出来るまでに中教審内部で演じられたドラマの、西尾側からの報告である。できるだけ簡潔に記すと。

 西尾の基本的な認識は、日本の学校教育は平等と効率をずっと追求し続けてきたために、袋小路に陥った、というものだ。従って、これを打開するためには、平等と効率のどちらかか、あるいは両方を引き下げるしかない、と基本的な方針として『答申』に書くべきだ。そう唱えると、審議会会長の清水司(元早大総長)を初めとした面々は、この最後の結論に至るまでの分析には賛成していたのに、「引き下げる」という表現には反対した。

 それでは、「引き下げる」から一歩下がって、日本の教育が陥っている袋小路を正直に描き出し、「そう簡単に解決は望めない」「希望はほとんどない」と明記したら、とさらに西尾が提案すると、またしても止められた。「望めない」とか「希望は…ない」とかいう強い否定表現は答申には出せない、と言われて。

 ここで審議会的な文章と西尾のような人物の著作との違いが浮き彫りになっている。前者は美しい夢を語り、できるだけ誰をも傷つけないようなものを目指す。すると、現実を改革する力はなくなる。現実である以上、変えるには一定の犠牲や努力を要するという意味で、なんらかのコストがかかる。何ものもタダでは手に入らないのだ。

 繰り返すことになるが、西尾はこのとき、我が国の教育行政そのものの矛盾に正面からぶつかったのだ。その本務は、学校なら学校の現実を変革するのではなく、教育に対する美しいが空虚な夢を国民に見せ続けるところにある。理想の教育はどこかにあり、自分たちはそれを探し求めている、というポーズこそが大事なのだ。中教審はそのための言葉を作ってくれればいい。それ以外は余計だ。

 いや、現に実現した改革案もあるではないか、という疑問を持つ向きは、学校教育にそれなりの関心はあるのだろうから、その改革案がやがてどうなったか考えてもらいたい。教員免許更新制度はどうなった? 民間人校長は? ゆとり教育は? この最後のものなど、弊害が論われたからまだいい。それ以外は、いつの間にかなくなって、誰もが思い出したくもない、という顔をしている。こんなものにまともにつきあったらバカを見るのが落ちだ。それで、西尾もバカを見た。

 より具体的に言うと、教育改革案のかなりの部分が、すばらしい教育が行われるべき学校で、かえって酷い目に合ったと思っている人々を宥めるために使われる。例えば高校・大学入試。試験の点数のみで、他は一切関係なく、つまり出自や財産や容貌は完全に度外視して合格が決まるのは、この上なく平等だと言える。また、受け入れ側は、点数のみで決められるのは効率的だ。その結果陥った袋小路とは? ある学校へ入れなくて悔しい思いをする人がいる。しかし、どういうやり方をしようとも、落ちる人がいる以上は悔しい思いが消えることはないのだが。

 このへんを詳述することが本稿の目的ではないので、簡単にすます。西尾も一見中教審と合致するような意見を言っていたことがあり、当然それは『報告』に取り入れられた。代表的なところを約言するとこうなるだろうか。子どもを縛り付けるいわゆる「学力」のみの競争は弱めて、それぞれの個性が伸ばせるような自由を与えよう、と。

 改めて書くと、西尾のオリジナルとはとうてい言えない。この頃が初めてでも終わりでもない、教育論議の中でずっと言われ続けてきた言葉だ。個性とか自由とかいう抽象語のレベルなら、大切であることに、まずどこからも異論は出ないから、西尾と審議会とでも一致したような気にもなる。しかしそれを現場に降ろす段になると。

 現場の教師として実際に取り組んだり、見聞した限りでは、やはり労多くして功少ない試みだという感想になるしかない。だいたい、多様な授業のための予算や人員(教員)確保のための資金はそれほど下りない。例えば、陶芸の授業を始めることになった。窯を作り、材料を揃えるまでの予算は貰えた。その上で、安い手当で教えに来てくれる陶芸家を近所で見つける。それは教員の仕事になるのだ。いつも、いつまでもうまくいくと思いますか?

 県の教育行政担当者と会って話した経験から実感したが、目に見える成果はあまり期待できない「個性」なんてもののために、多額の予算をつけていられるか、というのが官僚たちのホンネとみていい。だったら最初からやらないに越したことはないのだが、それでは上のほうはやることがなくなってしまうからな。ざっとこういうのが、西尾を初めとする審議会の、雲の上のお歴々が知らない地上の事情なのである。

 次にこの『報告』で最も話題になったことを見ておこう。特定大学への同一高校からの入学者数を制限する、という案。私は最初これを、審議会内部の妥協の産物であって、西尾個人はそんなに乗り気ではないのではないか、と思っていたのだが、『日本の教育改造案』(別冊宝島平成7年)所収のインタビューで直接当人と話してみたら、かなり本気だった。

 文部省が用意した各種の報告のうち、有力(偏差値上位)大学に入る学生に、出身高校による顕著な偏りが見られる事実は、審議会の面々にとって非常に衝撃的だったのだ。東大を例にすると、平成2年度で五十名以上の合格者を出した高等学校は十五校、これは東大合格者出身高校のうち三%ほどを占めるにすぎないのに、この十五校の出身者が東大入学者数の三十四%以上に達し、しかもこのような寡占状態は年々昂進する傾向がある。

 これはなんとかせねばならぬ由々しき事態だ、という空気になったものらしい。けれども、これを招いた一因は前述したきれい事の文教政策にある、ということにはあまり注意が向けられなかった。

 上の十五校とは、二校を除いてすべて私立の、それもたいてい中高一貫教育校である。これも当時から今まで、多少とも大学受験の実態を知っている人の間では常識である。昭和三十年代までは名門校として知られていた元旧制中学に代って、努力を積み重ねて今日の名声を得た。その努力とは、「個性」や「自由」がどうのではない、そんなものには目もくれず、受験競争を勝ち抜く力をつけさせようとするものだ。例えば、私立側が宣伝したのでよく知られている、中学校から高二までの5年間で高三までのカリキュラムはすべて消化し、最後の一年は専ら受験勉強に当てる、などの方策は、学習指導要領により強く縛られている公立高校では無理なことだ。

 このようなやり方が成功したとみなされると、より多く優秀な生徒が集まる。その結果が東大などの合格者寡占状態なのである。それがあまりにあからさまになったので、外部から制限をかけるのだという。姑息という言葉が自然に頭に浮かんだ(この言葉には元来「ずるい」の意味合いはない。為念)。こういう騒ぎになるのは、審議会の委員を含めた世のたいていの人が、たいがいの個性よりは有力大学への進学のほうが価値が高いと本音の部分では思っている証左なのである。それでいてそのことは隠す、というか、あまり目立たないようにしなければならない。目立たないようにするのが教育論の第一の役割だとされている。こんな場所では、真面目にやればやるほど、前述したように滑稽なピエロになるしかなかった。

 そのために、答申からは、右の同一高校からの大学進学者制限案を初め、具体的な施策は消えて、いつものように当り障りのないものになった。西尾も、「中間報告(『報告』のこと)では、第四章を除き、私が文章の隅々にまで責任を持ったが、最終答申では重要な幾個所かを除いて私には権限がなく、相談も受けなかった」(『教育と自由』)と冷たいものである。これが中央教育審議会で西尾幹二がしたことの最終的な成果だった。

 西尾が教育について不見識であったとは思わない。次の三つの言葉など、私には全く違和感はない。

 「徳は教えようがない」は古代ローマの哲人セネカの有名な言葉だが、百の道徳論を積んでも一人の有徳の人間を作れるとは限らない、というほどの意味で、教育にもまたこのペシミスムが必要である。

 教育はつまるところ自己教育である。学校はそのための手援けをする以上のことはなし得ないし、またすべきでもない。(以上『日本の教育 ドイツの教育』より)

現代の教育を考えるに当って、われわれはどこまで絶望できるか、その能力が問われているともいえる。しかし大概の人は絶望しないで、解決策があるかのように語りたがる。ことに教育界の人間はそうである。(『教育と自由』)

 なるほど、いずれも否定的な表現で書かれており、その種のものは「教育の専門家」の文章中ではついぞお目にかからないものであることはよくわかる。

 とはいえ、かく言う西尾自身が、持ち前の人の良さに加えて、教育現場の現実の壁にぶつかったことはないので、ペシミスムが足りないところはあった。そこで中教審に入ると、昔から教育界を支配している言語作法に妥協し、しかも妥協の産物さえ最終的には捨て去られるのを目にしなければならなかったのである

 私の個人的な心情で、学校教育については遠慮も妥協も出来ないので、つい批判めいた言い方になってしまった。それは別にしても、西尾幹二先生は組織向きの人ではなかったと思う。その後、「新しい歴史教科書を作る会」の会長に担ぎ出された結果、組織内の勢力争いに巻き込まれて、余計な疵を負った、と拝察される。いや、それもまた、先生の持って生まれた宿命だったとも言えるかも知れないが。

 これ以外だと、昭和の終わり頃、日本はドイツと違って戦後処理をきちんとしていない、という妄説や、最近ようやく多くの人の目に映じるようになった移民の問題について、「朝まで生テレビ」などで、左翼の論客を相手に孤立無援で戦っていた先生のお姿が今も心に浮かぶ。この時の西尾先生には、尊敬しか感じない。私たちの時代にこのような知識人がいてくれたことは、まことに有難いことであった。ご冥福をお祈り致します。

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